不二は晴れたり

日月神示の冒頭は、「不二は晴れたり日本晴れ」で始まっていますが、世界の隅々までが悪神・悪霊たちの掌中に落ちたと思われた際、不二山の大噴火とともに正神の神々による「立て替え・立て直し」が開始されると予言されています。予言が的中するかどうかは、さておき、

ここで普通の人は、、、、

不二山=富士山

と確定的に捉えてしまっています。確かに「不二」に該当しそうな山は今のところ駿府の富士山しか見当たりません。しかし、ここに解釈上の誤りがあるのではないかと最近切実に思っているのです。というのも、富士山の古名は「浅間山」であり、蝦夷(アイヌ)の怨霊とも縄文の古代神とも云われる日月の神(艮の金神)が云う場合、「不二山=富士山」とすることは少々安易であり、ちょっと違うのではないかと思われるからです。
※註 かく言うヤッズ★も以前は「不二山=富士山」で記事書いていたが、、、

語り部の語る内容を真実の歴史と考える煩フルの決まり事では、、、、

不二山=不尽山=不死山=蓬莱山=鳳来寺山です(爆)
※註 古史古伝である『富士古文献・宮下文書』には、徐福が目指した地は『トヨアシハラミズホの国でホウライ』と呼ばれていた」と書かれていますので、豊葦原瑞穂国中津国に蓬莱山があったことになります。何度も言うようですが、豊葦原瑞穂国中津国が「豊橋」の語源なのですw

「NARUTOの仕組」を発動するのがNARUTO比定地の豊川稲荷なのですが(爆)、鳴門(ナルト)とは「成る大和(ナルト)」であり、これは二極化したものが更に二極化して万物が創造されていくという「デミウルゴスの創造」とは反対方向に進む過程です。豊川市の市章がそのことを如実に表していますね。

そして、その接着剤的な役目を担うのが、世界中のヲタを虜にしているアニメ萌えやカワイイ弁当やヘルシーな日本食の「クール・ジャパン」であると睨んでいます。

世界中の人民が大和民族になるのです(超爆)。

実際、縄文時代に花開いた文明が世界各地に渡り、シュメール文明、黄河文明...等の古代文明を興し、その後、再び、続々と日本に帰還してきたというのが真実の歴史の流れです。毛野国のエブス人にしろ、平原広沢の王の徐福にしろ、邪馬台国の卑弥呼の倭人にしろ、初期大王家のカド族にしろ、後期大王家のエフライム族にしろ、続々と日本に帰還した人たちではないでしょうか。

そして、ミロクの世=世界の大和化=失われた記憶の再興、その「成る大和(ナルト)」現象が物質世界に象徴的に現れているのが、現在、封切公開中の「実写版・宇宙戦艦ヤマト」でしょうか(爆)。



そして、ここが最も大事な点なのですが、、、、

実写版ヤマトのエンディングロールに何故か豊橋が登場するのです(爆)。
※註 豊橋&田原でロケしたといいます。そのシーンとは、、、①フェリーを使い湾内に1週間停泊してコスモタイガーの格納庫でのシーン ②冒頭のレアメタル探索シーンの2つを撮影したといいます。東三河への集中。これこそ「外界=内面」という変換人型ゲシュタルトの証左かもしれないw

ハリポタのアジア唯一のクィディッチ・チームである「豊橋天狗」、ロード・オブ・ザ・リングの中ツ国(=豊葦原中津国)、NARUTOの火の国(=穂の国)、ナウシカの聖都シュワの墓所(=石巻山)、エヴァンゲリオンの冬月副指令官の回想場面、KARAの関東圏以外の初ライブ、韓流ドラマ『シンデレラ』のロケ地...東三河を取り巻く、こういった不思議な事象に続く快挙ですw

