信長の純情

邪馬台国、壬申の乱、、、いままで日本史の謎について解明してきましたが、歴史マニア誰もが陥るようにオイラも自説の歴史解明が間違いなく世界で一番正しいと自負しているだす~っ(爆)。

まぁ、ネタを明かせば、語り部のいう内容にほとんど準拠しているに過ぎないのですが、、、(滝汗)

本題ですが、最近、あることが切掛けで織田信長の「本能寺の変」(天正10年6月2日未明に発生)について、いろいろと考えていました。まぁ、甲斐源氏・武田氏の流れを汲むオイラにとって織田信長は旧敵ではあるが、ヒトラー同様気になる存在ではある。

この事件には謎が多く、信長の遺体が見つからない、、、クレバーな光秀が後のことを考えずに謀反するのはおかしい、、、公家日記が「変」の前後1ケ月記されていない、、、光秀私怨の突発的謀反にしては家臣団から離反者が出ていない...等があることから、光秀単独行動説以外に多くの陰謀説・黒幕説(秀吉黒幕説、足利義昭黒幕説、朝廷・光秀の密議説、足利義昭黒幕説、イエスズ会黒幕説、長宗我部黒幕説)が提示されている。ただ、これが結論だと言えるような決定的資料がない為に日本歴史上の最大の謎の1つとされている。

遺体の無いのはヒトラーにも共通するところです。
※註 ピストルで頭を打たれたヒトラーの替玉(ダブル)の遺体は見つかったが、本当の本人の遺体は見つかていない。飛鳥昭雄氏(参照)にによれば、連合軍が地下基地侵攻時にに飛行機の強制着陸し、手出し禁止状態の中、機に乗り込んだ男が2人いる。これがヒトラーなのか? ただ、これはベレスコの話と違うが、、、どちらの話が信じられるだろうか?

nobunaga.jpg
(三宝寺に伝わる信長肖像画)

一時期は桐野作人氏、立花京子氏による朝廷黒幕説が主流になりそうな勢いでしたが、何故かその論説は両社の自説撤回により完全終結した。この突然の収束の仕方が実に怪しい。オイラは何らかの圧力があったと睨んでいるが、完全な隠蔽工作ができる勢力はこの日本においては1つしかない。それは福島原発事故でも繰り返されている。(ふふふふ)

この事件は「変」と呼称されますが、これは「乙巳の変」のように勝者側や支配者側、つまり朝廷側が意図・企画した事件に使われ、逆に「乱」の場合、「壬申の乱」のように敵対側が意図した事件を指すということからも「黒幕=朝廷」を疑う余地は充分にあるのです。

結論からいえば、朝廷を牛耳る藤原摂関家の協力の元、秀光は信長排除を教唆されたのだろう。ただ公家は現代の官僚と同じく「保身」を第一とするが故に特定の肩入れはせず必ず逃げ道を用意しておく。ですから「教唆」はするが、決して「指示」はしない。こうして後で言い逃れ出来る余地を必ず残しておくわけです。世界に希に見る長さで天皇制が存続しているのも、その時の最大権力に擦り寄りながらも地位を脅かす勢力であると認めると影から排除を画策する藤原摂関家の日和見的な保身体質から来ている。そして、その摂関家が自らの冠(権威)として天皇を立てるのですから長期の王朝存続も納得なのです。また日本人の不可解さの特徴である「腹芸」はこんな公家特徴「教唆」に起源があるのかもしれない。

そして、黒幕の首謀者は五摂家の前関白で「藤原長者」である近衛前久ではないかと睨んでいる。多分、藤原氏のトップであるが故に藤原氏全体のことを考えてのことだろう。ただし、光秀への秀吉援軍として西国出陣命令、信長の上洛日程、供回り規模、畿内の兵力配置も全て信長自身が決めたことであり、これを朝廷や公家がコントロールなどは出来ないという反論もある。

では、どうやって謀反を成功させるに好都合な状況を作ることができたのだろうか?

