2008.06.17.Tue
『ヒマラヤ聖者の生活探究』も、やっと第2巻に差しかかりました(遅読です)。
今読んでいる場面は、見た目17歳程度だが実は400歳超えの美女、通称「ヒマラヤ・ホステス」が語る願望実現の肝となる内容がズバリと書かれた箇所です。(この辺の話は、あうわ聖大師の記事にも詳しく載っていますので参照してみてネ!)

(インド女優 アイシュワリヤ・ラーイが、ヤッズ★のヒマラヤ・ホステスのイメージです)
では、内容を見てみましょう。
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ホステスはそれに答えて、「正しい形をとって表現すれば叶えられるものです」というのであった。
更に言葉を続けて、「望みというものは祈りの一形式であって、イエスの祈りは聞かれたからイエスの用いた祈りこそ本当の祈りであり、何時も聞かれる祈りこそ真の祈りでなければなりません。従って又、科学的でなければならない。科学的である以上、一定の法則に従うものでなければなりません」
彼女の説き明しは続く――。
「その法則というのは、『汝の悟れる程度に、汝の祈りは叶えられたり』であり、『又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん』である。もしわたしたちが何なりとも求めたものは、すでにわたしたちのものとなっていると積極的に知るならば、わたしたちは法則に従っていると知るがよい。もしも望みが満たされれば、法則が満たされたのであると知るがよい。
もし満たされなければ、求めた側に誤りがあったと悟らなければならないのである。謬(あやま)ちはわれわれにあるのであって、神にあるのではないと知るべきです。従って結論は、『汝、心をつくし、魂をつくし、力をつくして、主なる汝の神を愛すべし』となる。故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜することです。
その秘訣は、神と一体となること(at-one-ment)にある。神との一体感になり、たとえ地球上の人々がこぞって反対しようとも、神との一体感をしっかり持ちつづけて離さない。『吾、自らの力にては何事をも為し給わず、吾が裡に住み給う父なる神ぞみ業(わざ)を為し給う』とイエスは申されました。神を信じよ、信じて疑うべからず、信じて恐るるべからず、神の力に限りなきことを忘るるべからず。神は『すべてを為し能う』のです。神に願う時は積極的な言葉を使うことです。
只、完全な状態だけを望むことです。それから自分の魂に種子となる完全な想いだけを植えつけるのです。さて、完全な健康が現れてくるように求めるのであって、病が癒されることを望んではならない。調和を現し豊富の実現を求めるのであって、不調和、不幸、制約から救われることを求めるのではないのです。こんなものは丁度、古くなった着物を棄てるように棄て去ってしまうのです。
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ここで語られる内容は、既になった状態で振舞いなさいとか、イメージした後は叶ったと思って手放しなさいとか、「〜が欲しい」という欠乏に意識をフォーカスせずに満ち満ちた完全なイメージをしなさいとかの御馴染みの願望実現ワークのポイントそのままですね。
もしかしたら、『マスターの教え』『思考は現実化する』...等、ニューソート系の願望実現本のタネ本は、実はこの本だったのかもしれない(ニヤリ)。
そういえば、『マスターの教え』の中にも、植物がタネから発芽しその名の通りの植物に成長するのには、元来、タネである状態の時に既にそれに相当する形状が記憶として備わっていて、その記憶をたどるように成長していくからであって、人の願望実現もメカニズムも全く同じで、これが普遍的に存在する「宇宙の法則」であると述べている箇所がありますが、このヒマラヤホステスでも全く同じ喩えを使っています。
疑いは、益々濃厚になってまいりました(爆)。
では、少し解説してみましょう。
文中の「正しい形をとって表現すれば叶えられるものです」とは、法則に則って祈りを行えば叶うという意味です。その祈りの方法の模範例がイエスの方法だというわけです。
イエスの方法???
下に、ゲッセマネの園でイエスが最後の祈りをする場面を紹介します。
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十二人の弟子たちと最後の晩餐を終えたイエスは、弟子のペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて、オリーブ山にあるゲッセマネの園に向いました。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言うと、少し離れた所にひざまずいて祈りはじめました。
「父よ、できるなら、この杯(苦難を意味)を私から取りのけて下さい。
しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」。
すると天使が現れて、イエスを力づけました。
イエスがますます熱心に祈ると、汗が血のしたたるように地面に落ちました。
イエスが祈り終わって、弟子たちの所に戻ってみると、彼らは悲しみの為に眠り込んでいました。「なぜ眠っているのか? 誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ」遠くには、イエスを捕らえに来た兵士たちの姿が見えます。
「時が来た。私は罪人たちに引き渡される。立て。行こう。私を裏切る者がやって来た」
(ルカによる福音書より)

