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法華経

法華経と聞けば、最初に南無妙法蓮華経という題目が浮かびます(笑)。

まぁ、それぐらいこの題目は法華経と切り離せないのですが、この言葉の意味は、「法華経に帰依します」であるといいます。

この題目の最初の「南無(なむ)」は、インドの挨拶ナマステ(Namaste)、つまり「ナマス(感謝)+テ(あなた)」と同じもので、「感謝」という意味合いが転じて「信じてよりすがる」という意味になったそうです。ちなみに、一休さんで有名な「なむさん(だ)」は「南無三」と書き、「南無三宝(=三宝にすがる)」が略されたものです。この三宝とは「仏」「法」「僧」の3つを指し、(失敗とかの)大変なことが起きた時にこの言葉を使った為、転じて「大変だぁ」という意味になります。

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(マナステと言う際には、口の近くまで合掌を持っていきます)

今日ではこの題目を熱心に唱えるのは、主に日蓮関係の宗門(日蓮宗、日蓮正宗)や信徒団体(創価学会、立正佼成会、霊友会)ですが、これは日蓮が題目唱和を勤行のメインに置き、熱心に唱和するうちに仏性が目覚めていき、誰でも仏になれる(成仏)と説いたからなのです。

ヤッズ★が思うに、日蓮衆は「法華経に帰依します」という題目を唱えているにも関わらず、実際には日蓮の書き残した文物「御書(ごしょ)」の方を優先している感があるので、ホントは「南無日蓮御書」と題目唱和した方がいいんじゃないかと密かに思っています(爆)。

中国やインドには、「南無妙法蓮華経と唱えるだけで成仏する」という教えも宗門もない為、ある意味、日蓮衆は日本オリジナルな「和製仏教」といえるかもしれません。

元々、日本への仏教浸透は、奈良仏教(法相、三論、倶舎、成実、華厳、律)、平安仏教(天台、真言、融通念仏)、鎌倉仏教(浄土、浄土真、臨済、曹洞、時、日蓮)と時代の政治中枢の変遷に伴う形で数多く設立されています。その浸透層も時代が下るにつれ、貴族→武家→庶民へと拡大した流れになっており、決して知識層ではないB層である庶民に強烈にアピールする為に、シンプル化して「題目唱和だけで仏に成れる」とした日蓮のマーティング能力は、大変優れていたと思わざるを得ません。

法華経自体、釈迦入滅後500年経ってから成立したものであり、釈迦が直接説いた教えではありません。さらにその一部は後に順次増補されたと近代の文献学からは判明しています。しかし、過去において隋(中国)の天台智(ちぎ)が8万種もある仏典を内容から教相判釈(=五時の教判)して、法華経を最も高邁な教えであるとしたことから、中国及び日本の仏教界(北伝仏教、所謂、大乗仏教)では、どの宗派も採用していてるように法華経は般若心経と共に数ある経典の中でも「別格扱い」となっているのです。

曹洞宗の道元禅師も晩年傾注し、大日経>>>法華経と考えていた空海も晩年は法華経を学び著作しています。また、臨済宗の開祖白隠も大悟してからは最高の経典と絶賛しているのです。超大物僧侶以外では、宮沢賢治が生涯をかけ法華経を熱心に学び、心の糧としたといいます。

法華経を信奉する団体からの強烈なエンロール(折伏)があることで毛嫌いする向きもありますが、上記のように「法華経」自体、大変な優れものという評価はあるのです。

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(京都五山の送り火にも「妙」「法」とある)

日蓮衆以外に法華経を基軸経典とする宗門としては、中国天台宗に留学した伝教大師(最澄)がのれん分けして貰い設立した比叡山延暦寺(天台宗)があります。しかし、その後比叡山は、加持祈祷を行う天台密教(天密)を取り入れたりして仏教の総合デパート化していってしまった為、中国天台のシンプルさとはだいぶかけ離れてしまいました。