それは、光秀の西国出陣の戦勝祈願で催された愛宕山の歌会に全ての答がある。5月28日の歌会には近衛前久らの公家衆も出席しているが、ここで最終的な談合が行われたとオイラは睨む。

この歌会で詠んだ光秀の有名な句、、、

時(土岐)は今
雨の下しる(天の下知る)
五月かな


これは土岐氏流である光秀が謀反の決意を表明した句だと言われている。そのスグ後で信長は80名を伴って上洛し、本能寺で堺の茶人と茶会(6月1日)を開いているが、これは茶道好きの信長を誘き寄せる為に堺の茶人を使ったのだろう。この茶会の後、信長は本能寺で軍を整え西国の毛利討伐の援軍に出向くつもりだった。大軍で京都入りするよりも京都で軍集結は、毛利の後ろ盾で即位した正親町天皇を始めとする朝廷への牽制として非常に有効だと考えたのだろう。

しかし、この茶会は撒き餌だった、、、

これに釣られてしまうとは、「第六天魔王」と自称した信長も意外と純情だっただすな。

ところで、ももクロの曲『D'の純情』の「D」とは、一般には「ダーク」の「D」だと説明されていますが、オイラは「第六天魔王」の「ダイロク」の「D」と「テンマオウ」の「’」(点=天)だと睨んでいる(超爆)。


(このマント姿は「京都馬揃え」時の信長の格好か?)

つまり、この曲は「信長の野望」ではなく、「信長の純情」という志半ばで無念の死を遂げた信長の隠された本当の心情を謳っているのだろう。そう思うと背後の望月の「Z」が信長の「N」に見えてくるから不思議だw

歌詞の中には、、、

大胆に絶対に最高に純粋に
逆境を味方に


とあるが、これは大軍を率いて上洛する今川義元と比べ、絶対不利と言われた信長の「桶狭間」の戦いぶりを彷彿とさせるような言葉。まぁ、ももクロにとっての今川義元はAKB48であるが、、、

それ以外にも、、、

全身で全霊で感情で本能
感情に応える


う~む、やはり本能寺を歌詞に散りばめてあったか、、、

大体がももクロの家紋自体が織田家の「織田木瓜(五つ木瓜)」紋と似てるだすし、「アイドル戦国時代を勝ち抜き天下統一を目指す」と言っていることからも、型破りな信長をコンセプトにしているのは間違いない(ニタリ)。

もも家紋 oda-uri.jpg
(左:ももクロ家紋  右:織田木瓜紋)

ちなみに歌詞の中で「サンキュー」とクドいぐらい謳っていますが、非常に耳に残ります。いろいろと考えた結果、これは菅原道真公を讒訴(ざんそ、悪口、告げ口)して大宰府に左遷させ憤死させた首謀者である左大臣・藤原時平が道真公の祟りで39歳の若さで亡くなったことの暗喩だとみる。

平将門の乱は最初「菅原道真朝臣鎮魂」を掲げていたように、平将門と菅原道真には1つの線が引けますが、実は、織田信長と菅原道真にも1つの線が引けるのです。

織田信長と菅原氏の関係は深く、織田信秀(信長の父)は菅原道真公を深く信仰し京都の北野天満宮より道真公の神像を勧請して那古野城中に祠を作り祀っていたという。それが移設されたのが今の名古屋市の「桜天神社」ですが、信長も道真公を篤く信仰したという。語り部によると、初期大王家の傍流・尾張氏を祖に持つ菅原道真は春日井市の菅原大臣町で生まれたといいますが、織田氏が守護代だった尾張と場所が被るのです。信長は最初は藤原氏、途中から平氏末裔を名乗ったが、本当の姓は菅原氏ではなかいかとオイラは睨んでいる(まだ妄想レベルではあるが、、、)。
※註 織田氏の発祥は越前(福井県)の「織田剣神社」の神官一族で忌部氏だという話があるが、この辺の真偽は後述。

それ以外にも、京都御所での馬揃えでも、乗っていた馬の名前が「大黒」(大黒天=シヴァ神化身のマハーカーラ)であり、信長は唐冠を被り首の後ろに梅の花を折って差し、蜀紅錦の小袖、白熊の腰蓑という格好だったという。この姿は菅原道真公が唐の衣装に身を着て梅の小枝を手に持つ「唐渡天神」を意識しているかのような服装だったのです。

唐渡天神
(唐渡天神)

