タイラ

NHK大河ドラマ『平清盛』が低視聴率に喘いでいますが、挽回の切り札として、松ケンの奥様・小雪投入も噂されています。まぁ、そんな人気のない「平家」ですが、ここで関連ネタを1つ。

実は、平氏の「タイラ」の語源は「棟梁」を意味する騎馬民族の言葉なのだという。言っているのは、当然、語り部です。

皇族が増え過ぎた場合に「臣籍降下」、つまり、皇族身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りるのですが、その際に賜る姓が昔はいろいろあったのですが、平安期以降は「源」「平」に限定。ただ、現代では宮家の名称をそのまま氏として使っている。先例に従うならば、山階、久邇、伏見家も本来は姓は「源」「平」となる筈だったのです。最近の研究では、「一世王、二世王が源、三世以降が平」だと判明したといい、源氏の方が家格が高いとされている。

以上のように、平氏と云えどその出自は様々で、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の4つの流れがあるという。このうち躍進著しく「平氏政権」を打ち立てた桓武平氏流の清盛一門らの伊勢平氏(傍流)を特に「平家」と呼ぶようです。清盛平家の特筆すべき点は、家臣にいたっても皆、平姓を名乗っていたことです。ここが平家が結束が固く仲良し一門と呼ばれる所以か!?

一般的には、「平」「平らげる(制圧する)」から来ていると云われているが、語り部の言う「タイラ=棟梁」説が本当に正しいのか調べてみた。

ネットには以下のような記事がある。

***********************************************
『契丹古伝』の平(タイラ)と平家
日露戦争中、鴨緑江軍兵として従軍して『契丹古伝』を入手した浜名寛佑が『日韓正宗遡源』という名で、大正十五年に出版したのが『契丹古伝』が知られる始めとなった。契丹族の太祖の耶律阿保機(紀元876-926)の重臣の耶律羽之が撰した史書で、契丹はキタイと読み、古代のスキタイ騎馬民族の流れを匂わしている。 

四世紀末から九世紀にかけて栄えていたウイグル人が、キルギス人の侵入によって亡命して来たのを迎え入れ、それまでいた契丹諸部族とウイグル人を統合したのが阿保機である。彼はウイグル族の名門の肅氏から妃を娶った。妃の姓は平(タイラ)名は月理奈と言う。

タイラ(平)は古代インドでも族長を示す言葉であり、古代インドとウイグル族の言葉が同じであったことが伺える。我が国の桓武天皇を祖とする平家のタイラにもつながり、桓武天皇の「桓」は帝釈天インドラの桓因につながり、古代中国の遼西地方の北方に住んでいた烏桓族を示している。

桓武天皇が造らせた平安京の内裏の近くに烏丸(カラスマ)通りがある。烏桓は烏丸とも書かれ、平家にも烏丸姓があった。明らかに桓武天皇は烏桓族の族長タイラ(平)だったことになる。

そして平安京には、烏桓(烏丸)の名につながる八咫烏(建角身命)を祀る下鴨大社が中央に陣取っていた。鴨大社の「鴨」は、『契丹古伝』を入手した鴨緑江の「鴨」につながっている。このことから『契丹古伝』が我が国に関連している古伝であることがわかる。


■謎の契丹古伝
http://www.geocities.jp/zuisoukai/kouzuiden5.htm
***********************************************

「棟梁=族長」であり、ウイグル語(トルコ語に似ている)は騎馬民族の言葉でもあることから、一応、正しそうな感じがします。

ただ、桓武天皇の御世は737-806年であり、耶律阿保機の契丹帝国「遼」建国より200年も前の時代なのです。この時、既に「タイラ」の称号は騎馬民族にあって、伝統的な姓であったのでしょうか?

