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花祭りの謎

7/30は生憎の曇り空で、エレニン彗星の存在する黄道面は観測できず、なんとか北側だけが観測可能な空でした。最近は雲が多くて観測可能日が少ないと天文台の人も嘆いていました。まぁ、ケムトレイルの影響はこんなところにも出ています。

エレニン彗星の確証を掴めないままに終わったのですが、実は、今回の旅行(?)の目的にはもう1つ調査懸案がありました。

それは中央構造線に存在する「湯立て神事」です。これは遠山郷の「霜月祭り」や北設楽の「花祭り」、北遠州の「花の舞」が有名ですね。今、中央構造線沿いに多くの地震がありますが、日月神示がいう「岩戸開き」とはこの中央構造線がガバーッと開いて、日本列島がまた再び過去のように2つに割れてしまうのではないかと睨んでいますが、この中央構造線上に古くから伝わる神事が何か深い関係があるとヤッズ★の野生のカンが訴えるのだす。これにはきっと何かある(笑)。

で、今回は北設楽の「花祭り」にターゲットを充てての妄想的研究です。奥三河には花祭りの資料を展示する「花祭り会館」「花祭りの館」があるのですが、行ったのが平日故、管理人が不在だったのですが、ヤッズ★たちが到着すると、たまたま人が現れ館内スムーズに入る事が出来たというシンクロを2度経験しており、カミサンは「不思議だ、不思議だ、、、」と驚きを隠せない様子だったことも付け加えねばなるまい。これはきっと何かある(爆)。

花祭り
(鬼はまつろわぬ民を表していますが、角と赤から蚩尤(しゆう)を暗示か?)

「湯立て神事」は生命が弱まる旧暦霜月(旧暦11月)のころに行われ、水を釜で炊き諸国から迎えた神々にお湯を献じ、また里人達にもこの湯を降りかける事によって穢れを祓い清め魂の再生を図る祭りだといいますが、「千と千尋の神隠し」の銭湯の描写は、この湯立て神事がヒントになっているのはよく知られるところです。

再生を祝福する祭りであることから、、、、、

いわば日本のイースタークリスマスなのです(笑)。

遠山郷に古くから伝わる「霜月祭り」は、両部神道(神仏習合思想)的な湯立祭りですが、面を被った鬼や神が登場する神楽が中心で人の舞はありません。また、若干の修験道的要素も含まれており熊野修験道の影響も伺えますが、清和天皇(859~876)の御世に行われていた宮廷祭事を模した湯立てがほぼ原形のままで伝承されているのです。

一方、もっと修験道的要素を濃くし、人の舞を導入したのが北設楽の「花祭り」です。湯立てが山伏や修験者によって天竜川水系に伝えられたと云われますが、四神相応や陰陽五行説からくる五色の御幣があったりと道教的要素も多分に含まれ、村祭りの原型的な姿を持つのが花祭りです。鎌倉・室町時代、天龍川は和歌山県の熊野から諏訪大社へと行き来する熊野修験者たちの修行路でしたが、熊野修験道はしだいに勢いを失い、北設楽(愛知県の奥三河)にも多くの修験者が土着したという。この時、修験道の教義を村人たちに理解してもらうため、従来の「湯立て」の祭りをベースに、当時、都で流行していた猿楽能や近隣地区に伝わる鬼神楽などを加えて、7日7夜に渡って行なわれる「大神楽」を創出したのが花祭りの原点。



大神楽は数十年に一度、数ケ村が合同の神楽組を組織して行う二夜三日の本祭を中心に前後30日にもおよぶ大規模な祭事なのですが、徳川時代には大神楽開催に幕府の許可がおりず、仕方なく大神楽を再編して例年執行する一日一夜の花神楽を創りだしたという。さらに明治期の神仏分離で仏教的要素を廃し、舞を中心に据えたのが現行の花祭りなのです。花祭りは男が巫女となり舞を踊るのが原則で、大きくは「大入系」「振草系」の2つに分類され、若干の違いが存在する。あと、共通な大きな特徴は「鬼の面」が大きくデフォルメされている点です。

流れを簡単にまとめると、、、、

湯立て神事 → (伊勢大神楽+鬼神楽を導入) → 大神楽 → (舞を導入し簡素化) → 花祭り

という変遷を経て独特の発展を遂げたのです。つまり、舞を導入しなかったのが遠山郷の「霜月祭り」だといえそうです。今、花祭りは世界遺産登録に向け、いろいろPR活動していますが、さてさてどうなるでしょうか。