ももクロ歌詞の中にも

胸にさす 花がこぼれても
夢まだ終われない


とあり、この花は「梅」の花のことだと思う。信長が好きだった能『敦盛』の歌詞には「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」と物質世界での生の儚さを謳っていますが、実は、まだ信長は夢を諦めていないのかもしれない。

この「梅」を愛でることから、織田氏の「五つ木瓜紋」は本当は「梅鉢紋」ではなかったかとさえ思えてくる。というのも、木瓜紋自体は保元の乱で有名な内大臣・徳大寺実能が使用していた紋であり後に朝倉氏が使用したが、これは4つ葉の木瓜紋なのです。つまり、何故、織田氏が5つ葉にしたかという謎の答が「梅鉢紋」にあると思うのです。

木瓜紋 梅鉢
(左:木瓜紋  右:梅鉢紋)

話が大幅に横道にそれてしまったが、、、

一般的に知られる信長の最後は、弓の弦が切れ、薙刀で応戦するが、手負いをしたので奥の部屋に引き下がり、そこで自害して火を放ったとされている。

しかし、城惣右衛門という「本能寺の変」で明智光秀に従軍していた光秀配下の武士は、本能寺の変での様子を『城惣右衛門覚書』に以下のように記している。

「...旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。

蚊帳の影から袈裟斬り、、、

全然違いますね。
こっちの方が俄然リアリティがあります。

これによると、本能寺に進軍する際も「信長様に腹を召させるとは夢とも知らなかった。」「討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていた。」とあり、光秀家臣でも幹部クラスしかこの謀反劇は知らなかったようです。

遺体が無い不思議さも、証拠を隠滅して主君殺しの怒りを少しでも鎮めようとしたのかもしれないし、信長が生きてるかもという一途の望みや怖れで他の武将の動きを牽制させる狙いもあったのだろう。戦いでは武勲を証明する為に首が必要ですが、今回の場合、黒幕だけに信長の死を確認させればこと足りるので、その後も首が上げられていない。また身体は爆薬で木っ端微塵にし証拠を一切抹殺したのでしょう。本能寺から90m離れたルイス・フロイスの「南蛮寺(サンタ・マリア寺)」で大きな爆発音が聞こえたことが記されている。信長の首は打ち取られた後、壁1つ隔てた隣の寺に運び込まれ、「対面」(首実検)の後、静岡の西山本門寺(富士宮市)に運ばれ首塚として埋葬された。織田家の子孫がここに参っているという。

その後、光秀は朝廷に出向き金品を下賜っている。

信長が浅井の金箔・漆を塗った髑髏(ドクロ)で酒を飲んだという逸話も、祟りを恐れ立川流密教の封印術を施した髑髏の前で家臣が舞を待ったに過ぎず、魚が腐っていてことを理由にした家康接待役解任の話も、領地召し上げて毛利攻略後の土地を充てがうという話も同様であり、信長を暴君に仕立て上げ光秀をかばうエピソードが次々と作られたのでしょう。

では、何故、朝廷(=藤原氏)が信長を排除したかったのか?

それは信長がどのように朝廷を扱っていたかを知らねばならぬ。弘治3年(1557年)、正親町(おおぎまち)天皇は後奈良天皇の崩御に伴って践祚したが、当時は毛利元就の献上金があるまで3年間も即位の礼を挙げられない程に朝廷は貧窮していた。永禄11年(1568年)、織田信長は天皇守護を大義名分に京都を制圧し、朝廷の財政を援助により回復させ、天皇の権威を利用して敵対勢力に対する度重なる講和の勅命発せさせた。

元亀元年(1570年)朝倉義景・浅井長政との戦い【勅命】
天正元年(1573年)足利義昭との戦い【勅命】
天正8年(1580年)石山本願寺と講和【勅命】


この権威に魅了されたのか、天正元年(1573年)正親町天皇に譲位を再三迫っている。しかし、譲位するにもお金が必要で上皇の住む御所が必要となるが、その費用がままならぬようで一度は決まった譲位も仕切り直しとなっている。実際、信長が本気で攘夷を迫っていたかも本当のところは分からない。

天正2年(1574年)参議に任官
天正5年(1577年)従二位右大臣の宣下
天正9年(1581年)信長が京都で大規模な馬揃え
天正10年(1582年)三職(征夷大将軍・太政大臣・関白)推任も回答せず
天正10年(1582年)安土城行幸の話が出る


