伊勢と三川は鏡像関係

泉湧寺の「霊明殿」には,歴代天皇の位牌が安置されていますが、一番古い位牌は,天智天皇から始まるのに、それより後の天武天皇系(天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳))の位牌が何故か存在しないという。

実は、明治9年に当時の宮内省通達で京都府下の寺に分散されていた天皇の位牌を泉湧寺に合併させ、天皇を万世一系の現人神として崇めさせる為に泉湧寺に全員集合させた明治政府、とりわけ国家神道を推進する勢力の目論見だった。だが、何故か天武系は除外されている。

このことから天武系は天智系とは別系統の家系であることは容易に判る。まぁ、ぶっちゃけていうと天武天皇系は仏教など奉じておらず、位牌など最初から無いから、集めようにも集められなかったというのが真相でしょうね。

天武天皇系(上宮=扶余系初期大王族)が奉じていたのは道教

秦の始皇帝以来、扶余王家は道教は信仰する慣わしですが、道教=初期大王家、初期大王家=道教と考えて差し支えない。これが地祇系(新羅系)の傘下にいる「客家に見える漢人」である大本が大陸に道院(道教寺院)ネットワークを持つ紅卍会と繋がっている理由でもある。

秦陵地宫
(秦陵地宮に眠る始皇帝)

天武天皇の名である大海人(高向王と佐富の子・漢皇子)の大海は、天武天皇の殯(もがり)に凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が壬生(養育)のことを誄したことから、凡海氏(阿曇氏の同族)が幼少期に養育に関与したことに因んで名付けられたと推測されている。

また、天武天皇の和風(国風)諡号は「天渟中原瀛真人天皇」とのことですが、この「天渟」は天に留まる、「中原」は豊葦原瑞穂国中津国、「瀛」は東方三神山の一つ瀛州山、「真人」は優れた道士のことを指す道教用語であり、以上から「中津国の瀛洲山の麓に留まった道士」という意味になる。これは天武天皇が道教にズッポリ嵌っていたことの証左である。

更に、この「瀛」(えい)という文字は、秦の始皇帝(嬴政)のみならず、 「元和姓纂」という書物によると「徐は瀛姓、伯益の後(=末裔)」とあり、徐福も元来は瀛氏であった。そして、天武天皇の上宮(初期大王家)は扶余国~秦韓(新羅)~加羅国経由で来た金首露王(扶余依羅)を祖とする北イスラエル族の王族家系であり、始皇帝も輩出していることから天武天皇もまた瀛氏であったと云える。
※伯益・・・通称「益」。 堯、舜、禹の三代に仕えた賢臣。 禹のもとで宰相を務め、やがて禹から禅譲によって帝位を継いだ。

「瀛」は大海の意味を持つ字であり、大海人や凡海(おおうみ)氏と被る。また「東瀛」とは東方の海、東海、転じて日本のことを指す言葉であるが、語り部説に従いオイラが東海三神山と睨む鳳来寺山・本宮山・石巻山のある三川には大海、東栄町という地名がある。それだけでなく蓬莱山の麓の「湯谷」という地名も一致している。

始皇帝の祖は、紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の蓄殖で功績を挙げ「贏」の姓を賜り秦の地が与えられ、贏氏の祭祀を嗣いで号は秦贏とされたところにまで遡る。その後、改めて秦号が与えられ、その土地は秦と呼ばれるようになった。これが「秦」の始まりですが、賜った「贏」には「勝ち得る」転じて「得る、余る」という意味があるという。

更に時代は下り、紀元前247年に13歳でが即位し、呂不韋が相国となって実質的な権力を握ったが、この呂不韋がペルシャ系の北イスラエル族で政の本当の父親ではなかったかと言われている。

この「贏」という字は非常に難しい字ですが、勝つためには「危機意識」「意思疎通」「平常心」「金銭」「時間」の5つの要件が必要であるということからこの字は作られており、転じて「勝ち得る」転じて「得る、余る」という意味になっているわけです。

勝つ為の要件

この字にサンズイを付け、下中央の「貝(金銭)」が「女」に替わったのが「瀛」であり、「贏」も「瀛」もほぼ同じ意味を示す。この文字から始皇帝も徐福も最初から海の向こうの道教聖地(日本)を掌中に収めようと中国大陸に移動してきたのではないかと睨んでいる。

さらに、「瀛」や「贏」は簡略化してしまうと「凡」であり、凡海(おおうみ)氏の「凡」と重なる。

以上のように天武は一切仏教に傾倒してはいなかった。これが京都仏閣に天武天皇系の位牌が祀られおらず、泉涌寺に集合させられなかった本当の理由。

この瀛氏の「瀛」は瀛洲山の「瀛」でもあり、瀛洲山は石巻山のことであることは、過去、この煩フルで何度も述べていますね。この山を目指し、始皇帝の蜜命を帯びて徐福は大陸から遥々やってきた。