実は、豊橋がロケ撮影地に選択された霊的な理由は、、、「鳴門の仕組発動の次は、富士(不二)の仕組発動であり、それは豊橋なのだよ~ん♪」と暗喩しているのではないでしょうか。多分、シリウス意識が関与した結果か、映画製作者が「煩フルを見たよ~♪」というメッセージなのかもしれません(超爆)。
※註 豊橋市の市章は、2つが1つのものとなるゼロポイントを示していて、即ち「不二の仕組」を表現しているのです。

「NARUTOの仕組」発動後、「不二子ちゃ~んの仕組」が発動するわけですが、それを起動させるボタンの役目が石巻山です。ですから、「立て替え・立て直し」の時に噴火する「滅びの山」があるならば、それは東三河に無くてはならない筈なのです。それの「不二」とは実は駿河の富士山などではなく、ズバリ、蓬莱山(鳳来寺山)ではないでしょうか!!!

日月神示が薦める祝詞に「一二三祝詞」がありますが、トランブレーみゆきさん情報では、この祝詞と同じように照山(123m)→鳳来寺山(456m=お堂の標高)→本宮山(789m)と東海三神山は123456789が連続した数字になっていて、思い切りシンクロしていますw

そして、ここがポイントですが、123...9ときて「10」が無いのです!!!
ここに「成る十(10)」の仕組の謎解きの重大なヒントがあると睨んでいます。

具体的には、石巻山という「ポチッとなボタン」によって、その地に交差する火(五芒星)と水(六芒星)のエネルギーが融合化して不二の関係となり、それにより発生したゼロポイントエネルギーが「石巻山→照山123→鳳来寺山456→本宮山789→豊川稲荷10」と伝わっていくのではないかと睨んでいます。ただ、これは実際には測定できないエネルギーですが、、、、(爆)
※註 このエネルギーが拡散していく流れと対極的な「豊川稲荷→本宮山→鳳来寺山→照山→石巻山」という現界の集束的な流れがあると思っています。この実の集束から虚への拡散こそがグデンとひっくりかえるという表現になります。オコツトが「内が外、外が内」となるとはこのことでしょうか。ただ、その場合でも、見える世界には劇的な変化はなく、何故だか分からないけど、自分の思いの反映度が徐々に高くなってくるような感じでしょうか。それは、この世界が元々は自分の想念で見ている世界なので、そこには何の代わり映えも起きない筈で、ただ、願望が叶い易くなるとか、その世界を取り巻く法則が変わってくるという感覚に例えられるでしょうか。これが五感の檻と例えられる理由です。

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(2008/06/26)
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不二子ちゃん
(「不二子ちゃ~ん♪の仕組」で来年の流行語大賞を狙う)

この東海三神山で囲まれた地域(新城)は、かつては不死山(蓬莱山)を臨む地だったことから「不死原」と呼ばれていました。この名を下賜されたのが日本を1300年間支配している「藤原氏」ですが、この三角地帯の霊的な復活がピラミッド型支配体系の「藤原の世」から、不死であるミロクの世、つまり「不死原の世」へ誘うのでしょうか。こういった点からも、仕組発動の地として東三河は相応しいw
※注 語り部によれば、中臣大嶋が草壁皇子を暗殺して天武天皇より褒美として賜ったのがこの「藤原姓」と年老いた巫女「額田女王」と「袴」です。しかし、草壁皇子を失った持統天皇が逆上鬼畜化して、自分の血を引く孫を天皇位に付ける為になりふりかまわず天武天皇の御落胤たちを虐殺しに1ヶ月に渡る三河行幸をしたといいます。その虐殺の原因を作り咎を認めた中臣大嶋は、同族であり御落胤・宮子を養女にして保護していた中臣不比等にこの「藤原姓」を譲り、自らは日下部と名乗り虐殺された霊を慰める為に、三河一宮の「砥鹿(トガ)神社」を創建し宮司になったという。「砥鹿神社」は本宮山の里宮と言われていますが、里宮にしては距離が離れ過ぎていこことから、本来、本宮山と関係ない神社であることは明白です。