正二位の官位だけは保持したまま、右大臣を返還して官職からフリー状態にいた信長ですが、これを取り込んで支配下に置こうと公家らの画策した「関白・太政大臣・征夷大将軍の3職のどれでもいいから好きなの持ってけ~」という「三職推任」にも信長は回答せずにいた。

信長の考えは、高齢の正親町天皇を譲位させ誠仁親王を天皇にして自分の娘を嫁入りさせ、生まれた子供に譲位させ、天皇の外戚となって「治天の君」となること。及び最終的にはイエズス会の宣教師を通じバチカン法王から日本の国王という認証を得るのが目標だったと言われている。朝廷の権威を利用しながら最終的には天皇位を織田の血で掠め取るというのが信長の考えだったのだろうか。オイラにはそれだけではないように思える。

また、信長の朝廷への牽制は以下のようなところにも出ている。

安土城は京都の東北(艮)にあるが、京都の鬼門を守護する比叡山延暦寺を焼討ち(1571年)し、鬼門封じを解き、京都公家を心理面からも恐怖に陥れた。

京都
(安土は京都の鬼門 さらにその延長上には金神碑の弥勒山がある)

信長はここに内裏の清涼殿を模った本丸御殿に「天主閣」を持つ壮麗な安土城を築城(1576年)したが、これは足利義満の寝殿造り、武家造り、寺院造りの三様式の階層を持つ「金閣寺」と同様、自らの意図を表現したもの。そして信長自身はこの地で「天主」「第六天魔王(他化自在天)」を名乗った。しかし、本能寺の変の後の光秀敗走の6月15日、謎の出火で安土城は焼失している。

きっと鬼門を怖れる勢力が焼失させたのでしょう。(ふふふふ)

桃山城
(安土城)

織田家は福井県丹生の織田剣神社(祭神・スサノオ)の神官一族(忌部氏)の出で、尾張守護の斯波氏に従って尾張に守護代としてやって来たとされている。先に述べたようにこれは信長が作成した系図であり甚だ怪しい。信長自体は津島牛頭天王社(津島神社)を氏神として仰いだという。津島神社の神紋は5つ葉の織田木瓜紋と全く同じなのですが、信長の織田弾正家は尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、その元を辿ると尾張水軍。ここから初期大王家の傍流・尾張氏につながる。前に述べたように菅原氏と同族ではないかと睨んでいる。

信長は官職がまだない1554年頃から「上総守」「上総介」を名乗っていましたが、これは上総国 (かずさのくに・千葉)で今川氏への対抗上という説もあるのですが、織田家は信長の代にそれまで出自としていた藤原氏から平氏に改めたのですが、桓武平氏の始祖・高望王の官職が「上総介」であり、信長は自らを「平将門の再来」だと暗に示していたのだと思う。朝廷に敵対し「新皇」と称し国体を奪取しようとした平将門もまた朝廷からは「第六天魔王」として呼ばれ怖れられたのです。

ここまでくると分かると思いますが、、、、

牛頭天王=蚩尤(しゆう)でしたね。また三界(無色界・色界・欲界)の内、最も下層の「欲界」を支配するのが「第六天魔王」ですが、これは「他自在天」とも呼ばれ「シバ神」のこと。更に地に封印された蔵王権現、ルシファーのことでもある。また牛頭天王は薬師如来と習合されていますが、薬師如来は織田信長の守護仏だったといわれ「織田薬師」と呼ばれる像が長翁寺にあります。安土城が薬師如来の霊地であり、ここで神宣言した信長は薬師如来の生まれ変わりと自負していたのではないかと思うのです。ちなみに、徐福が印度留学から持ち帰った書巻約3千巻と薬師如来像を携え、日本に渡来してきていますが、ここでも徐福、蚩尤、牛頭天王、薬師如来、スサノオがつながってきます。
※註 「欲界」は「六道」でいう下層の地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道に相当

