兄弟の絆

前記事で賀茂県主の出自は、語り部の語る歴史を参考にすると、、、

1)エドム人を祖とするアイヌ土着民(縄文人)の出雲王朝最後の王・荒田別(アラハバキ・大国主)からの分家筋で、討伐された三川の徐福国技術(蚕養・機織・酒造・製鉄...等)を継承して殖産氏族となった縣塩古を祖とする邇波広高(後に秦姓を賜り秦河勝)末裔の者

2)ヘブル人(イスラエル人)を祖とする扶余系スキタイ騎馬民族(ガド族)の初期大王家の傍流・王治王朝から分家した物氏(後に王朝廃朝により神祇が物氏に移動)から別れた熊野乙世(賀茂大角)末裔


これら両氏族の婚約によって出来た氏族が天神系賀茂氏(県主)だということが分かりました。そして、秦氏から太秦にある「蚕の社」の木嶋神社から「糺の森」、籠神社から「藤(不死)祭」...当の神事を譲り受け、全国の神社を統括する役割を持たされ、「皇統盛り上げ隊」として創設された秦氏に組み込まれていった。

賀茂県主系図

エドム人とヘブル人は、アブラハム時代の兄エサウと弟ヤコブにまで遡る兄弟部族ですが、このことから縄文人(アイヌ系)の縣塩古らの邇波氏族が押さえてていた山城国のうち、葛野郡の領土を物氏末裔(熊野氏)に割譲した場所が「弟国」(乙訓郡)、元の葛野が兄国と呼ばれるようになったわけですね。

そして、件の賀茂神社神紋は二葉葵ですが、これは1本の根元から2つの葉に分かれている図案になっています。これは元々根が1つだった兄部族と弟部族が一体化したことを暗喩している。それが賀茂氏というわけです。
※元々、葵は2つの葉ができる植物。徳川家の三つ葉葵のように3つの葉ができることはない。

二葉葵
(弟と兄の一体化を図案化)

そして、謎なのは、、、賀茂大角(熊野乙世)。

熊野氏は熊野三山を管理する「熊野別当家」でもありますが、これ故、熊野氏は八咫烏をトレードマークとする熊野本宮を支配下に置けるわけであり、賀茂県主の祖・賀茂建角身命が「八咫烏」という称号があってもいいわけです。

語り部は「熊野乙世=賀茂大角」としていますが、熊野氏、賀茂県主の系図を見てみると、、、


■熊野氏系図
ニギハヤヒ-----大阿刀足尼―稲比─大乙世―国志麻―夫都底―大刀見―石刀禰―土前―高屋古―伍百足


■賀茂県主系
鴨建角身命─鴨建玉依彦─五十手美命─麻都躬之命─看香名男命─津久足尼命─小屋奈世命─小止知乃命─大山基命─鴨大角─鴨伊己代─鴨多々良─鴨久治良─鴨黒日─鴨吉備─鴨主国  

 

確かに、系図上にはこの両者の名前があります。世に出ている系図自体は適当な名前を付けられた祖を多く入れ込まれて万世一系的に繋がるように改竄させられてしまったものだと思っていますが、ただ、この系図から大角と乙世が同一人物とまでどうしても導き出すことは出来ない。やはり、語り部には何か家伝があるのだろうか? 例えば、桓武が焼き捨てたと噂される系図を記した日本書紀31巻の写本とか、、、(滝汗)

更に不思議なことに、役の行者伝承では、役の行者こと地祇系賀茂氏(高賀茂氏)である役小角(賀茂小角)の父が賀茂大角とされている。しかも物部氏とも接続されているのです。

小角系図00

語り部は「角は鬼を表現。小さな角は大国主系賀茂氏」といっていますが、ならば「大きな角は大物主系賀茂氏」を表していることになりそうです。

そして、この2系統の賀茂氏が系図上では、物部氏とも関連付けられながら親子とされているのです。以上のことから、多分、役の行者伝承は万世一系という目的の為に創作されたものなのでしょう。

京都の賀茂神社が上下の2つに分かれているのは、下鴨が天皇祭祀...等の国体内側、上賀茂が国体外側を担うという役割分担になっているからだと云われいる。まぁ、戦前の内務省と外務省に似た感じではないでしょうか(笑)。かつて全国を行脚した虚無僧は全国各地から情報を集め京都に送っている諜報員ですが、先の役割分担から、多分、最終的には上賀茂に情報は集約されていたのだろう。

では何故、賀茂神社がこのような役割を持ち、皇統奉公衆(皇統や国体を護持するグループ)になっていったかについては、平安京遷都のころまで遡らねばなるまい。

百済系大王の桓武天皇(倭照弥 781年-806年在位)が奈良・平城京を捨て秦氏の領地贈呈を受け山城国に遷都したのは、奈良の仏教勢力を恐れてのことだとされています。

