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百済に関する百済無い話

前回の記事では、帯方郡の位置が、今考えられている場所よりもっと北方ではないかと書きましたが、既にこのことは飯山一郎氏によって「百済=帯方=遼西」であると中国文献に載っていると公になっていました(汗)。

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『梁書』百済伝
 其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、
 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
 >その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、
 >西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた
 >遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。

『宋書』百済伝
 百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略
 有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。
 >百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に
 >在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、
 >百済は遼西を略有した。
 >百済の治する所は、言うところでは晋平郡晋平県。

『通典』百濟伝
 晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、
 晉平二郡。今柳城、北平之間。
 >晋の時代(265年-316年)、句麗は遼東を占領し、
 >百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。
 >今の柳城(龍城)と北平の間である。

遼西にあった帯方郡から『魏志倭人伝』にしたがって『邪馬台国』を目指しても,決して日本列島に到着することはない.せいぜいソウル近辺までしか到達しない。『邪馬台国』の所在地。それはソウル近辺だ!


■「百済や帯方郡が遼西にあった」という証拠
http://grnba.com/iiyama/more3.html#TG0419
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邪馬台国は、、、ソウル近辺?

ALL韓国起源説の悪夢が、、、、
鉄板レースが、いきなりバッドロマンスに陥りそうな話です。

以上の中国文献からみて、梁書・宋書の頃(万葉集の頃)、遼西(遼東半島の遼河以西地域 遼寧省西部)と晋平(河北省?…北京の南)に百済があったことは間違いなさそうです。しかも、こちらが本当の百済なのでしょう。

で、白村江の戦いが起きた地は、西朝鮮湾に注ぐ大同江か鴨緑江じゃないかと飯山氏は推測する。

百済
(百済の位置)

そして、倭が朝鮮半島中央部のソウル近辺あたりにいたのではないでしょうか!

ただし、というのは、別に日本だけを指す言葉ではなく、東アジアに国家成立しない状態で各地に偏在していた中国人勢力(日本でいう弥生人)のことをいい、当然、朝鮮半島や日本列島にも定住していた。ですから、邪馬台国がソウル近辺にあっても別段おかしいことではない。オイラはこの「倭」勢力の1つが日本列島で「大倭」(後の大和)を名乗っていて、それが卑弥呼の邪馬台国だと思っている。
※註 「倭」という字は「小さい」という意味合いであり、中華思想の元では周辺国は野蛮な国であり、【獣偏】を使った差別的な漢字を使用するのが普通なのに対し、【人偏】を使った著しく穏便な漢字を当て嵌めています。これは同胞であるという認識があったからでしょうか?

百済が現在の位置に矮小化された理由は、日本併合時の朝鮮総督府が満州の地名をせっせと朝鮮半島に移動させたからだという話がある。その理由は満州を中国でも朝鮮でもなく、どの民族の領有をも主張させずに空白地帯にする必要があったからだという。確かに、現在百済とされている場所からは百済らしいものが一切出土しておらず、オープンしたばかりのソウルにある「羅城百済博物館」の収蔵品は、七支刀、正倉院の碁盤、広隆寺木造弥勒半跏思惟像...等、日本にある百済関連品のレプリカばかりです。

やはり、百済は朝鮮半島には無かったのか、、、

7世紀の文献には日本の大王(倭の五王)と百済は通訳なしで会話できたと記されていることから、日本語は百済語は同じであり、よって現代日本語は百済語を元にして出来た朝鮮起源の言語であるという主張が韓国の学者から出されている。

オーマイガー!!!

かっぱえびせん、ポッキー、きのこの山、十六茶はいうに及ばず、侍、桜、剣道、空手、下駄、漢字、蚩尤(しゆう)も韓国起源とされてしまった昨今ですが、

日本語も韓国起源かぁ!!(滝汗)
※註 あまりにもウリジナルをコリエイトし過ぎだと思うが、劣等感を克服し国家アイデンティティ形成の為には形振り構わずといったところか、、、

しかし、現代の日本語と韓国語は大きく異なっています。これはいったい何故なのか? それは韓国語の元は新羅語であり、元々は百済語も新羅語も同じようなものであったが、新羅統一後、漢文をそのまま中国語読みしたことで音韻が増えていってしまい、現在のように21音も存在するようになってしまったのだという。これが現代の韓国語。一方、百済滅亡で日本に亡命渡来してきた百済語は朝廷で一般化し、また漢文をレ点...等を使って「訓読」する方法を発明した為に、音韻が増えることがなかったのだという。これが現代の日本語だというのです。