ここで謎なのは、、、平姓の月理奈です。

AKB48(SKE48)の松井珠理奈なら知っているのですが、月理奈(げりな?)とはまた面妖な名です。まぁ、珠理奈もウイグル系の顔立ちをしているし、SKE48の棟梁のようなポジションにいることは確かなのだが、、、ただ、三河松井氏を含む松井氏は清和源氏為義流を祖するので、平氏ではない(爆)。

ある中華サイトの説明では、、、

她的名字叫“述律平”,小字“月里朵”。有人认为她的小字月里朵是典型的具有回鹘色彩的名字。实则不然,耶律阿保机的母亲是契丹人,也叫月里朵,她的小字和她的婆婆名字一样,说明当时契丹女子许多人愿意使用这个名字。

「彼女の名前は“述律平”、幼名は“月里朵”という。ある人は彼女の幼名“月里朵”は典型的な回鶻(ウイグル)的色彩のある名前だと思われている。実は、耶律阿保機の母親は契丹人で“月里朵”といい、彼女の幼名と彼女の姑の幼名が同じなのです。これは当時の契丹人の女子の多くがこの名前を使いたかったからと説明されている。」


契丹で流行の名前、、、、

つまり、「月理奈」「珠理奈」「玲奈」「真理奈」も似たようなものであり、「奈」が付く名前は非常に回鶻(ウイグル)的なのです(爆)。

これ以外には、調べたが中々これといったものがない。

仕方がないので「阿保機」に手掛かりを移してみた。この阿保機とは「耶律阿保機」(やりつあぼき)のことでしょう。彼は耶律氏(ヤルート)の出身で契丹(キタイ)帝国(漢風国号:遼 916-1125年)の建国者であり、あだ名「アブーチ(掠奪者)」の音訳からその名が来ているといわれる。最終的にこの「遼」は女真族が発展した「金」によって1125年に滅ぼされている。

キタイ王朝では2つの宰相(北府、南府)を置き、彼らは群臣と共に耶律阿保機へ天皇帝号を奉じて皇帝となったというが、この北宰相が「蕭実鲁」。ここに蕭氏が出てくる。これが「平月理奈」の父親でしょう。

何故、2つの宰相があるかといえば、遼ではモンゴル式の遊牧民統治機構の「北府」と中国式の定住民統治機構の「南府」の二元的国家体制であったからだという。中国が資本主義と共産主義の2つの国家体制を持つのと似て、大陸では意外とポピュラーなのかもしれません。遊牧民統治機構を受け持つ北宰相が蕭氏ということは、蕭氏は遊牧民(騎馬民族)であり、族長称号の「タイラ」を持つに値するわけです。

阿保機が死去すると「月理奈」こと述律皇后は、称制し契丹の軍事と国政を掌握したという。更に葬儀で殉死しようとしたが、親戚や百官たちが強く諫めたので皇后は右腕を断って柩に納めたという猛女でもある。

■述律皇后(諡号:淳欽皇后)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B0%E5%BE%8B%E7%9A%87%E5%90%8E

さて、ここで1つ問題が、、、

阿保機の后である述律皇后は、漢名「平」、契丹名「月里朵」、常用名称「述律平」とあるのです。つまり、「平」は漢名なのです。述律皇后の本名は「述律平」、即ち「述律氏の平ちゃん」というわけ。しかも、中国語では「平」という漢字は「棟梁」を意味しなし、「平」を「タイラ」と読まず「ピン、ペイ」と読む。

ペイちゃん
(ガングロの教祖 アダモステ・ペイちゃん 到底、回鶻(ウイグル)的とは言えないが族長ではあるw)

『契丹古伝』を解説する上記サイトは、幼名「月里奈」を名前に、名前「平」を姓に取り違えている。もし語り部が上記サイトを読んだのが根拠だとしたら、「タイラ=棟梁」は間違いとなるが、、、、ただ、この「タイラ」の件も古代インド語やウイグル語についてまで調べない限りハッキリしたことは言えない。ネットにはウイグル語辞典があるにはあるが、文字や発音は全くお手上げです(滝汗)。

いまのところ、「タイラ=棟梁」説は、そうだとも違うともいえない状況。
※註 あるサイトでは、平(タイラ)は高天原から天降った人や家を云い、源(ミナモト)とは天下った元の高天原を意味するという説明をしているが、この場合、高天原は「パミール高原」を指し、源氏はサカ族(イラン系遊牧民族)が出自じゃないかと睨んでいる。大阪河内に渡来定住したサカ族故に大阪はオオサカと呼ばれ、河内は河内源氏の本貫となったのかもしれんのう。つまり、サカ族=源氏。この手引きは藤原摂関家が主導か? 故に源氏は摂関家に頭が上がらず家人となっていた? まぁ、妄想だがw