(絵は「外在の神」に祈っている姿になっています。教会の作為か・笑)
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文中の下線部、「私の望みからではなく、あなたの御心のままに」という箇所がありますが、これは方法は全てお任せしますという「手放し」を意味しています。手放しすることは「叶えられると確信」するからこそできるものです。つまり、ヒマラヤホステスのいう「又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん」ということに繋がってくるわけですね。
この時の祈り方のポイントは、「(自分には欠乏していると思うことからくる)心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜する」です。
突き詰めていえば、祈りとは感謝なのです。
神社に行った際も同様です。神社の神様にお願いするだけではなく、それが叶ったと心底から思い、感謝するのが正しい祈り方です。なんかこの話、どこかで聞いたことがありますねぇ(笑)。
まぁ、ヒマラヤ・ホステスのいう「神」とは、一般に考えられているような人間と神という対比で語られるような「外在の神」ではありません。自分の意識の奥深く根源的な部分に存在する「内在の神」です。真我、神我、キリスト意識、ハイヤーセルフともいわれる部分や存在のことです。
そして、ここで願望実現の最大のポイントが明かされています。
「その秘訣は、神と一体となること(at-one-ment)にある」です(笑)。
これを字義通りに受け取ると、祈る対象(=神)と祈る主体(=あなた)が一体になることになりますが、これは一体どういう状態のことを指しているのでしょうか?
それは、『ヒマラヤ聖者の生活探究』の底辺にとうとうと流れている思想「I AM(私は神である)」のことなのですね。このことは、祈る主体が「自分は(自分だけが認識している唯一な世界の)神であり、そして、そこに創造を為す」という認識を持つことを意味します。
世に数多ある自己啓発本やスピ系願望実現本に書かれているワークをいくらやっても願いが叶わないのは、実にこの部分が欠落しているからではないでしょうか?あまりにも宗教的過ぎるいう観点から、この最も大事な箇所を意図的に省いてしまっているのではないでしょうか?ヤッズ★はそんな気がしてなりません。
次に、「神に願う時は積極的な言葉を使う」とはどういうことでしょう?
この「積極的に」とは、下の文に続くように「病を治して欲しい」ではなく「完全な健康状態を望む」というように、より大きく図々しいくらいの言葉を使いなさいということなのです。それは「欠乏」に意識をフォーカスさせるのではなく、富んだ状態に意識をフォーカスさせることになるわけですね。「欠乏」に意識をフォーカスすれば、「欠乏している状態」がまた再び現実化されてしまいますからね。
今読んでいる場面は、見た目17歳程度だが実は400歳超えの美女、通称「ヒマラヤ・ホステス」が語る願望実現の肝となる内容がズバリと書かれた箇所です。(この辺の話は、あうわ聖大師の記事にも詳しく載っていますので参照してみてネ!)

(インド女優 アイシュワリヤ・ラーイが、ヤッズ★のヒマラヤ・ホステスのイメージです)
では、内容を見てみましょう。
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ホステスはそれに答えて、「正しい形をとって表現すれば叶えられるものです」というのであった。
更に言葉を続けて、「望みというものは祈りの一形式であって、イエスの祈りは聞かれたからイエスの用いた祈りこそ本当の祈りであり、何時も聞かれる祈りこそ真の祈りでなければなりません。従って又、科学的でなければならない。科学的である以上、一定の法則に従うものでなければなりません」
彼女の説き明しは続く――。
「その法則というのは、『汝の悟れる程度に、汝の祈りは叶えられたり』であり、『又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん』である。もしわたしたちが何なりとも求めたものは、すでにわたしたちのものとなっていると積極的に知るならば、わたしたちは法則に従っていると知るがよい。もしも望みが満たされれば、法則が満たされたのであると知るがよい。
もし満たされなければ、求めた側に誤りがあったと悟らなければならないのである。謬(あやま)ちはわれわれにあるのであって、神にあるのではないと知るべきです。従って結論は、『汝、心をつくし、魂をつくし、力をつくして、主なる汝の神を愛すべし』となる。故に、心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜することです。
その秘訣は、神と一体となること(at-one-ment)にある。神との一体感になり、たとえ地球上の人々がこぞって反対しようとも、神との一体感をしっかり持ちつづけて離さない。『吾、自らの力にては何事をも為し給わず、吾が裡に住み給う父なる神ぞみ業(わざ)を為し給う』とイエスは申されました。神を信じよ、信じて疑うべからず、信じて恐るるべからず、神の力に限りなきことを忘るるべからず。神は『すべてを為し能う』のです。神に願う時は積極的な言葉を使うことです。
只、完全な状態だけを望むことです。それから自分の魂に種子となる完全な想いだけを植えつけるのです。さて、完全な健康が現れてくるように求めるのであって、病が癒されることを望んではならない。調和を現し豊富の実現を求めるのであって、不調和、不幸、制約から救われることを求めるのではないのです。こんなものは丁度、古くなった着物を棄てるように棄て去ってしまうのです。
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ここで語られる内容は、既になった状態で振舞いなさいとか、イメージした後は叶ったと思って手放しなさいとか、「〜が欲しい」という欠乏に意識をフォーカスせずに満ち満ちた完全なイメージをしなさいとかの御馴染みの願望実現ワークのポイントそのままですね。
もしかしたら、『マスターの教え』『思考は現実化する』...等、ニューソート系の願望実現本のタネ本は、実はこの本だったのかもしれない(ニヤリ)。
そういえば、『マスターの教え』の中にも、植物がタネから発芽しその名の通りの植物に成長するのには、元来、タネである状態の時に既にそれに相当する形状が記憶として備わっていて、その記憶をたどるように成長していくからであって、人の願望実現もメカニズムも全く同じで、これが普遍的に存在する「宇宙の法則」であると述べている箇所がありますが、このヒマラヤホステスでも全く同じ喩えを使っています。
疑いは、益々濃厚になってまいりました(爆)。
では、少し解説してみましょう。
文中の「正しい形をとって表現すれば叶えられるものです」とは、法則に則って祈りを行えば叶うという意味です。その祈りの方法の模範例がイエスの方法だというわけです。
イエスの方法???
下に、ゲッセマネの園でイエスが最後の祈りをする場面を紹介します。
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十二人の弟子たちと最後の晩餐を終えたイエスは、弟子のペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて、オリーブ山にあるゲッセマネの園に向いました。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言うと、少し離れた所にひざまずいて祈りはじめました。
「父よ、できるなら、この杯(苦難を意味)を私から取りのけて下さい。
しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」。
すると天使が現れて、イエスを力づけました。
イエスがますます熱心に祈ると、汗が血のしたたるように地面に落ちました。
イエスが祈り終わって、弟子たちの所に戻ってみると、彼らは悲しみの為に眠り込んでいました。「なぜ眠っているのか? 誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ」遠くには、イエスを捕らえに来た兵士たちの姿が見えます。
「時が来た。私は罪人たちに引き渡される。立て。行こう。私を裏切る者がやって来た」
(ルカによる福音書より)

