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焼遣(ヤキツ)

記紀(古事記・日本書紀)には、面白い特徴がある。

ひとつは富士山の記述がない点と、もう1つは東三河に関する記述が殆ど無いという点です。

記紀には持統上皇の三河行幸の記事があるにはあるのですが、前後の日にちから三河に長期滞在していることは確実なのです。しかしながら、その三河での詳細内容は省かれ、また同行幸では尾張...等の他国には褒賞を与えているのに三河には与えていないのです。しかも、租(穀物を収める義務=今でいう税金)を免除した武者を多く従えての行幸なのです。これ故、まるで戦をしに行くようでもある。彼女はいったい三河に何をしに行ったのだろうか?

これが「持統上皇の謎の三河行幸」と歴史マニア間で云われるものです。

記紀に記されない理由の1つとして、当時、東三河は蛮地であったという解釈がある。7世紀の評制度下においては「宝飯評」「泡海評」という評(こおり)はあるのですが、石巻山の属する八名郡は8世紀になって登場しています。また、ある文献には「穂の国」と呼ばれ国府が置かれていたという話もあるが、木棺出土がなく架空の話ではないかとも疑われており、東三河は三河国府が置かれていた西三河に属していたのではないかとも解釈されている。しかし、東三河は愛知県の中では最も古墳が多く、古くから開けた地であることは間違いないことであり、持統上皇の長期滞在や行動内容を省く理由にはならず、全く辻褄が合わないのです。

同様のことが富士山についても言える。

万葉集・常陸風土記・日本三代実録・竹取物語...等の文学には富士山に関する記述があるのですが、「古事記」(712年成立)、「日本書紀」(720年成立)...等の古典には何故か富士山の記事が一切無いのです。

以上から、神代上古には富士山は無かったという結論も導かれますが、実は、この説には語り部もオイラも支持賛同しています。ただ、記紀の歴史内容は朝鮮半島の歴史内容のパクリという説から、この矛盾を回避できるかもしれませんが、その場合でも「壬申の乱」以前の歴史が朝鮮半島だという限定があって、以後は日本列島での記録に間違いなく、この矛盾は解消されないのです。そうはいうものの、ほぼ同時代の4500首の歌を集めた「万葉集」(759年成立)には何首も収録されているという矛盾があるのです。

これは一体どういうことなのか?
富士山は奈良期にあったのか?なかったのか?
どうも富士山と三河には触れてはならない秘密がありそうです(ニタリ)。

まぁ、その答が徐福国初期大王家の封印というのが煩フルの見解ですが、二重に渡って東三河は隠蔽されねばならなかった。歴史から徐福国を隠蔽するということが特に大きく作用していて、それ故、不死山(蓬莱山)の記述も省かれてしまったのだと考えている。

蓬莱山(現・鳳来寺)の山名の「蓬莱」を熱田神宮へ移し「蓬莱島」とし、焼き払われた徐福の都「家基津(ヤキツ)」の名を「焼遣(敵を焼き払う)」の意味を持たせ「焼津」へと字を変え、さらに場所を静岡「焼津」へ移した。この時、徐福が海の大鯨を凪ぐ為にレビ人・始皇帝から預り携えてきた「草薙剣(海凪の杖=モーセの杖)」は東三河から熱田神宮に移されたのだろう。このようにして徐福国の都が東三河にあった痕跡自体を消し去ったのだと睨んでいる。

焼津神社の御神体は火石・水石ですが、これらを日本武尊が投げたところ、火石が熱田へ落ち、水石が焼津に落ちたという逸話があり、これが地名移替の隠蔽政策をしたことを暗に仄めかしていると考えている。問題なのは投げた地であり、それが東三河ではないか?というのがこの煩フルの推論です。
※註 少なくとも現在の静岡県焼津は古事記の野火攻撃の事跡のあった場所ではなさそうです。

東海02
(火石と水石の落ちた先)

