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徐福とスサノオ

オイラが徐福フェチであり、またスサノオフェチなのは今までの記事で公開した通り(爆)。

ただ語り部の語る歴史は、出雲神族末裔の富氏の秘密伝承や名無し先生の話と一致しない部分も多々あり、また東三川において徐福関連遺跡が全然出てこない点で怪しい雲行き状態ではある。なので今回、少し語り部説から離れて洞察していこうと思う。

特に一致しない箇所は出雲に関してですね。

出雲王朝の成り立ちや王がどうもアンマッチなのです。特に出雲で一子相伝された富氏の内容はその性質上、看過出来ないものであり、この辺をすっきりしないことには、、、、オイラの洞察内容に翳りが出る。

当然、カラス自らの言説に基づく内容なのですが、名無し先生によると日本への渡来人の血筋勢力は大きく分けて3つあるという。この血筋を基とし国家を跨いだ形でアジアを利権区分化したのが【天神系・地祇系・天孫系】の3つの区分。それぞれの勢力にはトップがいて、それが日本の3人の天皇というわけです。

これにオイラの今までの洞察内容を加えたのが下記です。

【天神系】 第1陣
大陸の地殻変動により現在とは陸地の状態が大分異なり、バルト海沿岸を出自としアラスカ周りで日本列島に入った、1万年の時を超える朝廷で現在443代目。日本列島到着第一陣は、現在の中国、ロシア方面を産地とする黒曜石を矢じりの材料として日本に持ち込み、青森の十三湊を拠点として日本全国に交易。縄文時代の武器の元締めで、仙台辺りに都を築いていた。紀元前2500年ごろスウェーデン南部からはるばる海路で日本の東北へ来た部族があり、その後BC1000年ごろ九州へ上陸した部族がいた。聖書に突然登場する「海の民」がこれらの動きの一つで、ヤペテ系に相当する流れ。地中海方面に向かいサルディーニャを中継基地にしていた「海の民」はここから世界中を航海。そして第2,3陣の祖にもなっている。
※「海の民」とはヴァイキング(デーン人)、客家(ペリシテ人)、フェニキア人、エトルリア人...等の三国間貿易商人の集合体。
※ドルイド神官団を輩出したのは「蛇神アトゥム(ラー)」を祀るエドム人とエラム人(シュシャン人)。


構成主体: 三菱閥???
天皇: 玉置神社の奥の院
バック: ヘッセン=ナッサウ勢力(マウントバッテン、サヴォイ...等の欧州貴族)


【地祇系】 第2陣
北イスラエル族はシルクロード、朝鮮半島を経て日本列島に到着し出雲に都を作った。 広義には天神系の流れからの分かれで紀元前数千年頃にまとまり、別ルートで日本に辿りついたオロチョン、ウィルタ(オロッコ) 、ナナイ、エヴェンキ、シボ...等のツングース系狩猟民族も含む。
※北イスラエル族はサルゴン2世により北王国滅亡しアッシリア捕囚(BC722年)。捕囚後、許されてBC7世紀のアッシリアを出た。

文化伝達手段: 神楽(→猿楽→能→歌舞伎)
構成主体: 北朝(藤原北家・新羅・源氏)、旧帝国陸軍、皇道派、近衛閥、サンカ、エタ、ヒニン、卍党(大本...等)、寺院仏閣、テレビ東京
天皇: サンカの大元様(スイス在住)
バック: イエズス会、香港資本


【天孫系】 第3陣
紀元1世紀にローマを出た南イスラエル海洋族は稲作と天孫降臨伝説を日本列島にもたらした。ダビデの父エッサイ(イエス・キリストの両親の祖先にあたる)からの流れ。
※ファリサイ派・・・反ローマ、サドカイ(サドク)派・・・親ローマ(ローマに順応している裕福な上級階級が主体)
※ネブカドネザル王によりバビロン捕囚(BC586年)され、その後のユダヤ戦争(AC66~74年)で負け南ユダ国はローマ帝国の属国化。70年にはエルサレム神殿は完全破壊。神殿が無くなり依り処を失った神殿派レビ族は霧散し、ローマ帝国中枢部に入り込んだ。レビ族内でもアロン直系末裔のサドカイ(サドク)派とダビデを敬うイズハル末裔のサムエル派には深い確執がある。
※「エッサイの根」はエッセネ派。イエスの母マリアは、エッセネ派の祭司の娘。父ヨセフはエッセネ派のナガー(アラム語の学者)。エッセネ派は大祭司を世襲していたザドク家の精神を受け継ぐ宗教的エリート集団。ハスモン朝がザドク家出身者以外の者を大祭司に任命した事に抗議して死海北西部砂漠の丘陵地帯・クムランに隠凄した集団。エッセネ派はユダヤ教の一派とされているが、死海文書から見えてくる教義は、天上の主・メルキゼデブ(マイトレーヤ)が、世界最終戦争で悪と戦うというものでミトラ教そのものに近い。


