スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三ケツ神の地 探訪記1

有給で3連休となったので、前から一度観ておきたいと思っていた伊雑宮に行ってきました。

来たるべく22と23の戦い(神と王のい戦い)に備え、ヤッズ理論の更なる進化と深化を図るべく、美味し国、神話の国に現地調査を敢行することにした。決めたのは金曜夜に急遽決めたのであり、全くの事前準備無し状態だっただす~(あはは)。

志摩は「御食(みけ)つ国」と称される程に海産物に恵まれ美味いものが取れる地域でもあるが、中でも的矢湾で取れる牡蠣は苦味が無い牡蠣で高級料亭にしか出回らない程に高級品として有名ですね。

この志摩は「三ケツ神=AOA=Babymetal」を奉るオイラにとって相応しい地でもあるが、伊勢には行くが何故か今ままでスルー状態の禁断の地。いつも志摩を避けながら、尾鷲、串本の方にスキューバダイビングに行っていた。ある意味、志摩は東三河のオイラにとって「裏鬼門」の地でもあるのだす~。

しかし、デキレースで決まった伊勢志摩サミットが、なんとは無く気に掛かるので、背中を押されるようにして出掛けてみた。

三ケツ神01
(旧三ケツ神)

今回は急遽決めた為、高速道路を使わずに格安でという作戦。朝4時出発し、内宮を拝んだあと他の目的地に行き、22時帰宅というオイラ1人で12時間以上運転しっぱなしの強行軍だった。マジ疲れただす~。

新3ケツ神
(新3ケツ神)

このように「穂の国」三河から伊勢に延びる国道23号線を只管走行してシリウスナンバー「23」と一体化していたオイラですが、伊勢に入った後、三重県道22号の伊勢南線と交差した。

2223.png
(穂の国=火の国である東三河、水軍と海産物の宝庫である伊勢志摩は「水の国」 この両者を結び付けるのが「23」のシリウスナンバーの国道23号線。当然、ここに「火水(カミ)」が顕現するというのがオイラの想定するシナリオ。)

ま、まさかここで「22」「23」のバロムクロスに出会うとは、、、、(爆)。

豊橋市章01

思えば、この22がオイラの結界線だった(遠い目)。

あの日の大王崎の思い出がトラウマとなってしまっていたのかもしれない。今回のこの訪問、この22のラインを超え、裏鬼門に進入し禁断の領域に入る段取りだったのだろう。

つまり、、、「22を超えていけ~」なのだす。

そして重なった△と▽は六芒星となるのだが、六芒星は伊雑宮の神紋。外宮参道の石灯籠に六芒星(ダビデの星)が刻まれていることは有名ですが、この石塔を設置したのは伊雑宮関係者であったということです。

実際、石塔の寄贈者として彫られている「伊勢三宮奉賛献灯会」という任意団体の名称に「三宮」があることから、このことは間違いなさそうですね。
※本来は、伊雑宮では日神を祀り、外宮が月神、内宮は星神を祀っていたという。

さてさて、今回の伊勢志摩探訪記とその洞察を時系列で記述します。

■内宮
8時30分に到着し、すぐさま内宮へ参拝。金座に移ったばかりの正殿は真新しく神々しいのだが、1つ奇妙なことに気づいた。正殿は私幣禁止だった筈だが、何故か白い布が置かれ、そこに賽銭がたくさん投げ込まれていた。

いつから私幣がOK牧場になったのだろうか?


■おはらい町
木造風店構えの店舗が多くなり、更に江戸情緒たっぷりとなった。ここは完全にテーマパーク化しているなぁ、、、、まぁ、内宮も昔からの巨大なテーマパークであるので、ここはそういう一角なのだす。このように批判的に身るオイラですが、かといって鳥居で一礼はする。「郷に入っては郷に従え」なのだす。

ここでは必ず「ひもの塾」に立ち寄り、試食するのが楽しみとなっている。出発前日に「イカ食いたい」と言っていたイカの一夜干しが売っていたので1000円で即買い。1枚おまけで入れてくれた。その後、赤福に行き暫し休息。ここで3つの赤福を食べるのですが、待ち番号は大魔神コード「22」であった。これは今回の「22を超えていけ~」と明確にシンクロしている(滝汗)。

また、22と23の戦いでの勝者を暗示させるかの様だ(ふぅふぉふぉ)。

赤福3ケツ神
(何にでも3ケツ神に見えてしまう、、、それは「三重」だからw)

さて、赤福の「赤」は「赤心慶福」の略と言われるが、本当は蚩尤旗の「赤」であると睨んでいる。つまり赤く塗られた神社と同じく「邪気払い」だろう。しかも、店で提供される餅の配置は「逆さミッキー」の州浜紋と同じなのです。
州浜
赤福もアンチ・ディズニー派だと確信した(爆)。
※アンチ・ディズニー派=アンチ世界システム=ベビーメタル派=HHOガス派なのだす~


■金剛證寺
通行料1250円の伊勢志摩スカイラインの途中に金剛證寺がありますが、伊勢音頭に「お伊勢参らば朝熊かけよ、朝熊かけねば片参り」と唄われるように江戸時代から伊勢神宮参拝とセットとなっていて隆盛していた場所。外宮内宮の鬼門を守護する奥の院的扱いの寺院でもある。

