不破道

今回はチトまじめに書きます(爆)。

『日本書紀』の天武記には、「初美濃師三千人、得塞不破道」とあり、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱(672年)勃発の2日前、6月22日に使者を出し、安八磨郡(安八郡)の湯沐令(ゆのうながし)の多品治に兵を挙げて不破道を塞(ふさ)ぐよう命じ、これを受けて25日までに美濃の兵3000が大海人皇子のために不破道を塞いだと書かれています。
※註 湯沐邑令(ゆのむらながし)とは、飛鳥時代から平安時代までの日本で一部の皇族に与えられた領地のことで、多品治とは大海人皇子の湯沐邑令の管理者ではないかと考えられている。

この「不破道」は東国への要路である東山道(後の鎌倉街道)のことだろうと云われ、この要路を人を大量に投入して「街道を閉鎖した」というのが一般的な見解です。この街道の要所の閉鎖により、大和から東国への行き来が出来なくなり、大友軍は兵の移動がままならず、これ故、壬申の乱での天武軍の勝利に大きく貢献した原因の1つだと考えられています。

更に、「不破を塞ぐ」とは、「不破」の地、岐阜県不破郡関ケ原にあった関所「不破関」を封鎖したのだと確定的に捉えられているのです。

でも、本当にそうでしょうか?

日本書紀には「不破」「不破道」「不破宮」という言葉は出てくるのですが、「不破関」という言葉は一切出てこず、「不破」と「関」(関所)とは無関係であることが分かってきます。つまり、当時、関が原に「不破関」は無かったと考えられるのです。8世紀には不破に関所があることは分かっていますが、そこは「美濃関」と呼ばれ、「不破関」は更に後年になって付けられた名称ではないでしょうか。

■関ケ原は不破関でない
http://www.geocities.jp/hidesxima/_t7gnibM.htm

岐阜県安八郡の墨俣上宿には不破神社という神社がありますが、この神社の伝承には、壬申の乱の折、大海人皇子(天武天皇・東宮大皇弟)の「湯沐邑令」が尾張・伊勢・桑名から安八評にかけて存在し、この為に美濃尾張一帯の豪族が大海人皇子のために衆参し味方した際の詳細が述べられています。

不破桑名
(大津京は白村江の戦いで負けた天智天皇が防衛の為に遷都 守りには強そう)

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大海人皇子(天武天皇)が足の疲労の為、「安八の湯」に浸かり気力回復して墨俣に差し掛かったところ、大友皇子(弘文天皇=近江朝廷)は大海人皇子の軍の襲来に備えて長良川・木曽川の船を全て徴用して軍備を固め、兵を集めていた。川の辺で洗濯している娘に渡河するために船を借りたいと大海人皇子は申し出たが、

娘 『このほど、朝廷の戦人が来て、反乱軍が船を使って、大津の都に攻め込むため、この辺りのすべて船をお目仕上げになりました。今にも御咎めの巡視が来るやも知れません。この盥を使って後ほど川をお渡りいただきますが、まずはこの盥(たらい)の中に身をお隠しあそばせ』と言上。

このような状況下であったので、大友軍の監視兵によって発見されるのは時間の問題だった。

しかし、娘の機転によって、大海人皇子は洗濯物のタライの中に隠れて大友軍の監視兵の発見から逃れ、そのままタライで河を渡り、今度は遠回りして伊賀、鈴鹿より自領である美濃に入った。安八評の湯沐邑令の多臣品治に告げて兵を集め、不破道より近江に入り、大友皇子を討ち滅ぼして飛鳥浄御原に即位された。この難を逃れたのを記念して建立したのが「不破神社」だといいます。


■不破神社について
http://www.fuwaiin.com/takehanajou-rekisi/fuwa-jinja-sunomata/sunomata-fuwa-jinja.htm
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この伝承の疑問点は以下の通り

1)既に大友軍は船徴用の為に関が原を越え、安八評(現・岐阜県安八郡)近辺に多量に入ってきている。大友軍は不破道を閉鎖され東国に来れなかったと反するが?

2)伊賀経由で鈴鹿より美濃に入ったというが、このルートだと先と同様、安八評を通ることとなり、これでは全く同じではないか?わざわざ遠回りする必要がないのでは?