文化伝達手段: 浄瑠璃(→文楽)
構成主体: 南朝(藤原式家・百済・平氏)、旧帝国海軍、統制派、九条閥、国家神道
天皇: 今上天皇(明仁)
バック: メーソン、英国資本


過去記事でオイラは「地祇系」をローマ~新羅経由と何度か書いてしまっていたが、これは新羅の遺跡がローマ文化が入っていることから深く思い込んでしまっていた為。これは間違いでした。正しくはローマ発は「天孫系」でした(汗)。

海の民=フェニキュア人であり、彼らは祖を同じくするユダヤ系。古くはハム系のペリシテ人も含まれる。このフェニキア人はカルタゴで文明を作っている。ポエニ人とはフェニキュア人を指すローマ人の言葉であるが、初期の王制ローマ(紀元前753年 - 紀元前509年)の王7人のうち最後の3人の王は異民族のエトルリア人であったとされ、「海の民」はエトルリア(イタリア半島中部の都市国家群)に向かった者とサルディーニャに残った者に分かれたことから、エトルリア人とは元々は「海の民」であった。

サルディニーア島
(サルディーニャ島 テンプル騎士団と同じマーク!)

このエトルリア人の異民族支配を駆逐し建てたのが共和制ローマ(紀元前509年 - 紀元前27年)。

これはラテン人による反逆ですが、共和制というものの実際は貴族(パトリキ)からなる元老院が政治独占した寡頭支配国家。

兵装自弁した自由農民からなる重装歩兵が当時のローマ軍の主力でしたが、彼らは自前で資金を賄い戦争に参加。これがローマ市民権を得る為であり、またローマ市民の責務であった。戦勝を重ね領土拡大し帝国が強勢化するにつれ、彼らプレブス(平民)の発言力は次第に高まっていった。当時、政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求し始め貴族は徐々に平民に譲歩。平民の権利を擁護する「護民官」を設置し、十二表法で慣習法を明文化。さらに、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法によって、トリブス民会の決定が元老院の承認を得ずにローマ国法になることが定められる事態にまで至った。

しかし、3次に渡るポエニ戦争(紀元前264年から紀元前241年)で戦争が長引き、働き手がなかなか帰ってこない農家は農地荒廃し収入激減。さらに戦勝によって新たに加わった属国からの輸入品で農作物価格は暴落。これらのことから没落して農地を手放す農家が続出。その土地を貴族が買い取って属国から買い取った奴隷を使役し大農場経営(ラティフンディウム)するようになっていった。

平民の台頭を極度に嫌うのが貴族(真の支配階級)
※王族は貴族の神輿、王冠に過ぎない。

つまり、ポエニ戦争とは平民の富や発言権を簒奪し地位安定を図った貴族がカルタゴ支配層と組んだデキレースなのかもしれない。その後に起きたユダヤ戦争も同様か? まぁ、裏で糸を引いている者がいると睨む。そして、今、こういうことが日本でも起きようとしている?

国際商業国家カルタゴの戦力は傭兵が基本。第三次ポエニ戦争で「マゴ家」(バルカ一族)をはじめとする国際商業金融家たちは厖大な資産を伴ってイベリア半島へ脱出し、多くの都市国家を建設。その最大の1つがバルセロナですが、元々はハンニバル(バールの栄光)の父・ハミルカル・バルカが建設した都市でもある。彼らの拠点都市国家「ヴェネチア共和国」からローマ帝国内に入り込み、次第にローマ帝国を内部から経済的に侵食していった。ローマ帝国版図は「海の民」の通商領域に沿岸国家を合わせた強大なものとなっている。

ローマ帝国とは古代のNWOだった。
※ヴェネチア・カーニバルはカルタゴ同様の仮面文化。「300人委員会」もカルタゴ起源。それ以外にも両国家は経済形態が共通で政体も類似している。

黙示録では預言者(レビ族)がユダヤ滅亡を声高に語っていますが、これは預言が当たったというよりも、ローマを操ってユダヤ王国を滅ぼさせる計画を言っているだけのこと。同様な通商国家であるユダ国という古い殻を壊しているだけであり、ローマ帝国という新しい法人に取り込むためのもの。預言自体がマッチポンプだったわけです。預言(予言)には必ず裏がある(ふふふふ)。

