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ラハナ・マハリシ

ラピ。師匠と話してて、修行なしで悟りを開いた人がいるとのことでラハナ・マハリシを紹介された。神に全てを委ねるバクティ・ヨーガを説くラーマクリシュナ・パラマハンサと並び称されるインド近代思想史上に傑出した聖者がラハナ・マハリシ。インド共和国政府が記念切手まで発行されている程の聖者で、かのガンジーも崇拝していたとか。

ラハナ・マハリシ
(ラハナ・マハリシ)

1896年、高校生だった彼は突然死の淵に立たされ、そこで「絶対者」と遭遇し、この「大いなる覚醒体験」を得て世俗を捨て南インド最大級の聖地であるアルナーチャラ山の麓に呼ばれるようにやってきて、そのままそこから出ることなく生涯を終えたという。身に着けていたのは「褌」たった1枚であり、「沈黙の聖者」と呼ばれた。

ラハナ・マハリシ01
(山に篭った頃のラハナ)

オイラは「修行なし」という点に非常に心惹かれる(爆)。しかし、それは高校生の時に死の淵に立たされたことに起因するので、誰にでもというわけにはいかないようだ(滝涙)。

さてラハナ師の神秘思想はどうなのかを探ってみよう。

彼が説く悟りの方法は以下の2つのみ。

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■方法1 「ジニャーナ」

「私は誰か?」という問いかけによる真我の探求。

肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、「私」が根源である真我に溶け込み、消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我のみが残る。これは、ヴィチャーラ・マールガ(探求の道)またはジニャーナ・マールガ(知恵の道)と呼ばれる。この探求は、常に自らが真我であることに気づくために行うものであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。ただ、真我を覆い隠している障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。

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ちなみに、マハルシは自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議と表現している。まぁ、「灯台元暗し」とでもいいましようか、、、、これを分からなくさせているものがある筈ですが、これをイエスは「目の中の梁」の喩えて述べていますね。

何故、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁はりには気がつかないのですか? 兄弟に向かって「あなたの目のちりを取らせてください」などと、どうして言うのですか? 自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
(マタイによる福音書 7章3-5節)
 

この喩え話はいろいろと応用が効きそうな話ですが、「目の中に梁」を持った者(悟っていない者)が、どのように指導しても全く意味がないと取れる。

この「私は誰か?」という真我探究の道について、ラハナはこのようにも言っている。 

「心が、絶えずその本性を識別し探究すると、
心というものはない、ということが知られるようになる。
外へ向けられた心は、想念と対象物に帰着するが 
内に向けられた心はそれ自らで、真我になる。」


「内向きの心=真我帰還」かぁ~!

確かに、心の内面に向けられた心(エゴ)は真我の中を彷徨うこととなり、真我が根源的には同質のものであり、心(エゴ)よりも巨大なものであるが故に、その中では心(エゴ)単体として存在できなくなりそうな感じはします。真我に心(エゴ)が溶融していき心(エゴ)が存在できなくなるとは、このことを言っているのだろうか!? 人によっては自己を失うとか、自己が消えかかるという現象が起きることがあるそうですが、それはこの心の溶融化現象のことを指しているのかもしれませんね。

ラハナが悟りを開いた(自我消滅)のも死の淵を彷徨ったからであり、この時に自己(エゴ)の溶融化現象が起きて、静寂という真我の中で本当の「私」の姿(I AM 私はある)見出したのだろう。

ただ、この「私は誰か?」の問い掛けに「誰」という対象を思い浮かべようと、探し求めても答は決して見つからない。何故なら、思考を発している者が自分を見つけることは決して出来ないからだ。これでは無限ループに落ち込む。

実は、「私は誰か?」と問い掛けているのが「思考者」である私であり、この「誰?」「誰?」と問い掛ける意識の葛藤状態をじっと冷ややかに眺める「観察者」である私がいる。これが「真我」であり、その正体は「静寂」。つまり、この「私は誰か?」という問い掛けには、この言葉の終着点である対象(答)を見出すことに意味があるのではなく「見る者は見られる者である」ということを解き明かす為の問い掛けだったのです。

