スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2015年 宇宙人への旅立ち EP3 ファントムプーチン

さてさて、『2015年 宇宙人への旅立ち』シリーズもEP3を迎え、内容が更に難解になってきました。

ここから先は欧州の歴史をよく知らねば理解できない領域ですが、西洋史は授業で「世界史」を選択しなかったオイラにとては禁断の領域。西洋人などは鮮人以上に同じ顔に見えてしまうので、まして国名がコロコロ替わり、同じ名を持つ諸侯が登場する為に混乱し、名前と事跡を覚えること自体が大変ななのである(爆)。

今回洞察するのは以下の箇所です。
普通に読んだだけではチンプンカンプンです(滝汗)。

*******************************************
2)この様に女局攻勢を掛ける常套手段は
オラニエがヘッセン家に対して、
更にヘッセンがロマノフ家に介在した手法。
古くはミタンニがエジプト王朝に介在した歴史が存在する。

3)ヘッセン家は内紛でルター派とカルバン派に分裂し長らく争っていた事実がある。
オラニエが懐柔した方がロマノフ家を潰し、空中分解した。
ロマノフ王朝を実質支えていたタタル系貴族が
ブーチン系ロシア政権を後援していたとしたらどう思われるだろうか?

*******************************************

このモザイクの掛かったような表現がオイラの血継限界「マン毛狂写輪眼」の洞察眼をえらく刺激するのだす(爆)。

まずは一般的な基礎知識から、、、
(ほとんどがWikipediaだすが、、、)

■ルター派
ドイツ発祥。信仰の改革が主。万人司祭。余分な財産を蓄えることを禁止。主に農民層が支持。

■カルヴァン派
ツウィングリからフランス人のカルヴァンに引き継がれスイス国内で定着。礼拝様式や教会制度の改革が主。選挙等で選ばれた長老支配。キリスト原理主義で急進的だが長老の考え方により教義が異なる。貯金や労働を善とする。主に商人が支持。幸福主義を拒否し現世を神に仕える為の修道院と認識。オランダではゴイセン、フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)と呼び方が変わる。

ここで更にネーデルラント(ベネルクス3国=ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の歴史を掻い摘んで説明。

ネーデルラント

1)15世紀、ネーデルラントはブルゴーニュ公国の一部となるが、毛織物生産により経済的先進地となった。

2)1477年、ブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死。一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚。ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領化。

3)神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後ハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。

4)名門総督家系のナッサウ家はネーデルラントを含むライン左岸の領地とナッサウ家伝来のライン右岸の領地を兄弟でそれぞれ相続していたが、兄の子はそれに加え母方の叔父の南フランスのオランジュ公領を相続。しかし戦死すた為、弟側のオラニエ公ウィレム1世が相続し、オラニエ=ナッサウ家が興った。これが現在のオランダ王家。
※一旦はナポレオンに追い出されフランスの支配下にあったネーデルランドですが、ナポレオンのエルバ島脱出を機に開かれたウィーン会議(1815年)で、南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立。かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨した。

5)ネーデルラントではプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世は厳しい異端審問を実施してプロテスタントを弾圧。このためネーデルラント諸州は1568年、亡命中の有力貴族オラニエ公ウィレム1世(1533年 - 1584年)を先頭に祖国ネーデルラントに侵攻した。旧教から拒絶されたイングランド女王エリザベス一世とともに、南ドイツのバイエルンやスペイン=「イエズス会」の旧教体制に対する反乱は初めはスペインに対する単なるレジスタンス運動だったが、やがて独立戦争へと拡大。ユトレヒト同盟が結成され北部7州が加盟し、これが後のオランダとなった。
※イエズス会は1534年8月15日に創設

この戦いが八十年戦争(オランダ独立戦争 1568~1648年)です。

つまり、オレンジ(オラニエ)公ウィリアムはカルヴァン派の頭目の1人であったわけですが、元々はザクセン大公国フリードリッヒ三世、選帝伯ルードヴィッヒ五世、ヘッセン方伯フィリップらの「ドイツ騎士団」末裔がルターの起こした宗教改革の中心にいた。但し、ルターの保守的で妥協的な改革をよしとせず、徹底抗戦的なカルヴァンの登場を機にカルヴァン派に乗り換えて行き、オラニエ公ウィレム1世、エリザベス一世らを巻き込んでいったわけです。