さてさて、3つの渡来勢力の話に戻るが、ここで特筆すべき内容は下線部の「地祇系(北イスラエル族)が出雲に都を作った」という箇所。

確かに出雲には大量の銅矛・銅鐸を出土した加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、巨大な3本柱を束ねた出雲大社の中古時代の柱跡もあり、ここに強大な王権が存在したことは確かなことです。

それ以外にも出雲にはヒトデのような特異な形状を持ち、当時の最高技術を駆使して造成された「四隅突出型墳丘墓」があり、ここからガラス製の勾玉や腕輪などの副葬品、鮮やかな朱..等が出土しているように何らかの渡来勢力の痕跡が認められる。特に.岐阜県本巣市の船来山古墳群と同じく初期大王家(北イスラエル族)の香りがプンプンするのです。

yayoimori120(900x675).jpg
(四隅突出型墳丘墓 「出雲弥生の森博物館」のジオラマ。諏訪の御柱祭の原点がここにある。)

出雲王
(出雲王?、、、、額に角がある貴人)

しかも、これらは2100~1900年前(紀元前1世紀~紀元2世紀)と卑弥呼の時代(3世紀)より以前のもの。確かに名無し先生の言われるように、出雲には北イスラエル族が都を作った痕跡が色濃く残っていますね。
※出雲系の縄文人は古墳を作らない

この古墳形状は異様だ。
前方後円墳がユダヤ三種の神器「マナの壷」を模ったものならば、これもまた何かを模ったものだろう。
※実際にはマナ壷はマナセ族のものであり、その他も全て北イスラエル王国の所有物。

マナ壷
(マナの壷)

そ、そうか、、、これは契約の祭壇だ!

nisitani-40.jpg
(四隅突出型墳丘墓)

旧約聖書「出エジプト記」の27章(新共同訳)にはこうある。

*****************************************
27:01 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとする。
27:02 祭壇の四隅にそれぞれ角を作り、祭壇から生えているように作り、全体を青銅で覆う。
27:03 灰を取る壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具はすべて青銅で作る。
27:04 祭壇の下部には青銅の網目作りの格子を付ける。その網の四隅に青銅の環四個を取り付ける。
27:05 網目格子は祭壇の半ばの高さにある、張り出した棚の下の部分に付ける。
27:06 祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒を作り、それを青銅で覆う。
27:07 この棒を環に差し込み、祭壇を運ぶとき、その両側に棒があるように整えておく。
27:08 祭壇は板で造り、中を空洞にする。山であなたに示されたとおりに造りなさい。

*****************************************

下線部の「祭壇の角から生えたような形状」が四隅突出型墳丘墓なのです。

また「縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマ」から5:5:3の比率であることが分かり、「祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒」があることから可搬性祭壇であることも分かる。以上から出雲に渡ってきた者たちは、聖書の民であるイスラエル人のうち北王国【地祇系】の者たちが祭壇を携えて来たことが分かる。このように日本列島へは契約の箱(聖櫃アーク)を安置する祭壇、マナ壷....等の神器がゾクゾクと運ばれてきたのだろう。

一方、富氏が語る内容では龍蛇族(出雲神族)は、、、

紀元前2000年(約4000年前)の出来事として、「この世が一夜にして氷の山になった。大先祖であるクナトノ神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。これは、今から4000年も前のことである。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」とある。さらに富氏は「東北の山や湖に関する伝承が多いことから、ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろう。」ともいう。

この辺は名無し先生の内容とも一致。

実際、雲伯方言は中国方言に囲まれる形で存在しているが、雲伯方言は東北方言と共通する特徴(ズーズー弁、裏日本式発音)であり、それが飛地状に分布している。こでは彼らが東北出自であることの証左でもあるが、この裏日本地域に押し込められたともいえる。

雲伯方言

出雲神族は高貴な人は風葬で弔い、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。3年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋め、木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座となった。また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を願い宍道湖に沈める「水蔡」だったという。

トルニャン風葬
(バリ島のトルニャン村の風葬)

BC2500年頃に朝鮮半島を経由して帰還した出雲神族が大和族に滅ぼされる前に祀っていた神は久郡戸(クナト)大神であり、これは伊弉諾、伊弉美大神の長男であって出雲王朝の始祖でもあるという。現在では出雲井神社に祀られているが、出雲井神社は出雲大社の東の宇伽山(ウガヤマ)の麓にある。