3)「不破道」を閉鎖したとは、一切述べられておらず、あくまで「不破道より近江に入った」とだけ述べられている。

4)娘の言葉に「反乱軍が船を使って大津の都に攻め込む」とありますが、果たして、安八評から大津(琵琶湖の西岸)に船で攻め込むことが出来るのでしょうか?


これはいったいどういうことでしょう?
何か、今まで云われる解釈とは異なってくるのですが、、、、

天武天皇の頃の美濃尾張地方は、現在のような陸地の続く広大な平野部になっておらず、その殆どが海面に没し、点在する島があったことを考慮しないと、この謎は絶対解けません。

古地図
(古代の伊勢湾)

考えられることは、天武天皇は奈良吉野から伊賀を越え、鈴鹿からに乗り、美濃に入ったということです。この解釈ならば、鈴鹿という「不破(関が原)」と離れた地域には大友軍に徴用されていない船があり、それに乗ることが出来た為、当時は海辺だった美濃の湯沐令にまで無事辿り着くことが出来たとなります。

更に、語り部情報では、昔、関が原はだったという。
※註 桓武天皇の治世の745年、南宮山は隆起し関が原は陸地化したという。当時、南宮山は孤島で松島と呼ばれていた。

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壬申戦(壬申の乱)に尾治大隅は東軍参加。
桑名から三野国松島の大隅別邸(岐阜県関が原・・当時海付近)
とを水軍行き交わせ東軍搬送し大役。

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当時の伊勢湾が上記の古代地図のようであったのなら、関が原が海辺であっても何ら可笑しくはありません。逆に非常に辻褄が合います。

ですから、記紀にいう「不破道を塞げ」とは、関所を閉鎖して通れなくすることではなく、関が原へたくさんの船で集まって「侵攻」する、まさに言葉の意味通りの「破れ目などを埋める・詰め物をする」という意味だったのです。歴史家が関が原を現在のように「内陸部」であると考える先入観から「塞ぐ」を「閉鎖」と誤って捉えてしまっていたのです(ニタリ)。

以上のことから、不破の名称の起こりをこう睨んでいます。当時、琵琶湖と古伊勢湾に挟まれた山間の谷道があって、それが関が原あたりで「不破道」だったのではないでしょうか。ただ、先は海となり行き止まりです。初期大王族が邪馬台国を撃つ際に、この山間の関が原を通って大和に侵攻したと語り部は言いますが、この地は大和地方の最大のウィークポイントであり、絶対破られてはならぬ場所ゆえ「不破」と呼ばれたのでしょう。ここを破られれば、それこそ「身の終わり(美濃尾張)」となる要害の地だったのです。だから、その故事を知る天武天皇は大量の船で一気に不破の地を塞ぐ戦略(強襲→強行突破)に出たのではないでしょうか。
※註 長浜には「葛籠尾崎湖底遺跡」という縄文・弥生の遺跡が湖底にあり、今よりももう少し長浜市の面積は広かったと思われる。

世の歴史家は完全に踊らされています。
「不破道」は船で「塞ぐ」ことは出来ても、元々が関所では無かったので、、、

「不破道 封鎖できましぇ~ん!!」

オダ

なのです(爆)。
さらに、語り部が語る内容では、、、、

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天武紀の「安八麿の湯沐邑」とは、扶余王族八人の倭旨、忌豊富(「忌部」氏祖)、倭得玉(「物部」氏祖)、倭武日(「大伴」氏祖)、倭仁、日奉益継、小治豊玉(宇佐氏祖)、美穂津媛の上陸地であり、本巣の(船来山)南長屋(使用例長屋親王)。国山田郡の小治田品治「多臣」管理赤鉄鉱製武器倉庫管理。「湯沐令」安八麿あわちま(安八)=淡路島。
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とありますが、一体、何のことかサッパリ分からないと思いますので、少し解説を交えてみます。

大和の邪馬台国と東三河の大漢国(君子国・扶桑国)の繁栄振りをみて日本が道教化(倭人化)してしまうのを危惧し、これら二国を殲滅する為に、丹波国の蝦夷(アイヌ=エブス人)の招聘に応じて、兄弟部族の初期大王家(扶余系スキタイ・カド族)が半島から日本へ渡来し、岐阜羽島に上陸してきたという。