以上から、日本武尊の東征とは、大倭の大王「倭讃」「倭済」「倭興」の3代、及び百済王家の入り婿「倭武」にまで渡って繰り広げられた徐福末裔を東三河から房総半島にまで追い詰め、討伐したという歴史を1人の人物「日本武尊」に仮託して創作した内容であったと考えています。逆に言えば、そこまでして徐福国の存在を隠蔽せねばならなかったということになりますが、大倭河内朝の大王にしても、百済系天皇にしても、徐福国の存在はよほど都合の悪かったのでしょう。

さて、神都・家基津についてですが、この名は下記の経緯で付いたという。

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昔、国狭槌命、白清瀧比女命ご夫婦、この国を開きたまう時、龍の河原の大松の下の鶴夫婦と、奥の小池の亀夫婦を鍾愛したまい、常に手に持てる杓にて食を投げ与え楽しまれた。ある日、食を与えていると、「都留」(ツル)・家明(カメ)と高くさけんで、互によろこび競いて食し、一食ごとに声いよいよ高く連呼しつつ食せし故、二柱益々興じ喜び、そのあまりの喜ばしさに杓をなげつけ、萬佐々々々々と三唱した。

鶴は舞って松上に止まり「都留」と鳴き、亀は這って池中に入り「家明」と叫んだ。尊はこれこそ「子孫繁盛」の前兆なりと、すなわち投げし杓を取り来り、おし頂きて詔(ノ)りたまわく、「わが子孫は必ずこの杓を身に添え所持せん」と堅く伝えしめた。鶴のとまりところを「都」と名づけ、亀のとまる所を「家」(カ)と名つけたまう。後の世にその地を「家基都」(かきつ)と称した。

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亀と鶴とは、実にめでたい名です(あはは)。

富士文書「神皇紀」には、徐幅末裔の「福信」という者が日本武尊に反逆した賊魁のように記され、また日本武尊が家基都(津)を「やきつ」と読ませるようにしたと云う。ですから、本当は「家基都(津)」は「かきつ」と呼んだ方がいいのかもしれません。

その後「家基都(津)」は富士北麓唯一の都となって永く栄えたが、日本武尊御東征のみぎり、皇軍に抵抗した賊軍の隠れた場所=「草薙の剣」で草を薙ぎ払い賊を焼き払った場所として有名になっていった。この時の様子を古事記ではこう記されています。

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尊が相模国に至った時、国造が偽ってこの地の大沼に悪い神がいると言った。尊はその神を見るため野に入った。すると国造は野に火を放った。欺かれたと知った尊が叔母から貰った袋を開けると火打ち石があった。まず草薙の剣で草を刈り払い、火打ち石で火を打ち出し、迎え火を付けた。戻ってその国造を切り滅ばして焼いた。それで、この場所を焼遣(やきづ=焼津)という。
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この焼遣(ヤキツ)の候補地の1つに、山梨県富士吉田市の明見村がありますが、かつては富士吉田市の辺りは相模国に属していたという。徐福末裔の「福信」が皇軍の行く手を遮るように橋を燃やして落としたといい、これが「焼橋」という名が残る理由だと富士古文書(宮下文書)には記されている。つまり、この説では富士吉田で最も早く開かれた小佐野という在所の近くの桂川に架かる「焼橋」が「焼津」だというのですが、上古には富士吉田には人が住んだ気配がなく、これにはちょっと無理があるような感じがします。
※註 かつて明見側に武田軍、吉田側に北条軍が陣取って争ったことがあり、攻撃してきた北条軍の過半数が川を渡ったときに橋に火矢をかけて落とし、孤立した北条軍を全滅させたという言い伝えがあるので、この福信の「焼橋」の話は眉唾である。

また、相模原市にも草薙伝説が残っており、かつて「大沼小沼」と呼ばれていた沼沢地が存在し、ここで日本武尊が国造の焼き討ちに遭ったという。現在でも「大沼」の地名は存在する。それ以外にも「草薙剣」をそのままを地名とする静岡市草薙があります。これら全てが移替の隠蔽政策の現れなのでしょう。