なるほど、なるほど、、、

確かに万葉集の和歌の枕詞には日本語では全く意味不明だが、古代韓国語ではそれなりに意味があるという。例えば「母」の枕詞「たらちねの」ですが、これは日本語で「オッパイの垂れた女性=母親」という解釈もありますが(爆)、古代朝鮮語では「慈しむ母」という意味となり、同じ内容を重積(ダブルミーニング)させて歌に詠んでいると云われています。また「奈良」に掛かる枕詞の「あおによし」の場合は「ごく薄い青色に見える」という意味になるという。上古の朝廷では多くの渡来人が官職に付いたこで公用語が朝鮮語であったと言われ、百済語=日本語はなかなか説得力のある説ではある。
※註 「たらちねの」は古代朝鮮語では他にも「垂れたチンポを引っ張り出す」という意味もあるとか、、、本当に古代朝鮮語なのか怪しくなってきたが、、、(爆)

ただし、百済には文字が存在してなく文献が存在していなかったので、百済語がどのような言葉であったのかがはっきりしていない現状では、この説は何ともいえない。百済に限らず日本語は高句麗、統一前新羅とも同じ言葉が多数存在するという指摘もあるほどなのです。一概に「百済語=日本語」とは言えない。

う~む、百済、新羅、高句麗とくれば、その元は「扶余」ですね。

つまり、百済も新羅も高句麗も元を正せば、騎馬民族「扶余」が関与して打ち建てた国であり、特に百済は兄弟部族の烏桓系を傀儡的に王とした国であって、王家は代々扶余族を偽装したと語り部はいっている。これらの国で使われた言語は扶余語であるが、実は、百済は支配者層と庶民では使う言語が違っていて、支配者層は扶余系で扶余語、庶民は韓人で馬韓語だったという。日本へは百済滅亡時に王族や多くの上流層が亡命してきたので、馬韓語を指す「百済語」というよりは扶余語が日本語の元となったといった方が正解じゃないかと思う。

実際、倭の五王は百済というよりも加羅国から来た扶余系の王家であることから、扶余語は百済語と同じであるといえるのでは?
※註 倭の五王「讃、珍、済、興、武」のうち最後の「武」は、百済王家からの婿入りしてきた百済昆支なので、百済と通訳無しで話せて当然なのだが、、、

日本語、韓国語ともに膠着語なのですが、これはフン族が元となったフィンランドやスキタイのトルコを始め騎馬民族が使う言語なのですが、実はシュメール人もフェニキア人も膠着語族だったのです。

縄文人(エドム人)であるアイヌは「孤立言語」で謎の言語ですが、日本の大多数を占める弥生人は中国長江出身の中国人であることから、日本語はシナ・チベット語族の中国語主体になるはずなのですが、何故か日本語は膠着語になっている。また日ユ同祖論を信じ「失われた十支族」全てが日本に渡来して国を作ったとしたならば、ヘブライ語主体となり、アフロ・アジア語族というイラクの言葉に近いものとなる筈なのですが、そうはなっていない。

これは何故なのだろうか?

多くの百済人が縄文人に立てられた傀儡王(天皇)を頼って亡命して来て支配者層を形成したので、アイヌ用語やヘブル人の用語も取り入れながらも、百済語(扶余語)が一般化して膠着語の日本語が出来ていったのでしょう。さらに遡れば、扶余語はフン族やフェニキア人、シュメール人にまで遡ることが出来、バビロン崩壊で「失われた十支族」は騎馬民族に合流し、ヘブライの言葉は単語のみが浸透して残っていったのかもしれない。この扶余語が日本語に渡り、ヘブル語と日本語に多くの音と意味が一致する言葉が多い理由だと睨んでいる。

一方、朝鮮人には日本人同様、漢民族以外にも女真、鮮卑、烏桓、様々な騎馬民族の血が混じっている。世界的にみれば、日本人と韓国人は非常に似た外見なのですが、言葉についても非常に似ている理由はこういったところからくるわけです。

ただ、日本人と韓国人の大きな違いはYAP遺伝子という太古からの遺伝子を保有しているかどうかの違いが大きい。この遺伝子は特にアイヌ(90%保有)、沖縄(80%保有)とチベットと地球海沿岸にのみ顕著にみられる古い遺伝子で、ある種、突然変異の因子なのです。これらアイヌ系と弥生人や扶余人...等の交雑(ハイブリッド)が現日本人というわけなのです。さらにエブス人やフェニキア人...その他諸々の血が混じっている。ここが人種意的な違いだろう。これが日本人ほどバラエティに富んだ顔付をしている単一民族はいないという理由でもある。