ここで少し話を違う方向に向けよう。

先述した「遼」は高原型と平地型の2種の統治機構を持つと述べたが、日本もまた目に見える表の統治機構と吉野-熊野(山)-住吉(海)という南朝の非平地型の裏の統治機構を持っていることは煩フルでも指摘している。

そして、この裏統治機構が「皇統奉公衆」と称される天照国照彦を奉じる修験道の吉野方の「真」とスサノオを奉じる大江山霊媒衆(大本から学会)の「贋」の2つの勢力であり、現在は裏側に回った孝明系(北朝)の堀川辰吉郎系を裏天皇として守護していると睨むのだが、、、
※註 ただし吉野は本来は南朝系なので、北朝天皇を守護するというのは矛盾するのだが、、、

大室明治天皇が南朝を擁護しなくてはならなかったのは、忍者の本拠地・田布施でサンカ出自者を匿ったからという話もあるが、こいいった山・海の裏の統治機構側の者に担がれた故なのかもしれない。

源平の戦いで負けた桓武平氏や応仁の乱で負けた南朝側皇族や武将は落人となって山岳部に身を隠し非人身分となったともいわれる。これが裏の統治機構が桓武平氏&南朝が主導だといわれる由縁。そして、この桓武平氏&南朝を裏で糸を引くのが藤原式家だとか、、、、藤原式家は鎌倉時代以降は藤原北家に水を明けられ凋落したかに見えるが、その命脈は北条氏へと引き継がれているのだという。
※註 これに反する話だが、頼朝の死後、北条氏に追われた源氏の残党たちは逃げ延びたのだが、元々源氏が居た「別所」は北条氏によく知られていた為、自発的により深い、より安全な山の中へと彼ら源氏の者らは逃げこんで平家の落ち武者と称していたのではないか?という話がある。これに関し「四国の険しい祖谷(いや)山脈の平家部落と称される所に、実は源氏の余類が秘かに匿れすみ、その子孫が引き続き現存している。」という話も紹介されている。そうした秘境部落には何故か「白山神」が例外なしに祀られているというが、、、「白山神=新羅」と見れば、源氏の素性が判るかもしれない。(参照

語り部(影武者)はこう語る。

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清和源氏の系統を追い落とす為北條氏は手を尽くします。
系図でも陽成源氏疑惑が涌くかの様な工作をされてます。

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※註 陽成源氏疑惑…源頼光の弟頼信が、岩清水八幡へ捧げた告文に「吾は陽成帝の御子元平王の流れをくむ、経基の孫である」とあるのが発見されたとして、戦後になってから「これまで清和源氏といわれていたのは、陽成帝では御治世の功績もなく、それに早く藤原氏によって廃帝された御方と伝わり、桓武平氏という称号に比べ、対照上劣るような感じがするからして、清和帝の子孫が『源』の姓を賜ったことにしたのだろう」とされ、「清和源氏」という呼称は実存しない誤りであったとされるようになった件。

鎌倉幕府の執権職の北条氏(桓武平氏)が源氏政権を葬り去ったのはよく知られていますが、南朝&桓武平氏の陰謀という見方もできないことはない。その後、足利氏(清和源氏)に鎌倉幕府は倒され、今度は織田信長(桓武平氏)に打ち取られようとする直前、明智光秀に阻まれるが、しの意志は豊臣秀吉(はじめ平氏を自称、後に藤原北家・近衛家の猶子)が継承する。その後、徳川家康(清和源氏を標榜するも実は賀茂氏だが、、、)によって再び元の北朝へ戻り、これが江戸時代末期まで続く。追い払われた南朝は再び吉野へ引き戻ったのだが、明治維新によって再び南朝が北朝を倒し返り咲いたという。
※註 頼朝は平氏と結託した公卿の追捕は命じているが、てんで平氏の残党狩りなどやっていない。それどころか頼朝は平氏の方は放ったらかしで、その翌月から義経や伯父の行家を反革命分子として追うのに憂身をやつしていた。壇ノ浦での平家滅亡は誇大広告だったのか?