ウガとは「蛇」のことであり、稲荷神の宇迦之御魂神のウガでもあり、文字通り宇迦之御魂神とは「蛇の御魂」。また、大神神社も主祭神の大物主大神は蛇神。更に、伊勢斎宮に夜な夜な訪れ斉王と交った伊勢神宮の祭神も蛇神だと言われるが、これらも全て同じ蛇神なのだろう。実際、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌には、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。いわくら(磐座・言わくら)や」の言葉があり、三輪は伊勢神宮の元であることが伺える。
※血統補完システムである「斉宮」に訪れた男神とは、伊勢神宮に入った皇族のことでしょうね(笑)。

その他、富氏極秘家伝の内容を列挙すると、、、、
※現在、富家は消滅し花田家に一子相伝は継承されたが、花田家も消滅し、今は春日家が継承中。出雲にはこういった日本の歴史を解く家柄が点在している。

スサノオは出雲神族から遅れて朝鮮半島から砂鉄を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により混合。

■スサノオは須佐地方の一首長に過ぎず、オオクニヌシとは血縁は無い。渡来人でありオオクニヌシと敵対関係にあったが、記紀の作者が出雲親族と結びつける手段としてスサノオをオオクニヌシの父、又は祖神としたため両者の戦いをヤマタ大蛇退治の形で描いた。

■スサノオはオオカラ国(任那加羅)の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアラシチカンキ。
ソナカシチ=牛のように角の出ている貴人(朝鮮語で、ソ=牛 ナカ=出て来る シチは尊称)
ツヌガアラシト=角がある人
ウシキアリ=額に角があること
「韓国史」の中で韓国の学者は、弁韓及び辰韓人たちが、かぶった冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ。と述べている。垂仁天皇の条には「御間城(みまき:垂仁)天皇の世に額に角がある人が船に乗って越国(福井県)
の笥飯:けひ(気比)浦にやってきた。そこで、この地を角館(つぬが:敦賀)と言う」とある。

■神話の「国譲り」の場として有名な稲佐浜で天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命が、この砂浜にホコを突き立て「否(いな)、然(さ)」と迫った。私の先祖は、侵略者の目の前で抗議の自殺をした。コトシロヌシは天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。の時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。

■出雲族は大和族神武に敗れる前には当時の日本で出雲帝国と思われるほど近畿(伊勢を含む)、北九州、山陰、北陸(越)などを支配しており、鍛冶や製鉄技術を持つ集団で、武器(剣)の生産量が一番だった。

■大和や紀伊は出雲の分国」出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していた。

■富家、神門臣家の2家が土着の出雲族

■出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。

■オオクニヌシはオオナムチ・ウツクシタマ・アシハラシコオ・ヤチホコ・オオモノヌシ・など多くの名前を持つ。オオクニヌシは代名詞で十七代に渡り何人もいた。上記の名前も実名ではない。クナトノ大神も五十代。オオクニヌシが「大黒様」、コトシロヌシが「えびす様」になったのは平安末期のことで、出雲は平田市鰐淵寺が一時、大社を領有し本地垂迹説から七福神の一人として仕立てあげた。

■藤原氏は帰化人。氏素姓を高める為にどうしても天つ神の系譜が欲しかった。最初は天ノコヤネノ命を祖神とし、次にタケミカヅチを担ぎだした。大社社家(千家氏)は祖神のコヤネから40代を藤原氏に奪われたが、その権力に抵抗できず(黙認?)。ミカヅチは作り出された神であり記紀に載せられた。

サンカは出雲神族の諜報機関だった。

■タケミナカタは北陸路を北に向かい越後に入り、姫川を上って千国街道(別名糸魚川街道、松本街道とも)から信濃に入った。諏訪の先住民である守屋一族は出雲族の侵略だといっている。「諏訪大明神絵詞」では守屋(洩矢)氏とタケミナカタとの戦いの様子を語っており結果はタケミナカタの勝ちであったが、タケミナカタ系は大祝(おおはふり)という象徴的な地位に祭りあげられて諏訪神社の祭祀の実権は守屋氏が握っていた。



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なかなか重大な内容ばかりです。

斎木雲州(谷戸貞彦日大教授)が出雲や丹後などの旧家に直接出向いて聞いてきた伝承をもとに書いた本である『出雲と大和のあけぼの』にも、富氏家伝が掲載されており、そこには、、、、

富家の伝承では、スサノオは、紀元前2世紀頃、始皇帝の頃の秦国から出雲に渡来し、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。その後、秦国に戻ったスサノオは、再び日本に上陸し、北九州に住んだという。
(『出雲と大和のあけぼの』より)