元々、インドで興った仏教は、中国に渡って十三宗(涅槃、成実、地論、摂論、毘曇、三論、天台、法相、華厳、律宗、密、禅、浄土)となったのですが、これらのうち1部が日本に伝来したに過ぎません。しかも、インド語→中国語→日本語と当時の貧弱な文献学を元に二重に訳しているので、そこには当然、誤訳も紛れて込んでしまい、本当に正しい解釈がされているか?という問題を孕んでしまっています。

ですから、最高の教えであるといわれる法華経を学ぶのに最も相応しい場所は、、、、、

天台智(ちぎ)がいた、ズバリ! 中国天台宗でしょう(爆)。

というのも、比丘・比丘尼である出家者は必ず「具足戒」(=戒律)を守らねばならないのですが、日本の僧侶は妻帯者である点、既にこの「具足戒」に違反しているのです。真の仏弟子とはいえない僧侶から学ぶことはおかしとは思いませんか?この「具足戒」はチベット、タイ、ビルマ、台湾、中国...等の他国の仏教僧侶では必ず守られていることですが、日本では学問として導入された為、形骸化は著しいと思われます。(仏典の保護保存という意味では、大変、効果はあったが、、、、笑)

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(中国天台宗・光山浄居寺)

と声を大にして言いたいところですが、中国では仏教はかなり廃れてきており、まぁ、現代はサンスクリット語から直訳した良書もありますので、それで学ぶのがベストでしょうね(笑)。

意味の分からない漢字だらけのお経や題目をいくら読経したって意味ありません。釈迦の目の前で鐘や太鼓を打ち鳴らし読経や題目唱和をしている光景を想像してみて下さい。果たして、釈尊は弟子達のそのような姿を見て喜ばれるでしょうか?そういう勤行をすることが本当に釈尊が望まれたことなのでしょうか?答えは自明ですよねw。

人に意識変化をさせるものは、「思考」をおいて他にありません。気づきの内容を吟味し、それと日常体験を照らし合わせて自らの頭で深く考えていくことが、自らの意識に目覚めを引き起こす推進力となるのです。ですから、妄信・盲従からは、決して覚醒・悟り...等の意識変化は起きないのです。
※註 思考した結果の結論が正しいというのではなく、思考すること自体が意識を発展進化させていくのです。その発展進化した意識をベースに感じ取ったものこそが、より深い真理なのです。思考は真理を受け取る器の間口を広げる役目と思ってください。ただ、思考といっても外界に関することは、自我の反応に過ぎない場合もあります。これなどは「偽りの思考」です。Rシュタイナーの『認識の小径』でも言っていますが、高尚・神秘的な内容に想いを馳せ深く熟考することこそが、「本当の思考」なのです。こういった精妙な内容について常に思考することは、精妙なことに対する認識能力を向上・開花させるのです。

これは夢見の際、夢内容のトンデモな展開に「あれ、おかしいなぁ。。。。。こ、これは夢では?」と思考の力を使い気づくことで、明晰夢に切り変わることと全く同じなのです。

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そんな素晴しい法華経なのですが、実は、漢訳されたものは有名な『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳)の他に、『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳)、『正法華経』(竺法護訳)と、訳者によっていろいろな名が付けられた経典が、なんと16種もあるそうです(※但し、現存は3種)。

ならば、別段、、、、、、

「南無正法華経」(なむしょうほうげーきょう)

「南無添品妙法蓮華経」(なむてんほんみょうほうれんげーきょう)

と唱和しても、全然OKじゃあ~りませんか!(爆)
(これじゃ、全然、霊験無いですか???)