■新世界秩序を企てる闇の権力者達の正体
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/06/post_8748.html

■延々と続く北朝派と南朝派の権力闘争
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/blog/20111/

そして、藤原式家(桓武平氏)が手を組んだのがウィンザー家。
こことNWOを進めているとある。
※註 井伊大老が黒船来航で締結した日米通商条約から、それを承認していた「北朝」は米国派であり、明治維新を起こした長州を取り込んだ「南朝」は欧州・中国派というのがオイラの考えです。これは南朝は天武天皇の頃から中国・新羅寄りという煩フルの洞察結果とも合致する。

ちょっと眉唾な話なのだが、確かに明治期は英国(ロスチャ)と手を組んでいたが、2.26事件でロスチャ勢力(三井)の振るい落としを図られ、近衛総理誕生で北朝が返り咲く。そして日本の軸足は次第に米国傘下へと鞍替えしていくが、この導きをしたのが米国大使館留学組の海軍。勝ち目のない戦いであるが故に、早期に敗戦して米国統治で一気に国内の南朝色(ロスチャ勢力)を一掃しようとしたのかもしれない。その煽りを受けたのが南朝皇族であり、皇族身分剥奪から始まり土地資産を堤康次郎率いる西武プリンス(国土開発)に次々と取られていったという流れになるのだろうか、、、一応、つながる感じはする。

ただ、戦争中、五摂家(北朝)が居住する東京は空襲に遭ったが、京都、奈良、鎌倉に残る藤原式家(北条氏)の古都は空襲に遭わなかったので、この内容とまったく逆の展開になってしまうのだが、、、

う~む、よくわからん。
もう少し検討してみるだす。
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No title

卑弥呼の逆襲…ってサイトに
銅鐸は、天頂緯度を精密に測定できる構造になってるって書かれてます。
銅鐸を使い、海を渡ったり、地上絵を書いたりしてたそうで。
その地上絵の鳥が、天皇の王冠の飾りだとか。
家康さんたちが必死に守っていたのは、4050年前に日本に伝来した(夏音文字の学芸)…銀河各部の形状を文字化したものと、日本建国愛の理念だったそうで、卑弥呼が、その学芸を最も重視していて、魏志倭人伝と同時代、建比良鳥が地上絵として、残したそうな。
そん時にも銅鐸使ったらしいんですが…。
夏音文字は、中国の夏王朝時代に、伝わったものだとか…。細江町にある銅鐸公園周辺の小山(現在は墓地)が非常に怪しい。掘りたいもんですが金がない。
ちなみに、私は銅鐸に関して全く無知でありまして。ただいま、いろいろ勉強中です。あと、なぜ、祀事に使うほど大事な銅鐸が、壊れ安いのかも気になります。後世、あるいは敵に知られてはいけない何か重大な秘密があったからなんでしょうか?

夏音さ~ん♪

コメントありがとうございます!

> 卑弥呼の逆襲…ってサイトに

ちょっと見てみましたが、学会や学者に対してボリクソ言っていますね(笑)。
ある部分当たっていますね。
記事の半分はそれで埋まっているようですが、よほど腹に据えかねている感じです。
肝心の細江町の「大鳥の地上絵」は、素人目には???って感じなのですが、、、

> 銅鐸は、天頂緯度を精密に測定できる構造になってるって書かれてます。
> 銅鐸を使い、海を渡ったり、地上絵を書いたりしてたそうで。

銅鐸の大きさでは誤差が大きいと思います。
マヤの測定施設も巨大なものですが、
測定という技術土壌があれば、必ず精度の方向に向かう筈で
精度を高めるならば、巨大化は避けられないと思うのです。

>祀事に使うほど大事な銅鐸が、壊れ安いのかも気になります。

逆に実用のものでないからこそ、壊れ易いのだと思います。

鍵コメさ~ん♪

コメントありがとうございます!