この古代遺伝子YAP因子が現在にまで残る不思議さには、きっと何かあると睨んでいます。つまり、本来の言霊の力を十二分に発揮するのはアイヌが使う謎の独立言語「アイヌ語」の方ではないかと密かに睨んでいるのです(ニタリ)。

この言語を使うことで、YAP因子が覚醒するやもしれんw

あるいは、これは人類初の「家畜人ヤプー」(ロボット人間)になる因子なのかもしれん(滝汗)

そういえば、去年9.11には百済との縁(ゆかり)発言をされた天皇陛下が北海道を訪れアイヌ舞踊を見学したといいますが、天皇家とは烏桓(百済)系エフライム族末裔でヘブル人直系そのものですが、この曰くありの月日にエルサレム先住民のエドム人末裔であるアイヌとの遭遇、、、しかも、病み上がりスグで無理を押しての訪問だったという。

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北海道を訪問中の天皇陛下は11日、白老町のアイヌ民族博物館を視察された。陛下はアイヌ民族の独特な文化について、展示を見ながら説明を受けた後、茅葺きの家「チセ」の中で、アイヌの古式舞踊をご覧になった。宮内庁によると、陛下は東日本大震災から半年の節目となったこの日の午後2時46分、東北の被災地に向かって黙祷された。皇后さまも皇居・御所で同様に黙祷されたという。

■天皇陛下がアイヌの古式舞踊ご覧に(2011.9.11)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110911/imp11091119080001-n1.htm
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これはきっと何かあるなw

天皇家には凄腕の霊能力者が仕えているという噂があるが、今回3.11を予言した感のある日月神示は「アイヌの怨霊」だとも云われており、この訪問、きっと霊能力者のサジェスチョンがあったのかもしれないなぁ。
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コメント

No title

>『邪馬台国』の所在地。それはソウル近辺だ!

”陳寿は日本を、「倭国」と思わせるために「魏志倭人伝」を書いたのではない。・・・韓国についての歴史書「韓記」と倭人の記(=魏志倭人伝)は、完全に対象の関係で一致している。つまり、「倭人伝」は「韓記」に記すことの出来ない大韓国に対する恨みのすべてを叩きつける対象として作られたのである”云々~と書かれている竹田日恵氏の『「魏志倭人伝」の陰謀』と言う著書もありますしね^^;

邪馬台国は日本になかったというなら、やはり山形明郷氏の『邪馬台國終結宣言』。
絶版らしいので読めるかどうかは分かりませんが・・・。

姫さ~ん♪

コメントありがとうございます!

>「倭人伝」は「韓記」に記すことの出来ない大韓国に対する恨みのすべてを叩きつける対象として作られたのである

おおっ、こういう視点はなかったです(汗)。
語り部が見たらどういう反応をするでしょうか?(笑)
説の論点はこんな感じでしょうか、、、

■景初二年(238年)、魏は呉と図り公孫氏を撃破。その論功行賞で大韓国に「親魏倭王」の金印を贈り、見下した為に韓魏大戦争勃発。

■中華思想の陳寿は魏が大韓国の援助で天下統一を屈辱と取り、三国志で大韓国の書かずに幾多の弱小国家群に分割して記し史実を歪曲。その史実を倭国という架空の国の出来事に変えた。

■狗邪韓国は「犬のような邪な韓国」と大韓国を呪う言葉を散りばめた。

■架空の倭国を日本であると印象づけたのは『後漢書』『宋書』。倭の五王(讃・珍・済・興・武)は高句麗の王で、さも宋に朝貢したように記述。

■「倭人は帯方の東南海中にあり(倭人伝)」
「楽浪は高句麗の西にある(好太王碑)」
『三国志』の頃は帯方は遼東半島にあると記され、遼東半島の存在したことは間違いない。しかし、後世の中国史家が中国版図を大きく見せる為に朝鮮半島中部に存在と改竄した。

正しいかどうかは今後の課題としても勉強になります。「百済=遼西」という点からも邪馬台国は考えないといけなさそうです。帯方郡から7000里(1里が76~77m 539km)が邪馬台国までの距離なので、これでは日本列島には全く届きませんね(溜息)。

そうですね

著書に書かれているように、「魏志倭人伝」の謎を解明することは、「三国志」自体の嘘を暴くことであり、
謎を解くことによって、中華思想成立以前の中国・韓国・日本の本来の姿を蘇らせなければならないと。

倭国の記録は日本ではなく大韓国(遼東半島以東、現在の吉林、黒龍の地から朝鮮半島にかけての広大な領土)の一部を書き表す為に陳寿が作り上げた架空国の記録なので、日本の国内でどんなに邪馬台国の痕跡を探しても見つからないという。