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これは非常に重要な証言です。
紀元前2世紀、始皇帝の頃の秦国から2度日本渡来、、、、、これは徐福を彷彿とさせる。しかも蘇民将来の話でも一度南方へ行った後に再び訪れ、印のない家は皆殺しにしたという話になっている。これも徐福の2度の来日を彷彿とさせる。

う~む、徐福=スサノオ(牛頭天王)だったのか?
これは恋人がサンタクロースだった時以上の衝撃です。

実際、徐福は秦始皇帝に不老不死の薬を探しに行くと称して日本に亡命し、五穀を日本に伝えたとされている。また日本神話では高天原から新羅経由で日本に来たスサノオの髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠....と植林したとあり、スサノオと徐福はイメージがダブルのです。

ただ、九州居住となると佐賀県の徐福伝承が俄然優位となってしまう、、、、
※佐賀・金立山の伝承では徐福は大明国秦始皇帝の第3皇子となっている。

三河徐福説の最大の危機だす(爆汗)

徐福=スサノオ説は『伯耆国風土記』にも載っていて、それによると秦国から渡来した徐福は、事前に部下の穂日(ホヒ)を出雲王国に遣わして、徐福の上陸許可を得るという周到な準備をしたという。

その後、徐福と穂日および穂日の息子タケヒナドリたちは、謀をして出雲王国第八代の主王(オオナモチ)の八千矛(記紀では大国主と書かれた)や副王(少彦)の八重波津身(記紀では言代主と書かれた)を誘い出して、別々に幽閉し殺したという。徐福の集団の一部は、伯耆国の夜見の島や相見の郡にも移り住み、彼らの子孫が住んだ米子市やその近辺には、徐福の名にちなんで「福」の字の入った地名が付けられ、福市や福原の地名となって残っているという。

徐福上陸地が石見の国(島根県太田市)の五十猛海岸の神島ですが、、、、

神島
(五十猛海岸の神島)

う~む、流石にここには上陸しないだろうwww

しかも、徐福が目指した蓬莱山、方丈山、エイ州山の東海三神山に比定できそうな山はこの近辺には存在しない。浅利富士と呼ばれる至宝山もあるにはあるが、標高256mでは威容に欠ける。徐福本隊はここには定住しなかったと見る。

これも真の徐福上陸地を隠す為に伝承移転させられたものの1つに過ぎなのではないか? 日本にはこういった風土記が多く全国に24箇所の徐福上陸地の伝承がある。近くの丹後半島東岸の東には「常世島」と呼ばれている「冠島」がありますが、『丹後国風土記』には徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したと言われている。また冠島は海部氏の祖「天火明命」の降臨地とされる地でもあるが、大きさからいってまだコチラの方が合っている感じ。

富氏が「出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。」「大和や紀伊は出雲の分国」とあるように、古代出雲は紀伊半島をも支配下に置き、ナガスネヒコが統治していただろうと思う。その名残が葛城郡の葛城氏やダンノダイラや大神神社ですね。ナガスネヒコ敗退後は、祖地・十和田に移住して東日流外三郡を束ねているが、その末裔がアテルイだろう。
※アテルイ(大墓公阿弖利爲・たものきみあてりい)・・・平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

ただ、このクナトノ大神を祀る熊野とは、紀伊半島の熊野ではなく、島根県松江市八雲町熊野にある出雲国一宮・熊野大社のことで、『延喜式神名帳』には「熊野座神社」と記される程に古く神社。出雲大社宮司が熊野大社を訪れ新嘗祭で使う神聖な火を起す臼と杵を受け取る儀式「鑽火祭(さんかさい)」が毎年10月に行われますが、「熊野大社>>>出雲大社」という上下関係でもある。出雲の熊野村から紀伊半島へ移住した際に勧請したという伝承があり、出雲熊野→紀伊熊野という流れが本当のところではないか。ちなみに、出雲の熊野大社の祭神は「伊邪那伎日真名子」(イザナギが可愛がる御子の意)でスサノオ。つまり、紀伊の熊野もスサノオを祀っているということになりますね。

ここから分かることは、、、

櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ=家津美御子

櫛御気野命の「御気」は御食または御木の意味であり、「ケ(家)」は食物の意味。このことから植林神・農業神・食物神を意味しますが、豊受大神や稲荷神も食物神ですね。一般に家津美御子は「食の御子」=食物神と解されているが、船の用材を司る「船玉神」としての「樹木の神」の方が濃厚であると熊野本宮・九鬼宮司はいう。

