南北朝どっちが天孫?

お忙しい中、名無し先生にダメ出しされてしまった(滝汗)。

特に天孫系・地祇系の分類がダメダメだった。
もう一回歴史認識のやり直しが必要になっただす~ぅ。

このままではマツコミジメックス。。。

誰か『Help me!!』だす~ぅ


(オダサク【小田さくら】加入が転機になった王朝娘。この後、オリコン快進撃が続く)

う~む、どうも語り部説に振り回された結果かもしれない。

語り部説では、天智天皇は百済系、天武天皇は新羅(扶余)系、この確執が古代最大の内戦「壬申の乱」を生んだ。また藤原不比等は天武天皇(漢皇子)と天智天皇と異父同母兄弟(父親は天智天皇w)であり、藤原氏は百済という認識。天智天皇は白村江の戦いで敗け、百済滅亡による大量の難民が現在の大阪府に定住。天智天皇が大津へ逃げるように遷都したのは、唐・新羅から吉野に進駐して来た勢力を恐れてのこと。この吉野と密接に連絡をとっていた天武天皇は出家すると吉野に逃れて壬申の乱を決起。勝った天武軍は唐の律令に真似た大宝律令を発布(これを百済系が「大化の改新」と捏造)。高句麗によって新羅は滅亡。旧新羅の難民が日本に押し寄せ、天武天皇は関東地方を中心に新羅難民を受け入れ。新羅系直系の天皇は文武天皇、長屋王を最後に断絶。以後、百済系(父系)の桓武天皇末裔が皇統を継いでいるとされる。

よって南北朝も百済系が2つに別れただけであり、南朝の拠点である吉野はずっと唐・新羅の拠点だと考えていた。

だが、この影響でオイラの南北朝の認識が怪しくなってしまったのかもしれない。全くの間違いではないとは思うのですが、これは父系的な見方であり、母系的な見方ではまた違う認識になるのではないかと思う。つまり、新羅系の巻き返し=天皇に嫁がせ「外祖父」となり権力を握るみたいなものがあった点を見逃しているのではないか?

まずは南北朝の再学習からです。

どうも南北朝勢力の分類の仕方がマズかったようで、その後の洞察内容がおかしなことになってしまったようだ。再学習にはまず藤原北家創設時点にまで遡らなければなるまい。

藤原不比等の息子であるダンコ三兄弟ならぬ藤原四兄弟。ここが藤原摂関家の源流になりますが、摂関家(五摂家)は北家末裔であることはよく知られるところ。

■長男:武智麻呂・・・【南家】
■次男:房前・・・・・【北家】→冬嗣→道長→摂関家→五摂家
■三男:宇合・・・・・【式家】→桓武后
■四男:麻呂・・・・・【京家】


加茂みたらし
(加茂みたらし団子は人間の五体を表しているというが、1つ飛び出しているのは不比等で他は四兄弟を暗喩か?笑)

藤原房前の曾孫である藤原冬嗣は仁明天皇に娘・順子を嫁がせ、その子である文徳天皇に孫・明子を嫁がせ、さらにその子でである清和天皇に孫・高子を嫁がせている。この二重の従姉妹婚という近親婚によって、藤原北家は朝廷内に絶大な権力を確保した。

清和源氏の祖・清和天皇はこのラインから生まれている。

つまり、幾多の戦国武将を輩出した清和源氏は藤原北家に属する勢力であり、平安期には摂家の家人となっていたのも頷ける。一方、桓武天皇の后・乙牟漏の父は藤原式家の藤原良継。また桓武母親は百済武寧王10世孫である高野新笠であり、これ故に桓武系統は百済系とされていますが、この桓武天皇から出たのが桓武平氏なのです。

鎌倉源氏は自らを新羅末裔と信じており、八幡太郎義家の弟・源義光などは新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎義光と称している。源氏平氏姓を賜った元皇族の皇子(臣下降籍)が関東地方に居住する朝鮮系の人を「武士団」として結集しその棟梁となったが、その際、平氏には百済系、源氏は新羅系が結集したことに因む。それ故、平氏も百済人も「赤」、源氏も新羅も「白」をシンボルとしているわけです。
※この関東平氏のうち、伊勢に移住したのが平清盛の伊勢平氏で特に「平家」と呼ぶ。百済は海洋民族であったことから平家の主力は海洋貿易と海軍であった。白村江の戦いで敗けた際、新羅の王族である金良琳が日本の文武天皇として据えられたという説もあるが、これは???だと思う。(あはは)

ここで、一旦、まとめておくと、、、

■藤原北家=清和源氏=新羅系=地祇系
■藤原式家=桓武平氏=百済系=天孫系


この藤原式家と藤原北家の確執は平安京遷都の際に表面化する。藤原式家側の平城上皇が藤原北家側の嵯峨天皇と対立して、平安京造宮と蝦夷征伐の中止を求め争いとなったが、結果、藤原北家が押し切り平安京遷都となった。この仲間割れが最終的に源平合戦に繋がり、清和源氏=藤原北家=北朝派が最終的に勝利し、明治維新まで日本の主流となった。