その後、オラニエ公ウィレム3世は名誉革命(1688~1689年)のクーデターでジェームズ2世に勝ち、妻であるジェームズ2世の姉・メアリー2世と共同統治してイングランド王・スコットランド王・アイルランド王の地位を手に入れた。
※ここからグレート・ブリテン帝国が始まるが、アン女王の死でステュアート朝は終焉。その後、ハノーヴァー朝を経て、現在のウィンザー朝(サクス=コバーグ=ゴータ朝)に至る。

このオラニエ=ナッサウがフランスのヘッセンを女局攻撃で懐柔し同族化。これがヘッセン傘下のイエズス会とナッサウ傘下のプロテスタント=メーソンの敵対する2勢力を一元的に握るヘッセン=ナッサウ勢力の誕生です。

*******************************************
もともとヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(五五歳)は、国教グレイトブリテンのジョージ三世(三七歳)や旧教オーストリアの女帝マリアテレジア(五七歳)と協調し、ルター派とカルヴァン派を繋ぐ新教君主として、ハノーヴァーやプロシア、ザクセン=ヴァイマール、ヴュルテンブルク、バィエルンなどを統一し、ドイツに反動的な絶対王政の「千年王国」を建設することを妄想していました。
(玉川大学 純丘曜彰教授の講義資料「西欧近世文化史 第7章 メイソンリーの理想と現実」からの部分抜粋)

*******************************************

1777年、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世らはかつての騎士団を統合した結社「聖堂騎士団」を乗っ取り。「千年王国」の野望を抱いた。この流れが100年後、南軍将軍でメーソン33階級のアルバート・パイクの書簡(1871年)へと繋がっり、メーソンとイエズス会を駆使し世界を「正反合」で揺り動かしWW1、WW2という具体的な動きになった。

今はWW3直前という位置づけの時であるが、彼らが自ら定めた期間内に果たして間に合うのだろうか?

このヘッセン家からの枝分かれがマウントバッテン家。ヘッセン大公国を統治していたヘッセン=ダルムシュタット家のうち、弟アレクサンダー大公子がユリア・テレーザ・ハウケと貴賤結婚して生まれた長男ルイスがイギリスへ渡って家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世の王配フィリップですが、子のチャールズ皇太子以降からはマウントバッテン=ウィンザー家と呼ぶようになる。

■ロマノフ朝
1613年から1917年までロシアに君臨した最後の王朝。1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命(二月革命、十月革命)で滅亡。

最後の皇帝ニコライ2世の皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。夫婦の間にはオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子の1男4女がいた。

二月革命で臨時政府が出来た際、一家は監禁状態となったが1991年エカテリンブルクの森で両親と3人の大公女、2007年には弟アレクセイと歳の近い姉のマリアもしくはアナスタシアどちらか1人の大公女の遺骨も発見。皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。

ニコライ一家
(皇太子と4公女)

このアレクセイ皇太子の血友病を治して皇后から絶大な信頼を得たのが怪僧ラスプーチン

このラスプーチンと4公女の間の友情は深く、「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたに会いたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。」と手紙に記している。4公女はラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを常に首にかけていたという程に宮廷の女性にカリスマと崇められた。敵対する修道士がラスプーチンが皇后や4王女や侍女たちと関係を持っていた卑猥な僧であるというデマを流していたともいわれる。

で、ナニが33センチもあったと云われるが、、、、「33」、、、メーソンナンバーだすな(爆)。

rasputin_bigpenis2.jpg
(ラスプーチンのナニと云われるホルマリン漬けw 多分、異形のナマコだろう)