事の発端は、桓武から60年前の扶余系(傍系)大王の聖武天皇(倭桜彦 724年-749年在位)の御世、当時、地震が頻発し地殻隆起や沈降を繰り返していたので日本国土が沈んで崩壊してしまうと感じられる程の危機感があり、そんな背景からか、聖武天皇は「仏教の奴子宣言」をして幾多もあった東方キリスト教教会を徹底的に打ち壊し、全国に国分寺・国分尼寺を創建していったところから仏教勢力(南都六宗)の隆盛が始まった。
※610年、倭聖大王(高向王、聖徳太子モデル)が秦河勝の造営させた斑鳩宮は、古代ペルシャの都・ペルセポリス同様、冬至の日にシリウスが地表から昇る「聖方位」(北西に20度傾く)に向けられて建造されていた。この宮内にあったのが東方キリスト教教会である若草伽藍(斑鳩寺)。これが打ち壊され跡地に建造されたのが現在の法隆寺。その際、斑鳩宮跡地である東伽藍に夢殿も建立されたのですが、ここに倭聖大王の怨霊を封じる呪詛(救世観音像が布でぐるぐる巻きにされ、後頭部に背光が釘で打ち付けられていた。)が施された。1000年後の明治期になるまで夢殿は開けられず、そのままの状態だった。日本書紀によると若草伽藍焼失は670年または643年(蘇我入鹿の襲撃)のことだとされるが、もっと後のことだとオイラは睨んでいる。

この仏教勢力の背後にいて傀儡支配していたのが藤原氏。

これが日月神示のいうところの「仏魔」だとオイラは睨んでいる(ふふふふ)。

「仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしていたのでいたのであるなれど、
仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、
クラヤミの世となったのであるぞ、
その後はもう乱れほうだい、やりたいほうだいの世となったのであるぞ」


平城京遷都時に創建された興福寺は藤原氏の氏寺として有名ですが、元々は藤原鎌足に下賜した鏡女王(佐冨、皇極天皇)が夫の病気平癒を願い山背国山階に創建した山階寺に起源であるとされ、それを元に飛鳥にあった厩坂寺(うまやさかでら)の堂塔を藤原不比等が移築して興福寺は創建された。

この縁起故に門主は近衛系(近衛家・鷹司家)の一乗院と九条系(一条家・二条家・九条家)の大乗院の2つが「たすき掛け人事」で交互に興福寺別当(大和国守護職でもある)を務めていた。この仏教勢力と藤原氏の氏神を祀る春日大社の2つによって、平城京自体が藤原氏の完全支配下になっていたわけです。

元々、百済系大王の祖・百済コンキ(応神天皇)が扶余系大王家に婿入りする際に持ち込んだのが、支配者用の冷徹な小乗仏教と現世ひいては政治に関心を持たなくなる民臣恭順化用の東方キリスト教(波斯教 後の景教)の2つの宗教。このうち仏教を使って藤原氏は勢力を伸ばしていったのですが、寺院には武装化した僧兵が溢れる状態となってしまった。これが扶余系・百済系を問わず大王族にとって恐れる政治勢力として映っていたのです。

そして、その呪縛から逃れるように土着系である秦氏(邇波氏)の協力の元、平安京に遷都を敢行。この時、民衆にまで広まってしまった仏教を毒気のないものにする為に、空海と最澄を唐に遣わし、景教教義を織り込むことで仏教を無害化させていった。これが大乗仏教である平安仏教。
※高野山の儀式では、最初に棒で十字を切る(中印)。頭に水を掛ける洗礼が「灌頂」となっている。日本で死者を弔う戒名も元々の仏教にはないもの。この風習は景教から来ていて、景教は洗礼を受けた人々に洗礼名を授けていたが、仏教がこの習慣を取り入れた。

同時に東方キリスト教は神道として日本風に改められてリニューアル。全国の神社には監視の為に秦氏グループの神祇を司る賀茂氏から禰宜が派遣され、従わない場合は武力を使い篭絡された。伊勢神宮神殿もそれまでのオリオンの三つ星同様に斜め配置された三社殿形式から、弥生時代の高倉を模した唯一神明造りに改められ、式年遷宮がこの時から開始されたのです。

伊勢神宮三神殿(三井)
(三社殿形式の伊勢参詣曼荼羅 三井文庫所蔵)

このように日本は仏教テイストを織り込んだ平安仏教とリニューアルした神道の2つの宗教で構成された国であるのですが、この根底にはいずれもユダヤ教色が濃く残された東方キリスト教が据えられている。勘違いしないで欲しいのは、日本人がヘブライ人直系末裔なのではなく、日本人の支配層の一部がヘブライ人直系末裔なのです。大方の民草の出自は長江出身の中国人(倭人)ですね。どちらかというとエドム人(縄文人)の血の方が流れていると思われる。

yamagasa.jpg
(神輿を白装束で担ぐ姿は聖櫃を担ぐレビ人と同じ)