式家の祖・三男藤原宇合の妻が石上麻呂の娘であり、式家は石上氏(物部宗家)と懇意であった。石上氏は不比等の時代に藤原京から平城京遷都時にの留守役を押し付けられ、中央政治から放され政治力は衰退していたが、式家に力を貸す形で中央の政治力を温存。この物部氏に関してはいろいろな出自が語られるが、オイラは新羅(扶余)系の傍系という説を取っている。よって、同族の天武天皇を通じて吉野とも繋がり、藤原式家拠点が吉野になったと考えられる。

更に時代は下って、1336年、源氏である足利尊氏の離反によって後醍醐天皇は吉野に退去。京都には光明天皇が迎えられ、以後、京都の北朝(持明院統)、吉野の南朝(大覚寺統)と称される南北朝時代が始まる。関ヶ原の戦いも徳川家康(北朝)vs.石田三成(南朝)の最終決戦に他ならなかった。

Takaujibubun.jpg
(足利尊氏)

再びまとめておくと、、、

■藤原北家=清和源氏=新羅系=地祇系=平安京派=北朝(持明院統)
■藤原式家=桓武平氏=百済系=天孫系=平城京派=南朝(大覚寺統)


つまり、「北朝=地祇系」となってしまうのは、天皇の父系でも母系からでもなく、北朝支持する主要勢力である源氏が「新羅渡来勢力を束ねたもの」から来ているというオチでした。

まぁ、武士の台頭(特に徳川家)によって、摂家を媒介として母系から天皇家に新羅系の血が入っている筈なので、この辺は曖昧になりますが、、、このようにオイラの洞察内容は「天孫系=北朝、地祇系=南朝」となって、事実とは全く逆の内容になってしまったのです。道理でフジサンケイグループの洞察結果に捻れが出てきた訳ですね。早目に気づいてよかった、、、(滝汗)

日本の権力構造を考える場合、外戚こそが権力中枢となる。これは巫女制(数ある権力者のうち巫女の夫となる者が大王となる=王の君)の頃から権威と権力の分離が国体の根幹にあるが、これがユダヤ式の王(権威)を指名するレビ族(権力)という関係に横滑りしていったに過ぎず、皇統の男子継承など表の事象にしか過ぎない。裏(配偶者)にこそ、この国の本当の姿がある。

この北朝(地祇系)優位が覆ったのが明治維新
以後、南朝=藤原式家=桓武平氏=天孫系が日本の主流となった。

大政奉還時の朝廷関白は二条斉敬(徳川慶喜の従兄)でしたが、明治維新時には「相撲好きな少年」明治天皇はまだ15歳と若く、摂政として親幕府派である関白・二条斉敬が引き続き就任した。北朝派である藤原摂関家(五摂家)の二条斉敬は北朝天皇から南朝天皇への政権移動の真実を知るキーマンの一人だが、この時、九条閥(九条家・一条家・二条家)に有利な政権構想をしたに違いない。

この時、九条閥は宿敵側の南朝派に寝返ったのだろう。

この九条閥の九条道孝の側室四女(九条節子)が明治天皇の嫡子・大正天皇に嫁いでいる。貞明皇后がその人ですが、明治維新以降は「外祖父」として九条閥が仕切っていた筈です。あまり表に出てこないのが真の黒幕であり、そういう意味からも、九条閥は戦前までの日本の真の黒幕だったのかもしれない。

一方、この事態をなんとかしようとしていたのが近衛閥(近衛家・鷹司家)であり、近衛文麿のコミンテルン(共産主義の国際組織)への傾倒は、この構造(九条閥支配)を転覆させようとしたものだったのかもしれない。それ故、北朝派の鷹司門流の某羽林家を使って大本に「皇道派」を組織化させたり、政治に単身介入しなくてはならなかったのだろう。そして敵対する九条閥支配の昭和天皇に対して足を組むという不遜な態度に出ていたのか? 皇道派と統制派の争いも南北朝の戦いであった。まぁ、最後には近衛は観念して服毒自殺してしまったが、、、
※前記事では零落した摂家勢力として九条閥の二条家を挙げたが、この展開だと二条家でないことになってくるなぁ、、、いったいどこなのだろう。タカか?(滝汗)