無類の女好きである点には誰しも異論はなかった。

ラスプーチン

ただ、宮廷におけるラスプーチンの影響力から危機を感じた宮廷貴族&官僚は、ラスプーチンの大好きなお菓子に青酸カリを混ぜて食べさせたがラスプーチンはビクともせず、その後、銃弾を4発受けても無事。焦った彼らは燭台で頭蓋骨が陥没するほど殴り付け、倒れたラスプーチンを絨毯で簀巻きにして氷の張ったネバ川に穴を開け、そこに放り込んで 暗殺した。ただ、ラスプーチンの死因は「溺死」であり、水面下でも生きていたということ。かようにラスプーチンは絶倫的な生命力の持ち主でもあった。

このラスプーチンが亡くなってスグに革命が起こりニコライ一家は監禁。一家は森で銃殺され埋められ伝統あるロマノフ王朝消滅した。実は、このロマノフ朝消滅のことがアルバートパイクの書簡に書かれている。

「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」

但し、書簡の現物を誰も見たことがなく、1871年に書かれたはずなのに「当時には存在しない名称・言葉があちこちに出てくる」ため100%「第二次大戦後に捏造された都市伝説的なものである」という意見もある。その通りだすな、、、元々、こういった計画が存在していて、それを予言風に述べ、マッチポンプ的に成就させてカリスマ性を高揚させるよう仕向けたもの。以上から、後年WW1、WW2,の発生した真の理由を述べながら、WW3に向けてのシナリオの開示だとオイラは見ている。

傭兵ビジネスで儲け欧州最大の資産家となったヘッセン家は欧州の多くの王朝に妃を送り込み欧州を裏支配し、互いに反目させ傭兵ビジネスを成立させていたが、フィリップ寛大王の頃から南北の2つ拠点に分かれいる。これは八十年戦争(1568~1648年)でスペイン側(カソリック=イエズス会=神聖ローマ帝国=ハプスブルグ家)に付くかどうで新教側(プロテスタント)と旧教側(カソリック)に分かれて付いたことによる。一見、宗教戦争と捉えられるが、本当のところは「親ハプスブルグ家」か「反ハプスブルグ家」かという区切りでの戦争であった。

この八十年戦争も1621年に一旦停戦するが、この独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込み戦域は拡大。これを三十年戦争(1618~1648年)と呼ぶ。三十年戦争末期に元々マールブルグ方伯領を巡る領土問題で揉めていた両家が再び揉め始め、ヘッセン戦争(1645~1648年)というヘッセン家同士の内戦が起きた。

■北部: ヘッセン=カッセル公(ヘッセン選帝侯国)・・・新教側

■南部: ヘッセン=ダルムシュタット公(ヘッセン大公国)・・・旧教側

ヘッセン家系図

確か、ロシア皇帝ニコライ二世の皇后・アリックス(通称)はヘッセン大公国の大公女でしたね。つまり、ロシア革命(1917年)でヘッセン選帝侯国側がヘッセン大公国側を打ち倒した格好になるわけですが、ロシア革命にはヘッセン家の代理戦争という面もあったのです。

これが名無し先生がいう「オラニエ(カルヴァン派)が懐柔した方(新教側=ヘッセン選帝侯国)がロマノフ家(ヘッセン大公国と親戚)を潰し、(ヘッセン家は)空中分解した。」ということ。ヘッセンもまた「正反合」で翻弄され弱体化していったが、その隙を突いて入ってきたのがオレンジ公ウィリアムを輩出したオラニエ=ナッサウ家。ヘッセン家同士の反目もオラニエ=ナッサウ家が仕掛けたといえる。

ヘッセン=カッセル方伯(在位:1670年 - 1730年)はマリア・ルイーゼらをもうけたが、このマリア・ルイーゼがオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾ妃。つまり、オラニエ=ナッサウ家(オランダ王家)がヘッセン選帝侯国側と姻戚関係を結び、同族化してヘッセン=ナッサウとなった。これが「正反合」の「合」となるわけです。

ここが現在のマスターマインドだと云われる。
※マスターマインド・・・二人以上の、統一した願望や目標を持った人間の集まりのことであり、また、それらの人々の間で行き交う、波長の合った思考のバイブレーションのこと。