そして、この「不死」の名の由来は「かぐや姫」にあるといいます。かぐや姫では天皇から贈られた不老不死の薬を翁はお付の大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたといいます。それから、その山は数多の士に因んで不死山と名付けられたといいますが、この山が蓬莱山だったのです。
※注 実は藤原不比等は「竹取物語」に登場してきます。かぐや姫から「蓬莱の玉の枝」という難題を与えられた車持皇子が不比等だと云われていますね。ちなみに翁は用明天皇でしょうか。ですから、この竹取物語とは、実は天武天皇の御落胤・宮子を匿う話だったのではないでしょうか?

こうして鳳来寺山(蓬莱山=不二山)が大噴火するのです(爆)
※註 不二山は正確には鳳来寺山の西向こうの場所です。徐福末裔が多く移り住んでいたのが本宮山の麓ですが、その本宮に対する故地が和歌山の新宮です。この本宮が復活するという感じになるでしょうか。その時、東三河~新宮を貫通するロンギヌスの槍的封印が解けるのでは、、、、

って、、、豊橋、マジやばいじゃん(滝汗)

でも鳳来寺山って今も活火山だったか?
霊的な大噴火なので大丈夫だと思います。多分。。。。

このように滅びの時に大噴火する不二山については、「不二山=不死山=蓬莱山=鳳来寺山」であると睨んでいるのですが、ここで少し駿河の富士山について洞察してみたいと思います。この洞察により、富士山は不二山でないことが分かってきます。

結論からいえば、富士山って意外と新しいのです。
富士山の噴火を記した文献は、下記の通りいろいろとあります。

■平安時代(前期)794年~969年頃
『続日本紀』には、天応元年(781年)に富士山噴火による降灰があったと記され、これが年代考証できる最も古い記録です。また、学者の都良香(834-879年)の『富士山記』によれば、富士山火口の様子は「山頂には火口湖があって常に沸き立ち、その畔に虎の姿に似た岩がある」と記している。実際に登頂して確認したような詳細な描写です。また、この時期に成立した『竹取物語』の記述にも富士山が活動期であったことを窺わせる記述があるといいます。

■平安時代(中期)969年~1086年頃
『更級日記』には、富士山の噴気や「火映現象」を表わした「山のいただきのすこしたひらぎたるより、煙は立ちのぼる、夕暮れは火のもえたつも見ゆ」という描写がある。
※註 火映現象…火口のマグマや火山ガスの火炎などが、噴煙等に反射して火口の上が赤く照らし出される現象

■平安時代(後期)1086年~1192年頃
歴史書『本朝世紀』(1149年)には、末代上人(平安時代末期の僧。富士上人とも称す)が数百回の登山を繰り返し、富士山頂に大日寺という仏堂を建立し大日如来を奉納したという記述がある。

■それ以後
富士山を開いたのは平安末期の1149年(久安5年)山頂に一切経を埋納した富士上人ですが、江戸時代後期の1800年(寛政12年)まで富士山は女人禁制であったのです。延暦19年-21年(800年-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火と続き、最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火だといいます。

年表にまとめてみるとこんな感じです。

■781年 噴火 山麓に降灰し、木の葉が枯れた 「続日本紀」
■800-802年 【延暦噴火】 砕石が足柄路をふさいだので箱根路を開いた 「日本紀略」
■864-866年 【貞観噴火】 溶岩流が本栖湖とせの海に流れ込んだ 「日本三代実録」
■937年 噴火 溶岩流が未知の湖を埋めた 「日本紀略」など
■999年 噴火 噴火 「本朝世紀」
■1020年 噴気と火映現象 山頂から煙が立ちのぼり、夜には炎が見えた 「更級日記」
■1033年 噴火 溶岩流が山ろくに達した 「日本紀略」
■1083年 噴火 爆発的な噴火 「扶桑略記」など
■1435年 噴火 富士山に炎が見えた 「王代記」
■1511年 噴火  河口湖付近で異様な鳴動が聞こえ、鎌岩が燃えた 「妙法寺記」
■1704年 鳴動 元禄関東地震の35日後から4日間にわたって富士山が鳴った 「太泉寺文書」
■1707年 【宝永噴火】 宝永東海地震の49日後から2週間にわたって爆発的な噴火が生じた