この恭順化策が効を奏しているのか、日本は世界に比類なき政治的に安定した国であることは衆目が一致した意見。1つの王朝や国が1300年以上も続くのは世界史を眺めても希な事象であり、これが日本が優れた点でもある。東方キリスト教は日本のスタビライザー(不規則で不要な揺れを抑制する安定化装置)なのかもしれん(笑)。

しかし、このことに関して日月の神はこういう。

「イシヤの仕組みにかかりてまだ目覚めん臣民ばかり。
日本精神と申して仏教の精神や基督(キリスト)教の精神ばかりぞ。
今度は神があるかないかを、ハッキリと神力見せて、イシヤも改心さすのぞ」


初詣-~1
(今年も混雑が予想される初詣ですが、年初に神社に怒涛のように押し寄せるこの特異な現象は、民族の集合的無意識層に深く刻まれた後催眠暗示ゆえだと睨む。深く洗脳された幼気な羊たち。この民族の集合的無意識層を乗り越えて行くのが大魔神コード「22を超えて行け~」なのだす。)

では、その本当の神とは何者なのか?
その神について、日月神示はこう語っている。

「スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。
間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。これでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。

それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。

釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。」
(第15巻 岩の巻 第1帖)


スサナル、、、これは「荒んだ広飲み屋」のことなのだろうか?(滝汗)

スサナルとは素戔鳴と書き、大本神諭では「月の神霊」であり「悪の御用」をした「神霊」だと明かされている。

「世界中の罪負っておはしますスサナルの大神様に気付かんか、
盲つんぼばかりと申してもあまりでないか」

「この世の罪けがれ負って夜となく昼となく守り下さる
スサナル神様あつく祀ってくれよ」

「スサナルの大神様罪けがれ祓って隠れて御座るのざぞ。
結構な尊い神様の御働きで、何不自由なく暮らして居りながら、
その神様あることさえ知らぬ臣民ばかり。これでこの世が治まると思うか」

「岩戸は五回閉められているのざぞ。
那岐、那美の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、
大切なのはスサナル神様に罪着せし時、
その五度の岩戸閉めであるから此度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。
いよいよ厳しくなってきたがこれからが正念場ぞ」

「スサナルの大神様もあつく祀りてくれよ、
この神様には毎夜毎日お詫びせなならんのざぞ、
この世の罪けがれ負われて陰から守護されて御座る尊い御神様ぞ」

「スサナル命が、荒ふる神、悪神ではなく、
人民の罪背負って下さる救い主の大神であることが判らねば岩戸は開けんぞ」


う~む、スサナルとは自らの属するうちは一族を皆殺しにして里を護るという苦渋の決断を受け入れ、その罪を一身に背負った「うちはイタチ」のような存在だな。

スサノオ
(サスケとの兄弟対決。この時、うちはイタチの最強瞳術「スサノオ」が炸裂するが、これは天照(左目)と月読(右目)の合成瞳術でもある。)

悪を働いたとしてバラバラにされ埋められた者に巨旦将来がありますが、この巨旦を倒した武塔神は自らを「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称している。その後、この説話は武塔神=牛頭天王とされ、牛頭天王縁起にまで発展する。武塔神の弟の「巨旦将来」は夜叉国の巨旦大王(金神)となり、牛頭天王となった武塔神と戦って負け5つにバラバラにされたが、これが各節句の食べ物として残っているのです。

1月1日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
3月3日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
5月5日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
7月7日----小麦の素麺(巨旦の筋)
9月9日----黄菊の酒(巨旦の血)


オイラが思うに武塔神はスサナルの成り済ましだろう。それが冒頭の言葉「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称させているわけです。

巨旦将来に関しては蘇民将来の説話にも出てきます。これは裕福な弟・巨旦将来は武塔神の宿泊の申し出を拒み、貧乏な兄・蘇民将来を受け入れ持てなしたという内容。その時、再び訪れるから、その際の目印に茅の輪を付けろと言い残していく。武塔神が再び訪れた際、茅の輪を付けた一人の娘を残しただけですべて滅ぼしてしまったという。つまり、速須佐能神は宿を貸してくれなかった弟の巨旦将来一族ばかりでなく、貧しいなりに自分を接待してくれた恩義あるはずの蘇民将来まで殺したことになるのです(あはは・滝汗)。実は、この説話は蘇民将来=縄文人(アイヌ、山代王朝、後の出雲王朝)、巨旦将来=徐福末裔と解すると非常に納得がいく内容なのです。