一方、ヘッセン大公国のヘッセン=ダルムシュタット側から貴賎結婚してイギリスに渡ったのがマウントバッテン家でしたね。ヘッセン選帝侯家もヘッセン大公家も現在断絶しており、旧教側のマウントバッテン家とドイツからやって来た新教側のウィンザー家(サクス=コバーグ=ゴータ朝)の婚姻で出来たのがマウントバッテン=ウィンザー家。新教・旧教の融合、つまりメーソンとイエズス会の両刀使いでもあるが、「エッサイの根」でありイエス末裔を自称するフランク王国のメロヴィング朝末裔がヘッセン家でもある。

■蘭ヘッセン=ナッサウ家(ベアトリクス女王)・・・ヘッセン選帝侯国の流れ

■英ウィンザー=マウントバッテン家(チャールズ王太子)・・・ヘッセン大公国の流れ

という2つの流れがある。

初代ロスチャイルド(マイアー・アムシェル・ロートシルト)はヘッセン選帝侯(ヘッセン=カッセル方伯)家の御用商人の銀行家となり、今の栄華を極めたことはよく知られていますね。ヘッセン家の家臣のうち、金融担当がロスチャイルド、軍事担当がサヴォイ家、情報担当がタクシス家という構成。

今までの歴史の流れを見れば、この2つは反目となる筈なのだが、、、ただ、いづれも神聖ローマ帝国のハプスブルグ家を蹴落として君臨したドイツ貴族が出自という点では共通している。
※ヨーロッパの主な国でドイツから君主を迎えたことのない国はフランスなど数える程度しかない。これは国内派閥とは関係ない名門家系がドイツにごろごろ居たことから来る。つまりドイツは名門の宝庫だった。

ちなみに、ダイアナ妃は母(フランシス・シャンド・カイッド、ユダヤ人)とユダヤ名門で富豪ジェームズ・ゴールドスミスとの間の不倫の子であるとの指摘がある。ジェームズ・ゴールドスミスはロスチャイルド家と従兄弟であり、しかも古くからロスチャイルド家とゴールドスミス(ゴールドシュミット)家は婚姻関係を結んでいる。そして、ゴールドスミス疑惑のダイアナとチャールズ皇太子との間の息子であるウィリアム王子の夫人であるキャサリン妃(愛称ケイト)の母キャロル・エリザベスの旧姓がゴールドスミスとなっている。現英国王室は二重にユダヤ色が投影されている。
※ユダヤ人はユダヤの母から生まれた者。

実は、ラスプーチンはユダヤ人の銀行家ルービンシュタインを皇后にパトロンとして紹介していたのですが、ラスプーチンの後ろ盾のルービンシュタイン一族はロスチャイルド一族でもあったことから、ラスプーチンはヘッセン選帝侯側が放ったスパイだったとオイラは睨んでいる(ふふふふ)。

そして、現在のロシア大統領・プーチンのバックはドイツ銀行、ドレスナー銀行(現コメルツ銀行)であり、これらはいづれもロスチャイルド系の銀行。ロシアとドイツ、、、これはラスプーチンの頃と全く同じ構図なのです。

実際、プーチンの祖父の姓は「ラスプーチン」だった。祖父の代に改名。ただプーチンという名はロシアには多いというが、この関係には絶対何かある(ふふふふ)。
※プーチンはラスプーチンとは血縁関係がないと述べるが、祖父がラスプーチンの下で調理人として働いていたことは確かなことである。

さてさて、更に続いて「ロマノフ王朝を実質支えていたタタル系貴族=ブーチン系ロシア政権の後援者」という内容に踏み込んでいかねばならないが、チト洞察疲れしたので、、、

ここで音楽タイム!