「第六天魔王」を自称する信長は、国体奪取、つまり、既存のピラミッド構造(天皇制)を生かしつつ、その内部構造の変質を目的としていたと思う。既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場の「楽市・楽座」を創設したように、信長は既得権益からの干渉を非常に嫌っていますが、これは 門閥や身分に関係なく、徹底した能力主義を貫く信長が目指す国の姿は、平清盛が目指したのと同じ合理的な新しい国の姿だったと思う。子息を南朝の北畠氏、神戸氏という南朝系名家に養子に出していることや「武功夜話」がいう側室が南朝系の家であることから、天皇自体も北朝と南朝入替を行おうとしていたのではないだろうか。

つまり、日本初の易姓革命を狙っていた。

皇統が北朝のままでは、信長は主君筋の尾張守・斯波氏(足利氏一門の筆頭家格)を破った「逆賊」の謗りを永遠に免れられない。それをグレンとひっくり返す取って置きの切り札が北朝南朝入替だったと睨む。
※註 北朝=足利です。

その証左といえそうなのが、織田信長と陰陽師の土御門久脩の密談。この時、1万石の加増を約束されていたというので、何らかの密約があったのでしょうな。しかし、織田信長が本能寺の変で亡くなってしまい、その後、天下を取った豊臣秀吉は土御門久脩の加増をするどころか、逆に土御門久脩を都から追放してしまったのです。陰陽師は朝廷では位の低い家柄なる官職ですが南朝系が多いっていうか、陰陽道の起源自体が南朝から出ている。秀吉の土御門排除の件も藤原摂関家に擦り寄った時の密約でしょうね。

津島は南朝勢力の津島衆(南朝方15家を自治組織「惣」とする勢力)がいますが、信長の祖父・信定の頃、織田弾正家の領地化に成功したといいますが、信長自身もが若い頃、津島の祭りに盛んに参加して天人の扮装をして踊ったことが知られています。娘を津島衆筆頭の大橋家に嫁がせる等、信長はかなり南朝にズッポリ肩入れしていたのです。
※註 闇に埋められた南朝再興を企てているが為に地界の盟主「第六天魔王」と名乗ったのではないか?

朝廷、即ち藤原摂関家側もそう見ていたからこそ、自らの存在基盤とする既得権益を生み出す閨閥構造(ピラミッド構造)を守る為に、信長排除に動いたのは当然だといえる。
※註 徳川幕府の朝廷における藤原摂関家の優遇ぶりは群を抜いていて、「公家御法度」で締め付けがきついと言われますが、それに反するように摂関家に対する石高、最初に賜下される官位、皇后を出せる家柄...等、完全に朝廷は摂関家を頂点とした組織となった。江戸幕府が徳川将軍家を頂点とするのと同じように、、、この優遇ぶりには、江戸幕府開幕にあたり、賀茂氏出身の徳川家康と摂関家の間できっと密約があった筈です。

語り部は「明智光秀と柴田勝家が同盟。豊臣朝臣を与えた朝廷が黒幕。」と述べていますが、柴田勝家にも関東の滝川一益の台頭で上杉を滅ぼされれば、北陸で上杉を3年間足止めさせていただけの無能者扱いを信長にされ、切られる危機感を抱えていた。京都公家とパイプの太い光秀を通じて同盟を組む動機は十分ある。籠城の兵の命と引き換えにした開城もその約束を反故にして皆殺しにしてしまった勝家は敵の警戒心を増長させてしまい北陸に足止めになってしまった。一方、中国大返し(実際は早く返り過ぎて脱落者多発。摂津で合流して軍を整えた)という電光石火の早業で光秀を撃った秀吉によって、信長亡き後をどうするかを決める「清須会議」で完全に主導権を奪われてしまったのは、予期出来なかった。ただ、信長に絶対的な帰順をしていた高齢の柴田勝家に果たして光秀と同盟を組む気概があっただろうか?という疑問は残る。

ちなみに、謀反を起こした明智氏は美濃源氏の傍流で北朝側の家柄。また柴田勝家も北朝斯波氏に近い氏族とのことで、この本能寺の変の背後には「北朝と南朝」の確執があったと睨む。南朝勢力に肩入れする信長vs北朝側由来の家臣、このギャップに朝廷側が楔を打ち込んで来たのだろう。
※註 菅原氏も後醍醐天皇に仕えた南朝側の家筋。