本堂である朱塗りの「摩尼殿」は、太鼓橋を過ぎた後の石段を登った先にあるが、その石段を登り切ったところの右に虎、左に牛の銅像が存在する。牛と虎でウシトラですね。全国の虚空菩薩を祀るお堂には同様に丑と寅の像が安置されていますが、虚空臓菩薩は明星天子のことでもあり、ある文献には「明星天子トハ、丑ノ終ニ出テ 寅ノ時ニ顕現スル也」と記されているように、これが丑と虎の像が安置される背景になっている。そして、これが九鬼文書で記載されるウシトラノコンジン=明星天子=虚空臓菩薩でもあるのです。

金剛證寺01

そして、この虚空臓菩薩は角がなく、鱗がない「うなぎ」のような姿をした神として描かれる。または虚空臓菩薩の「使い」とも称される。

うなぎ神、、、、、エジプトのアトゥム神に似ていますね。

アトゥム神
(アトウム神)

または、異形の姿をしている天河弁財天と同じ神かもしれません。

天河弁財天03
(天河弁財天)

石段を登り切った左側の牛像の頭上には大国天がちょこんと乗っているが、これにもきっと深~い意味があるのだろう。ウシトラノコンジンは大本の本尊であるが、伊勢外宮-出口(大本)-九鬼の繋がりは緊密です。ちなみに大国天=ダーキニー=摩多羅神というのがオイラの洞察結果。

丑と大黒天

ここの本尊は日本三大虚空臓菩薩の第一位である「福威智満虚空臓大菩薩」。伊勢神宮遷座の翌年だけに御開帳されるという。


■明星堂
今回の目的の1つが、朝熊ヶ岳でもっとも最初に建てられたのがこの明星堂。ここが伊勢神宮の鬼門を守護しているというが、鬼門方向の東北にあるわけではなく、内宮の真東にある。つまり、鬼門守護というのは目くらましのガセ情報ですね。この東方には太陽が昇ってくる富士山-神島-明星堂-内宮という位置関係になっており、明らかに新しく登場する太陽=救世主を信仰するもの。

ネット情報だけではよく分からない部分があり、どうしても実地調査したかった。

明星堂は明星天子を祀る小さいながらも朱塗りの豪勢なお堂。「明星」の字が日・月・星の3つを表すとされるように、堂内に3つある祭壇は日・月・星の3つを祀っているのだろう。明星天子=虚空臓菩薩だとされるが、ここから更に金星=ルシファーを表しているという説もあり、ルシファー=スサノオ=ウシトラのコンジン=再臨のイエス

明星堂01
(お堂は近年建て直されたもの)

現地に行ってみて分かったことは、明星堂は「奥の院」にあるのではなく、本堂から奥の院側に行ったスグのところにあるということ。かなり勘違いしていました。そして、その横には埋経塚に至る山頂への登山道があり、その山道を登っていくと山頂の八大龍王を祀った社がある。つまり「明星堂-埋経塚-山頂」という位置関係になっているが、オイラが睨んだ通りだった。

朝熊山マップ

特に中央の祭壇には注目です。堂の名称から中央は「星=明星=金星」を祀っているに違いない。ここは寺の境内の筈なのだが、何故か両側に狛犬が置かれ、祭壇は鏡が置かれる神道形式になっているのです。明星天子自体、帝釈天に率いられた守護従者で諸天善神の1つで仏教の神であるのにも関わらず、、、神仏分離し切れていない状態なのです。

明星堂02

それと、もう1つの注目箇所は賽銭箱の下が空洞になっていて、巨大な水槽に為っている点。山の岩肌から湧き出て来る水を集めたもののようでもありますが、実は井戸になっていてその水「明星水」が眼病に効くと云われている。

明星堂03

ダビデの祭壇、つまり、山頂に聖櫃(アーク)を安置し麓の質素な庵で1週間ぶっ通しで火を燃やして祀るダビデが行った祭儀の方法のことですが、「伊勢神宮の奥のほうではコレを現在も行っている」と名無し先生は言っており、場所は明言されていませんが、この明星堂がオイラが睨むその候補の1つです。だから火災になった場合の安全の為に水槽が地下に存在させているのか? あるいは、昔、焼肉屋であったようにモクモクと出る煙を水で吸収させているのか?(笑)


■奥の院
この奥の院の参道には九鬼義隆の墓がありますが、ここの異様さは巨大な柱状の卒塔婆が林立する光景。これでもかというくらい立っている。この光景は日本中でここだけであろう。卒塔婆は大きさにより10~50万円するが、売れ筋は10~20万円のサイズ。

この奥の院も朝熊ヶ岳山頂に向かっ建立されており、朝熊ヶ岳が古くからの信仰の山であったことは容易に想像が付く。

奥の院01

普通、卒塔婆といえばペラペラな板ですが、このように豪勢に「柱」を使うのは、背後に山林を抱える木材資源豊富な三重という地の利もあるが、「柱=神」と見立てる諏訪の御柱と同じく古代イスラエル的な思想があると思われる。そういえば志摩磯部の「的矢氏」の名称も諏訪の「洩矢氏」と何となく似ていますねぇ~