この時やって来た者が上記の扶余王族の八名ですが、それぞれが各地に散らばり、物部・忌部・大伴・宇佐氏...等の古代の有力豪族となったといいます。その渡来時の描写が「宝船」と「七福神」となって今に伝わり、さらに扶余王族の八名は神話では「少彦名」として描かれたという。
※註 名前に「金」を付ける程に金好きであり、金を求めて大陸を行き来した騎馬民族スキタイなので、王族の乗る船は金箔で彩られ、さぞかし豪華な船だったと思われます。まさに「宝船」。

この初期大王家が渡来した地が岐阜岐阜羽島(橋島)ですが、かつて邪馬台国がこの地から攻められ滅亡したように、この地は防衛上重要な地域であり、ここを疎かにすると「身の終わり」となる程に要害の地であることから「美濃尾張」と呼ばれるようになったといいます。
※註 現在の羽島とは若干位置が異なるのだそうです。「橋島」は先が細長い半島で「タンネ橋」とも呼ばれていた半島。これを漢字化して「棚橋」とも称した。しかし、この半島は伊勢湾隆起の際に逆に陥没してしまった。現在、その伝承が日本海側の天橋立へ移動。

そして、天武天皇の安八麿の湯沐邑とは、本巣市だというのですが、この美濃本巣には船来山古墳群といわれる墳墓1000余基を越す美濃地区最大の古墳群があります。この古墳の出土物で注目なのは、通称トンボ玉とも云われる「雁木玉」(がんきだま)で、これは昔のネックレス玉のようなもので、ここから2個出土しています。

しかし、これは中国ペルシャあたりで作られたものであり、古墳時代(紀元300~700年くらい)の船来山に何故あるのかが謎なのです。また、ここで発見された3つ古墳の石室はベンガラで真っ赤になって、石室に赤い朱を使うのは東海地方では本巣だけだといいます。「雁木玉」以外にも「三角緑神獣鏡」「内行花紋鏡」などの「王者の鏡」も出土している為、かなり身分の高い方が埋葬されていたのだろうと推測できますが、誰が埋葬されたのか全く分かっていないのです。

雁木玉赤彩古墳
(トンボ玉と赤で彩られた石室)

■赤彩古墳の館
http://www.motosukankou.gr.jp/page1289.php

船来山の前までが海で「船来山」とは「船が来る山」だったのではないかと云われていますが、どんどん語り部の語る内容に真実味が増してきます。出土物から考えると、やはり、ここが渡来系の初期大王族の拠点の1つだったのは本当のようです。

また、本巣には長屋という地名がありますが、ここが彼らの上陸地点だという。

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弥奴国(三野、美濃)の橋島(現・岐阜羽島)の長屋より上陸し古東山道へ進入。(伝継体天皇の薄墨桜、本巣=元洲の南。長屋親王は初期天皇族の威信を掛けた名であり天武天皇の孫、文武天皇が父。山背大兄モデル。)棚橋、籠坂、長屋、板屋の各地名、名字は此の伝承に基ずく・・・海人のつまり海(天)の橋立。(聖書のモーセ五書の創世記28章12、13節借用)景勝地松島もあり7世紀本宮山化。関ヶ原陸地化。平安時代初期の海岸線は、帆巻山の麓舟津西の小木から北北西に伸び現在の大垣市浅草付近迄海。塩害減少に伴い平野に室町時代に耕地面積急増。国土北上に伴い徐々に「伊勢湾」面積縮小する。耕地隆起平野部に拡大。現在春日井市菅大臣町は小治田氏族菅原道真生誕地。
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この本巣には、継体天皇手植えの桜と云われる樹齢1500年の薄墨桜があります。所謂、「日本三大巨桜」の1つですが、1500年という古さには驚きを感じますね。記紀では継体天皇は若狭にいたことになっていますが、本当にそこにいたのでしょうか?どうもこの本巣にいたのではないかと思うのです。語り部によれば、継体天皇とは初期大王家に婿入りした百済系後期大王家の倭武の弟王倭継だといい、この本巣という初期大王家上陸地に継体天皇手植えの桜があること自体が、倭継がここにいた証ではないでしょうか。
※註 日本三大巨桜・・・三春滝桜(福島県)、神代桜(山梨県)、薄墨桜(岐阜県)