「法華経」の本来の名称は、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」といって、「正しい教えである白い蓮の花」という意味なのです。しかし、音訳や意訳を駆使した奇怪な中国語の状態のまま日本に輸入し、中国がそうしたように自国語に翻訳して経典化するという努力を怠ったのは、過去の日本仏教界の最大の失敗だと思います。漢字化したままの方が高邁な哲学っぽい雰囲気があり畏敬の念を感じさせるのですが、逆に、仏典に何かしらの近寄り難さや難解さをも、もたらしてしまっているのです。

例えば、日本の新約聖書がラテン語や中国語で書かれいて、それを教会で朗読・唱和されていたらどうでしょう?音読の神秘的な雰囲気の方に心が奪われ、イエスの高邁な教えに触れ、それを自らの人生に生かす道は閉ざされてしまいますよね。これと同じことです。日本の仏教が形骸化したのも宜(むべ)なるかなです。

だいたい法華経の名称からして、大袈裟です。

ヤッズ★なら、法華経を「白蓮花の教え」とシンプルに名付けますが、、、(笑)。

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さて、法華経の何が優れているのか、少しみてみましょう。

法華経は、前半部の「迹門(しゃくもん)」と後半部の「本門(ほんもん)」に分けられます。「迹門」では「二乗作仏(=仏性の普遍性)」が説かれており、「本門」では「久遠実成(=仏性の永遠性)」が説かれています。詳しい内容はWikipwdia等を読んでいただけると分かるので、ここでは超カンタンに述べます。

法華経の内容を一言でいえば、、、、、

過去、皆、仏であった。

悟りとは、仏性を思い出すことである。


ですから、釈迦も悟りを開いて仏陀になったのではなく、実は過去、自分が仏であったことを思い出しただけに過ぎないと説かれます。そして、法華経に縁が出来ることはそれを思い出す為の糸口となり、誰でも法華経にすがれば、過去、仏であったことを思い出し、「仏になる(=戻る)」ことが出来ることに繋がってきます。つまり、出家や苦行しなくても救われるという在家の身にも希望が持てる話なのです。

これが大乗(大きな乗り物)仏教といわれる所以(ゆえん)です。

どんなに汚い水場にも蓮は育ち白く可憐な花を咲かすのですが、その目覚めていく仏性を「白い蓮の花」に喩えているわけです。蓮の根は誰の中にも内在されており、後は、いかにその花を咲かせていくかということなのです。

すがるといっても、法華経に「信」を置き、その状態で「行」をするだけですが、ただ、この「行」に対する解釈が各宗門・宗派で異なっており、日蓮衆では「題目唱和」がメインになっているわけです。ヤッズ★は別に「題目唱和」に限定せず、法華経に「信」を置いた日常行動だけでもいいんじゃないかとカンタンに考えています。

「行」は仏性開花だけに限定されるべきもので、現世利益(金、地位、名誉、権力、政治力、支配力)を祈願して題目唱和という「行」をすることは、実は、おかしなことではないでしょうか?

法華経でも「・・・此の諸の仏子の為に 是の大乗経を説く 我是の如き人 来世に仏道を成ぜんと記す」(方便品 第二)とあるように、法華経は「現世成仏」ではなく、「来世成仏」を目的としているのですからね。

その真偽はさておき、実は法華経は『I AM』と同じ内容です!!。

内在の神を肯定しているのです。

自らが「仏」であったことを思い出すこと、つまり、本当の自己が「在りて在るもの(=神)」であったことを思い出すことが、成仏(仏になる)であると説かれているのです。仏から出でて仏に帰る、神から出でて神に帰る、Rシュタイナーも、オコツトも同様なことを言っています。
(※Rシュタイナーやオコツトのサイクルスパンはもっと長大ではありますが、、、)

う~む、これは凄いぞ!!!