で、この奥の院の最奥でも、やはり虚空蔵菩薩を祀っているのです。

摩尼堂、明星堂、埋経塚、奥の院の全てが「虚空臓菩薩=明星天子=明星=金星=ルシファー=再臨のイエス=ウシトラノコンジン」を祀っていて、朝熊ヶ岳山頂を臨む方向に社殿が建てられ祭祀を執り行うようになっていたのです。つまり、これら全てが「ダビデの祭壇」をしていたことになる、明星堂だけではなかったのです。最初に建てられた明星堂はその魁であったということ。


■朝熊山山頂
八大龍王社のある標高555mの朝熊ヶ岳山頂からの眺めは最高らしいらしいが、今回は時間が無かった為に登頂は諦め、車でいける足湯のあるもう1つの山頂(標高506mの南峰)から伊勢志摩の眺望を楽しんだ。強烈に風が吹くので髪の毛はボサボサになってしまったが、眼下にリアス式海岸が広がり、その向こうに神島、渥美半島、豊川稲荷、富士山、皇居と一直線に繋がる。渥美半島側からの光景とは大違いでその眺めは超絶凄い。日本百景に選ばれるだけのことはある。夏至の太陽が富士山から登るというが、是非、拝んでみたくなった。

朝熊山頂

冬の早朝以外にはまず見えないという富士山が薄っすらと見えたのは超ラッキーでした。この風景には高額と感じた通行料1250円を払ってもいいと思い直した程です。

この眺めは八大龍王社側の山頂も同じであり、古伊勢湾を見渡せた弥勒山と同じく「国見山」としての機能は充分。語り部は房総半島に逃れた東三河の徐福国残党を討つ為に伊勢に天神に鹿の焼く匂いを捧げる天香具山を移したと述べるが、その地に比定できそうな場所である。このこと故に古代から大変な聖地であったのだろう。それ故、三重の人が山頂を神聖視し、その山界に死者のいる天界があると感じ、明星堂、金剛證寺、埋経塚、奥の院が朝熊ヶ岳の山頂に向かって建立されたと睨む。

(長くなったのでつづく)
スポンサーサイト

Comments

No title

何故伊勢志摩でサミットか。
お披露目するんだろうね。
アークを。

No title

奈良の石上神宮の近くに龍王山
奈良盆地から淡路島が見えます。

マイナンバー制度の…

最も不味いところは、個人情報の管理のみならず国民全員にバーコードが振られて〖6・6・6〗が反映されること!

現在、様々な商品や食料に至るまでバーコードが振られているが… これは全てサタンの所有物という意味を持っている。
そして、物理的(波動性科学.ラジオニクス)によって、増幅されたネガティブエネルギーを発信し続けているので… 部屋の中の家電や本のバーコードを虱潰しに探してマジックで濃い線を引き、元のコードを識別できない状態に全てすれば部屋の波動が軽くなりメンタルが正常に近づく(@_@)

物や、完全なる家畜として生きていくかどうかの重要なファクターなのだ。
そして更にゾンビ化が進むなりよ♪
そんな重大なことを誰も想像できず、何でもハイハイ受け入れて施行させるのが、日本の政治家と官僚←白痴なう!極めつけが、安倍晋三って事だな(-ω-;)

No title

『明治天皇すり替え説Q&A http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861
陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。鬼塚英昭に影響を与えたのが、鹿島昇ともう一人、松重楊江である。
そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。

太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。

鹿島昇とは、「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の
大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で
大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が
睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。
もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、
「田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました
大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされませんでした。
しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、
「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相です。」

鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り合い、韓国の20世紀に作られた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(または統一教会)が関係しているといわれる。

1987年に松重正、または松重楊江と出会い大室に会いに行き。
その後、日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。

もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。
松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、ことに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」
http://negajap.seesaa.net/article/391263025.html
『 韓国と日本の歴史 』について
http://www.infact-j.com/matsushige/jobun.htm
このような認識の在日朝鮮人や共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。


明治天皇すり替え説=偽書・桓檀古記と同じ韓国起源説系統のトンデモ説。

広めている人たち→共産主義者、共産党系や在日系の出版社やオカルト・都市伝説・トンデモ系の雑誌。反社会的極左活動家。パラノイア、統合失調症患者、妄想性人格障害者。「ジャップ」、「クソウヨ」、「戦犯ヒロヒト」、「日王」、「倭猿」、等々を書きこんでいる人々。

被害者→カルト宗教や左翼活動や新聞社の勧誘なんかに騙されやすい人々。

明治天皇の玄孫、竹田恒泰氏による明治天皇も話していた宮中言葉講座
https://www.youtube.com/watch?v=yA2Sy6acLwU
宮中言葉(隠語)が発達した、顔見知りの女官がいる狭い宮中で睦仁親王をすり替えられる訳ないだろ。
「山」「川」の合言葉のようなもので、すり替えられていたらすぐ­気付くわw』

だと。自給自足マンセのあんた、神社行かんで欲しい。穢れるから。

先日、香取神宮に行ったが…

本殿等々は普通のエネルギー状態でも、神職達がカオスでネガティブなエネルギーに汚染されていた。

つまり、神社本庁が何らかの呪詛や強力なハイテク攻撃を受けているので関係者に影響している可能性は高い。
ただ、私から言わせると… そのような事は当事者達が早急に気付いてプロとして何らかの措置や反撃を行い(それくらいのことは)できていないとしたなら、使えない連中だと言うだけの話で、怠慢で無能な者が専門職に就いている国会議員.官僚.総理などと然程変わりは無い。