(絵は「外在の神」に祈っている姿になっています。教会の作為か・笑)
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文中の下線部、「私の望みからではなく、あなたの御心のままに」という箇所がありますが、これは方法は全てお任せしますという「手放し」を意味しています。手放しすることは「叶えられると確信」するからこそできるものです。つまり、ヒマラヤホステスのいう「又、汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん」ということに繋がってくるわけですね。
この時の祈り方のポイントは、「(自分には欠乏していると思うことからくる)心配、不安、不信を以てではなく、自分の必要なものはすでに自分のものとなっていると知り、歓び、晴れ晴れとした感謝の心を以て、己自らの魂深く沈潜する」です。
突き詰めていえば、祈りとは感謝なのです。
神社に行った際も同様です。神社の神様にお願いするだけではなく、それが叶ったと心底から思い、感謝するのが正しい祈り方です。なんかこの話、どこかで聞いたことがありますねぇ(笑)。
まぁ、ヒマラヤ・ホステスのいう「神」とは、一般に考えられているような人間と神という対比で語られるような「外在の神」ではありません。自分の意識の奥深く根源的な部分に存在する「内在の神」です。真我、神我、キリスト意識、ハイヤーセルフともいわれる部分や存在のことです。
そして、ここで願望実現の最大のポイントが明かされています。
「その秘訣は、神と一体となること(at-one-ment)にある」です(笑)。
これを字義通りに受け取ると、祈る対象(=神)と祈る主体(=あなた)が一体になることになりますが、これは一体どういう状態のことを指しているのでしょうか?
それは、『ヒマラヤ聖者の生活探究』の底辺にとうとうと流れている思想「I AM(私は神である)」のことなのですね。このことは、祈る主体が「自分は(自分だけが認識している唯一な世界の)神であり、そして、そこに創造を為す」という認識を持つことを意味します。
世に数多ある自己啓発本やスピ系願望実現本に書かれているワークをいくらやっても願いが叶わないのは、実にこの部分が欠落しているからではないでしょうか?あまりにも宗教的過ぎるいう観点から、この最も大事な箇所を意図的に省いてしまっているのではないでしょうか?ヤッズ★はそんな気がしてなりません。
次に、「神に願う時は積極的な言葉を使う」とはどういうことでしょう?
この「積極的に」とは、下の文に続くように「病を治して欲しい」ではなく「完全な健康状態を望む」というように、より大きく図々しいくらいの言葉を使いなさいということなのです。それは「欠乏」に意識をフォーカスさせるのではなく、富んだ状態に意識をフォーカスさせることになるわけですね。「欠乏」に意識をフォーカスすれば、「欠乏している状態」がまた再び現実化されてしまいますからね。


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