野見宿禰と当麻蹴速の話は、以前の記事で兵主神つながりで「角力(相撲)」を取り上げたことがあるので、ここで語り部の燃料投下は嬉しいところです。

で、その角力力士の比定とは、、、

野見宿禰…邇波荒脛巾
当麻蹴速…倭武(応神天皇モデル)

この角力で暗喩される戦いで、荒脛巾は奈良の葛城の土地を得たということか!!!

その後、その領地は倭峻に取り上げられ、葛城氏は鞍作氏に改名せざるを得なくなった件とつながってくる。語り部のヒントで、何故、後代の倭峻が簡単に召し上げが可能だったのかの謎も解けてきそうです。その理由とは、、、、葛城の地は元々は初期大王家が入り婿の・倭武に与えた土地だったから!?

最強の武術「手乞い」とは、合気道のことのようですね。
確かにあの武術、相撲や弓道同様、神道つながりがあって謎が多いようです。
しかも、攻撃方法というのが脳内電気を発生させ相手の筋肉を弛緩させるとは、、、
電気ウナギみたいな技だす(驚)。

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鍵コメさ~ん♪

> 倭武に葛城の地を与えたというのがありましたか?

それはありません(笑)。
葛城が倭武から荒脛巾のものになったのは、、、

天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたという。(WikiPedia)

ここからです。
たかが角力の勝敗で領地譲渡とは釣り合わないです。
(まぁ、腰の骨折って死んでるので領地は没収されるが、、、)
ですから、語り部の説に賛同かな。

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No title

では…完全に(彼)の逆襲…ということで(笑)

言われてみれば確かに。納得です。ずっと引っ掛かっていたのでスッキリしました。ありがとうございます。だとすれば…、数々の妄想は、かなりのものですね。逆に凄いような(笑)
いい夢を見させて頂きました(笑)
細江辺りは、新城と信仰の道とやらで繋がっていたとかいないとか。
徐福さんの末裔?物部末裔?達が、あの辺にもいた…と考えるのが自然でしょうか。
そこに卑弥呼やら建比良鳥が絡んでくると、またわけ解らなくなっちゃいますが…。
これからもヤッズ★さんの洞察楽しみにしています♪

No title

ヤッズ★さん

いつも古代史への知的好奇心をかきたてる刺激的なブログ内容で感心しています。
ところで、
「桓武天皇の「桓」は帝釈天インドラの桓因につながり、古代中国の遼西地方の北方に住んでいた烏桓族を示している。桓武天皇が造らせた平安京の内裏の近くに烏丸(カラスマ)通りがある。烏桓は烏丸とも書かれ、平家にも烏丸姓があった。明らかに桓武天皇は烏桓族の族長タイラ(平)だったことになる。」
とのことですが、以前の質問で、
「百済王家は契丹烏垣からきたエフライム族というのが語り部の内容。ただこれもその証拠は提示されていないが、京都御所の玉座に狛犬がありますが、これは一体はユニコーン(一角獣)でありもう一体は獅子です。エフライム族が属するヨセフ族の紋章が一角獣であり、獅子はユダ族紋章。」とコメントされています。

○語り部の言うこの百済王家は初期から継続している王家なのか、或いは中丸薫著「古代天皇家と日本正史」の言う中央アジア王族出身の百済・武王の王子(天智天皇)が前天皇家簒奪した百済王家のいずれですか?
いずれにしても、語り部説では、現天皇家と藤原家(藤原不比等は天智天皇の御落胤説)は契丹烏垣からきたエフライム族末裔となりますね。
ところで、契丹烏垣の前にエフライム族はどこにいたのですか?