もし倭国が日本であると仮定するならば、隋の時代に中国に送った有名な国書には「倭」の文字は見られない、当時の日本人に「倭国」という認識がなかったことを表していると言います・・・。
「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」

No title

◎百済論は邪馬台国論同様に宗教論争の感があるが、「南韓の地」が遼東半島の南の地なのか或いは韓半島の南の地なのかがポイントだと思います。
『梁書』百済伝
「其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。齊永明中、除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地。」
(その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。天監元年(502年)、太号を征東將軍に進めた。高句麗によって国を破られ、衰弱が積年に及び、南韓の地に遷都した。)

現在の公州市コンジュの「宋山里古墳群 史跡第13号」に 武寧(ムニョン)王陵があり、百済第25代武寧王と妃が合葬埋蔵されている(1971年5,6号古墳の濾水工事の為に掘ったところ、偶然武寧王古墳が発見された。未盗掘で完全にそのままで遺っていた)。
これにより475年~538年の熊津(ウンジン)時代の百済が存在していたことが証明される。従って、当初の百済は遼東半島の西の晋平二郡にあったが、高句麗に破れ、衰弱したので、『隋書』百済伝「初以百家濟海、因號百濟」[初めに百家(多勢)で済海(海を渡った)ことから百済を号した]のごとく、百家(多勢)で海を渡って韓半島の南部の地に遷都し、国力に応じてソウル、扶余、公州に王都を遷しているので、この「南韓の地」は韓半島の南部の現在の百済想定地と思われる。
古代百済
http://www.iokikai.or.jp/kodai.kudara.html

◎「魏志倭人伝」には「倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣」(倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。)とあるが、満州、遼東半島や韓半島特に北朝鮮の冬は寒いので裸足では生活できず、冬に生野菜を食べることは出来ない。
また、「隋書倭国伝」には「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。」(阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。)とあるが、満州、遼東半島、韓半島付近には白頭山しか火山がないが、白頭山は10世紀に噴火して渤海が滅亡したがそれ以前の「魏志倭人伝」や「隋書倭国伝」時代には噴火していない。従って、倭国が満州、遼東半島や韓半島に在ったはずはなく、倭国は阿蘇山のある九州にあったと思われる。

◎アメリカの形質人類学誌(American Journal of Physical Anthropology)に、1977年に掲載された「Y染色体の印を持つ者とベーリング海峡からの分散(Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispersals)」という論文によれば、半円の黒の部分がY染色体のDNA塩基配列で、YAP+という特殊な塩基を持っている人の割合を示し、日本人男性の約42%がYAP+の特殊な塩基配列を持っている。 このYAP+は、アフリカ、地中海沿いの中東からイタリア南部、アルタイ、チベット、インド洋のアンダマン諸島、エスキモー、アメリカのネイティブインディアンに特徴的に見られるもので、近くの中国、韓国の人々にはほとんど全く見られない遺伝情報である。アメリカ大陸のネイティブ・インディアンの男性にもY染色体のYAP+が多く見られるが、結論から言えば、アメリカ大陸のインディアンやインカ帝国を築いたのは、古代縄文日本人であるからである。 そういえば、12000年前の日本の土器は、世界の中でも進んでいて、それが南米にもそのまま持って行っているとか。
日ユ同祖論とDNA
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1042.html
アメリカ大陸に渡った縄文人
http://www.gondo.com/g-files/wara/wara.htm

約7300年前に鹿児島県南方沖の海底火山(鬼界カルデラ)で大きな火山噴火があり、当時の南九州で栄えていた縄文文化を壊滅し、その雲が日本国中を覆い、東北地方や朝鮮半島でも赤橙色を帯びた“アカホヤ”と呼ばれる火山砕屑物が見つかっており、極めて規模の大きな破局噴火で作物がまったく採れなかった時期がある事が地層の研究が分かっており、古モンゴロイドのYAP+縄文人がベーリング海峡ルートと、南太平洋ルートでアメリカ大陸に渡った事が最近の研究で分かっている。
これは、約7300年前の鹿児島での大きな火山噴火でYAP+縄文人の日本文明が滅亡し、YAP+縄文人の一部がアメリカ大陸に渡り、他の一部がアジア大陸を西進して約6400年前にメソポタミアにシュメール文明を開花させたとする「ガイヤの法則」千賀一生著を立証すると思われる。ちなみに、シュメール人末裔のイラク南部の人々は黒髪、黒目で蒙古班点がある。