ただ思うに今まで日本で48年生きてきて、日本人だから素晴らしいと思えた事は殆ど無く… 何故このように愚かさが払拭できない馬鹿ばかりなのだろうとガッカリすることが多かっただけなので、自分の善意や行動指針はグローバル的な博愛精神に依り、国家には依らない自生的な感性なのだと思っている。

十人中八人は馬鹿だが… どこの国もそんなものだ。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

明治天皇のスリカエは事実

およそ1ヶ月振りの投稿ですが・・・・「明治天皇すりかえは事実」(ほぼ100%の確立)でしょう。「桓壇古記(私は未調査?)が偽書だから→明治天皇すり替えも嘘」というキメツケ論はいかがなものか。

戦時中の従軍慰安婦(性奴隷)の件と同じで、吉田清治証言が嘘だった1点を持って、「従軍慰安婦は全ていなかった」と論ずる、ネトウヨの論の様なもので、クマラスワミ報告書(50ページ)には、他にも無数の証拠や証言があり、報告書の吉田証言(50ページ中のたった3行)はその中の1つで、従軍慰安婦の否定にはならない。
逆に最近、中曽根元首相(将校時)が「土人女を集め慰安所を開設」の内容が防衛省戦時記録にあった事が発見されたり、吉林省で旧日本軍が焼却しきれず埋めた文書が発掘・公開(中国で2014年)され、慰安婦業者に天皇の勲章が贈られていた事なども暴露された。(ネトウヨの慰安婦は業者が勝手にした事で軍の関与は無いは大嘘)

南京大虐殺の責任を問われ、B級戦犯で東京裁判で処刑された松井石根大将の処刑直前の証言でも(軍の蛮行を嘆き、自分は泣いて怒ったと証言)で認めた内容で30万人虐殺(?)は定かではないが・・・・南京進軍迄捕虜をとらぬ方針(=捕虜皆殺し)で進撃した日本軍が南京が陥落後に、(便衣兵と称し?)捕虜や民間人を殺害した事は間違いがない様です。
(上海→南京迄の300キロの日本軍の進軍は、食料は現地調達の方針で、進軍先での略奪が相次いだ)澄田中将、阿南少将、岡村中将の回想や従軍日記は、略奪、放火、殺人、強姦等のし放題と述べている。日本軍兵士の従軍日記(多数)にも、「民家は焼却、シナ人は老若男女の別なく殺せの命令有」などの記載。

南京市の人口は南京攻略1年前101万人、南京攻略直前(1937年10月頃=市民40~50万人+軍人15万人)→南京攻略(1937年12月)→南京攻略直後(1938年2月末=20万人)、1938年10月末33万人との事です。

それはさておいて、本題
(大室近祐氏、鹿島昇氏、太田龍氏、鬼塚英昭氏に対する人格攻撃のレッテル貼りをする前に)下記に対する見解(下記の以外にも色々あるが)を皆に示して自説を唱えた方がよろしかろう。

・睦仁親王が、ある時突然、女官と遊ぶひ弱な小男→明治天皇は頑強な大男に変わったのはなぜか(?)。
・睦仁親王が、ある時突然、天然痘の傷跡なし→明治天皇は天然痘の傷もち(口のアバタ)顔になったのはなぜか(?)。
・睦仁親王が、ある時突然、右ききで字がへた→明治天皇は左ききで達筆になったのはなぜか(?)。
・幕末から明治維新の時、多数の自称天皇(大室、熊沢、三浦など)が出現した理由とは何なのか(?)。
・明治新政府はなぜ、京都を捨てて、東京へ都を移さねばならなかったのか(?)。→京都では天皇スリカエがばれる為(?)
・田中光顕伯爵(坂本竜馬の弟子)が明治天皇は孝明天皇の子でない(睦仁暗殺)と言ったのはなぜか(?)。
・西郷隆盛が、明治天皇(大室寅之祐)に「わがままを言うと元の身分に戻しますぞ」と言ったのはなぜか(?)
・明治44年、南北正閏論でなぜ桂内閣が倒れたのか(?)。明治天皇(北朝方の天皇の筈が?)がなぜ「南朝が正当」と言ったか(?)。

上記を考えれば、孝明天皇の子(睦仁親王)と、我々が知る明治天皇は別人と考えるのが妥当だろう。
鹿島昇は、弁護士業のかたわら、日本史の研究を進め多数の著作を発表したが、彼が言っているのは
(1)明治維新で天皇は北朝から南朝に変わった、(2)孝明天皇は伊藤博文が刺殺した、(3)睦仁天皇も暗殺され、田布施の大室寅之祐(明治偽天皇に)スリカエられた。・・・・というものである。
(2)は病死説や偽装崩御説、(3)も僧侶となり逃亡説や偽装崩御説があるが、(1)の天皇が北朝方→南朝方に変わったのは事実で、それをやったのは「長州田布施一味+宮中岩倉具視ら」で間違いないだろう。