しかし、WW2の敗戦によって九条閥の影響力はGHQによって徹底排除されただろうと睨む。その証の1つが今上天皇の后が皇族や九条閥ではなく平民出身とされた事例。だが実は、この実家は「日清**」と名にあるように日中をまたにかける地祇系奉公衆のペリシテ人客家を出自とする「緑のカラス」勢力。ササラ者【漂泊民】であった新羅経由で渡来して来たペリシテ人客家勢力(慶州客家)の棟梁となった徳川家とも出自を同じくする同族であり、古くから関係があった。
※正田氏は新田義重の子・世良田(徳川)義季に仕えて徳川郷に居住。徳川(世良田)氏がこの地を去った後も当地に残り、徳川氏の館跡に居住し、その地の有力な家柄となっていた。
※徳川幕府は同じ新羅系ササラ者を出自とする大名家や徳川家が乗っ取った家に「松平姓」の使用許可して「四品」の位階を与え、皇統を配偶者の面から奉公していた(爆)。

松平親氏
(徳川・松平氏の祖である松平親氏は新田源氏世良田氏の末裔。この格好どう見てもササラ者。)

だが、まだ納得がいかない点は松平郷は南朝側の残党が逃れてきた伝承が多いという点。世良田満義の嫡子・政義は南朝方の後醍醐天皇の皇子・宗良親王に仕えて世良田郷を離れ、政義二男の万徳丸(政親)は三河国松平郷に隠れ住んでいたのを発見され、捕らえれられたのち出家し四国へ渡ったといわれ、このように新田源氏一門である得川氏の庶流・世良田氏と縁が深いのが松平郷。徳川家康の祖父・清康は松平郷にいた政親に注目し「世良田次郎三郎清康」と称して、以後、源氏末裔の詐称を目指したという。

また、世良田氏末裔と称した親氏も北朝方の追捕を逃れて時宗の僧となって徳阿弥と称し流浪し三河に定住し、賀茂氏末裔の松平氏の婿養子となったという。世良田にも東照宮があり、徳川家はマジにそう信じている。

駿府に残る伝承からは、家康が今川家の人質という身分のある武士の子ではなく、当時『ささら者』と呼ばれ、主として牢内の雑用を果たすことを職としていた非人に近い身分の出身だったとの話が実に多いという。9歳で人買いに五百貫で売られた家康は願人坊主として諸国を周って情報収集する乱破だったとか、、、家康祖母の於富が志願して8年間後見人として駿府に入っているので、スリ替わったのなら分かる筈であり、これは都市伝説の類だろう。
※名無し先生によると、徳川家康が天下を取ったのは母親方の血筋である刈谷衆(水野氏?)のおかげ。家老であった本多家に代表される刈谷衆は古くは大陸からの特別の建築技術を持った集団。また本多家はある特別な寺社(賀茂神社?)の氏子でもあった。
※本多(本田)家・・・本姓不明、賀茂氏(賀茂県主で、もと山城国綴喜郡の禅定寺下司)の出ともみられるが、実際には三河国額田郡ないし尾張国知多郡の古族(和邇氏族)の末で、大河内などと同族か。豊後より三河に遷という所伝も疑問が大きい。一族に藤田。



(徳川=非人といえばカムイ外伝だが、映画化されてたが評価は低い)

オイラの考えでは、徳川(松平)も世良田も源氏に接続された新羅系漂泊民という認識なのだが、、、

う~む、でも何故、南朝についたのだろう。

源氏=北家=北朝なら北朝につくべきなのだが、、、
徳川氏も世良田氏は新田源氏ではなっかったのか?

まぁ、九条家の例もあるので寝返りかもしれん。
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Comments

どちらも天孫

どちらもアヌンナキの子孫だす。
アヌンナキが重要なのであって、そのほかはどうでもいいだす。

No title

名無しという人の話ばかり意識して記事をアップするようになっていて、このブログはおかしいです。既に洗脳されてしまったの?

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学校で習う歴史だと蘇我稲目からみんな繋がっててなんでうちわで揉めてるのと思っていました。天智帝・天武帝、蘇我の娘達の姪娘・阿閉(元明)・氷高(元正)そして宅子娘から宮子と首(文武)。額田王もいて好きな時代。
まとまったら本にしてほしい!!!と真剣におもってます。

訂正

>首(文武)
軽(文武)

No title

AD 660年、百済は唐と連合した新羅の攻撃を受けて滅び、唐の高句麗出兵(AD664年から668年まで3回にわたって行われた唐による高句麗への侵攻)により高句麗は滅亡(AD668)。
唐が西方で吐蕃と戦争している隙に新羅が反乱を起こして、676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一して統一新羅が成立。
従って、高句麗が新羅を滅亡は間違いのようです。


No title

忙しいと自称しているが、名無しというのは、どうしてあちこちのブログに出没しているのだろう? ネットで工作しているとしか思えないのだが。自分でブログを作ると、矛盾だらけで叩かれるのが明白だからだろう。

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名無しの

先生は、
なぜ忙しいのですかー?(・・?
いつも何しているからですか?

その意味を知りたいなぁ。

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