◎福岡・高良大社「古系図」と、高良大社祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)末裔の稲員家の「古系図」によれば、
倭の五王の中国風一字名「讃・珍・済・興・武」は対外的に外交用として使われたもので、国内的には倭風の名前を使っていたと思われる。その中国風一字名そのものを記した系図が国立国会図書館と静嘉堂文庫の2ヵ所に所蔵されているという。その系図の表題には「松野連 姫氏」とあり、系図は「呉王夫差(ふさ)」から始まっている。松野連は平安時代に編集された「新撰姓氏録」の「右京諸蕃上」(諸蕃=渡来系の氏族)にも次のように記載されている。 松野連(まつののむらじ) 呉王夫差より出づ。
松野連系図
夫差→忌(呉王夫差の次の代、渡来一族の初代首長)→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文(「漢委奴國王」金印授与)→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬(「松野連」の姓を負った)→大田満呂→猪足
つまり、倭の五王は九州王朝いわゆる呉王夫差(ふさ)末裔の高良大社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)である。

髙良山「古系図」(稲員家の系図)
福岡県八女市在住の「松延」さんのご本家稲員(いなかず)家は「九州王朝の末裔」を名乗り、系図をお持ちである。 稲員家の系図は「古田史学の会」の古賀さんによって発見されて研究されているが、それによると、稲員家は高良大社の祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の末裔であり、歴代の高良玉垂命が倭の五王であったという。「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味する。
「九州王朝系図」
高良玉垂命神(旨)(七支刀を贈られた「倭王旨」)―(2代)→朝日豊盛命〔讃〕→暮日豊盛命〔珍〕→物部日良仁光連(済)→日往子明連(興)→日男玉頼連(武)→神力玉依連→日光玉一連→日往玉尊連 →日明玉連尚→舎男連常→日柱男連廣→大直連俊→大全神連親→日天男連信→大長津連秀→大勝津連平→神仲熊連豊→神天子連家(AD589即位 多利思北孤)→神道天連良→神司宮連法→神天仲連就→神頭国連軌→神斗玉連仍→神面土連篤(AD663白村江敗戦の倭王・薩夜麻)→賢名皇連忠→意賢皇是連→賢天皇兼連→公兼皇連岩→高麻呂連時―(26代)→星明麻呂保重
「倭の五王」とはだれか:真説編(8)
http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20091228.html
高良山の「古系図」九州王朝の天子との関連をめぐって
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou35/furuta35.html

姫さ~ん♪

コメントありがとうございます!

> 「魏志倭人伝」の謎を解明することは、「三国志」自体の嘘を暴くことであり、 謎を解くことによって、中華思想成立以前の中国・韓国・日本の本来の姿を蘇らせなければならないと。

あるサイトでみた内容に、、、

「三国史記は百済が滅んでから600年以上たってから書かれた物であり百済と同時期に書かれた日本と中国の記録とは記述に大きな隔たりがあって同時期の日本・中国の記録には共通性が見られることから信憑性はないに等しいと言わざる終えません。だいたい朝鮮は前王朝の遺物を破壊する傾向が強いので伝承も正確に残ってる可能性は低いです。」

600年後ですか、、、そりゃ、怪しいですなw

「三国志」著者の西晋の陳寿は、この書を3世紀末(280年-297年没)の間に書いたとされていますが、現存する最古の写本は紹興本(1131年-1162年)と紹煕本(1190年-1194年)の2つだけであり、確かに新しいものです。語り部は中国文献との乖離があるので、この間に魏史倭人伝の内容に改竄があったようなことを云っていますが、、、、果たしてどうなんでしょう。
(それでも邪馬台国の列島実在を主張する語り部って、、、)

う~む、謎は深まるばかりで夜も寝られません(爆)。


> もし倭国が日本であると仮定するならば、隋の時代に中国に送った有名な国書には「倭」の文字は見られない、当時の日本人に「倭国」という認識がなかったことを表していると言います・・・「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」

日本は天武がネーミングしたと云われますが、確かに、遣隋使の国書に既にこの言葉を使っていますね。このときに日本という認識が既にあったということでしょう。この日本というネーミングに関して、語り部(影武者)はこう書いています。

「中華(中国)より東に位置しており、扶桑国もあり、日の本(日の昇る場所に在る国)東洋の扶桑樹信仰の扶桑の樹の根元から太陽が昇るからで(中国歴史書)説明してますが・・・(日本という言葉は)遣隋使で聖徳太子が、日本を説明する以前から存在します。5世紀後半から6世紀にかけて生きた倭武大王で「我が教化を広めたい」として宗教革命し、斯波教を広めた際に命名です。正しくはニツ本(本に従う国の意味)です。本州も同じ意味です。」