しかも、法華経のように自分の内側に眠った仏性があるという「内在の神」的解釈をキリスト教にも当て嵌めた場合、三位一体(父なる神・聖霊・子)は、仏教の三宝(仏・法・僧)と正しく合致してしまうのです。実際、過去においてカソリックに対する最大の異端グノーシス派は、このような「内在の神」という教義を持っていました。

仏 = 父なる神

法 = 聖霊

僧 = 子

というわけです(ニタリ)。
少し補足説明してみますね。

■仏=父なる神
「仏」とは、悟りの最高の位「仏性に目覚めた者」を指し、大悟・覚醒した人のことです。オコツトによると、五次元的認識意識(=変換人)を持った人と定義されます。一方、「神」とは万物の創造者ですが、ここに普通言われるような「外在の神」ではなく、自分の奥深く存在するという「内在の神」を当て嵌めた場合、「仏」も「神」も同じものを指していたことが分かるかと思います。

■法=聖霊
「法」は、サンスクリット語でダルマといい、「保持するもの」「支持するもの」の意で、転じて、目には見えない法則・真理を意味しています。一方、「聖霊」は神から溢れ出て来る目に見えないが神自身と同じ性格をもつ人格的な存在を意味します。人格的存在ゆえ、ある一方的な方向性と限界性を保持することになりますので、「法則・真理」と言い換えても差し支えないと思うのですが、、、、どう?

■僧=子
「僧」というと僧侶という専業職をイメージしますが、本当はそうではありません。元々はサンスクリット語では「サンガ」といい、それを中国語表記で「僧伽」と書き表し、それが短絡化されて「僧」となったのです。そして「僧伽」という言葉は、比丘・比丘尼(=出家者)と在家信者を包括した名称であり、「同じ教えを信奉する人々の集団」ことを指していたのです。ですから、日本語では「信者たち」といった方が適切でしょうか。

一方、キリスト教の「子」は、別にイエスだけを指していたわけではなく、カソリックの教義が深遠化されていく過程で、イエスを神格化していき「(神の)子なるイエス」という教義になっていったと思われます。旧来の最大の敵だったキリスト教グノーシス派では、イエスは神の子であるという神格化された教義はなく、イエスは我々と同じ人間でグノーシス(知識)に目覚めた優れた先駆者という位置付けだったのです。ですから、この場合、「子」とは「個人」という意味合い程度でいいのではないでしょうか。

3つの関連性は、実は『神との対話』も言っており、俗なものは「あれ」と「これ」という相対的な関係であるのに対し、聖なるものは「あれ」と「これ」と「その間」という3つの関係があると言っています。仏・法・僧や父なる神・聖霊・子と同じです。

これは、物質世界という外界で考えてみた場合、目の前のリンゴと私の間には、物質レベルでのやり取りは存在せず、繋がってもおらず単に相対的に互いが存在しているだけの関係ですが、一方、これが想念世界の場合には、リンゴとそれを意識する私との間には、想念レベルでリンゴから様々な情報のやり取りが発生します。リンゴというイメージと私の2つだけが単独に存在することは出来ないのです。必ずそこには繋がりが発生してしまうのです。

これが「聖」なるものには、3者の関係があるということです。

ですから、先の仏・法・僧や父なる神・聖霊・子というのは、外界にその関係を見るものではなく、想念世界のような内側の世界で成り立つものなのです。つまり、「内在の神」を前提にしないと成り立たない関係なのですね。

このようにヒマラヤ聖人の教え「I AM」(我は在りて在るもの=我は神なり)は、外界は悪であり、善は内なる神にあると説くキリスト教グノーシス派はもとより、仏教の法華経にも共通していたというわけです。
※註 イエスは12歳~公生活を始める前までの二十数年間、ヒマラヤ聖人から教えを受けながら、仏教、ヴェーダを学んだという文書「聖イッサ伝」がヒマラヤのある寺院で見つかっています。

釈迦入滅500年後、ヒマラヤ聖人からの霊感を受け書かれたものが「法華経」じゃないかと、ヤッズ★はマジに睨んでいます(ニタリ)。
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モバゲーに荒らす法華講員の馬鹿女がいる下品なコメントばかりしてる ○絵○と言う奴

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