徐福一行は列島に先に土着していた縄文人の許しを得て列島に入植した「弟」に該当する氏族なのですが、養蚕・機織・酒造・造船・製鉄・製銅・農業・鵜飼...等の大陸技術を持っていた為に非常に裕福な国になっていた。しかし、縄文人は扶余系スキタイ(初期大王族)をスカウトして邪馬台国討伐し、その後しばらくしてから、豊田市方面から軍を進めた倭讃(景行天皇)と三川の捕鳥山での徐福国首脳との酒宴での会談を催した。この時、徐福国解体(国譲り)という受け入れられない要求を突きつけられた為に開戦に至ったのだと思う。

最終的に倭興(清寧天皇 経津主命)と百済系の入婿・倭武(応神天皇、日本武尊モデル、武甕槌命)らの行った討伐によって房総半島にまで逃げ延びた徐福末裔はここで滅亡した。その後も百済系大王族は縄文人世襲大臣職を葛城氏から奪い、自らの血筋の藤原家に与え、さらには入婿したはずの扶余系大王族まで滅ぼしてしまった。この歴史が武塔神の宿泊を受け入れず殺されバラバラにされた巨旦将来や泊めたのに関わらず殺されてしまった蘇民将来の説話となっていったのだろう。

徐福国は斉から持ち込んだ蚩尤(しゆう)を奉じていたのですが、この蚩尤も黄帝との戦いで負けてバラバラにされ埋られたという説話を持っている。つまり、この蚩尤説話を元に歴史事跡を絡めて巨旦将来の説話が創作されたのだとオイラは睨んでいる。

このように見ていくとスサナルとは、徐福系の神である蚩尤ということになるのだが、、、実際、スサナルの「ナル」が楽器の「鳴る」を表していそうだし、蚩尤を祀る銅鐸神事は地面に埋められた銅鐸を祭りの日に掘り起こして銅鐸の音を鳴らす神事をしていた。実に「スサナル」という名に相応しい(ふふふふ)。

徐福の東渡自体は軍事的侵攻というものでは無く、技術者と童男童女3000人を連れて来たという非常に平和的なものであり、その技術者の持ち込んだ大陸技術が列島に多くの恵みをもたらしたことは確かなことです。なのにこのような仕打ちとは、、、やはりスサナルは徐福系の神・蚩尤で決まりなのか?

ただ、初期大王族の封じられた吉備国(岡山)に金神系の降臨が多いのが気になるところです(滝汗)。
※倉敷の「堅磐谷の元金神」と呼ばれた小野うた。「亀山の金神」と呼ばれた香取繁右衛門(香取金光教の祖)。「大谷の金神」と呼ばれた川手文治郎(金光教の祖)。大本の出口なおの「艮の金神」も有名ですね。初期大王家は天神(ヤハウェ)を奉り天香具山山頂で鹿の犠牲にして「はん祭」を行っていたが、同時に徐福国の神仙思想(道教)にもかぶれており、地神をも祀っていたと思われる。天神はそのまま神道に残ったが、地神は出雲王朝でも廃止された。その形跡が荒神谷遺跡の銅矛・銅鐸の大量出土。地神(蚩尤)神事廃止の理由は、語り部によると出雲王朝廃朝して統一王朝にする際に倭武の持ち込んだ東方キリスト教(天神)を受け入れた為だという。蚩尤を受け入れていた初期大王家が蠢いているのに、蚩尤の本拠地・三川が動かないのは、それだけ強烈な呪詛が賀茂氏によって施されたからなのだろう。

おっと、、ここで啓示が降りてきた(爆)。

「スサナルとは正邪反転したサスケとナルトの一体化のことじゃ」

つまり、サスケの「サス」を逆にした「スサ」とナルトの「ナル」

これがスサナル! 

実はアニメ『NARUTO』のオチもこの辺に落ち着くだろうとオイラも睨んでいるのだが、、、日月の神とは実は強烈なアニヲタなのかもしれん。
※サスケとナルトの一体化とは「衆道」のことではない。六道仙人(大筒木ハゴロモ)には息子が2人いて、仙人の眼を継承した兄の末裔がうちはマダラの一族、仙人の肉体継承した弟の一族が千手柱間の一族。この千住の親戚筋に当たるのがナルトのうずまき一族なのです。つまり、六道仙人とサスケとナルトの関係は、アブラハムとエサウとヤコブの関係と同じ。一なるものが二となり、再び一となる。これがサスケとナルトの一体化ですが、「十尾=チャクラを抜かれた神樹」という展開になっていることから、当然、禁断の実を食べてチャクラを得た六道仙人はアダムカドモンを彷彿とさせる内容になることは必須。元々、ナルトとサスケはチャクラが裏で繋がっているわけだし、、、一体化は必然的流れでしょう。

スサナル
(スサナル・爆)
スポンサーサイト

Comments

徳川四天王の一つ、本多氏の家紋も三ツ葉ですが鴨社神紋により近い立ち葵。
徳川家の出自の松平氏は、三河国加茂郡松平郷に由来するので、鴨社との縁もあるかも知れません。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

雪さ~ん♪へ

コメントありがとうございます!