1149年には何百回も登ることが出来る程の山であったのに、その時まで山頂に仏堂や奥の院が出来ていないのは不思議ですね。多分、この時までかなり活発な山で人が近づくことを拒むような山だったのではないでしょうか。実際、『新古今和歌集』の西行法師(1118-1190年)の歌には「風になびく 富士の煙の 空にきえて ゆくへもしらぬ 我が心かな」とあるように、当時の富士山が活発な火山活動を行っていたことが伺えるのです。それと、781年以前には記録がないことから、それ以前は実は大した山ではなかったのかもしれません(爆)。

不二山
(かつての富士山はこんな感じか・爆)

で、富士山といえば、真っ先に浮かぶのがこの短歌ですね。

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りける


これは奈良時代の柿本人麻呂(=三輪高市麻呂)と並び証される万葉の歌人・山部赤人(?-736年没)による有名な短歌(反歌)ですが、その原文は「田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡(不尽)能高嶺尓 雪波零家留」となっています。ここでは富士は「不尽」と書かれていますので、駿府の富士山を詠ったのかどうか怪しいのですw。
※註 語り部によれば、「山部赤人」とは蘇我入鹿(鞍作毛人)の弟・鞍作雄物だというが、、、

語り部によれば、蓬莱山(不死山)が陥没するのは745年なので、736年没の山部赤人は蓬莱山を見て詠むことが出来たわけです。逆に、富士山の古名である「浅間山」の「アサマ」とはアイヌ語で「火を吹く燃える岩」であり、活動中の火山を指す言葉であるといいますので、上記年表のように富士山はまだ活動期の若い火山であり、それ程標高も高くなく、今あるような雄大な姿はしていなかったのではないでしょうか。

語り部はこう語ります。

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大漢国のエイ州(石巻山)、扶桑国の方丈(本宮山)、蓬莱(鳳来寺山)の3つを指し、蓬莱山は旧不死山でカルデラ湖。745年陥没し大被害を起したという。この時、新城の海、エイ州の海は後退。

桜彦(聖武)天皇(法隆寺建設、聖徳太子伝説創設)御世、大地震頻発し、多くの僧侶に祈願させるが、遂に古伊勢湾大地震隆起し陥没し再隆起745年。

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鳳来寺山近辺には湯谷温泉があるように、この地には温泉が出る為、ボーリング調査をたくさん行なわれていますが、その調査で分かったことは、ある地域とある地域の間には1000mもの地層の段差ズレがあることが確認されたのです。年代は別にして、語り部のいうように巨大な陥没があったというのは全くもって正しいことなのです。

■明神山・其の2 『明神山は3000m?』
http://nagoya.cool.ne.jp/matsunari/Mwm/00_08/myoujinsan.html

また、中央構造線がこの地域では鳳来寺山を中心に微妙にカーブを描いて外側に振れている為、この地で何らかの強大な変動(陥没)があったことは容易に想像が出来るのです。

鳳来寺03
(何故か湯谷辺りで弧状に歪んでる)

745年といえば、聖武天皇が建設中の近江国甲賀郡の「紫香楽宮(信楽宮)」を放棄して、再び「平城京」に遷都した年ですが、その詳細はこうです。

聖武天皇は都を難波宮に移した後、744年11月から洛陽の竜門石窟を真似て大仏(盧舎那仏)を紫香楽に造るべく着々と準備を進め、745年正月に紫香楽に正式に遷都しました。しかし、紫香楽で大仏鋳造が始まると、何故か紫香楽の山で火災(745年4月1日西の山、4月3日東の山、4月8日伊賀の真木山、4月11日宮の東山)が頻発し、更に6月5日には美濃国で起きたM7.9の内陸直下型大地震(天平大地震)が発生し、その余震が三日三晩続いたといいます。この為、745年5月には再び平城京に還都することになったのです。盧舎那仏造立の地も紫香楽から大和国金光明寺、即ち現在の東大寺に変更されたわけです。749年に鋳造が終了し開眼供養会が開かれたのですが、これが今ある東大寺の盧舎那仏です。この時、余った銅で作ったのが吉野山の「銅鳥居」だという。