確かに、日本という言葉は「Nhi」と「Hon」と分解され「Nhi」はヘブライ語で「従う」と言う意味で、「Hon」は文字通り「本」になりますね。「日本」を普通の漢字の読み方では「ひもと」「ひほん」「にちもと」「にちほん」と読む筈ですが、何故か「にっぽん」「にほん」と読む。これは元々あった言葉に漢字を当てはめただけなのでしょうか。

ダベル、バレル、モノ、ミズラ...等、日本語とヘブライ語には同じ音で同じ意味の言葉が多いので、この「ニツ本」説は本当かもしれません。

No title

語り部さんの説でポイントなのは以下でしょうか!?

○福建省の東(現在の沖縄付近)に日本が存在した事実で邪馬台国は奈良県

○4世紀に瀬戸内海が出来た事、伊豆半島が本土と繋がった事、8世紀に伊勢海の奥が隆起した事、9世紀に富士山が出来た事

○朝鮮半島自体が、島国だった時代が存在した(年代は不明)

○魏志倭人伝等、大陸での歴史書の改竄

これが証明されないと、ずっと平行線でしょうね。。。。

いきなりで失礼しました。

鹿さ~ん♪

詳細なコメントありがとうございます!

>「南韓の地」が遼東半島の南の地なのか或いは韓半島の南の地なのかがポイントだと思います。

475~538年の熊津(ウンジン)時代の百済は現在考えられている百済の位置だといえそうですね。475年には百済文周王が漢城(現在のソウル特別市)から熊津(現・公州)に遷都していますが、その先が問題です。邪馬台国の頃の250年はやはり西遼に百済はあったと思います。もし仮にその頃既に百済はソウルまで南進していたとしても、魏史倭人伝の出発地である帯方郡は西遼だった筈なのです。

そうなると、魏史倭人伝の邪馬台国は、やはり日本ではないとなる、、、(汗)


>倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。とあるが、満州、遼東半島や韓半島特に北朝鮮の冬は寒いので裸足では生活できず、冬に生野菜を食べることは出来ない。

ここはひかっかっていました。
オンドル部屋がなければ冬を過ごせない韓国なので、この点は矛盾しますね。


>阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。とあるが、満州、遼東半島、韓半島付近には白頭山しか火山がないが、白頭山は10世紀に噴火して渤海が滅亡したがそれ以前の「魏志倭人伝」や「隋書倭国伝」時代には噴火していない。従って、倭国が満州、遼東半島や韓半島に在ったはずはなく、倭国は阿蘇山のある九州にあったと思われる。

場所はソウルを指し示しながらも、風俗や環境は日本の九州を描いている。この点が魏史倭人伝が大韓国を貶める為に書かれたという説がある理由でしょうか。改竄があったのかもしれません。これに関する語り部(影武者)の意見は、、、

「魏志倭人伝は、クニの説明の際に順序の乱れた配列が邪馬台国以南にされ、明らかに後世に付け加えられたものであり原書は行方不明である。弥生時代後期のクニグニが列挙され東海地方、北陸に及ぶ。この時代に政権が倒れた事を示すと共に・・邪馬台国の建国 当時南方にある確かな国は土着縄文人の句奴(毛野、クナト神)の国だけである。つまり削除もされている訳だ・・・よく読むと福建省の東海上に位置していた事が判る。今の沖縄付近で、一年中野菜が食べれるとある。素直に読み解くと沖縄に到達するのは興味深い。国土の位置が違う可能性は否定出来ず。....もう少し多方面から・・多角的に見よ。又、魏志倭人伝や、中国書をよく読め・・。せめて、九州人で九州論を唱えるなら、旧郡部の配置(松浦、臼杵等)も調べてから返答せよ・・。」

かなり過激です。


>約7300年前の鹿児島での大きな火山噴火でYAP+縄文人の日本文明が滅亡し、YAP+縄文人の一部がアメリカ大陸に渡り、他の一部がアジア大陸を西進して約6400年前にメソポタミアにシュメール文明を開花させたとする「ガイヤの法則」千賀一生著を立証すると思われる。ちなみに、シュメール人末裔のイラク南部の人々は黒髪、黒目で蒙古班点がある。

「日本人=シュメール人」説には大賛同です。ただ、南北アメリカ経由シューメールという視点はなかった。YAP+縄文人がぐるりと地球を一周して戻ってきたわけですね。それが長き年月で様々な部族に分岐し、フェニキュア、ヒッタイト、ユダヤ、エブス、エドム、苗族、騎馬民族スキタイとなっていき、日本いに里帰りしたのかもしれませんね。