■花祭(霜月神楽)

大神楽といえば伊勢大神楽が有名ですが、これは通称「獅子舞」のことです。これは伊勢神宮に参拝できない人の代わりに神楽(獅子舞と放下【曲芸】)を奉納する神事ですが、これを行なっていたのが「御師」といわれる下級神官で獅子舞を舞い神札を配って奉納金を得るという、今でいう伊勢神宮の営業マン的なことをしていました。ただ、花祭りでの大神楽はそういった獅子舞的な神楽ではなく、もっと道教的な要素のあるものです。

眼目点は、「白山入り」という過去に行なわれていた大神楽の演目です。

「白山入り」の神楽は、今の花祭りにも「花育て」として1シーンだけが残されていますが、この概要はこうです。舞庭に隣接して白山という「浄土」空間を設え、祈願者が舞庭と白山とを結ぶ白木綿の橋を渡り、鬼に救い出されて帰って来るという疑死再生の儀礼ですが、10人程度の村人役があの世(白山)表す場で一夜を過ごし、六道の苦をつぶさに嘗めて懺悔し、生まれかわって此の世である舞庭に誕生するという再生内容なのです。舞庭とはあの世とこの世を行き来するゲートなのです。これは浄土への転生願望から生まれたものだといわれますが、現在のアセンション願望にも通じるものがある。

さらには、メーソンの死と再生の儀式にも通じるのではないかと密かに睨んでいる(ふふふ)。

死と再生の儀式
(モーツァルトが受けたメーソンの死と再生の儀式)

というのも、花祭りの行なう前に天の神に捧げる神事があるのですが、この時、75個の菓子を天の神にささげるのです。この「75」というのは諏訪神社の「御頭祭り」の鹿の数と同じで、また東三河でも同様に75頭の猪を生贄に捧げた徐福渡来伝承がある兎足神社があるのですが、これは聖書の「イサクの燔祭」と同じ数字なのです。しかも、この花祭りの祭神はなんと牛頭天王、つまり蚩尤(しゆう)だったのです。蚩尤はこの煩フルでは牛神、ヤハウェ、モーゼだと比定しています。そして、メーソン自体がキリスト者の増加に頭を悩まし、その撲滅の為に結成された古代イスラエルの秘密結社だったといいますから尚更です。
※註 この牛頭天王と75個の供物の話は「花祭り会館」「花祭りの館」のDVDで知りました。

修験道の教義は人間は修行によって「生まれ変わった新しい人格へと自らを再生することができる」という生成・再生思想を持っている為、この教義を村人に分かり易く教える為に、この「白山入り」神楽を導入したと考えられていますが、これが他所の「湯立て神事」にはない花祭りの大きな特徴なのです。ただ、今の花祭りでは見られないのが残念です。
※註 大神楽は何十年振りに復活させたというが、毎年見られるわけではない?

100年の間、「祝いの神事」が途絶えしまった天皇家では、その体制が瓦解するとまで予言されてしまう程に祭祀王としての能力に関しては疑問符が付けられてしまっているのですが、万一、このような状態であるならば、この国を祭祀的にまとめ上げ大難を小難にする力などないのかもしれない。

で、実は問題の中央構造線に存するこの地こそ、「岩戸開き」の大いなる秘密があると睨んでいる。(ふふふ)

その理由は、、、、湯立てというものが水と火が奏でるものであり、実際、祭りの最終日には花太夫2名が火の王と水の王の面を被り、舞を踊る神事がある程にこの湯立て神事は最初から最後まで火と水の儀式なのです。日月神示がいうように、3.11以降、この火と水の洗礼が起きているわけですが、それは花祭り等の湯立て神事が「生の再生」として湯を採り扱っているのとリンクしているのです。死と再生、、、つまり「岩戸閉め」「岩戸開き」をズバリと扱った神楽が「白山入り」なのです。

舞庭に登場する最初の鬼が山見鬼ですが、花祭りの原型といわれる江戸時代の大神楽では、山見鬼は浄土入りを目指す人を導き、白山(浄土)を巨大な鉞(まさかり)で割り開く役割を持つとされています。つまり、山見鬼は「岩戸開き」の役割を受け持っているのです。

山見鬼01
(巨大な鉞を持つ山見鬼)