741年、聖武天皇は国家鎮守の為に各国に「国分寺」建立を命じましたが、この建立はその当時、多発した地震が原因だと見られており、紫香楽への遷都、盧舎那仏造立発願も同じ理由からでしょう。しかし、その盧舎那仏造立中に美濃国沖合いの古伊勢湾が陥没隆起し、不死山(蓬莱山)が陥没したのは、シンクロとはいえ、非常に皮肉なものです。

さて、ここで問題なのは「田子の浦」です。

田子の浦の「たご」とはアイヌ語で「高い丘」を意味し、これが語源となっていますが、現在の静岡県富士市の田子の浦の海岸は「高い急崖(たご)」に相当する場所がなく、後年に付けられた名称であることは明白なのです。実際、それよりも西にある由比町、蒲原町あたりの薩タ峠が妥当だと見られている程です。しかし、上記の理由から、山部赤人が詠んだ「不尽」とは東三河にある蓬莱山を詠んだ筈であり、駿河の田子の浦は本当の田子の浦ではないと睨んでいるのです。

もし本当に「不尽」が「不死山」(蓬莱山=鳳来寺山)を指しているならば、田子の浦が古代鳳来寺山近辺、あるいは遠く臨む地の地名にあってよさそうなものですが、残念ながら、愛知県新城市付近には「田子」という地名はありませんでした。

語り部の言説は虚構だったのでしょうか?

しかし、和歌山県串本には「田子の浦」という地名の場所があるのです。山部赤人が詠んだ本当の「田子の浦」とは、多分、ここではないでしょうか!

田子の浦

この串本の「田子の浦」には古道があり、石畳や掘割もあります。ここにある逢坂峠には「右やまみち 左いせみち」と書かれた道標が残ってもいます。ここは古代からの熊野古道の1つだったのです。山部赤人は奈良時代の外従六位下の官位の下級官人だったのですが、制作年の知られる歌はすべて聖武天皇代の作であり、神亀元年(724)の紀伊国行幸、同二年の吉野行幸・難波行幸、同三年の播磨国印南野行幸、天平六年(734)年の難波行幸、同八年の吉野行幸などに従駕したといいますので、紀州にかなり頻繁に来ています。その行幸時にこの田子の浦の沖合いの海に漕ぎ出て、そこで蓬莱山を目にして詠んだ歌ではないでしょうか! 逆に、山部赤人は東国、まして駿河などの遠方に行った記録など無いのです。

実は、このスグ近くに古座という地名があるのですが、ここは蓬莱山を目指した徐福がここに止まり熊野に入ったといわれる場所なのです。蓬莱山を見かけたが見失い上陸した地点が古座なのです。つまり、ここからは蓬莱山が望めるという地なのですね。しかも、串本近辺は平野など無く、小高い台地が続く場所であり「たご(小高い)」という名称にピッタリなのです。

串本00
(串本海中公園)

この紀州串本の田子の浦からは、駿府の富士山は遠過ぎて見えないのですが、当時は3000m級の山であった東三河の不死山(蓬莱山)ならば、ここから辛うじて見えそうです。

さてさて、結論をいいますと、、、

西行や富士上人が記したのは間違いなく駿河の富士山ですが、山部赤人が詠んだ不尽は富士山ではなく蓬莱山(不死山)であったということです。この辺を一緒にしてしまうから齟齬が生じるわけなのですね。
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