(ボニーMの名曲『怪僧ラスプーチン』 後のジンギスカンに多大な影響を与えた)

次回につづく
スポンサーサイト

Comments

ヨーロッパの歴史は非常にややこしいのですが、神聖ローマ帝国、ハプスブルグドイツ貴族、選帝貴族、カトリック総主ローマ法王らはすべて(西ローマ帝国側に限定される領域) ローマ皇帝位は西ローマ、東ローマで二つあるので西ローマ限定したらそういう解釈も成り立ちますが、東ローマ帝国側の現存する正教会であるギリシャ正教会と同じロシア正教会の承認をうける皇帝位は東ローマ皇帝位を狙えることになります。

つまりイギリス=ドイツあたりの貴族の誰かが実質的なローマ皇帝位を狙ったとしても、東ローマ側にも皇帝位は眠っているわけですね。それが統一の一番の弊害になるローマ帝国自体の内紛状況になるでしょうね。

No title

◆貴種流離譚追放論
名門の隠し子「胤」を貴種と言う
これらを日本国から追放しなければ日本の明日はない!!
貴種流離譚を国外追放せよ!
これ以上の社会改良政策は不要である!!

【分類】
A:日本名門階級と日本名門階級との貴種
B.日本名門階級と中国名門階級との貴種(例:大倉喜三郎、主に親中派と極度な反中派)
C.日本名門階級と白人名門階級との貴種(例:白洲次郎、小沢一郎)
【特徴】
・名門の隠し子は名門より性格が劣悪であり一般人を侮蔑する(逆差別)
・『反日日本人』の正体である
・大学中退
・死刑囚凶悪犯罪者
・上位中流階級
【居場所】
貴種流離譚第一のごみ箱は「宗教」である
貴種流離譚第二のごみ箱は「軍隊」である
貴種流離譚第三のごみ箱は「企業」である
貴種流離譚第四のごみ箱は「労働者国家」である
貴種流離譚第五のごみ箱は「衆議院」である
貴種流離譚第六のごみ箱は「自由国(アメリカ、満州)である
貴種流離譚第六のごみ箱は「芸能界」である
貴種流離譚第七のごみ箱は「性産業」である

タタル貴族について洞察に加えて欲しい発想として書くのですがつまり西側(西ローマ帝国側)からしたらモンゴル帝国と東ローマ帝国が融合したようなロシア帝国からローマ皇帝がでたらアジア民族にもローマ皇帝ができる可能性がでるわけですね。それがもっとも嫌なのでしょう。

東ローマ側の範囲とは東ローマ帝国の国教となった正教会を信仰する範囲となります。ギリシャ、バルカン半島、ロシアですね。非カルケドンも含めると旧ローマ帝国時代にヨーロッパだったサハラ以北のアフリカ諸国も含まれますね。正教会が国教になって無いけど存在する国まで含めるとヨーロッパに隣接するイスラム諸国もプラスされます。それらが仮想東ローマ帝国くらいの範囲でしょう

仮想東ローマ帝国の範囲は一部イスラム諸国と重複していてロシアも含まれるわけです。つまり西ローマ側である西欧からしたら、これらの国々の正教会を恐れていて東ローマ皇帝位を恐れていてイスラム教を恐れるよりも身近にある恐怖ですね。西ローマ帝国位でローマ帝国として世界を統一したいなら

これらの事情を考慮すると東ローマからローマ皇帝位を出したくない。選択肢の一つは西ローマ側から婚姻で送り込み同化する。もしくは皇帝位の承認を与える正教会をカトリック総主権に同化する。西ローマ側からしたらロシア帝国に婚姻で入り込んだ西ローマ貴族も敵にみられる。

なぜ西側が東ローマ側をそんなに恐れるかというと、成立からして東ローマ皇帝位の方が上位なのです。もしくは正統性が高いのです。つまり今のロシアがそのポジションに一番近いですね。

No title

「みどりのカラス」に関係する用語
01緑龍会
02参議院緑風会
03政党緑の風
04みどりの日(昭和天皇生誕日)
05緑の書(カダフィー)
06みどりの窓口

左翼勢力=神別地祇族
国鉄労組の性格の悪い連中もこういう連中

No title

9月19日
1987年 - 昭和天皇が吐血。22日に開腹手術へ。
1988年 - 昭和天皇の容態が急変し深夜に大量吐血。以後、日本各地で「自粛」が相次ぐ。

二年連続同じ日に吐血

842 :可愛い奥様:2015/03/22(日) 18:07:17.50 ID:uqcNzQ3NChttp://blog.goo.ne.jp/adoi/e/6934eb2acb1b27be98f4ab6370af8eb9
☆戦後、米国の後ろ支えを得て、旧軍部と決別した(B)の昭和天皇ですが、
日本の経済成長と共に(A)が勢力を回復しはじめ、中曽根内閣誕生頃から、
本来宮中行事のサポート役であるべき(A)の裏天皇との対立が深刻化。
結果、毒殺されるに至ります。