紀の国は「木の国」。これなどスサノオが自らの毛(ケ)を使い樹木を植林した話を連想させるが、食物が五穀を日本列島に持ち込んだのは徐福。やはり熊野大神とは徐福なのだろう。そして、それはスサノオとして崇められたということか、、、、オイラのマン毛狂写輪眼にはそう映る。

「樹木」かぁ、、、

アニメNARUTOの木遁忍術の千住柱間を彷彿とさせる話ですが、これは忍術を始めた「六道仙人」の元ネタは徐福だったというオチになりそう(爆)。
※六道仙人の肉体能力は2つに分けられ、「眼」は火遁使いでスサノオを極限技とする写輪眼のうちは一族に、「体」は木遁忍術の千住一族に引き継がれた。また六道仙人のチャクラは魔像(大魔神)に一旦は封じられ、その後更に10個に分けられたが、その最大のものが九尾妖狐(ダキニ天)。火遁と木遁が六道仙人(徐福)解読のポイントでもあるが、これは「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の関係の解読に他ならない。やはり日本の謎を解くには三川が最重要ポイントなのだ(爆)。そして「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の融合地点には「神島」があるが、木と火は日本武尊が火攻めに遭った際に草薙剣で難を逃れたように「火(穂)の国」と「木(紀)の国」は熱田神宮の草薙剣で燃え盛る状態を防がれているのかもしれない。

六道仙人
(角のある六道仙人の姿はスサノオやモーゼを彷彿。名の「羽衣」も豊受大神の「トユケ(天女)」を彷彿とさせるが、羽衣伝説伝承地は渡来人の上陸地でもあり、徐福もまた秦国からの渡来人であった。)

さてさて、引き続き『出雲と大和のあけぼの』に載っている富氏家伝やその他の伝承をみて見ると、、、、

■4000年前、クナト王は古代インドのクナ地方を治めていたドラヴィダ族の王。インドにおけるアーリア人圧迫の際、黒曜石貿易に携わっていたブリヤート人の先導のもと、大勢の部下を連れゴビ砂漠を越え、中国を移動してシベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して移住。その子孫が出雲地方に住み着いた。これが出雲神族で龍蛇(ナーガ)とサルタヒコ(ガネーシャ)信仰をしていた。
※「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承がある。ドラヴィダ語で「サルタ=鼻の長い」の意味

■上陸した徐福は「火明かり」と名乗り、出雲王朝の高照姫(第七代大名持ちの天の冬衣と宗像三姉妹の田心姫との間に生まれた姫君)を奥方に迎え、高照姫が生まれた息子が「五十猛(いそたけ)」とある。徐福の父親は「徐猛(じょもう)」といい、そこから一字取られて付けたと言われている。(富氏家伝)

■徐福の息子・五十猛は香語山と名前を替え、海部(アマベ)家となり、母違いの次男・穂穂出見(ホホデミ)は九州物部家となり、その子孫が東征して大和入りして大和王朝を打ち立てた。約150年の間をおいた前後2回の物部の大和への移動を記紀では神武東征の神話に作り変えられたという。

■徐福の忠実な部下だった穂日の子孫は、出雲の臣を名乗り藤原不比等に取り入って、702年出雲臣果安は晴れて出雲国造となる。この系図の中でオオクニシの子に「ホアカリ」がおり、天火明命(ホアカリ)は度会氏や海部氏・尾張氏の祖先。つまり彼らは同族。この尾張氏や海部氏の系図の中にヒミコ(ヒメコ)がいて、祖先はオオクニヌシとなる。

以上を簡単に系図にまとめてみると下図のようになる。

出雲徐福系図
(黄色部がオオナモチ大名持で出雲王)

この系図では徐福(スサノオ)は宗像三姉妹と全て関係している(汗)。

これは出雲王朝と徐福一族が合体一体化したようなもの。しかも、徐福の九州末裔が物部氏であり、上洛して先に大和王となっていた同族の【海部王朝】を倒して大和朝廷をうち建てたという。

徐福は七代大名持の八千矛を猪目洞窟に幽閉して餓死させているが、このようにして出雲を騙して乗っ取った大泥棒なのが徐福(スサノオ)なのだそうだ。う~む、冷静沈着な学者肌の方士という徐福のイメージが180度変わってしまう話だす。

宗像三姉妹
(宗像三姉妹とは弥生期のキャッツアイ、、、い、いやこれはワイルドボアー(猪)・アイだな)

まぁ、宗像三姉妹は架空人物というのがオイラの説ですが、この三姉妹は弁才天にも模されていますが、「天河秘曼陀羅」の弁才天は「三つの頭を持つ蛇」と描かれるように女性の持つ3つの面である「若い娘・子どもを生む女性・老婆」を表す女神でもあり、これが宗像三姉妹として表現されていると見る。そして、それがオリオン座の3つ星で表現され、さらに航海の安全を祈る西洋のセイレーン的なものとして住吉三神となったと睨んでいる。