次に、この祭りが行なわれていた霜月(旧暦の11月)というのが「11」であり、ちょっとこじ付けっぽいですが9.11、3.11と同じく「11」なのです。つまり、3.11以降、あるいは第9サイクルの期間中、世界は湯立て神事の真っ最中だという認識なのです。で、この祭りが明けると魂の再生が図られ、ミロクの世の岩戸が開くという寸法ですw

で、このあの世を暗喩する白山を「花の山」としたのが、花祭り(古くは花神楽)の「花」の名の由来だという見解があるのですが、それとは真っ向から対立する異なる伝承もあるのです。

それは、、、花祭りは花山(かざん)天皇の子孫が伝えたもので、本来は「花山祭り」なのだという伝承です。昭和中期に廃村になった大入地区の花祭りは、天皇の子孫といわれた花山家を中心に行われ、この「大入」という地名は花山天皇が奥三河に隠棲した地を示す「王入り」「皇入り」から来ているというのです。

花山天皇(968年-1008年 享年41歳)は冷泉天皇の第一皇子ですが、子には「祝いの神事」をしないと100年後には天皇家は滅びると予言した神祇伯を世襲した白川伯王家の祖である花山源氏の清仁親王がいます。ここに何かしらの因縁を感じますね。花山天皇は17歳で即位したった2年足らず在位したという。19歳の時、突然、清涼殿から失踪し内裏では大騒ぎとなったが、その時、剃髪して仏門に入ったといい、そのまま退位したという。

花山出家
(花山天皇出家の図)

実は、この突然の出家騒動は一条天皇を即位させる為に藤原兼家が仕組んだ陰謀だったという。つまり、藤原伊尹の摂政就任の数年後、伊尹が病死した為、伊尹に代わって政権を握ろうと兼家が動き出したのが真の原因。兼家が摂政になって宮中を牛耳るには、自分の娘が産んだ子が天皇になる必要がある為、花山天皇を退位させ、自分の孫である懐仁親王を新たな天皇として即位させなければならない必要性があったのです。寵愛していた妃と死別し、その菩提を弔う生活を藤原道兼(兼家の子)に勧められ、心を動かされた花山天皇は道兼の導きで秘かに宮中を脱出し、出家の為の剃髪を始めたが、その直前に道兼は「父に最後の挨拶をしたい」と言い出し寺を立ち去ってしまった。その間、兼家らは三種の神器を懐仁親王(一条天皇 当時7才)のもとへ運び込み、即位の準備をサッサさと済ませてしまったのだという。道兼がいつまでたっても戻らぬため、天皇はようやく自分が騙されたと気付いたが時すでに遅しであった。

花山天皇もまた藤原一族の犠牲者だったのです。

花山天皇はちょうど紫式部や安倍晴明の時代と重なり、花山天皇と安倍晴明は共に那智の山中に千日こもって修行をしたとも伝えられる程の間柄です。安倍晴明は名古屋や岡崎に晴明神社があるように名古屋や岡崎に邸宅があったといいますが、もし、伝承がいうように花山天皇の奥三河入りがあるとすれば、何故、清明が三河の阿寺七滝で修法をしたのかも読めてきますね。

類稀な法力を持つ花山法王、、、、
呪詛で都への災いを起こしかない、、、、

多分、法王への結界封印じゃないでしょうか?(笑)

花山天皇は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造を多くしたといいますが、鎌倉時代の説話集『古事談』によると「天皇は即位式の最中、さる女官を高御座(玉座)の中へ引き入れ、男女の行為に及んだのだともいう(爆)。また即位後は、貴族の家に美しい姫君がいると知れば、見境なく恋文を送りまくったという逸話もある。さらに女性問題以外にも「猿を犬に乗せて街路を走らせた」「蜜柑で作った大きな数珠を車の外に垂らしていた」等、数々の奇矯な振舞いは、「寝床で大声で唄っていた」という冷泉上皇以上だという。

晴明の守護のもと、修行に邁進した花山上皇(花山院)ですが、那智での修行により花山法皇の験力は高まり、熊野権現の中堂で行われた験比べでは相手の験者を圧倒するほどの験力の強さを示したと伝えられ、さらに紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し、修行に勤めた結果、さらに大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されているのです。

寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(京都市北区)に葬られたというが、臨終の際の遺言状には「私が死んだら、私の女宮たちを49日の間に皆、あの世へ連れていく」と書き残し、実際、この言葉通りに花山院の女宮たちはに皆間もなく死んでいったのだという。