孝明天皇(=北朝天皇)の崩御後、睦仁親王が明治天皇に即位したが、大室寅之祐(=南朝天皇と自称する)に薩長の田布施勢力によってスリカエられた(睦仁親王も暗殺?or僧侶となり逃亡?)のだ。
ところが、大室寅之祐は南朝方の光良親王の子孫(血筋)ではなく、朝鮮エタ部落・海賊某の孫(地家作蔵の子)の大室寅之祐だったという事であり、これを突き止めたのが太田龍氏と鬼塚英昭氏だから、その説を否定しようとして人格否定のネガキャンを、田布施擁護論者やネトウヨ達が流していると私は見ております。

(落合莞爾の堀川攻略での、大室寅之祐は「南朝の正当な子孫説」は誤りと私は思っているが・・・・落合説の孝明天皇の偽装崩御迄は正しいかもしれないが・・・・その他の内容は多分(?)嘘と私は判断)
落合莞爾は、南北朝の対立を終わらせる為と称して、南朝・護良親王の子(正史では興良親王(1326-?)を北朝・光厳天皇の子で後の崇光天皇(1334-1398)として(秘密裡に)「スリカエ」た彼の著書で主張するが・・・大嘘(?)

落合莞爾は、さる筋の伝聞情報のみが正しく、「何も証拠を提示せず正史は間違い」と論じているが・・・(これが許されるなら、都合の悪い正史を改ざんし放題になるが・・・)後の歴史を見れば、南北朝の対立が幕末・明治迄続いている事。江戸末期まで各藩が南朝の末裔(玉)を匿った事からも嘘と思われる。
(また堀川辰吉朗が孝明天皇or睦仁親王の落胤で裏天皇の系譜と言うが・・・・堀川氏は岩倉具視の落胤の筈で、よって落合莞爾の説は、「田布施システム(=明治偽天皇)擁護の為の嘘!」と考えられる)

色々と、書きたい事はあるが、長くなるので結論だけ。後は、各自が自分自身で調べられたし。それでは・・・・

昔陸軍・今安倍政権(a)

エラーになったので内容分割します。
最近、孫崎享氏の「日米開戦の正体」を読んだが、今の安倍政権は昔の陸軍暴走とそっくりである。
本は、つい最近(2015年5月20日)発売で、きっかけは今年の天皇陛下の年頭所感で「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えて行く事が、今極めて大切な事だと思っています」
の言葉にマッチした本だと思ったからですが。(本の内容も実際そうでしたが)

今回の安倍の暴走は、「戦前・戦中の日本のカルマ解消」という(神の計画での)「悪の御用」なら、行く所まで行かないと止まらないだろう。「金を持って来い止めてやる・・・・」はまだ本物じゃない。本物は金など要求しない筈。「わざわざ、餌を与えるな」の指摘は正しいので、今後気を付けたいと思うが・・・・
悪の御用とは、スサノオの乱暴狼藉と同じで、天界の神々の罪をスサノオ一人に負わせ高天原→地上に追放したのと同じで、「地球での罪を負わされ未開惑星に追放される魂」(=死後に転生?)の事。
例によって、ネトウヨ諸君は、読むと気分を害するだろうから、これ以上は読まずスルーして欲しい。
ネトウヨ諸君の(誹謗・中傷、言論封殺的な筋の通らぬ)カキコは無視するつもりなので・・・・了承を

昔の陸軍は、日本政府の満州での「紛争不拡大方針を無視」し、現地の軍が(紛争捏造し)暴走します。
日露戦争の日本利権は遼東半島と南満州鉄道の租借地だけで、満州から撤兵(18ヶ月内)の約束です。
軍は満鉄爆破の自作自演で満州全土を占領し、同様にして中国東北部を占領、上海の抗日運動を制圧、南京の蒋介石政権を打倒、蒋介石政権への米英ルート(インドシナ)を叩け、そして米国が石油を禁輸した
ので米国へ先制(真珠湾)攻撃せよ、と軍は暴走の連続です。(→暴走での破滅(=敗戦)は当然です)

真珠湾攻撃の愚策は、当時の米国のGDPは日本のGDPの10倍以上(飛行機・艦船製造能力も)で、石油も米国から輸入に頼る日本が米国に宣戦布告したら、(長期戦は)勝てる筈がない事は、百も承知の筈がなぜ・・・(?)の疑問の追求ですが、暴走した陸軍は近視眼的で「民主国家の米国は戦争を続けられない」の虚構を頑なに信じ、「自らの行動が諸外国や自らに何をもたらすか」(=諸外国反発と自らの敗戦)が判っていなかった様です。今の安倍政権が進める近視眼的な路線(=利己的&戦争突入)と同じです。

(注)同書P.151の20世紀初頭の日本と欧米列強の軍事・経済指標(ドル換算名目)
国名------------日本--米国---英国---ロシア(ソ連)
GNP(1925年)-----6,700-93,100-21,400-16,000(百万ドル)
軍事支出(1921年)--400--1,770--1,280---400(百万ドル)

昔陸軍・今安倍政権(b)