このように家基津(焼津)は、相模、富士吉田、静岡、、、結構、適当にあっちゃこっちゃと移していそうな感じがするのです。逆に言えば、これら3箇所ではないとも云える。

オイラの比定地は石巻山麓の金田地区ですが、ここは標高50mの地でもある。かつて東三河は陥没していて海が新城まで広がる葦が多く茂る沼地が殆どであったと語り部はいうが、幸いここは標高があっ為に大地が広がっていた。そして、古三河湾がこの地区の西方に接していて、家基津が「津」という「港」の意味を持つのも納得がいく。

ここならば、倭讃軍との国家統一の和平交渉の酒宴を催した照山(鳥捕山)にも近いし、交渉決裂し戦闘状態になった際、徐福末裔軍が本陣とした雲谷(うのや)も後背地にあって自然の要害といった感がある。倭讃軍は本陣の照山から進攻し、家基津にまで進攻した際に都を焼き払われて窮地に陥ったが、これが有名な草薙剣逸話の「焼遣(ヤキツ)」の名の興りだろう。倭讃軍はそのまま攻め上がり、敗走する徐福末裔軍は本陣の雲谷から浜名湖沿いに引佐(三ケ日)に逃げ込み、ここが最終決戦地となったのだろう。このように場所的にも語り部の記述とピッタリ一致するのです。

照山雲谷
(上古は雲谷近くまで海が迫っていた)

さらに、この金田地区には「前屋敷」「北屋敷」「下屋敷」「奥屋敷」「宮裏」...等、かつてここに何らかの大きな屋敷か宮があったような地名があるのです。

ここが徐福国の宮殿跡なのか?

東頭屋敷
(青い太枠が八名東頭神社)

語り部によれば、倭讃王君の頃、平原広沢(広い平野と湿地)の徐福本国(大漢国)滅亡とあるので、敵を焼き払った「焼遣(焼津)」は約1500年前頃の出来事となります。このぐらい前なら、ここに地名が残っていてもそう不思議ではない。
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コメント

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鍵コメさんへ~♪

コメントありがとうございます!

確かに久しぶりに登場しましたね!
ウォッチャーにはうれしい限りです。

彼を「岩戸」から引き出すアメノウズメ役をこのブログやっていますが、なかなか出て来ないので痺れを切らしていましたw 男とばれているからでしょうか(笑)

名前も変わっていてまるで出世魚のようですが、多分、次は「賀茂」か「秦」になるのではないでしょうか! 名称変更にも何か理由があると睨んでいます(ニタリ)。

イエスの件について述べている点はホント意外ですね。R・シュタイナーもイエスの再臨を述べていて、それは霊界(意識界)の出来事で霊界が光で浄化ことだと云っていますが、確かに今日、4/5 13時30分以降、自分の気持ちが何故か晴れて「もうどうなってもいいや~w」という妙な明るい感じになり、ダークサイドから抜け出た感じはありました。う~む、単なる勘違いかもしれませんが、、、(笑)

石舞台は去年見に行きましたが、あれは元は普通の方形古墳だったと現地で知りました。
「倭友(天智)」の墳墓だったんですね~
ただ、あの破壊振りは尋常じゃないです。
きっと天武がやったんじゃないでしょうか!(爆)

となると、京都山科にある天智天皇陵は一体誰の墳墓になるのでしょうか?

平安時代末期の歴史書「扶桑略記」には「天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。その沓が落ちていた所を山陵とした」と語り部がいうのと同じ内容がありますが、あれは沓だけの陵墓かも(笑)。天智とは縁も所縁もない京都に埋葬する筈はないので、おかしいとは思っていました。でも、遺体が見つからないのなら、石舞台に埋葬も有り得ないですよね。

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