薄墨桜
(薄墨桜)

羽島や黒俣を擁する安八郡は、1976年9月12日に発生した集中豪雨で長良川が決壊し水没した地域として有名ですが、このようにこの地は非常に水に対して脆弱で、かつての古伊勢湾状態になってしまうのです。

語り部によると、多品治とは国山田郡の「多臣」の小治田品治であり、古事記編纂した太安万呂の父であるという。彼が管理するのが「赤鉄鉱製武器倉庫」ということから、一般に考えられているような「湯沐令の管理者」とは違うことになりますね。この「赤鉄鉱(ヘマタイト)製武器」とは、砂鉄を使うタタラ製鉄法ではなく、徐福が持ち込んだ東三河の「大漢国製鉄法」と言われるもので、材料に「高師小僧」(褐鉄鉱)を使う製鉄法です。ちなみに、本巣古墳の石室を赤く彩った「ベンガラ」も酸化鉄であり、「高師小僧」を砕いて酸化させたものでしょうか。
※註 語り部は「大漢国は、徐福後裔代々東三川で、製鉄関連・農業関連技術により入国を許され代々居住するハタ姓使用するが、秦始皇帝の同氏族系の扶余王族の技術は此れより優れており...」と書いているので、本巣の赤鉄鉱製武器は「高師小僧」を使うが「大漢国製鉄法」ではないかもしれない。

BIG高師小僧
(木の根に鉄分が付着して固化して出来た「高師小僧」 豊橋名物ですw)

創世記28章は「ヤコブの夢」と言う箇所ですが、この内容は以下の通りです。

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10:ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
11:とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12:すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13:見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。

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この「先端が天まで達する階段」が、京都の「天の橋立て」であり、本巣の「海の橋立て」の命名元だというのです。

ちなみに、ハランとは旧トガルマ州のことであり、アルメニア人の地のハランです。ここを天界の神々の地として高天原を創作。要塞都市アマストリス(アマスラ)より天照大神創作したと語り部はいいます。さすがに、ここまでの歴史を伝承しているとは考えられず、多分、研究によって追記した内容だと思われますが、この説には全く同意しています。

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『創世記』によると、ノアの大洪水後、ノアの曾孫トガルマの子孫が住んでいた場所が、西アジアのタガーマ州の古都ハラン(タガーマハラ)だという。場所は方舟が漂着したアララト山系の麓で、イラク北部からアルメニアの辺りで、ユーフラテス川支流のビンカ河左岸にあったとされている。

その後セム族は、古代バビロニア南部に世界最古の文明であるシュメール文明を築き、メソポタミア北部にはアッカド王国が成立し、メソポタミア地方は、北部のアッカド王国と南部のシュメール王国に分かれた。
(シュメール文明と後のバビロニア文明を併せてメソポタミア文明という)

シュメール王国は青銅器を発明し、ウルク王朝からウル王朝へと続き、紀元前2000年頃、ウルで預言者アブラハムが誕生したが、シュメール王国はアッカド人から度重なる侵攻を受け、アブラハムの父テラは家族を連れて故郷のタガーマハラに帰郷。そして、アブラハム一家を追って、多くのシュメール人がメソポタミア地方から消え、アッカド人はシュメール文明を吸収し、シュメール人に学んだ楔形文字で粘土板に書き残し、シュメール文明をセム語化して後世に伝えたと考えられている。

アブラハムはタガーマで神の啓示を受け、シュメールの民を引き連れて約束の地カナンへと旅立ち、残ったシュメール人はアジア全域に広がった。当然、朝鮮半島と陸続きだった日本列島にも入ってきたはずで、これが「日本人シュメール起源説」となっている。


■日ユ同祖論を超える日本人のルーツ
http://shinsengumi3.seesaa.net/article/144654938.html
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安八麿(あわちま)=淡路島

これが全ての謎を解く鍵です。

普通、淡路島といえば鳴門海峡にある島を指しますが、記紀の「国生み神話」に謡われる淡路島とは、かつて濃尾平野の現安八郡に点在する島(安八島)、「安八麿郡」のことだったというわけです。この説はどこにも無い為、検証のしようがないのですが、なるほどなぁ~と感心させられる内容です。