エラーになったので内容分割します。
私自身は、(カルマによって)「歴史は繰り返す」、「賢者は歴史に学び、愚者は自らの体験(悲惨な)に学ぶ」そして、大愚な者は「自ら悲惨な体験を作り出すが、学ばない」と思えます。
そして、過去の出来事を(形を変えたカルマの繰り返しが)現在の出来事で、例えるならば
A)昔の満州国の暴走軍部が、今の日本の安倍政権。
B)昔の日本政府(時々暴走したが?)の良識派が、今の米国政府(オバマ政権)。
C)昔の陸軍の大本営(政府や天皇も支配)が、今の米国の戦争屋(デビ爺一派)。
D)昔の中国+米国の役割(=日本+戦争屋と戦う)が、今のロシア+中国+BRICS諸国で。
E)昔の日本軍の中国・アジア諸国侵略が、今の米国の中東・ウクライナ・アジア等での紛争の自作自演。
に該当(?)と考えますが・・・これにカルマ解消(=次元上昇)が絡み出来事の発生?が私の仮説ですが。

同書(第3章)では、日米開戦(真珠湾攻撃)は、日露戦争の勝利(満州利権)が原因だとしています。(同書のP.162によれば)
多くの日本人は日露戦争で日本は満州の特殊権益を得たと思っています。しかしポーツマス条約(1905年)をよく見れば、南満州鉄道の権益(鉄道周辺の租借権)と遼東半島を除き、特殊権益はありません。
条約では満州国全土は清国の主権を認め、日露双方は満州から18ヶ月以内に撤兵となっています。そして、満州においては各国(欧米諸国)平等の待遇を行う事となっています。
でも、日本の軍隊は満州に残り、ここを日本だけの特別の権益の土地とする行動を取っていきます。日露戦争直後に、米英双方は日本が満州に兵を置き、独占的に運営しようとする事に抗議します。

(1)伊藤博文vs陸軍参謀と、伊藤博文の○殺
満州の処理を巡り、伊藤博文(元首相=英米協調)と児玉源太郎(陸軍参謀総長=利権独占で対露)が対立し、最初は伊藤氏の意見が通りますが、伊藤博文は○殺され、英米協調が覆ります。

(2)第一次大戦中の対中21カ条の要求
第一次大戦中(1915年1月18日)大隈重信内閣は中華民国の袁世凱に(=軍部の圧力で?)「21カ条の要求」を突きつけ、満州利権獲得とドイツ利権の獲得を要求し認めさせ、中国民衆から激しく反発を招きます。

(3)辛亥革命から中国は軍閥割拠の時代
中国では1912年辛亥革命で清朝の溥儀が退位し、孫文が臨時大統領に、袁世凱が大統領に就任しますが1916年に死亡し、後継の政権は大陸全体をまとめられず軍閥割拠の時代に突入します。

昔陸軍・今安倍政権(c)

エラーになったので内容分割します。前の(B)の内容は一部削除
(4)張作霖の傀儡利用とその後の爆殺
関東軍は、満州が拠点の軍閥の張作霖を利用し、満州を植民地化しようとしますが、後に張作霖は日本軍の傀儡を拒否した為に、河本大作大佐(=黒幕?)による張作霖の爆殺事件(1928年6月)が起きます。
張作霖爆殺の時の、首相は田中儀一ですが犯人が軍人の場合、軍法会議で裁くと天皇に上奏しますが、陸軍の反対で実施できず、天皇に叱責され、田中儀一首相(元軍人で参謀次長)は辞任します。
(首相よりも、統帥権(=軍の人事権等)を振りかざす、現役の陸軍参謀総長の方が権力が強い時代?)

(5)自作自演の満鉄爆破と満州制圧(傀儡支配→軍支配へ)
石原莞爾中佐による、自作自演の柳条湖事件(満鉄爆破=1931年9月)が起きます。関東軍はこの爆発を中国人が行った事にして、奉天(今の瀋陽市)の中国軍拠点を制圧し、さらに満州全域を制圧します。
この計画は、関東軍の本庄司令官には計画は知らされず、板垣大佐と石原中佐の計画に従って軍が動かされ(軍で下克上が起きた)、東京の陸軍の上層部は驚愕し直ちに「不拡大」方針を命じますが・・・現地はこれを無視して満州全域の掌握に向かいます。ここでも出先の関東軍が本国の軍命令に背きます。
日本政府と昭和天皇は、最初は板垣征四郎と石原莞爾のこの暴走を非難します。が、後に関東軍の動きを支持し、賛美までします(1932年1月)。これが後々の軍の行動に大きな影響を与えます。

(6)満州国の成立と軍の政府命令無視
1932年3月1日、(石原莞爾による自作自演の満鉄爆破から半年後)満州国が成立します。満州国皇帝の溥儀(1912年の辛亥革命で清朝崩壊し退位)は関東軍の傀儡です。柳条湖事件は、その直後に国際連盟で協議され、中国側は①事件の不拡大、②現状回復、③賠償決定を求め、日本政府は「兵を満鉄の付属地域内に引く、事態を拡大させない」と国際連盟に約束するが、関東軍は無視し占領地を拡大したまま。

(7)張学良の反日運動と錦州攻撃と制圧
1928年河本大佐により、張作霖は爆殺され、その後を継いだのは息子の張学良です。張学良は満州事変の後、錦州を拠点に反日運動を行いました。関東軍は満州だけでなく錦州制圧に乗り出します。
関東軍による錦州への攻撃は、在留邦人の保護という名目はありません。(無差別爆撃と侵略です)
昭和天皇は、柳条湖事件(1931年9月18日)の1ヶ月後の錦州攻撃(同年10月8日)では、攻撃是認の方向へ、そして1932年1月に満州事変の当事者が帰国すると、帰還した2部隊に恩賞を与えます。
この結果で日本国民は、誰も「関東軍の行為(蛮行)」を非難できなくなります(=天皇の是認に反対)。