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■方法2 「バクティ」
悟りへのまっすぐなもうひとつの道として、バクティ(献身、帰依)も教えている(バクティ・マールガ)。バクティは、崇拝する神や師事するグル(聖なる師)に自分自身を委ねる(明け渡す)ことである。その完全な達成により、自分の欲望は完全に消える。バクティとジニャーナには優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質による。マハルシは、バクティはジニャーナの母という表現をしている。
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ちなみに、神・グル・真我は同じものの異なる呼び名であるともいう。

「バクティ(献身)」はR・シュタイナーの認識の小道でも述べられているように、高次意識次元に行く為には必要なもの。帰依・献身によって全てにおいて師を優先することで自己を抑制し、そのことによって高次の意識が流れ込んでくるとされる。

ここでネットから拾ったラハナ氏の言葉をメモしておこう。
(「ラマナ・マハリシの教え」 山尾三省訳 めるくまーる社)

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■どうすれば自己実現できる?
実現というのは、新しく獲得される何かではない。それはすでにそこにある。必要なことのすべては「私は実現していない」という想いを追い払うことである。

静かさあるいは平和が実現である。自己が存在しないときは、一瞬たりともない。疑いや非実現という想いがあるかぎりは、それらの想いを追い払う試みがなされるべきである。それらの想いは、自己と非自己を同一視することによって起こってくる。非自己が消えれば、その後にはただ自己だけが残される。場所が必要ならば、狭くなくすればそれでじゅうぶんである。よそから場所を持ってくる必要はない。


■どうやって自己に到達できる?
自己に到るということはない。自己がもし到られるべきものならば、それは今ここにはなく、やがて得られる何かを意味するだろう。新しく得られるものはまた、失われるものでもある。それは永遠のものではない。永遠でないものに努力する価値はない。それゆえに、自己は到るものではないと言うのである。あなたは、自己である。あなたは、すでにそれである。

事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態について無知だということだ。無知は次から次へと続き、至福である自己にヴェールをかける。努力はただ、この悪い知識である無知のヴェールをはぐことに向けられればよい。悪い知識とは、自己と身体や心などを誤って同一視することである。この偽りの同一は去らねばならぬ。そうすればただ自己のみがそこに残る。

それゆえ、実現はすべての人おのおののものである。実現は、それを願う人々の問に差別をつけない。あなたが実現できるかという狭いそのもの、自分は実現していないという考えそのものが障害である。このような障害物からも自由になりなさい。


■サマーディ(三昧)は何かの役に立つ?また、何かの想いが存在する?
サマーディだけが真理を示すことができる。想いは、実在にヴェールを投げかける。それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。「私は在る」という経験は、静かであることである。


■サマーディを日常化することができる?
あなたの今の経験は、あなたが自分自身の内に見いだした雰囲気の影響によるものである。あなたほその雰囲気の外で同じことを経験できるかね。経験は突発性のものである。それが永遠になるまで実修が必要である。


■サマーディを実現するとシッディ(超能力)を得るか?
シッディを見せるためにほ、それを認めてくれる他者がいなければならない。つまり、シッディを見せびらかすような人の内には ジュニャーナはない。それゆえ、シッディは考える価値のないものである。ジュニャーナのみが目指されるべきであり、得られるべきである。


■私が実現すれば他者の助けになるか?
そうだ。そしてそれが、あなたが他者に対してできる最上のものである。大いなる真理を見いだした人々は、自己の静かな深みにあってそのようにしてきた。実現した人々は、ただ自己のみを見るからである。それはちょうど金細工師が、金でできたさまざまな宝の値踏みをしながら、ただ金だけを見ているのと同じである。あなたが自分を身体と同一視するとき、名前と形がそこにある。けれどもあなたが、その身体意識を越えるとき虹は「その他のもの」もまた消え去る。実現は、世界を彼自身と異なったものとしては見ない。


■聖者が他の人々と交わるのは良いことか?
交わる「他者」というものはない。
自己は唯一の実在である。


■苦しみに満ちた世界を救おうとしてはいけないか?
あなたを創造した力が、同じように世界を創り出してきたのだ。その力があなたの世話をすることができるならば、同じように世界の世話をすることができるだろう。神が世界を創造なさったのであれば、その世話をなさるのは神の仕事であり、あなたの仕事でほない。


■愛国者であることは私たちの務めですか?
あなたの務めは、在ることであり、これであったりあれであったりするこではない。その方法は「静かであること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか。それは「あなた自身を打ち壊す」ことを意妹する。なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからである。「私ー私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。「私」が「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。それが突然に脇道にそれて「私はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それはエゴである。