天河曼荼羅
(「天河秘曼陀羅」 弁才天とはまさにキングギドラ)

以上が出雲の徐福渡来の概略ですが、この話は飛鳥昭雄氏が八咫烏幹部から聞いた「物部氏は徐福と来たれり!」の話とも一致する。飛鳥氏は卑弥呼は徐福の血筋から出ているとも述べているが、このことは出雲伝承の中にも出て来る話で、今まで洞察してきた語り部内容とは180度違う内容であり、オイラは正直戸惑いを感じている。

徐福は最初若狭湾に到着し、その後、出雲に移動したという。あるいは、採取に出雲に上陸し、その後、子孫が丹後半島に移住したという話もあり、この辺は伝承によりマチマチである。

若狭湾で徐福伝承があるのは新井崎ですね。しかし、飛鳥氏が主張する日本列島逆転(反時計回りに高速移動)からは、魏史倭人伝当時の日本は90度逆転して沖縄の位置にあったといい、これでは若狭湾は中国大陸の反対側となってしまい飛鳥氏自身の説との整合性が取れない。

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オイラは語り部説の熊野や三川が徐福上陸地だと睨んで、渡来伝承の真実がそっくりそのまま若狭湾や九州に移されたという立場を取っていますが、そうしないと本巣市の船来山の集合古墳群や同じく本巣市の継体天皇手植えの「薄墨桜」の説明が付かない。

『出雲風土記』を見る限り、徐福末裔が出雲から熊野経由で三川へ移住してきて、三川の鳳来寺山や東海三神山、湯谷と名付けただけのようにも思える。う~む、依然に比べかなりトーンダウンしてしまったが、そのぐらい四隅突出型墳丘墓の衝撃は大きい。だた、徐福渡来と墳丘墓建造年代には100~200年程の差が存在する。やはり徐福ではないのだろう。

ここで語り部説を加味して考え直してみると、、、

【地祇系】 北イスラエル族末裔

■第1波(前15世紀):オロチョン、エヴェンキ等のツングース系

朝鮮半島→東北に移住

■第2波(前2世紀):秦始皇帝特命で徐福来日(初回)
中国→佐賀上陸(後に北九州への移住) 【前線基地化】
※徐福も始皇帝も姓が「瀛」氏で彼らは同族

■第3波(前2世紀):徐福移住渡来(2回目)
中国→熊野上陸→三川定住(徐福国)
※真の神仙郷を見出し、任務を放棄して帰国せず

■第4波(前1~2世紀):秦人渡来
辰韓・弁韓→丹後上陸→出雲(須佐)上陸→出雲神族混合→葛城・熊野移住
※応神14年(283年)、秦氏の祖は弓月君を祖とし百済より百二十県の人を率いて帰化したの記述。正しくは辰韓(後の新羅)の秦人だろう。これが出雲風土記や富氏伝承の元となった?

■第5波(4世紀):加羅から金首露王渡来
扶余→加羅経由→本巣居住→邪馬台国(4世紀)/徐福国討伐(5世紀)→出雲国譲り(6世紀)→初期大王家(上宮)

※新羅(356年 - 935年)は金官加羅から王を出す。

第3波が出雲神族と習合した渡来系でしょうか、、、、あくまで推測です(笑)。

天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があるという話があるが、獅子は古代イスラエルの10支族のユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族の紋章。 上賀茂神社の本殿にも一角獣の狛犬の姿が描かれている。つまり、徐福もその後渡来した秦人も初期大王家(扶余王家)も北イスラエル族の角を生やした一角獣のような姿(兜前面に角)をしていた為にスサノオ(角のある貴人)とされたのではないか?

記紀はこれら1~5波全てを「秦氏」として1つにまとめ上げ、歴史の闇に葬った。また風土記も「新羅系渡来人=徐福=出雲王朝」として1つにまとめた。これ故、「地祇系=スサノオ=徐福」としても決して間違いではない。

古事記・日本書記に先立つこと7年前、日本各地に風土記を書かせて提出させたのは大和朝廷であり、この書の内容は歴史的事実そのままを記したわけではなく、ある程度、朝廷の意向(藤原不比等の意向)に沿って編纂され記されたと睨んでいる。古事記・日本書記の歴史改竄がばれても風土記というセーフティネットが構築されており、ここで本当の歴史を完全封印するという手の込んだ形を取っているのかもしれない。
※古事記・日本書記と風土記の間には大きな差異がある。人々はこの差異の間に封じ込め。双頭と陰陽。