(8)錦州制圧から熱河作戦へ(軍は天皇の命令も無視)
日本軍は満州支配を確定させ、張学良の勢力を駆逐する為、万里の長城まで攻め入ります(熱河作戦)。
天皇が熱河作戦を中止に動こうとすると、奈良侍従武官が「大いなる粉擾を惹起」と警告し阻止します。この為天皇は「熱河作戦は万里の長城を越えて侵入しない事を条件に許可」を出しますが・・・・関東軍は長城線を越えて作戦を開始し、天皇に叱責されると一度は兵を引きますが、すぐにまた無視して河北省へと侵入します。(当時の日本軍は「ならず者の集団」で統制された軍ではありません)
(今回はここまで)

昔陸軍・今安倍政権の暴走(2)

前回の続きです。ネトウヨ諸君は、引き続き(気分を害するので)下記は読まずにスルーして欲しい。
ネトウヨ諸君の(誹謗・中傷、言論封殺的な筋の通らぬ)カキコは無視するつもりなので・・・・了承を
私はもう20~30年間映画(TVの放送を除き)は見てないが、思い出したのは"セーラー服と機関銃"ならぬ"政府の言う事きかん獣"(←古いギャグ)が日本陸軍(関東軍)だった、と述べてきましたが・・・・・

(9)軍暴走の背景と貧困・不況が原因(?)
軍の暴走の背景には、軍事費の増大と経済不況という背景がありました。また、第一次大戦後の軍人の首切りもあって、農村には失職した軍人が溢れ、若手軍人は昇進できず不満が蔓延、その上、植民地となった朝鮮、満州、樺太には巨額の費用を投入(インフラ整備)の必要があり、財政が逼迫。
日露戦争後、日本の国家予算の30%が国債費で、30%が軍事費です。残りの40%で政権運営する状況では、誰が行ったとしても社会不安が出てくるのは当然です。(若手軍人が憂さ晴らしで満州で暴発か?)

(10)血盟団の犬養首相暗殺と天皇スゲカエ計画
1930年、軍内では桜会という急進グループが形成され、クーデター未遂事件(3月事件、10月事件)が発生します。さらに1931年「血盟団」が結成され、一人一殺の日本中枢部の暗殺が1932年から始まります。
1932年2月に井上準之助(前大蔵相)、同年3月に団琢磨(三井財閥総帥)、同年5月15日に犬養毅(首相)などが暗殺されます。犬養首相の暗殺は日本国が「満州国を承認するか否か」の重要な局面でした。
犬養首相は「30人程の青年将校を免官」(=満州事変後の軍暴走の責任)を天皇へ奏上する直前でした。
犬養首相暗殺時の陸相は荒木貞夫です。彼は血盟団首脳と関係があり、陸相時代には昭和天皇を退位させ、生後間もない皇太子を即位させる計画も持っていたとの事(=東京裁判での岡田啓介の証言)。

(11)暗殺に怯える議会とリットン報告書
1932年の「5.15事件」(首相暗殺)の後、議会は満場一致で「満州国を承認すべし」(6月14日)を可決します。(軍に反対すると血盟団に暗殺されると怯える)議会は、もう死んだも同然です。
日本軍の暴走を調査した国際連盟のリットン報告書は、①満州国を認めない、②日本軍の満鉄付属地への撤退を迫ります。(国際連盟で1931年10月24日、日本軍の完全撤退決議が13対1(=日本)で可決)。
1933年再び日中軍衝突、国際連盟の撤兵勧告(42対1)を拒否し日本は国際連盟を離脱(1933年3月)へ。

(12)軍内の権力闘争(皇道派vs統制派)と皇道派クーデター
皇道派は直接軍事行動も辞さないの立場、統制派は陸軍という組織で国家を牛耳っていく路線です。
軍エリートの統制派が優位となり、皇道派は不満をつのらせます。そして1936年2月26日、陸軍皇道派に影響を受けた青年将校らが兵を率い、クーデター事件(首相他を暗殺)を起こします(2.26事件です)。
2.26事件の背景には眞崎甚三郎大将がいます。反乱軍側は反乱中も北一輝と連絡を取っています。しかし、反乱は天皇に叱責され逆賊とされ失敗。青年将校の多くは死刑に処されます。
この事件以降、軍は皇道派の中の「対ソ派」は一掃され、「支那派、南方派」(対中・対米戦争辞さず)が国を引き回して行きます。

(13)西安事件(張学良の蒋介石逮捕)と国共合作
1927年蒋介石は南京に国民政府を樹立し、次第にその勢力を確立して中国を制覇します。蒋介石は日本軍との対立を避ける「先安内後攘外」(国内安定を優先し、その後で対外的危機にあたる)路線でしたので、蒋介石の敵は、日本軍よりもむしろ共産軍(毛沢東)でした。
しかし、蒋介石は西安制圧の時に計略に嵌り、張学良に逮捕・軟禁され「国共合作」(国民党と共産党が一致して日本軍と戦う)に変更されます。