■花山天皇(かざんてんのう)

この「皆を黄泉国に連れて行く」という遺言内容が、大神楽の「白山入り」のベースになったと睨んでいるのですが、これはオコツトのいう霊界入り(変換人の世界)を彷彿とさせる内容です(笑)。ただ、歴史書の記述通りなら、花山院は京都で崩御したことになるのですが、そうではないと先の伝承はいう。

ここでそのメモ書き伝承を紹介しますと、、、

*****************************************
王ノ花祭秘伝 御神楽双門 双門 花双門 遍族ト秘伝

第六五代天皇 花山師貞大権現 皇入村神

古来ヨリ花祭ヲ以テ祭礼トナス 旧十霜月十四日ナリシモ 明治中頃ヨリ新暦一月二日ヲ祭礼日ト変更シ 未ダ嘗テ一年ダニ休祭シタルコトナシ 祭ノ起源ハ 花山院天皇 崩御遊バサレシ後 ソノ御遺徳ヲ偲ビ奉リテ天ノ岩戸前ノ御舞ヲ行ウ祭礼トナシ奉祭ス

花山院天皇ノ御祭ナルニ因リテ 花山祭ト申シ奉ルト云ウ 天竜川ニテ潔斎 霜月十四日ヨリ 七日七夜花祭リ行事ヲ行ヒタリ

供物 浜水・浜石・神酒・洗米・白飯・白餅・蕎麦団子・吊柿 元旦ヨリ四日マデ執行

鬼ノ舞
御由緒式内駐神社 中小関大明神(現神妻神社)
宝亀二年十一月(七七一)辛亥

花の舞
寛弘五年(一〇〇八)戊申
三河国設楽郡 食ニ郷 花山家 

花山師貞親王
九六八、一〇、二六 出生
九六九、 八、一三 立太子
九八二、 二、一九 元服
九八四、 八、二七 円融カラ譲位
九八四、一〇、一〇 即位
九八四、一一、 一 一婚
九八四、一二、二五 二婚
九八五、 七、一八 一妻病没
九八五、一一、二五 三婚
九八六、 六、二三 退位 出家 法名 入覚
九八六、 六、二四 義譲 推成 出家
九八七、 六、二六 円教寺ノ山 法 狙撃(叔父に弓で殺害サレタ) 三妻没
花山院 隠棲
〇〇八、 二、 八 崩御 四一歳 神楽挙行

長和元年(一〇一二)壬子 八、一五 家系図始メ
兵庫県三田市 尼寺 三五二 花山院 TEL 075-66-0125

花山家家系図 源氏始マリタモウ 冷泉院第一ノ皇子 花山天皇六十五代 乙酉 
寛和元年 即位 在位二年ニテ王位退キ 花山寺ニ入リ 剃髪シテ僧入覚トナリ 是ハ藤原道兼ノ誘ヒ 藤原道兼 道隆 道兼 道長 兄弟争フニ 政ニ依ッテ花山法王 崩ストシ天西国ヨリ三河ヘヲチ 匿ル 花山法皇 入覚ヲ以ト云也

長和元年(一〇一二)壬子 八月十五日 

花山法王 ー 入覚王子 ー 融花丸 ー 右高助 ー 久吾丸 ー 右太若 ー 久太郎(彦四郎) ー 丹治ノ助 ー 輝市郎 ー 久蔵 ー 彦太郎 ー 源明 ー 久五郎 ー 輝市(蔵右衛門)ー 彦右衛門 ー 久左衛門 ー 又五郎 ー 久蔵 ー 久太夫(久蔵)ー 幸太夫 ー 林弥 ー 宇市 ー 明太郎 ー 家久 ー 雅宣  

本神 猿田彦命(土公神) 山割 須佐之男命 茂吉 大国主命 姫神 天照大神  塩吹 大力男命 オカメ 天銅女命

皇入デハ花祭ト云ウ 花山法王入覚祭
祭礼起源 寛弘五年(一〇〇八)生マレ清マレ 入覚花育テ


■月刊雑誌「末保呂場」 第4巻第1号
http://www.justmystage.com/home/mahoroba/0401/index.html

(ヤッズ★註)
神妻神社・・・北遠州の神社、古名は「馬主神社」で「鬼の舞」はここが起源
花山寺・・・京都市山科区の天台宗寺院「元慶寺」。藤原兼家、道兼父子策略の出家の舞台
円教寺・・・姫路市の天台宗別格本山で「西の比叡山」で花山天皇が命名。『ラストサムライ』の主なロケ地