>福岡・高良大社「古系図」と、高良大社祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)末裔の稲員家の「古系図」によれば、、、、

九州王朝説、九州邪馬台国の問題点は、あらゆる文献が九州にあることを指し示しながら、それらしき何も出ないという点です。普通、これだけ詳細多岐の文献があるのなら比定地はスンナリと決まって遺跡が発見される筈ですが、今のところはそうはなっていない。記紀も九州からの東征となっており、九州を出自発祥の地とする何かしらの歴史改竄があったのでは?という考えが浮かぶのです。

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日本

「宋史」には、<日本国は、本の倭奴国である>と述べてます。
倭奴ハ日本ノ古号ナリ・・・

前漢書地理誌には倭の音に関して記載があり、見落とされてきたものに

師古曰 倭音一戈 反今猶 有倭國~「漢書巻二十八下二十三」

おおよその意訳は、
古(いにしえ)に師曰くには、倭の音に関しては、一つの論争を生んだ。
猶である故に、倭國有するところこれを変えるようにと。
つまり、古代中国の伝承では倭は本来、猶(ユ)であったものを変えたということ→猶奴(ユダ)

猶の語義は「大猿の属種」であるので倭奴国人はこの猶を嫌ったと考えられ、
漢に対し猶を改めるよう要請を重ねた結果、倭に改められたと推察されると。

バビロンの捕囚としてのユダヤ人、ヘブライ民族が、かつては奴隷の民であったことを
漢の役人はよく知っていて、それ故に奴を当てたと考えられるそう。

「旧唐書」には、<日本国の者は倭國の別種である>
この場合、日本国の者とは、ユダの民の血筋を指し、倭國はユダ以外の民を指している
と・・・。

日本人のヘブライ起源説を唱えた小谷部全一郎は、ニホンという名は、
セム系カド族の一人ニッポンからとられたと言いますがー^^;;

No title

◎語り部(影武者)が「魏志倭人伝や、中国書をよく読め・・。せめて、九州人で九州論を唱えるなら、旧郡部の配置(松浦、臼杵等)も調べてから返答せよ・・。」と上からの目線で人格を疑う無礼な暴言を吐いているが、何様だと思っているのかね。
そんなに持論に自信があるなら九州論の著名論客と公開討論したらどうかね。
もっとも、毛人の大国主系出雲王朝後裔邇波縣君流の邇波言壱{ニワコトヒト}の自己紹介では胡散臭く怪しまれて相手にされないかもね(笑)。
◎語り部説については、「はなまるエース さんのコメント」に賛同したい。
邇波言壱著作「出雲王朝」やこのブログで展開している持論の信用ある出典を明らかにしないと唯我独尊の妄想・妄言として理解されないね。そして、そんなに持論に自信あるならば上梓(amazonにない)して多くの批評にさらされて、認知される努力をするべきだね。
ところで、邇波言壱著作「出雲王朝」では
http://www.pleiades15.net/history/folder27/niwa.html
かごめかごめ
この「かごめ」とは、六角形の籠の編み目の「籠目」であり、つまり、「六芒星」であることから、ヘブル(イスラエル)を表しているといいます。
籠の中の鳥は いついつ出やる
籠の中の鳥とは日本の大多数を占める弥生人...被支配者階級のことを指しているのですね。この代表格がヤタガラスと称される恭順化した徐福末裔の弥生人です。
(ムー大陸滅亡の時王族はじめ多くの人が日本へ逃れてきたらしい。元の日本住民はマヤ・インカと同じナガマヤ系の民族とか。ムー帝国の国鳥は何だったでしょうか?)
夜明けの晩に 鶴と亀とすべった
【鶴】...後期大王家 (烏桓百済系エフライム族)
(今の天皇家周辺の人々、特に藤原4家は今なお日本を支配している。)
【亀】...初期大王族 (扶余系騎馬民族スキタイ、カド族)
この2つのヘブル人が千数百年間、日本を「統べって」いたわけですが、この今に迄続く、ヘブル人の支配統治期間が「夜明け前の晩」という闇夜の時間帯なのです。
後ろの正面だあれ?
(世界を支配する闇勢力、闇の思考エネルギー?)