信長無き後、家臣のいない秀吉にとって朝廷の後ろ盾は強力なバックボーンとなるが故に秀吉は信長の政策とは違う方向に修正し朝廷に歩み寄ったと見る。摂関家養子入り(近衛前久の猶子)及び関白職の下賜、新摂関家「豊臣」氏の創設を与えたが、その見返りに藤原氏念願の百済の地奪還を求められたのだろう。しかし、これが全国の武士団の処遇に困る秀吉の思惑(反秀吉派の粛清と統制)と一致したのが、二度に渡る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が起きた真の理由だとオイラは睨んでいる。

それにしても、信長があらゆる怨霊を纏った呪詛的演出で行った藤原寄生支配の政権奪取の策動も光秀の謀反であっけなく終わってしまった。まぁ、京都公家がその談合を取り持ったのですが、霊的には信長組み難しと観た京都に根を張る百済系皇統守護の霊能集団に公家は精神的に操られていることから、彼らの力の方がより強大だったということでしょうか。しかし、今、ニビル来訪で自然界の変動が大きくなり、自然力を利用した呪詛的力は弱まっていると睨んでいる。
※註 比叡山の強訴に怯え、清盛が神輿に放った矢による祟りを警戒するチキンな連中が公家なのです。これはマインドコントロールされた信者の如きであり、こういった輩は宗教的思想で操ることは容易いのです。この霊能集団もさらには目に見えない生命体が操っており、これが日月の神が言う「仏魔」でしょうか?
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歴史ミステリー

歴史ってミステリーですね。

時間の捉えかたが
歴史年表的な
過去→現在→未来
の直線的な一方通行から

過去⇔現在⇔未来
のように交互通行に流れている事を感じますね。
時間と空間の認識が
今までと変わってきているからなのでしょうね。

豊橋市のマークは
ゼロポイントを表しているのでしたね。

信長の暗号

信長、新撰組、邪馬台国、写楽・・・これらはどうも明治、大正に生まれ
昭和に育った典型的な例で、今日の信長像は昭和以後に作られた虚像じゃないか何て言う説があるなかで、、、

そんな信長の妄想話で一番面白かったのが、信長は「契約の箱」を知っていて、安土城の天守閣はそれを模倣したモノで、確かに、城の屋根の上に鯱が乗っている形がアークに似てなくもないような^^;

実は、「契約の箱」は隠されているのではなく、皆が見ることが出来る処に置かれている?というのは面白くないですか!?・・・

有名人のなごり

有名人のお墓って一人に一つじゃないんですってね。
墓標があっても遺骨がないなんて、なんかさびしいです。

松尾芭蕉なんかは全国あちこちに墓がつくられているのに
遺骨を入れてないところがかなりあるみたい。

これって…サギじゃないの?骨も遺品もないのにお墓だけあって、
ファンの人が花束を置いていく。で、ついでに墓地の近くの店でお土産買ったり何か食べたり。商売に利用されてる感じでネガな気持ちになりそう。やっぱりお墓にはちゃんと遺骨か遺品をいれないと、ニセモノだと
いいたいです。有名人のホンモノ墓前に花をたむける方が感動は
ぜーんぜんいいです。

堂々とHPまで作ってニセモノ有名人墓地を宣伝するのはウンザリ。そういうニセ墓地に行ってみると、態度の悪い人がいたり誰かの中傷ばっかりガヤガヤ盛り上げるおばちゃんが多くて またまたゲンナリ。
ネガ波動を浴びせられたら、また消化して汗やトイレで流します。
他人からネガの波動をあびせられたら、その日のうちにシャワー浴びるのも効果的ですよ。
有名人の名ごりは、場合によっては迷惑なことありますね。

私はアセンションした惑星からきた―金星人オムネク・オネクのメッセージ

関係各位
私たち(人類)にとても分かり易く[命の法則/因果応報&輪廻転生]を伝え教えてくれる[オムネク.オネク]からの(宇宙)メッセージです。

1) http://blog.livedoor.jp/ayumi-and1/archives/16227669.html

2) http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4198625034/ref=mem_taf_books_a?qid=1346552637&sr=8-1

(皆さまが)此から[地球/肉体]を離れる前に知っておいた方が良い話かも...

ご参照下さい!!

魂の朋友より

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