> 徳川四天王の一つ、本多氏の家紋も三ツ葉ですが鴨社神紋により近い立ち葵。

さすがよくご存知で!
バリバリの歴女ですねぇ~

本多氏は賀茂神社神官の出だとか、また、その家紋を見て家康が譲ってくれと言ったとかいう話もありますね。

> 徳川家の出自の松平氏は、三河国加茂郡松平郷に由来するので、鴨社との縁もあるかも知れません。

豊橋賀茂神社には長篠の戦い前に戦勝祈願した話が伝わっており、また、野田城の戦い(三方ヶ原の戦いのスグ後)で敗走した家康は賀茂神社の御神木の洞に隠れて難を逃れたとも言われてもいます。このような逸話がある故に、賀茂と家康は何か繋がっていると思います。

Re: No title

コメントありがとうございます!

> http://www.youtube.com/watch?v=H7byjmt2NrM

よくご存知で!
実は、この人の動画全部見て知っております。

自分の中でどう位置付けするか思案中でした。
で、浜松の蜆塚博物館で銅鐸見てから記事化しようと考えていた案件です(笑)。
(実際に薄いフィンを見てみたかった)

1)銅鐸は弥生後期になり大型化
2)初期銅鐸は小型で内部を舌で鳴らした傷跡がある
3)諏訪神社の木に吊るすサナギが銅鐸本来の使い方だった

いまのところの考えでは、銅鐸が巨大化したあたりから簡易的な天文観測的な機能を持たせたのではないかと思っています。目盛を正確に読み取るにはやはり銅鐸は大きい方がいいという考えなのでしょう。あと1つ解せない点が普段は地中に仕舞っておく点でしょうか。天文観測装置なら「常設」が当然だし、より精度を高めるには巨大な観測塔に至る筈なのです。

祭りの日を単に知るだけなら銅鐸にそのような観測機能を持たせず、別途、高精度な観測装置で祭りの日を知り、その前日に銅鐸を掘り起こすという方法を取るだろうと思われます。

以上の点から、巨大化した銅鐸はその観測行為自体が1つの神事になっていったのではないかと睨んでいます。銅鐸は音としてはカウベルのようであり音があまりよくないので、音源は別の鉄製の鐘や鈴で代替していったのでしょう。ただ、銅鐸本体は地面に埋めてシユウの精霊を宿すものなので、鉄製だと錆びて腐ってしまう為に銅製のままだった。

以上、まだまだ集約化し切れていない考えです。
やはり、一度現物を見てみないことには、、、、

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

賀茂県主出自は
>エドム人を祖とするアイヌ土着民(縄文人)の出雲王朝最後の王・荒田別

とありますが、縄文文化には鉄器は存在しません。鉄の生産地出雲の豪族は渡来人と思われます。

縄文時代に産鉄技術を持つ渡来人が鉄を求めて列島にやって来ました。鉄の生産は重労働なので縄文人が駆り出されましたす。なので賀茂族の出自を縄文人とすることは、産鉄民族による列島侵略という黒歴史をタブーとしているように思います。

縄文人の定義をは縄文文化の継承者とするなら、鉄が存在しない縄文文化において産鉄部族を縄文人としてほしくないと思います。渡来人が鉄を求めたのは鉄が武器になるからです。一方縄文文化には武器は存在しません。だから縄文時代は争いもなく1万年も続いたと言われています。その平和な時代を終わらせたのは鉄を求めてやってきた渡来人なのです。

ちなみに吉備国(岡山)も有名な古代製鉄の産地でした。金神はその地の製鉄部族のことでしょう。

名無しさ~ん♪へ

コメントありがとうございます!

> 縄文文化には鉄器は存在しません。鉄の生産地出雲の豪族は渡来人と思われます。

縄文人(アイヌ)末裔が騎馬民族誘致して、邪馬台国討伐、その後、徐福国討伐して養蚕・機織・酒造・製銅・製鉄技術取得。尚、徐福の大漢国式製鉄技術は銅鐸製造の製銅技術の応用であり、技術的に後に渡来する鉄鉱石を使った「たたら式製鉄法」に比べると未熟。

銅鐸を電子顕微鏡で観察すると「自然銅」の塊が多く見られますが、自然銅は銅含有量99パーセントの純銅。竹の子やわらびのように地上にニョキニョキ生えていますが、長い年月の間に余分なものが全部空気や雨で溶けて出てしまい純粋銅分だけが残ったものです。この自然銅を溶かして鋳型に流したものが銅鐸ですが、この製法(鋳造)と同様な方法で鉄製品を造ったのが徐福が伝えた製鉄法だと睨んでいます。東三河(三川)には「高師小僧」という根の周りに鉄分が付着して固まった塊が多数産出されますが、この鉄を溶かして鋳型に流し込んだもの。鍛造品ではないので強度的に劣り、武器としての使用は?だと思います。