としているが、これは古代ヘブライ語であるとのブログがある。
http://quasimoto.exblog.jp/
かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に  鶴と亀が滑った
後ろの正面 だあれ?
「古代ヘブライ語版」
カゴ・メー カゴ・メー カグ・ノェ・ナカノ・トリー イツィ・イツィ・ディユゥー
ヤー・アカ・パニティ ツル・カメ・スーベシタ ウーラッシュ・ショーメン・ダラ
「古代ヘブライ語の意味」
誰が守る? 誰が守る? 堅く安置された物を取り出せ 契約の箱に封じ納められた 神器を取り出せ 神譜をとり 代わるお守りを作った 未開の地に 水をたくさん引いて 水を貯め その地を統治せよ

◎ヤッズ★さんが「九州王朝説、九州邪馬台国の問題点は、あらゆる文献が九州にあることを指し示しながら、それらしき何も出ないという点です。。。」とのことですが、
○九州王朝説には古田武彦氏などの「九州王朝」関連書物と、福岡・高良大社「古系図」及び高良大社祭神・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)末裔の稲員家の「古系図」があり、九州王朝の前期首都の「大宰府」と後期首都の「高良大社」の遺跡がある。
○九州邪馬台国説には神社伝承学の「古代日本正史」原田常治著など多数の関連書物があり、真実の日本古代史を掌握している宮内庁管理の西都原古墳群「男狭穂塚は邪馬台国卑弥呼女王、女狭穂塚はイワレヒコ尊(神武天皇)の日向時代の娘で卑弥呼の孫のトヨ女王の墳墓」、さらに宮内庁駐在事務所管理の鹿児島県内の三御陵「ニニギ尊の可愛山陵、ヒコホホデミ尊の高屋山陵、ウガヤフキアエズ尊の吾平山陵」などの墳墓遺跡がある。
我々もご先祖の墓が他人に暴かれるのは許せないと同様に、ご先祖は静かに眠っていただきたいとの天皇家のご意志ですべての天皇陵発掘調査をしておらず、その一環としてこれらの墳墓遺跡もそのままにしていると思われる。 尚、小生は検証のために、これらの全遺跡を現地見学しています。

◎日本という国号の諸説
○大和に入ったニギハヤヒ尊は、アイヌの鳥見の豪族・長髄彦の妹・三炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶り、戦わずして長髄彦を配下におさめ、出雲・大和王国を建国。ニギハヤヒ尊の末裔・物部氏が残した物部文書や日本書紀に、「この命、天磐船に乗り、天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと)と名づく。・・・」とある。
○小谷部全一郎氏はガド族の始祖ガドの息子の「ツェフォン」にも注目している。翻訳によっては「ゼホン」とも表記されるが、実際の発音は「エッポン」「ニッポン」であるといい、これが「日本」の国号「ニッポン」になったというのだ。
『旧約聖書』民数記26:15ではツェフォン( )だが、創世記46:16ではツィフョン( )と表記されている。また、民数記26:16に出てくるガドの息子オズニは創世記46:16のエツボン( )に相当し、これもまたニッポンの候補になるのではないかと思われる。
○飛鳥昭雄説「日本」という文字の秘密
日本の国旗は日の丸である。赤い丸は太陽を意味し、天照大神=イエス・キリストを表している。旗竿の先にある金玉は金鶏、柄の部分の白黒のストライプは八咫鳥を象徴している。
「日本」の文字には十字架が隠されている。
「日」は太陽であり「本」という文字は「大」と「十」から成る文字である。
それゆえ十字架に人体を意味する「大」が磔になった状態を表している。
つまり日本という文字は天照大神(イエス)が十字架に掛かったことを象徴しているのである。
又、「日」は「O」であり、本は「十 」である。
陽と陰である。阿吽の「あ」と「ん」は日本語の50音では最初と最後の言葉となる。
イエス・キリストは自らを指して「アルファにしてオメガである」と述べている。
従って「日本」という文字はイエス・キリストを意味しているのである。
「日本」はイエス・キリストの国ということである。
「日本」はヘブル語でヤハウエの民、つまり神に選ばれた民の意味である。
それゆえイエス・キリストと千年王国を築くのは日本人が中心にならざるをえないのである。

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今日は暖かい一日でしたね!(^^)☆

なんで百済しか見えないの?

百済、百済、くだらない!(^^)☆


日本は百済って、偏っている方が金太郎飴みたいに氾濫して…

飯山氏に反論出来ない方ばかり…


秦韓になぜ注目しないのか、不思議でならない。
慶尚道の言葉が、日本に多く残ってますね。

百済からも来てますが、日本が日本であるのは、秦韓や弁辰から来てるからなんです。


言語もそうですが、神道が半島にない。

それは、あきらかに半島と断絶があった。


「しらぎ」の名には、「日本」 が入ってますよ!


穢 って国の民族が多くの半島人です!


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