前から不思議なのだが…

同じことばかり何度も何度も書く者は、脳にマイクロチップを埋め込まれて取り出すことは不可能だから… ずっとそうするしかないのか?

自動的に同じキーワードとかフレーズのような文章が、頭の中でエンドレスに流れて書く欲求が自発的なものだと錯覚させられているような感じかな。

ほら、普通は馬鹿の一つ覚えみたいなのは他人から軽蔑されたりしないか心配したり恥ずかしい気持ちがあるから、何だかんだ工夫して面白い表現をしたり、捻りの入った洞察で共感を誘って楽しむのが… 知的水準が一般的以上の人間のすることだから、どうもね不思議でしょうがないんだよ(@_@)

神話の神々と血統のスリカエ(2)

日本が白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗れ(663年)、進駐軍が日本に侵攻した事を述べました。そして、神代文字の使用が禁止され、漢字が使用される事で、歴史と血統がスリカエられたと述べました。
実は、斉(=出雲)の国の王建(大国主=オオクニヌシ)が、秦の始皇帝(=ニニギノミコト)に国譲りをした時、大国主は、「天照大神の子孫」で平和主義者、ニニギノミコトはアッシリア人で好戦的種族だった様です。
ニニギノミコトが好戦的種族の理由は、その後の焚書坑儒です。同族の子孫なら必要ない行為です。
これと同様の事が、唐が日本に進駐して占領した時にも起きたと思えます。

シャンティフーラの時事プログで「血筋の入れ替え」のアーカイブ(過去記事)を見れば、表題を列記しただで、以下の様になります。まるで、(Rコシミズ氏が言う様に)「S学会が同じ名前の他人の戸籍を乗っ取って
殺人→保険金詐欺を働いている」と言うのと同様の事が、日本の神社の血統を乗っ取る為に行われてきたのでしょうか。これをした存在は(多分?)好戦的種族のアッシリア人(アーリア人/アトランティス人)の末裔に
よるナリスマシで、本当の原日本人(=天照大神)の子孫ではない様に思われます。

(2014-12-27)ホツマの神の血筋である石上氏とイスラエル10支族のマナセ族にみる血筋の入替えの典型
(2014-12-29)籠神社の祭神がいつどのように入替えられたのか
(2014-12-31)天忍人命の子孫で熱田神宮大宮司家の尾張氏にみる血筋の入替え
(2014-12-31)高皇産霊命を祖とする宇佐神宮の宮司家系・到津氏における血筋の入替え
(2015-01-01)下賀茂神社の玉依姫と日ユ同祖論1:上賀茂神社に伝わる丹塗矢の伝承~祭神・宮司家系の入替えのなかで最大のもの
(2015-01-02)下賀茂神社の玉依姫と日ユ同祖論2:ホツマツタヱと下賀茂神社、二つの伝承の玉依姫は同一人物か?
(2015-01-03)下賀茂神社の玉依姫と日ユ同祖論3:賀茂建角身命の名を偽ってすり替わったヤタガラス命
(2015-01-07)3つの賀茂氏:賀茂建角身命を始祖とする天神系/大鴨積を始祖とする地祇系/ヤタガラスの翁の末裔で陰陽道の賀茂氏
(2015-01-09)吉備真備を祖とする誤りの原因と事実/レビ族の末裔である賀茂氏の血筋乗っ取り工作
(2015-01-14)修験者の開祖でレビ族の末裔である役小角における血筋の入替えと葛城一言主命の告発
(2015-02-03)吉備真備を八咫烏の創始者であり賀茂氏の祖とする説は誤り~地祇系の賀茂氏における血筋の入替え~
(2015-02-26)巧妙に下鴨社家に入り込んだ陰陽道賀茂氏の血筋~八咫烏の系譜における天神系の賀茂氏の系図~
(2015-03-25)山城国風土記逸文の賀茂氏伝承は明らかに誤り~賀茂建角身命とヤタガラスの翁を同一視したために起こる混乱~
(2015-03-26)天神系の賀茂氏に巧妙に入り込み、下鴨神社宮司の血筋を乗っ取った八咫烏の子孫
(2015-03-27)聖武天皇、吉備真備、安倍晴明らが意図的に作り出した混乱