> 縄文人の定義をは縄文文化の継承者とするなら、鉄が存在しない縄文文化において産鉄部族を縄文人としてほしくないと思います。

あくまで縄文人直系末裔という民族的な区別けでの話です。弥生時代になっても縄文系の血を引く者は残っていますし、弥生時代に列島の人全てが弥生人になるわけではなく、一部混血しながら共生していた。弥生人は長江から渡来して来た中国人です。

> ちなみに吉備国(岡山)も有名な古代製鉄の産地でした。金神はその地の製鉄部族のことでしょう。

この吉備に押し込められたのが扶余系の渡来人で、彼らがたたら式製鉄を持ち込み、出雲の縄文人末裔にも教えたのだと考えています。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

神武やヤマトの東征ルートは製鉄部族の地であることはよく知られてますが、そこに徐福がどう絡んでくるんでしょうか。徐福ってもっと後じゃないですか?

長江から渡来して来た弥生人以前に海を渡ってやって来た渡来系がたくさんいますよね。淡路島から始まった国産み神話が島から始まっているのは海洋民族による征服が最初にあったと思われます。

大陸の騎馬民族をスカウトしたのはこの渡来系海洋民族の可能性もあり、縄文人の末裔とは一概に言えないのでは。なにせ古代のこの島は征服の歴史ですから縄文人(その末裔だとしても)が大陸からスカウトとかベクトルがおかしい気もします。むしろ渡来系が同じように強力な助っ人を誘致したと考える方が自然では。

というより、普通に騎馬民族が渡来して邪馬台国をやっつけたと考えればいいのでは?なぜそこに縄文人の末裔がリクルーターとして登場するのでしょうか(笑

扶余系の渡来人が吉備に押し込められたとありますが、邪馬台国を討伐した騎馬民族がそんな所に押し込められるほど大人しくてよわっちいんですか?鉄が豊富な産地に押し込められるって随分お得だと思いますがw

>この鉄を溶かして鋳型に流し込んだもの。鍛造品ではないので強度的に劣り、武器としての使用は?だと思います。

列島には鉄器は青銅器とほぼ同時に伝搬されましたが、黒曜石の矢じりや銅しか知らない民族に対しては十分脅威だと思います。

名無しさ~ん♪へ

コメントありがとうございます!

>徐福ってもっと後じゃないですか

古事記・日本書紀の神武即位(紀元前660年)の記述をそのまま信じるならば、徐福は神武の後に来たことになりますね。しかし、、、

・中国史書にある倭国大乱、卑弥呼、邪馬台国が記紀に記述なし
・中国史書にある倭五王(讃・珍・済・興・武)が記紀に記述なし
・徐福東渡は事実(中国徐福村、日本各地の伝承)なのに記紀に記述なし
・銅鐸使用とその神事廃棄の経緯すら記紀に記述なし

これでは紀元前660年に渡来したという内容は眉唾ですね。ですから、記紀は徐福(紀元前200年)、邪馬台国(B.C300年)よりも後に渡来した部族によって書かれたものという立場に立ってブログを書いています。

>海洋民族による征服が最初にあったと思われます。

それがアカバ湾にいたエドム人です。
伊勢の海女の護符ドーマン・セーマンはアカバ湾の漁師が今でも使っています。

>むしろ渡来系が同じように強力な助っ人を誘致したと考える方が自然では。

エドム人とスキタイ化したヘブル人はアブラハム以来の兄弟部族。半島で加羅国等でスキタイが傀儡王(雇われ王)をしていたのを知った縄文人(アイヌ、エドム人)が交渉して日本でも傀儡王をしてもらい、列島が中国化(弥生人=長江出身の中国人が大陸からドンドン押し寄せる)する元凶である邪馬台国と徐福国を討伐してもらったということです。

>普通に騎馬民族が渡来して邪馬台国をやっつけたと考えればいいのでは?

残念ながら、騎馬民族が渡来して来て日本中が大戦争になったという遺物が出土していないのです。あくまで局地戦であり、その後、何も無かったように平安な日々を過ごした弥生時代の集落遺跡ばかり。これは合意の上だと考えるのが自然でしょう。騎馬民族征服説を唱えた学者もこの件で自説を引っ込めた程です。

>邪馬台国を討伐した騎馬民族がそんな所に押し込められるほど大人しくてよわっちいんですか?