東三河(三川)は鈴木姓が日本で一番集中する地域ですが、これは熊野本宮社家で「州浜紋」を持ちヤタガラスである鈴木氏末裔というわけではなく、単に熊野信仰をしていた人にも与えられた苗字である。この鈴木の謂れは本殿が完成するまで木の枝に鈴を掛け、これを御神体として崇めさせたことに由来し、本殿完成後はその鈴は本殿軒先に掲げられた。これが現在の神社の軒先の鈴の発祥でもあるが、もっと遡れば、祭りの日に地面から掘り出して鈴の音を響かせる銅鐸神事に由来する行事だとオイラは睨んでいる。

この銅鐸神事を持ち込んだのが徐福

このように三川は熊野神社が多く存在し熊野信仰のメッカであったが、熊野大社→熊野本宮と勧請された主祭神はスサノオであり、これは新羅経由で出雲に渡来してきた製鉄部族の者たちであり、徐福そのものあるいは徐福と同族であったとされている。このことから徐福本隊が移り住んだ三川の東海三神山(鳳来寺・本宮・石巻)が修験道の修行聖地として崇められたことは容易に想像が付く。そして、かつて石巻山では法螺貝が吹かれていたという。

そういえば、最近、豊橋にほら貝ショップがオープンしましたね。石巻山でほら貝を吹く会を主催する方の実店舗ですが、非常にユニークな存在です。日本中どこにも無いんじゃないでしょうか。今までネット通販して500個販売したといい、かなりの数が海外からの注文だったという。修験道が意外と外人に人気というのが驚きです。

hora2.jpg

■ほら貝ショップ「穂の国」
http://honokuni8.ocnk.net/
(オイラは石巻山はコマネチ神業の場としているが、法螺貝も吹いてみたいだすな。)

この石巻山周辺には「御所」という地名が13箇所あるのですが、ここが南朝が正福の2系統に分かれたうちの正が置かれ場所なのだという。吉野となっているが、それは敵を欺く為の誤情報であり、本当は三川であったとのこと。また石巻山の南山というところには妙本稜社という南朝天皇家の御陵と云われる小さな社あるのですが、その地下には歴史を覆すほどの神宝が埋蔵されているという。

南朝・後醍醐天皇が光明天皇側に渡した三種の神器は「偽物だよ~ん」と云い放った件があるが、後醍醐帝は本物を持って吉野に逃亡したと称している。この場合、吉野は三川と読み替えねばならないので、三川が正統南朝の所在地なら地下に埋められた宝物とは本物の剣璽(剣と勾玉)であろう。本物があるからこそ「正統」となるのですからね(ふふふふ)。

だが、この正統南朝も北朝派の足利氏に滅ぼされてしまった。

この話が本当なのか、それとも法螺話なのか、実際に掘ってみたい衝動に駆られますが、面倒なのでオイラはパスだす(爆)。しかし、本当にこの地下に本物の剣璽(剣と勾玉)が埋められていたら、今までの天皇は全て偽物となってしまう。確かに歴史を覆す程のインパクトはある。

一般的な南北朝の系図は下記ですが、長慶天皇は大正期に実在認定され加えられた。

系図

この系図でおかしいのは「小松天皇」がないのに「後小松天皇」がある点。必ず先帝に小松天皇がいないと為らない筈なのにそうなっていない。何かが抜け落ちているのは明白。

一方、正統南朝に伝わる系図では小松天皇は実在している。更に、松良天皇、大宝天皇、天基天皇、中興天皇...等の知られていない天皇までが記されている。

南朝

今、神道界は伊勢出雲同時遷宮から始まり、出雲国造家(千家)と天孫系の天皇宮家の婚姻へと至り、草薙剣の伊雑宮への神器移管で三種神器を伊勢に全て集めて伊勢三宮化、その後の救世主である天照大神(再臨のイエス)降誕と千年王国(NWO)への道を睨んで突き進んでいますが、、、

「そうはイカンザキ!」

と待ったを掛ける展開になるかどうかの鍵を握るのは、九尾妖狐=ダキニ天(豊川明神)=魔多羅神=再臨のイエスを配し、本物の剣璽(剣と勾玉)が隠された道教聖地で神仙の地・三川であることは間違いない(爆)。

平家が逃げる際は西に逃げ、源氏は東に逃げ、逃げるうちに段々と勢力が増強されていることから、オイラは西日本が天孫系(百済系)の拠点、東日本が地祇系(新羅系)の拠点だったと考えている。しかし、何故、天孫系の明治政府は江戸に持ってきたのか不思議に思っていたが、これは大極図の「陰中の陽」「陽中の陰」であり、日本列島そのものが大極図構造としたのだと睨んでいる。

日本分断01
(この分断ラインは50Hz/60Hzライン)