○Wikipedia「匈奴に敗れた東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。『魏書』によれば、柔然も東胡の末裔だという。
隋の楊氏は元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説がある。鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、唐朝の出自である。」
とのことですが、
東胡末裔の烏桓族、鮮卑族、柔然が南下して中国に北魏、隋、唐などの王朝を建てたようですが、語り部説ではこれらはいずれもエフライム族系の王朝となりますね。

○ところで、小林恵子著「桓武天皇の謎」では桓武天皇は天武天皇のひ孫としているが、皇室とゆかりがあり、御寺(みてら)と呼ばれる泉涌寺には天智天皇以降の歴代天皇位牌があるが天武天皇系位牌はないので、桓武天皇は天武天皇ではなく天智天皇のひ孫と思います。
この本の表紙の桓武天皇はそれ以降の歴代天皇とは全く違う派手な服装と「冕冠(べんかん)」をしていますが、これは契丹烏垣からきたエフライム族所縁の百済王家のものでしょうか? 

■新世界秩序を企てる闇の権力者達の正体
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/06/post_8748.html
■延々と続く北朝派と南朝派の権力闘争
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/blog/20111/
によれば、
○「藤原式家(桓武平氏)が手を組んだのがウィンザー家。こことNWOを進めているとある。彼らはフリーメーソン(イルミナティー)。血統を大切にし、ピラミッド型権力構造がお気に入り。日ユ同祖論は、両家の結託の意味。」とあるが、
契丹烏垣からきたエフライム族末裔の藤原式家(桓武平氏)とユダ族末裔のウィンザー家が手を組んだということは、古代イスラエル王国再興がフリーメーソン(イルミナティー)のNWOなのですか?

○「第二次世界大戦でも藤原式家(南朝)は、藤原北家(北朝)を徹底的に弾圧。
藤原北家の5摂家は壊滅状態である。明治以降、藤原北家(北朝・清和源氏系)への弾圧は続いている。現在でも北陸・東北・北海道は藤原北家(北朝)の影響力が強い。
現代においても藤原家の内部抗争(南朝と北朝)は、延々と続いている。」
とあるが、
Wikipediaによれば、藤原式家とは右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系で、宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称したとあり、桓武天皇時代は勢力があったが系図を見ても鎌倉時代以降は人物を排出していないようです。
藤原北家の5摂家は現在でも系図と人物がはっきりしているが、幕末以降に活躍している藤原式家(南朝)のリーダーは誰ですか?

鹿さ~ん♪

コメントありがとうございます!

> 語り部の言うこの百済王家は初期から継続している王家? 中央アジア王族出身の百済・武王の王子(天智天皇)が前天皇家簒奪した百済王家?

ちょうどいい語り部(影武者)の書き込みが在りましたので転写します。

*******************************
簡単に御説明致します。

扶余王家で、同じ同族の王家の馬飼いの子孫が、王家に親征し、王家を滅ぼし、高句麗を建国。扶余王家は、帯方郡で扶余再興し、烏垣(烏丸)に高句麗討伐に加わらせる為に再興地を譲り鮮卑に加わる様に持ち掛け、拒否され軍を起こし扶余は滅亡し王は入水自殺。息子の王は中華に救援を依頼し扶余は再興されます。

扶余の臣下が馬韓で、傀儡の王をしていましたが、烏垣(百済)に譲り高句麗征伐に加わる様に要請。一方、南下し加羅諸国、新羅を建国させ高句麗に対する攻撃網を整え、自らは半島の倭人を介して縄文人系土着民から東海三神山の地より傀儡の王になる為渡って来て欲しいとの要請に答え東海地方に上陸し(徐福の渡来から技術継承の遠洋航海可能な船団に向かえに来て貰い衆3000で倭に渡る)、東海地方の倭人も集合し参戦へ。土着民に先導してもらい邪馬台国を攻め滅ぼします。

倭人後裔を名乗り中華に対して朝遣し、高句麗包囲網を構築しようとしますが、新羅王は、人民に反対され政権維持に腐心します。が、百済は建国して直ぐに高句麗と戦い、やがて新羅も追従し扶余王族の倭の軍隊も帯方郡に進軍しますが、高句麗は扶余併合し、倭軍は徹退し高句麗征伐は、縄文人系土着民に止められ小休止します。(倭讃御世)