*****************************************

上記の内容からは、政治的に花山天皇は崩御したことにされたとあります。

花山天皇出家後に起きた有名な事件に「花山法皇襲撃事件」があります。これは996年(花山法皇29歳)の時に起きたとされる事件ですが、中関白家の内大臣藤原伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘「三の君」と同じ屋敷に住む「四の君」に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談して従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、矢で射られたという事件です。幸い法皇の衣の袖を射抜いただけで済んだのですが、これが原因で花山法皇は体裁の悪さと恐怖で引き篭もりになったという。
※註 一説には、この襲撃事件で乱闘になりお供の童子2名の首が取られたという。また、後にこの事件が噂となり、矢を射らせたという藤原伊周・隆家は大宰府と出雲国に左遷(長徳の変)させられた。

九八七、 六、二六 円教寺ノ山 法 狙撃(叔父に弓で殺害サレタ) 三妻没

と伝承メモにありますが、この襲撃事件のことでしょうか? だた年代が987年と996年とでは9年も開きがありどうも違うようです。この襲撃事件以外にも襲撃があったのでしょうか? 987年といえば花山天皇が退位した翌年で、この年は姫路市郊外の「しょしゃ山寺」に「円教」という寺号を授け、勅願寺とした院宣をした年でもある。

う~む、何か臭う、、、、、

いくら恋敵といえど、内大臣という高位にあった藤原伊周が法皇に矢を射るという「不敬」を起こすだろうか?

この花山法皇襲撃事件とは、実は伝承メモが語る987年に起きた円教寺での事件ではないだろうか?藤原一族内で藤原長者を巡る政敵間の熾烈な争いで破れた藤原伊周・隆家兄弟を花山法皇狙撃事件と絡めて、恋敵との色恋沙汰のゴシップ事件へとでっち上げて、歴史とされたのではないだろうか?残念ながら、それを裏付ける資料は見当たらないが、表の歴史が真実だとは限らない、、、、
※註 公卿・藤原実資の日記『小右記』によれば、花山法王と乳母子の娘・平平子との間に出来た皇女一人が万寿元年(1024年)12月6日に夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見されたが、この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査により、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛された。その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白するが、この藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けた藤原伊周であったという。翌年、万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将・伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されたという。

そう考え直すと、花山天皇の好色な武勇伝もかなり脚色されたものではないかと思えてくるし、道隆-伊周ラインの藤原北家長兄である中関白家を完膚無きまでに崩落させた北家の他の兄弟家の合同的陰謀ではないかと思えてくる。この背景には、伊周は父である関白・道隆による強引な官位引き上げにより、8歳年上の叔父道長ら3人の先任者を飛び越えて内大臣に昇進(21歳)したというが、この軋轢が遠因ではないかと睨んでいる。

藤原兼家-(長男)道隆-伊周-道雅・・・【中関白家】
藤原兼家-(三男)道兼-兼隆・・・(以下公卿無し)
藤原兼家-(五男)道長-頼通/教通-・・・

この花山天皇に対して「一緒に出家し修行する」と騙して裏切った藤原道兼は、その後、関白まで昇進するのですが、関白になってほどなく急に病死(995年)するのです。世に「七日関白」と呼ばれるが、この995年はまだ花山天皇は存命の時なので、この急死は藤原道兼を憎んだ花山天皇の法力による呪詛ではないかと睨んでいる。

そして、今、中央構造線の結界封印が弱まっていることから、この花山天皇の「皆を黄泉国に連れて行く」という呪詛が有効化し始めている?まぁ、これは妄想かもしれませんが、、、、、
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コメント

はじめまして。花祭りに関して、古代イスラエル等との関連、イースター、クリスマスとの関連を考えていたので非常に共感出来、納得のいく記事で興味深い深かったです。現地の方にうかがったところ、なんと八坂神社、諏訪大社、熊野神社まであの小さな町にあるそうで、京都の祇園祭、そしてイスラエルのシオン祭りと同日に、花祭りのない地区では祇園祭という夏祭りがあるそうです。もはや偶然とは思えませんね。日本人の一部にヘブライの血が流れていることは間違いないでしょう。どなたかこの伝承が途絶えてしまう前に正式に調査してほしいものです。ブログがんばってください!

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