(14)盧溝橋事件(茂川秀和少佐のヤラセ事件)
1937年7月7日の盧溝橋事件は、夜中の銃声一発から始まります。中国側は日本側の発砲であると主張し、日本側は中国側の挑戦だとし、これが契機となってその後の日華事変(日中戦争)に発展します。
北京ではすぐに日本と中国の交渉が行われ、事件の拡大を防止する申し合わせが成立しますが・・・
時の内閣は第1次近衛内閣で、7月9日(事件2日後)の閣議で「今次事件の原因は全く中国側の不法行為に基づく事・・・・・」との決定をしますが、銃声は日中どちらの銃撃か(?)は本当は不明の段階です。
しかし実は、日本軍の茂川秀和少佐のヤラセ事件(=親交がある共産系学生を使った)だった様です。(田中隆吉(開戦時陸軍兵務局長)は『裁かれる歴史』で、それを暴露(同書P.344)していますが省略)
また、開戦時陸軍軍務課長だった佐藤賢了は「大東亜戦争回顧録」で、「北支から嫌な噂が流れて来た。七夕に北支で第二の柳条湖事件が起こる」というのだ。・・・・・」(同書P.345)とも書いています。

(15)盧溝橋事件が日中戦争に拡大
盧溝橋事件後(7月11日)、現地では事件解決の協定が成立して、実施保留になりますが・・・・今度は日本政府と中国軍の一部が暴走します。中国の29軍部隊の一部は首脳部の命令を無視して撤退せず。
日本軍はこれに呼応していきり立ち、日本国内では出兵すれば中国はすぐ屈服するとの論が勢いを増し、日本政府は「暴支膺懲」(ぼうしようちょう=暴虐な支那を懲らしめよ)のスローガンを説き、軍出動を了承。
(石原莞爾らは、支那との全面戦争には「動員可能な兵力が不足」として反対しますが無視されます)
中国の方も強硬派が台頭し、蒋介石は『最後の関頭』に立つならば、全民族をあげて戦うと述べます。

(16)第二次上海事変が日中全面戦争に発展
上海でも日中両軍の緊張が続いています。1937年8月7日、陸戦隊(海軍の陸上戦闘部隊)大山勇夫中尉と斉藤與蔵水兵が自動車に乗っている所を中国の保安隊(3500名駐留)に一斉射撃を受け死亡します。
陸軍中央は、中国華北で手が一杯なので華中、華南まで手は伸ばせないと反対しますが、8月12日夜に首相官邸で、総理(近衛首相)、外務、陸相、海相の緊急会議が開かれ出兵の方針を決めます。
上海派遣軍の総司令官に任命の松井石根大将は、東京駅で「南京まで行く」と見送りの者に述べます。
8月17日、閣議では「不拡大方針を放棄し」「戦時体制上必要な準備を講ずる」とします。
現地に入った日本軍はどんどん戦線を拡大していきます。強硬派は南京が陥落すれば、蒋介石政権は崩壊し中国は降伏すると考えますが、蒋介石は首都を重慶に移し、兵力を温存し持久戦に持ち込みます。

(17)南京攻略戦と南京大虐殺
日本軍の南京攻略は、1937年12月1日、大本営は松井方面軍司令官に南京攻略(=注1)を命じます。
12月7日、蒋介石は南京を脱出(首都を重慶移転)します。12月10日、日本軍は南京に総攻撃をかけます。
『日本外交20日華事変(下)』の日高大使館参事官が南京の占領後に赴いた時の言では
中国軍の一部は、一時は頑強に抵抗したが、結局は逃げ出し、それに引きずられる様な恰好で日本軍は予想外に早く南京入城します。このとき城外はすっかり焼き払われ宿泊設備もない有様だった様です。
僅かに残ったドイツ人ら数名の外国在留民が外国人居住地区の中に設けた安全地帯に、二十数万の下層民が避難しているためであった(略)。そのような事が(略)日本軍をして無茶な事をやらせる所まで追い込んだものと思われる。問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたという事であろう。・・・・・そこで私(日高氏)は司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は、全世界の注目を浴びているからそのおつもりで・・・・」と暗に注意を促した。

(注1)第二次上海事変で日中全面衝突後、1937年8月15日に上海派遣軍を編成して派遣し、次いで第10軍を派遣した。11月7日に上級司令部中支那方面軍を編成。上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とした(これは11月19日に確保)。
しかし日本軍は制限区域を越えて侵入、松井方面軍司令官は中国軍の敗走を見て、南京攻略は極めて短時間に成功の見込みと報告(打電)、政府の決断を求めます。

(注2)元々、南京攻略で派遣された日本軍は、上海から南京までの約300kmを、食料は現地調達、捕虜は取らない方針(皆殺し=国際法違反)で、政府が決めた占領ライン無視(政府はライン突破を後に事後承認)し、各隊が南京一番乗りを競うありさまなので、日本軍の南京到着後の暴虐行為は当然かも(?)。
尚、南京市人口は、1937年3月(南京戦前)101万人→1937年11月頃(直前)市民40-50万人+軍人15万人→1937年12月(南京攻略戦)→1938年2月末(3ヶ月後)20万人→1938年10月末33万人とされます。
(今回はここまで)

Comment Form

管理者にだけ表示を許可する

Trackback


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。