「太古、日本の王は世界を治めた」(高橋良典著)のP.108-110より
紀元前の中国史を書き替えた"西から来た人"の正体は?
私(高橋良典)はその正体を追ってみた。その結果私が得た結論は、さきの『契丹古伝』に記された通りだった。『契丹古伝』が語るところを引用してみよう。
その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して海と陸の形はすっかり変わってしまった。この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆起)、南東部で引き
裂かれて沈没した(フィリピン海溝の形成)・・・・・。(注:(・・・)の方向矛盾するが原文のまま。ヒマラヤが北西で、フィリピン海溝が南東なら当時の中国は現在のミャンマーあたりと言う事になるのだが・・・・)

尭(ぎょう)・舜(しゅん)の時代に地球の全土は戦火に包まれ、禹(う)は洪水の後始末に追われた。ところが、この様な戦争と異変の混乱に乗じて、人身牛首の神を祀るもの、蛇身人首の鬼を祀るものが、西から東へ次々とやって来て、我らの地に住みついた。

前述したように、『契丹古伝』はここで、紀元前の中国大陸のもともとの主人公は今の中国人ではなかった、と述べている。現在では、漢民族が最初から中国五千年の歴史の主人公であったかの様に書かれているが、それは事実ではないらしい。紀元前の中国の歴史は、西から来た人々によって書き換えられてしまった。というのである。その先をもう少し見てみよう。

彼らは自らを我ら東大古族の神の子孫と偽ったばかりでなく,伏犠(ふっき)や神農(しんのう)、皇帝(こうてい)小昊(しょうこう)なる人物を、我らの王の祖先に仕立て上げ、その系図に自分達の祖先をつなげて、これら
偽りの神と王に対する崇拝を我らに強制して、自らを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。
ここに書いてある事は非常に重大である。私達日本人と契丹人は"東大古族"と言われていたが、西から侵入してきた人達が、自分達こそ東大古族の神の子孫であると偽り、系図や歴史まで自分達のものとしてでっちあげたと言うのである。さらに先がある。

けれども彼らは、自らの祖先と思っていた尭と舜とが、彼らの思惑に反して、東大古族の王であった事を果たして知っているのだろうか。西から中国の地に移住して帰化した人々が尭・舜の時ではなく、その後久しく続いた夏王朝の創始者たる禹の時以来である。彼らは禹を、あたかも中国人の王であり、中国大陸だけを治めた王であったかの様に記しているが、これはとんでもない間違いだ。

これらの事がもしも事実だとすると、これはゆゆしき事である。つまり、中国大陸の元々の主人公は、今の中国人の祖先ではなく、東大古族と言われていた日本人と契丹人の共通の祖先だったという事になるからだ。さらに『契丹古伝』はこう語る。

『史記』に記された禹は、大洪水を生きのびティルムンの楽園に住んだシュルッパクの王ウトナピシュティムを指している。彼の治めた地域は、息子ギルガメッシュが活躍したメソポタミヤのウルクだけでなく、全世界に及んでいたのである。我ら東大古族の王である禹は、中国だけの王ではなく世界全体の王であった事が、西族の伝承によっても確かめられるのである。