まだまだ三川徐福国の目はあるのだす~。

いづれにせよ、彼らに共通しているのは道教を奉じ、バアル神である蚩尤(しゆう)を崇め、大地に銅鐸を埋めて祭りの日に掘り起こして祭祀をしていたのだろう。この特徴から彼ら北イスラエル族は「地祇系」と称されるようになったのではないかと睨んでいるのだが、、、、ただ「契約の祭壇」との関係は不明(汗)。

06.jpeg
(三遠式銅鐸が出雲の地でも大量に見つかっている点が不可解な部分)

ナーガ(龍蛇)を祀り、サルタヒコ(ガネーシャ)信仰を持つトラヴィダ人が「出雲神族」の正体だったのですが、彼らがエドム人の東北に辿り着き、そのまま南下して出雲の地に到達。そこへ秦国から逃れて来た秦人(北イスラエル人末裔)がやって来て、出雲神族は婚姻を通じて平和的に取り込みを図ったつもりが、逆に王は殺され国は乗っ取られてしまった。

この強盛化した王朝が出雲王朝ではないか!
※その後、6世紀に国譲りが起き、出雲大社建造(7世紀)へと繋がっていく。

その後、秦人が乗っ取った出雲王朝と初期大王家の間で国譲りが為された際、建御名方神(末裔が諏訪氏)が逃げ延びたのが第二出雲王朝とも言われる諏訪の地。諏訪湖底に武田菱に似た「海底遺構」がありますが、これは四隅突出型墳丘墓を模して諏訪大社上下二社とその神宮寺(東照寺)と社坊(小坂観音院)をX型に配したのではないだろうか?
※元々、諏訪は縄文時代から続く守矢(洩矢)氏の拠点だった。

諏訪湖
(諏訪湖は契約の祭壇?)

少しまとめてみよう。

熊野大神(熊野権現)=家津美御子=櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ

ということは前に書いた通り。
だが、これは下記の怒涛の内容も意味する。

徐福=ニニギ=スサノオ=国常立尊=艮の金神

つまり、徐福始め長屋王までの北イスラエル族こそが鬼門に封じられた「金神」であった。
※佐賀の徐福渡来地は「金立」と呼び、金神との関係を伺わせる。

熊野出身の九鬼家と関連が深い綾部の大本は、熊野本宮の麓に鬼門大金神(玉置の祭神、国常立尊)を祀ったいることから、上記内容の証明にもなりそうですね。契約の祭壇やマナ壷を日本列島に持ち込んだ北イスラエル族(徐福~秦人~初期大王家)は南ユダ族によって東北に封印され、傘下の勢力は自陣営の下に取り込まれた。その状況を漢人末裔である綾部のサンカ・アヤタチである上田家が大本・黒住...等を興し復権を図ったのかもしれない。そして今、北イスラエル族の封印が解け物部神道の復活を通じエルサレム神殿の「三種の神器」が揃って世に出ようとしているのだろう。
※サンカの異称であるオゲ、ホンス、テンハの裏意は「徐福を訝る」「午族は国父を呪う」「午族は倭本族を厭う」ことあり、サンカの異称は大和王権側から見ての蔑称か呪称であり、この異称はサンカの社会的処遇に一致している。
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コメント

No title

素晴らしい洞察! お見事!

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No title

一般的に、徐福は紀元前3世紀の人で、スサノオと卑弥呼は2~3世紀の人と言われており、徐福=スサノオ説は成り立たないのではないですか?

日本列島

http://ameblo.jp/tomaatlas21/entry-11925911769.html
この画像からすると日本列島と呼べるものが存在してなかった!!

どの系統であれ、僕が知りたいのは彼等が何をしたいのかです。
地球は太陽の変化に呑み込まれて行くであろう混乱期に、モーゼが示した神との誓いを確認する為なのでしょうか?
それが巷のアセンションと言われものへのラストチャンスなのでしょうか?

No title

いつもながら、素晴らしい洞察力、感服いたします。
しかし、一つだけ?
TV東は居る皆ティ側では無いでしょうか?
最近、「Youは何しに~」とか「やりすぎ~」でロッジを撮影していましたよ。
何かしらのツテがないと難しいと思うんですが。
しかも、「やりすぎ~2014夏」ではMCの後ろのセットが三角の中にポチンと照明が・・・

陰中の陽

太極のごとく、南ユダヤ越そ、北に封印されし南の牛ライオンの
鬼門だ!
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