後に来た百済系との朝廷内における権力闘争で負けたのです。配置転換で吉備国へという流れで、中央=朝廷=近畿から去らさせられたということ。決してドンパチした結果ではないのです。

>黒曜石の矢じりや銅しか知らない民族に対しては十分脅威だと思います。

残念ながら、鋳造では刃物・刀剣は作製できません。
いいところ鐘ぐらいでしょう。
鋳造製矢じりは、貫通力が優れるのでもなく、武器としては圧倒的優位性を確保できるものではなく、黒曜石や石や銅と比して対して変わり映えしません。それよりも武器として圧倒的なのは鋭利な刀剣。これは鍛造以外では作製不可。

大伴氏と藤原氏は親戚

藤原氏を語るとき、忘れてならないのが、藤原鎌足のおじいさんは大伴咋であり、大伴氏の血脈は、鎌足の血脈を通して皇室の中で続いていたという歴史ですね。すると、皇室のバックには藤原氏、そのまたバックには今も大伴氏がいるかもしれませんね。

No title

エドム人が縄文を征服した海洋民族なら、エドム人は縄文人ではないということになりますね。

>記紀は徐福(紀元前200年)、邪馬台国(B.C300年)よりも後に渡来した部族によって書かれたもの

なるほど、徐福を邪馬台国と同じように捉えているわけですね。ふむふむ。
記紀に書かれていない、タタラよりも未熟な製鉄技術=日本に早く来たという、未熟であれ製鉄を日本に伝搬したのは徐福たち、という理解だということでしょうか。

徐福についてはよく知らないので彼らがいつ来たか、なんともいえませんが、記紀は征服民族による彼らの神話化のための聖書みたいなもんですから、それに都合が悪かったり関係ないようなことをわざわざ記したりはしないとは思います。邪馬台国が記されていないのは彼らの神聖化に都合が悪く、彼らが神扱いされるための神話には、実在の女王の存在は邪魔だったかもしれませんね。

製鉄部族の出雲のヤマタノオロチをスサノオが討伐したエピなど、すでに日本には優れた製鉄技術を持つ部族があちこちに群雄割拠していて、その討伐のストーリーが東征神話になって記紀に記された。武器を作る技術のなかった徐福が入り込む余地はないのかもしれない。

また、徐福は神武の後にやって来た記紀に記すほどの集団ではなかった可能性もありますよね。日本では中国よりも製鉄技術が独自の進化を遂げたのがタタラだったとか。これは今の時代でもありがちですねw

>残念ながら、騎馬民族が渡来して来て日本中が大戦争になったという遺物が出土していないのです。

これは当然だと思います。
当時の列島はもののけ姫の森のように獣道しかない深い森に覆われていたはずですから。
モンゴルの平原みたいには行かず土地勘のない騎馬民族によって全国制覇なんて到底無理です。なので、必ずしも合意があったとは言えないかもしれません。

邪馬台国が北九州にあったなら大陸に近い分可能かもしれませんが、まあ私はあまりそこら辺は興味ないので・・・w
縄文人が半島からリクルートという説にびっくりしたので、その誤解が解ければ構いません・・・。


ブログはたびたび参考にさせて頂いてます。
これからも楽しみにしています (*^_^*)

はじめまして

はじめまして。
私も、語り部さんの情報を元に、いろいろ妄想させていただいています。こちらの情報は、語り部さんの情報を咀嚼されているので、わかりやすく、有難いです。
 ところで、こちらの情報をご存知でしょうか?
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/sss_fe555

かなりの部分で、語り部さんと一致していますが、微妙に異なる部分もあり、全く同じ情報ソースでは無さそうです。

わたしは、語り部さんと、ご紹介したソースを基本にしています。

SL2tonさ~ん♪へ

コメントありがとう「ございます!

>ところで、こちらの情報をご存知でしょうか?

これが「語り部(影武者)」として紹介していたものです。
同一人物と見て間違いないですね。

最近は「語り部」「「語り部(影武者)」という区分けで書かなくなってしまいましたが、、、(汗)

いろいろな部分で小さな差異がありますね。例えば、徐福の上陸地が御津の六本松から豊田・堤の三本松に変わったり、藤原鎌足が百済豊から百済翹岐に変わっていたり、、、、焦ります。

名無しさ~ん♪へ

コメントありがとうございます!

>エドム人が縄文を征服した海洋民族なら、エドム人は縄文人ではないということになりますね。

語り部の言葉を紹介します。

「邪馬台国を監視する為、丹波地方の邇波国に王朝を置き大陸との交易地を押さえた。三王朝設立させる為彦国、毛野国・句奴国から遷都[大国主族は、インド経由インドネシアよりフィリピンの、東海上から、当時南端の青森県に上陸し津軽に都を後に武蔵野に都を持つ祖先は、エドム国で、北は、死海の南端から、南は、アカバ湾迄領土を持って居た。新バビロニア王朝ナボニドスに滅ぼされ・・移動して来たグループが、先住民族。国土全体で後から来た人種を纏めた。所謂南方系隼人は、インドネシアより琉球経由薩摩上陸。]して来た。[バイカル湖経由グループは樺太方面居住]」

つまり、エドム人=ヘブル人の兄族(エサウが祖)=アカバ湾の海洋民族が、青森に渡来して縄文人=毛人(蝦夷)=毛野国(句奴国)=山代王朝=出雲王朝=大国主族=国津神で日本の土着先住民です。当然、その他の渡来系民族、エブス人(エルサレム先住民)、フェニキア人...等もいた。