■神とは誰か?
自己が神である。「私は在る(I AM)」が神である。神がもし自己以外のものであるなら、彼は自己のない神であるにちがいなく、それは不条理である。自己を実現するために必要なことのすべては、静かに在ることである。それ以上簡単なことがあるだろうか。アートマ・ヴィディヤ(自己探究)はだから、最も簡単な道である。

ラハナ・マハリシ02
(壮年期のラハナ)

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■真我についての五つの頌(しょう・褒め称える詩文)

1) 肉体を真我と見間違って 真我をなおざりにし 数え切れない出生を通じて生きてゆく彼は、夢の中で世界中をさまよい歩く人のよう こうして真我の実現は ただ夢の中の放浪から目覚めるようなものだ


2) 自分自身で「私は誰か」「私はどこにいるのか」と尋ねる人は その間ずっと真我として存在しているのだが それは 自分自身の身元と居所について尋ねる酔っ払いと同じようなものだ


3) 実際には肉体は真我の中にあるけれども 真我は知覚力のない肉体の内部にあると考える彼は 映画の画像を映すスクリーンの布地までもが 画像の中身として入っていると見なす人と同じようなものだ


4) 装身具はそれらが作られる素材としての金から離れて存在しているだろうか 肉体は真我から離れて存在することが出来るのか 肉体を彼自身と考える彼は無知な人である 彼自身を真我とみなす彼は 真我を実現し悟った人である


5) 1つの真我 唯一の実在だけが永遠に存在する 太古の昔 ダクシナムルティとして現れたあなたでさえ ただ沈黙によってそれが言葉によって伝えることができようか

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以上、ラハナ・マハリシの言葉の紹介でした。まだまだ充分咀嚼出来ているわけではないが、ボチボチと咀嚼していこう。

ただ、ここで注意が必要なのは、彼岸に至った者が体験知で得た「神・グル・真我は同じもの」「自己が神である」という内容を都合よく切り取って使っているのがスピの人だといい、至っていない者(此岸者)が、そのように考え振舞っても全く意味を為さないばかりか、逆に害毒ですらあるとオイラの師匠たちは言っている。

それは「酔っ払い状態」だとも、、、(滝汗)

確かにそうかもしれません。体験知で得て自分の血肉となっていない者がそう振舞うのは明らかに可笑しいことだし、「成り済まし詐欺師」だと言われても仕方がないことでもある。これは肝に銘じておかねばならなそうだ。
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Comments

すみません質問です。

修行していない私が、4年ほど前シャワー中突然にクンダリーニ上昇しました。
それ以来何も起きないのですが、
クンダリーニ上昇とは人生で一度だけなものなのでしょうか?
それとも、修行して何度も上昇させるようにできなければ意味がないのでしょうか?
初めて経験したとき、エネルギーがみなぎるように上ってきて、とても心地良い気分でした。
できればもう一度体験したいなと思ってます。

ラマナはすごい修行をしましたよ

ラマナ・マハリシは、内在の内なる勧告者を師として探求しました。アルナチャラの山での瞑想は、普通、修行と見なされるのではないでしょうか。ペストがその地方に蔓延した時も瞑想を続け、トラやヒョウが出る中、瞑想を続けたわけです。コブラがラマナ・マハリシの眼の前に来たこともあります。ラマナは、悟りを開くまでに、厳格な孤独の生活を送りました。最近は、ラマナの言葉のみで修行の過程を紹介する本が少なくなったため、ラマナは修行なしで悟ったという勘違いが起こるのでは、と思います。

No title

修行無しというのは私も語弊があると思いますね。

 ただし、世に言われるような修行というより、必要なのは
捨てること、静かであること、離れること、だと思います。そしてその「行」
に関しては、徹底的に真摯であることが求められるでしょう。生半可なものでなく、生命と生涯をかける一大心でなくてはいけません。
一時的であるにせよ、地位名声財産家族知己友人、すべて「個我」につながるものから遠ざからないといけません。
そして実は、生涯と生命を掛けることが「可能か否か」さえも、全て運命で定まっているのです。
つまりそもそも、「縁」がなければ「悟り」「覚智」など目指すだけ無駄なのです。楽しく人生を送り、せいぜい幸福の追求をしましょう。

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