再び高句麗征伐に立ち上がるのは、高句麗の南下で苦しい立場に置かれた百済で、倭王が百済王を擁立する権限があり人民の要請に答え、倭に救援を求めた為です。(百済は人民に対して扶余の代わりに百済が治めたのでは無く、自ら風貌の似ており扶余人と公言してましたから扶余を公称してます)百済の王子を倭の傀儡の王(天智系天皇族)に立てる政策で、5世紀後半に倭武(百済昆支)が立ち、代々倭王として、代々百済の王(武寧王子孫)として扶余王家は、反対する葛城、蘇我(大国主、一言主、縄文人系)を騙し騙し、高句麗征伐を続けさせますが、政策変更した扶余王家(上宮家)が、王統を奪取し、遣隋使を送り中華に高句麗征伐を任せ、隋が滅亡すると扶余王家を天智系の舒(舒明)が糾弾し戦になり聖(聖徳)が敗北し(神仏戦争の実体)、政権奪取し合う状況が展開して行きます。

A・・半島進出を狙うのでは無く故地奪回目標ですが、当然乍ら密接な関連があり一致団結しようとする決意表明で、騎馬民族の伝承、金の壺(前方後円墳)から生まれたを表現してます。

*******************************


>契丹烏垣の前にエフライム族はどこにいたのですか?
>東胡末裔の烏桓族、鮮卑族、柔然が南下して中国に北魏、隋、唐などの王朝を建てたようですが、語り部説ではこれらはいずれもエフライム族系の王朝となりますね。

エフライム族末裔は古くは中東でのバビロン陥落時に騎馬民族と合流し、大陸の東側に移動して契丹烏垣に属して王を選出した部族だろうと睨んでいる。騎馬民族は離散集合が激しく、また記録も残さないのでなかなか実態が把握できないのが難点で、このWIKIの記述が全てだとは云えない。


>桓武天皇は天武天皇のひ孫?

泉涌寺の件もあり、これは絶対に在り得ないですね。
語り部説に分があります。

>古代イスラエル王国再興がフリーメーソン(イルミナティー)のNWOなのですか?

聖書記述に従えば、古代イスラエル王国再興には他の10部族の集結も必要となります。エフライム族とユダ族だけではだめでしょう。NWOとは艱難後の新しい世界の序列のことだと考えている。その模範とするのが古代イスラエル式の統治形態なのかもしれないが、、、それよりも、百済王族末裔の藤原氏はかつて領土だった南韓半島の接収併合が過去から継続した懸案事項ではないでしょうか。


>幕末以降に活躍している藤原式家(南朝)のリーダーは誰ですか?

藤原式家の足取りが見えないのが難点ですね。ただ藤原式家が持っていた利権は縁ある誰かに継承されていったのだろうと想像を逞しくするぐらいしか出来ない。藤原式家「奥の院」説もまだ洞察始めたばかりであまり深い内容や根拠が分かっていません。

No title

ヤッズ★ さん

ご回答ありがとうございます。

「~扶余王家は、帯方郡で扶余再興し、烏垣(烏丸)に高句麗討伐に加わらせる為に再興地を譲り鮮卑に加わる様に持ち掛け、拒否され軍を起こし扶余は滅亡し王は入水自殺。息子の王は中華に救援を依頼し扶余は再興されます。」は
『晋書』扶余伝の
至太康六年、為慕容廆所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝為下詔曰「夫餘王世守忠孝、為惡虜所滅、甚愍念之。若其遺類足以復國者、當為之方計、使得存立。」有司奏護東夷校尉鮮于嬰不救夫餘、失於機略。詔免嬰、以何龕代之。明年、夫餘後王依羅遣詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕上列、遣督郵賈沈以兵送之。廆又要之於路、沈與戰、大敗之、廆衆退、羅得復國。爾後毎為廆掠其種人、賣於中國。帝愍之、又發詔以官物贖還、下司、冀二州、禁市夫餘之口。

285年、鮮卑族の慕容廆に来襲され、扶余は国王の依慮が海に投身自殺するという潰滅的な打撃を受け、沃沮に避難する。286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。

に相当するかと思いますが、これ以外の語り部の説明は出典が不明なので理解できません。
尚、他のご回答はほぼ賛同します。
 

No title

夫婦共演ありえん
それよりも3年以内に離婚する可能性のほうが極めて大きい。
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