> 当時の列島はもののけ姫の森のように獣道しかない深い森に覆われていたはずですから。

騎馬民族が征服していないという証左は古墳や祭祀が継承されている点からも言える。また天皇家が騎馬民族的な祭祀(馬に関わる神事)をしていないことから、征服して従属化というのは成立しないのです。しかし、一方、古墳時代から日本に馬がいなかったのに突如、馬具等の副葬品が現れる。この相矛盾する唯一の突破口が縄文人スカウト説(傀儡王)ですね。スカウトされた故に、元々あった神事は継承するという契約内容だっただろうと思います。

傀儡王(スカウト王)というのは別段珍しい話ではなく、現英国王室もオランダ王室も欧州の多くがドイツ王家からスカウトでやってきて君臨しています。ウィンザー家も元々はハノーヴァー・サクス・コバーグ・ゴータ家というドイツ系バリバリの名称でしたが、第一次世界大戦でドイツと敵対した為にドイツ風の名称から変更したに過ぎません。

同族で揃えた傀儡王化は、主に隣国との紛争を避ける為に構築されるわけですが、国家安全保障上、実に有効に機能します。これが上古の東アジアでもあったというだけのことです。

こう考えると、上古において何故、蘇我氏(葛城氏、その後、鞍作毛人、鴨毛人を輩出。同族に小野毛人あり、毛人=蝦夷=エミシ【アイヌ言葉で「人間」を指す】 毛人=縄文系(アイヌ)と見て間違いない。)が世襲大臣職となって実質的な支配できたのかというところが分かってきますね。つまり、蘇我氏(葛城氏)とは、大量の渡来で弥生人(長江の中国人)化する列島を騎馬民族を招聘して防止し、その後、統一国家創設の為に「国譲り」した縄文人王の末裔だったというわけです。

「語り部(影武者)」

 さすがですね、ご存知でしたか。
ところで、お教えいただきたいのですが、
イザナギは、殺された邪馬台国の王で、イザナミは卑弥呼(セオリツヒメ)だと推定しています。
禊払い(処刑)されたイザナギの墓がどこか思案しています。

SL2tonさ~ん♪へ

コメントありがとうございます!

> イザナギは、殺された邪馬台国の王で、イザナミは卑弥呼(セオリツヒメ)だと推定しています。
> 禊払い(処刑)されたイザナギの墓がどこか思案しています。

語り部の「倭得玉将軍が騎馬隊を率い、秋に責め滅ぼしますが、残党は九州北部に集結し最後の抵抗を行い滅亡します。 邪馬台国の男王は捕縛され、彼等の法で裁かれ処刑されます。」の箇所ですね。

多分、九州の吉野ヶ里近郊ではないでしょうか!
南内郭(王の居所)近くにある3基の「前方後方墳」などが怪しいですね。

それ以前の邪馬台国の王ならば、箸墓古墳(卑弥呼)の近辺ですね。

ホタテ貝型の前方後円墳であるホケノ古墳はコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺ですが、これはある意味「舟」であり、当時、水の都だった邪馬台国中を引き回すには都合がよかったのかもしれません。大神神社伝承では被葬者は豊鍬入姫命と言われることから、この古墳は卑弥呼の後を継いだ女王「台与(とよ)」になりそうです。

■纏向古墳群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

大祓の意味

ありがとうございます。
祓いの祝詞の、
・筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
が、何処か検討しています。

また、大祓の国つ罪の
・己(おの)が母犯せる罪
とは、天智天皇の行いその物であり、その結果生まれた不比等が、己れの罪汚れを清めるものであろうと思います。

大祓は、
・北方系ユダヤ人の招聘
・邪馬台国滅亡
・三輪王朝成立
・南方系ユダヤ人招聘
・国譲り
・上の宮、下の宮のいざこざ
の物語であり、特に、
・天の益人等が過ち犯しけむ。種種の罪事は天津罪国津罪許許太久の罪出む。
のくだりは、蘇我毛人、新羅系、百済系のいざこざであろうと推測しています。

大祓を唱えることにより、各地の山、古墳、神社に封印されている怨霊に言い聞かせ(鎮魂)、
過去のいざこざに起因する怨霊の怒りを鎮魂するのであろうと考えています。

神道で、四足の肉を供えないのは、神社に封印されている怨霊を栄養失調の状態にするためでしょう。
本来の祭りは、香久山で鹿の肉を焼いて匂いを届けるとありますが、
「祭」の漢字の成り立ちは、肉(肉月)を手(又)に持って、祭壇(示)に供えるですね。

語り部さんと、煩悩くん殿のお陰で、真実に近づかせていただいていることに感謝しています。

Comment Form

管理者にだけ表示を許可する

Trackback


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)