ここに「西族の伝承」と記されているのは、中国大陸に西から侵入したアッシリア人(漢人)が今のイラクあたりに残した粘土板文書に登場するシュメール伝説を指している。・・・・・・・(以下略)
そして、上記の中国(斉→秦と始皇帝の焚書坑儒)で起こったと同じ事が、日本でも起きた様である。
663年白村江での日本敗戦→中国軍の日本侵攻と漢字の強要(神代文字の使用禁止)である。この事は上記の同書(P.86-87に)神代文字を抹殺した恐るべき"黒い勢力"がある。
・・・・・(途中から)・・・・私(高橋良典氏)には、今のところ全てを正確に述べる事はできない。が、一つだけはっきりしている事は、その勢力が今から1370年ほど前の大化改新(645年)と白村江の戦い(663年)の時代に、日本海周辺のほぼ全域に台頭し、それまでの日本にあった固有の文字と文化、王家と有力氏族の記憶をほとんど消し去ってしまった、という点である。
私達はこれまでの教育の中で、日本は滅亡に瀕した、百済の請いを受けて唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、手痛い敗北を喫したあとは"連合軍"の侵攻を恐れて、都を近江に移したとしか教わっていない。
いわんやその戦いに敗れたときに、そのまま日本が唐の軍隊に占領された事、そして、この時代以降に作られた日本の都城や古墳の設計単位が、それまでの高麗尺(こまじゃく=唐によって滅ぼされた高句麗の尺度)から、唐尺(からじゃく)に全面的に改められた事などは一度も教わっていない。
従って、この時期に中国東北部と朝鮮半島、日本を占領した唐の軍隊が、この地域に伝わる固有の文字資料をことごとく抹殺し、漢字で書かれたもの以外は絶対に後世に伝えないようにした、などという事は考
えたことすらなかったはずである。

また、同書(P.87-91に)中国の日本占領"GHQ"は大宰府に置かれていた。
けれども、古代の日本が663年の白村江の戦いに敗れたあと、中国の占領支配を受けた事は『日本書紀』の天智天皇の条のなかにそれとなく記されている。すなわち、天智4年(665年)の記事では、この年、日本にやって来た唐の使節団の人数が254人であったのが、同8年と9年には2000人に膨れ上がっている。天智8年12月の条にはこうある。
・・・大唐(もろこし)、郭務悰(かくむそう)等2000余人を遣わして来らしむ・・・
敗戦後の日本へ2000人という大量の使者が続々とやって来たのは異常といわなければならない。この事は、唐の使者がただの使者ではなく、占領軍司令部の要員であった事を暗示しているのだ。・・・・(中略)
、いやそれ以上に、白村江敗戦後の日本は、全面的な漢字使用を強制されたのだ。天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し、「漢字使用令」を出した。こうした近江京の文化が漢字文化そのものであった事、そして、天智天皇と天武天皇に代表される勢力が672年の壬申の乱で激しい死闘を演じたことなどは、これまで、この時期の中国による日本占領支配との関わりの中で論じられた事はなかった。
・・・・・(以下略)

そして、同書(P.91-92に)"日本解体"を目にした天武天皇の憤慨。・・・・・(内容は省略)
この後、天智天皇(=中国唐の傀儡?)→天武天皇(=反唐・新羅系?)の戦いとなって、・・・・この後の天皇家は藤原家(中臣鎌足=百済の亡命王子・豊樟)の女性を次々送り込まれ百済系の傀儡となるが・・・・
つまり、大化の改心以降の日本の支配者達は、中国人(漢人/アーリア人)、朝鮮人(新羅、百済、高句麗)であり、本当の原日本人の子孫でない者達が、神々の子孫(天皇一族)と称し支配してきた様である。
明治以降は、上記の勢力に、田布施マフィアの血統が加わり、戦後はその上に米国戦争屋達が中国系・朝鮮系や、田布施のマフィア達を支配しているという構図でしょうか(?)

神社本庁・日本会議の面々は、自分達の先祖(=征服者)が敗者の先祖の神々を取った上に(自分達の神として)ナリスマシして奪った神々や神話、血統の様なので、これらの者達が処罰される時が来ていると申しておきましょう。とはいえ、彼らも早く目覚めて反省(血統や神々スリカエの白状)して欲しいものです。

Comment Form

管理者にだけ表示を許可する

Trackback


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。