この大極図構造とは、実はトーラス構造であり、その特異点が大元。この特異点を伊勢に集約化させる為に、8世紀に籠神社から豊受大神やマナ壷を外宮に遷座し、今は熱田神宮から草薙剣を伊雑宮に遷座する段階なのだろう。

これは1000年以上の長い年月を掛けて進められた計画でもあるが、A鳥A雄氏にヤタガラスが語った内容に拠れば、これを持って伊勢三宮と為し、天照大神(再臨のイエス?)が降臨すると伊勢神宮の役目が終わるとされている。

トーラス構造
(トーラス構造)

大元とは日本の特異点であり、それは伊勢だった。

そして、その特異点の反対側が三川なのである。伊勢と三川は中央構造線で繋がったブラックホールとホワイトホールのような関係なのです。これがオイラが昔から言っている「三川から地下の中央構造線を伝わり伊勢に行く霊的エネルギーの逆流で、近畿に形成された逆五芒星結界を崩す」、、、これが石巻山でするコマネチ神業の奥義なのだと、、、、(爆)。

ホワイトホール

伊勢と三川は鏡像反転の関係にある。
だから「吉野」と記された場合、「三川」と読み替える必要があるのです。

この鏡像反転はカバラ奥義の1つでもある(ほほほほ)。

内宮、外宮、伊雑宮の伊勢三宮は各々が鳳来寺山、本宮山、石巻山に東海三神山に対応するとオイラは睨んでいる。そして伊勢神宮の奥の院と呼ばれる朝熊岳金剛證寺にある明星堂は、名無し先生が「ダビデの祭壇」の儀式が行っている場所でもある。創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれ、実は内宮や外宮よりも創建が古い。この明星堂の具現として内宮が設置されたとオイラは見ている。
※内宮創建は3世紀後半と言われるが、伊勢神宮の遷宮を決めた天武天皇は斎宮は作ったが、神宮参拝をしていない。また、神宮遷宮を行った時の天皇である持統天皇も内宮参拝していない。実際に文献に登場するは文武天皇の頃で、7世紀末頃だろうが、その後の歴代天皇は一切神宮に参拝していない。初めて参拝した天皇は明治天皇だった。

明星堂

明星太子

ここは伊勢神宮の鬼門を守る寺であることから「神宮の奥之院」と呼ばれるが、実際には神宮の東北にはなく真東である(爆)。また、狛犬に替わって牛と寅(ウシトラ)が守護しており明星堂内では明星太子を祀っている。この神は「明星太子=金星=ルシファー=ダビデ末裔=再臨のイエス=金神(スの神)」である。

丑寅01

この明星堂の東北(丑寅)の方角には豊川稲荷があり、豊川稲荷(豊川明神)は「九尾妖狐=平八狐=ジャッカル=ダキニ天=魔多羅神=再臨のイエス=金神」を祀っている。多分、ここからの影響から神宮を守護しているのだろう。

あるいは、豊川稲荷(ダキニ天)自体が明星太子として表される者なのもしれない(爆)。
オイラはこの説を主張している。

■内宮 ←→ 蓬莱山(鳳来寺山)
■外宮 ←→ 方丈山(本宮山) ※共に「天の岩戸」がある
■伊雑宮 ←→ 瀛洲山(石巻山) ※共に隠された神宝がある
■奥の院・明星堂(金神) ←→ 豊川稲荷(九尾妖狐)


神島
(凸状の伊勢が「陽」 、凹状の三川が「陰」)

その特異点中の特異点は、、中間に位置する神島だろう。

gata-l.jpg
(神島ゲーター祭)

神島は三島由紀夫の『潮騒』の舞台になった島だが、かつて伊雑宮磯部神人が「伊勢三宮説」を唱え流刑された地でもある。ここでは太陽信仰の毎年1月1日にゲーター祭があり、「天に二つの日輪なく、地に二皇あるときは世に災いを招く、若し日輪二つあるときは、神に誓って偽りの日輪は是の如く突き落とす」という謎の祭り。中国に「昔太陽が10個あり、昇る順序が狂って暑くなりすぎたので弓の名人・羿(ゲイ)が射落とした」との神話があり、これが「ゲーター(羿打)」となったともいうがハッキリとしない。伊勢と神島が作るレイラインが何か象徴していそうです。

また、10個の太陽が宿る「扶桑樹=生命の木」とも関連がありそうです。岩戸開きで真の天照大神が登場時に古い贋天照大神を落とす役目が神島の神人末裔に課せられているのかもしれませんね。
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伊勢の周囲には忍者多いですよね。伊賀、甲賀はメジャーですが紀伊の忍者が鈴木姓です。紀伊の忍者も2つあります根来、雑賀。忍者とは漫画のイメージとは違って傭兵集団というくらいの意味です。古代には伊勢の周囲を忍者に守らせたのでしょうかね?

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