■国生み神話
イザナギ・イザナミは、別天津神たちに漂っていた大地を完成させることを命じられる。別天津神たちは天沼矛を二神に与えた。イザナギ・イザナミは天浮橋に立って、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜると、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。この島をオノコロ島という。二神はオノコロ島に降り立って会話をし結婚する。初めイザナギが誘った為、ちゃんとした子供が生まれなかった。この子が水蛭子と淡島だが、葦舟に乗せて流してしまった。今度はイザナギが誘った為、ちゃんとした子が出来た。そして、一番最初に生んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」という淡路島です。


この神話が物語る真の事実とは、初期大王家が入植した美濃の地の島々が「安八麿」(淡路島)となったということです。その後、伊勢湾が隆起し濃尾平野が出来たことが「国生み神話」の元となっていたのです。

以上見てきたように、国内最大の内乱「壬申の乱」は、伊勢湾が隆起する前であった為、いきおい船を多用した戦いであったと思われます。壬申の乱で東三河が主戦場となった理由は、大友軍の主力部隊が東国の背後の東三河から美濃に攻め上がる戦略を採ったからではないでしょうか。東西両軍が天下分け目の戦いをした関が原の戦いですら、関が原という一箇所の戦いで、しかも半日のみの戦いでしかなかったのに比べると、そのスケールは桁違いに大きいのです。しかし、何故、壬申の乱が大津京攻略部分だけを記述し、東三河の戦いの部分が欠落され歴史から隠匿されてしまったのか?を不思議に思うのです。

ここには何かタブー(重大な秘密)がありそうだ、、、、
※註 壬申の乱とは、国内の唐・新羅勢力と百済勢力の戦いでもあった。白村江の戦いに負けた天智朝は唐・新羅の駐留を受け入れなくてはならなくなり、その大和出張所が飛鳥や吉野に置かれたのではないでしょうか。九州の筑紫大宰府が一時期「筑紫都督府」と名称が変わったのがその証です。その飛鳥から逃げるように都を大津に移したのが真相ではないかと睨んでいる。そうなると、この東三河隠匿のタブーの内容も段々と輪郭がハッキリハッギリしてくる、、、、
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Comments

画像拝借願い

小学校の教員をしています。明治図書の国語教育のグラビアページに画像をお借りできませんか?薄墨桜がとってもきれいでいっぺんに好きになりました。どうぞ、よろしくおねがいします。

関東の大国は騎馬が特徴。当時の日本列島には馬は無し。詰まり持ち込んだモノ。水瓶が特徴、これは大陸の北斎と繋がるモノ。
現在に繋がる香取、鹿島の神社や都市がある(関東の護り神)、詰まり秦系(シュメール系)

人型埴輪は垂れ目が特徴。
関東国では高句麗からの移民が語られている。

大和の一番の警戒は、この関東国だった可能性が大。

出雲の大国主系(青銅器:シュメール)である関東国(これが息子か?)。

秦の始皇帝はシュメール系との話しがある。その指令で動いた徐福も…。
後の白村江の戦いは、

ソウ+新羅VS百済+高句麗 →

大和国VS九州国+関東国 →
天智、藤原VS蘇我

に、繋がり決着して大和になったと推測する。

しかし簡単に言えば、先に入ったシュメール系と、後から入ったシュメール系の決着ではなかったのか…。

新羅は民と支配層の言葉が違った事が記録されている。半島と言う視点より、通過経路にあった半島と言う視点の方が見えて来る。

また関東国の三種の宝である剣には漢字が彫られている。詰まり徐福系の何等かの関係性が浮上する。また仏教系を進めた蘇我氏も絡んで来る。

何よりも古代文字から漢字に変換した際の絡みは大きい。しかもその中でも最重要なのが、「真」(まこと)と言う概念を引き継いだ事である。

縄文哲学とも言うべき、その概念が、その当時に既に誕生している事である。日本の軸と言えるし、世界の軸となりえるモノである。

だからこそ、「大和」になった。

世界には、未だに真偽の偽を軸にした国家、組織が五万とあり、ご都合主義を形成している。

ご都合主義の対極にあるのは「思いやり」。

偽の対極にあるのは「真」である。
十六菊花紋は伊達では無い様である。

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