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奈良遷都1300年祭

10/30、台風直撃中の奈良・遷都1300年祭に行ってきました。

とはいっても全く台風の影響はなく、キャンセルした人が多かったのでしょう。逆に会場もいつもよりは人は少な目となり、待ち時間が少なかったのはラッキーでした。

それにしても、せんとくんはキモかったです(爆)。

あの円(つぶ)らな瞳
スピ的には幸運を招くと云われる
微笑んだように上がった口元、、、、



「モチ」の別名のあるひこにゃんが「ゆるキャラ界のガンダム」とすれば、せんとくんのこの生物的リアルさは「ゆるキャラ界のエヴァンゲリオン」といえるかも、、、、構内のショップでは「せんとくんダンス」の唄が流れていましたが、、、、未だに「へぇーじょーきょー、へぇーじょーきょー」という歌詞が耳に残ります。

せんとくん
(ゆるキャラ界の二大カリスマ、、、ロボもゆるキャラも二本立て、、、それが日本)

実は「遷都1300年祭」の事前情報を何も知らないで行ったのですが、、、、、平城京跡には朱雀門(32億円)、大極殿(180億)が作られていたのですね。全然、知りませんでした。これだけの金額があれば、リアルガンダムが何体作れることか、、、、黒い三連星リックドムとのジオラマシーンが出来るってものです。

大極殿
(大極殿)

遷都1300年祭とは単なる観光的思い付きかと言えば、実はそうではなく1910年(明治43年)にはもっと小規模ながらも「平城遷都1200年祭」があって、この時に平城宮跡が史跡保存され、その50年後に発掘調査が始められ大極殿の跡とかの学術的な成果が出て、今回の朱雀門、大極殿の完成に到ったというわけです。

奈良には法隆寺、唐招提寺、薬師寺...等の1300年を超える古い建物がありますが、これらが今から1300年後も存在できるかどうかは何とも云えないといいます。しかし、この大極殿は当時の材料と工法を全く同様にして再現したものであり、法隆寺...等が1300年持つことが出来た故に、大極殿も1300年程度は持つことは保証されるだろうといいます。そして、このことが、、、、

今から1300年後の未来へ
巨大木造建築技術を伝承することとなり、
単に180億の大金を掛けて
観光的施設を作ったのではない。


ううっ、、、泣かせるような話です。

ただ、スピ的な立場で申し上げると、あと3年後には「虚数世界」に入ってしまい、1300年後という意味も無くなってしまいますので(爆)、こんなことに大金掛けるよりはガンダムやエヴァンゲリオンにお金を掛けた方が日本が観光立国化するにはいいのではと、、、、まぁ、萌えやロボだけでは偏りがあるので、こういったもの必要ではありますが、、、、

■大極殿
内裏のかなりの大きさにビックリしました。まぁ、北京の紫禁城よりは小さいですが、ソウルの景福宮よりは遥かに大きいです(爆)。「710(南都)きれいな平城京」と云われるように710年に藤原京から遷都されたのですが、長岡京に移るまでの74年間がここが日本の政治の中心地であったといます。そして、遷都する際には、解体して柱から瓦から全部持っていってしまう為、そこには広大な平地しか残らないのですが、水分を含んだ田んぼになってしまい、その正確な痕跡がなかなか分からなかったといいます。

ここでは大量の木簡が発見されたといいます。

古代の情報伝達は木簡で行なわれていましたが、木簡って最終的には今のトイレットペーパー状態にしてしまい、トイレで使われたのです。だから、平城京跡地で木簡が「大量に集中して出土」するわけですね(笑)。でも、ある意味、古代人のウ○コが付いていて汚いのですw
※註 ちなみに、平城宮跡の「東方官衙地区」でトイレとみられる穴が6基見つかり、堆積物から当時の人が牛や豚を食べていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。肉食は文献や木簡で知られるが、それを裏づける史料が平城宮跡で出土したのは初めてといいます。同研究所では、当時、何度も肉食禁止令が出されていたが、役人らが隠れて肉を食べていたといいますが、これは渡来人が役人の主流を占めていたからというのが本当のところでしょう。肉は体格を良くすることや攻撃的になるが分かっていますが、ここには被支配者には肉を食べさせず、従順化させて永久に支配しようという支配者階級の意図が見えますね。

建物の解体移設、不要な木簡のトイレットペーパー化、、、、

リサイクルは1300年前から日本で行なわれていたのです。

それにしても、大極殿は漢様式そのままです。

一応、歴史では漢から学んで真似たということになっていますが、実はそうではなく、大陸や半島からの渡来人が作った王朝だからこそ、このような様式であるのではないでしょうか。例えば、貴族の暮らし振りが同敷地内の「平城宮跡資料館」で見れますが、そこには板の間に絨毯を敷き詰め、ベットで寝起きしていた貴族の生活振りが伺えるのです。これは今の時代のフローリング+絨毯という感覚に近いですね。日本は確実に時間が逆行してきている。

平城京ベット
(ベッド)


■平城京歴史館/遣唐使船復原展示(有料)
この施設には白鳳時代の歴史年表や映像がありましたが、語り部の語る歴史を「真の歴史」と考えるヤッズ★にとって、この内容は、、、、

嘘ばっかりです(爆)。

「壬申の乱」の後に「大化の改新」があったというのに、、、
※註 「壬申の乱」で勝利した天武天皇が八色姓...等で中国の律令国家を真似て中央集権化を進めたのが「大化の改新」です。ただこの政権簒奪の背景には、吉野において新羅・中国との綿密な秘密協議があったというが、この戦いは現在の小沢氏を彷彿とさせる(爆)。

「聖徳太子」も「吉備真備」も架空の人物だというのに、、、
※註 鞍作毛人(蘇我入鹿)の三男・宗形鳥麻呂の子である宗形綿麻呂が「吉備真備」なのです。吉備とは百済王族系天皇族に敗れた敗者の押し込まれた地域であり、其の象徴としての蔑称が「吉備」なのです。以後、宇多天皇皇子源清氏に「宗形」姓を明け渡しを命じられ転封し、以降、難波氏と称する。

こうやって、皆、洗脳されていくんですねw

紀元前92年頃の『漢書』(後漢)には、「東方に夷といふ、天性柔順、君子不死の国あり」とありますが、古代中国人が東方の夷の国を「君子の国」とみていたことは確かです。しかし、扶余系の初期大王家が渡来して来たのは、邪馬台国壊滅(紀元後347年10月15日未明)する直前ですし、百済系の後期天皇家が渡来してきたのはもっと後の時代です。紀元前92年に既に「君子国」と書かれていたのは「天皇=君子」ではないことは明らかです。実は、「大漢国」とも云われる倭人(漢人)の国であった徐福末裔の住む東三河が、君子国・扶桑国としてこの『漢書』に記されていたのです。

そんなこんなで3時間だけの滞在でしたが、結構楽しめました。あまり、せんとくん関連のイベントは萎えるものが多いので、あっても無くてもいいものであり、もう少し人が居なくなった時期にじっくり見に行く方がいいでしょうね。

それはそうと、帰路のバスはで何故か桜井市の三輪素麺のメーカー直売店舗で休憩でした。まぁ、バックマージン目当てだと思うのですが、、、、到着してみてビックリだったのは、そこは三輪山の麓であり、なんと卑弥呼の墓と云われる「箸墓古墳」の真ん前だったのです!!!
※註 1300年祭で渋滞するのと駐車場が無いのを懸念して、今回は観光バスで行きました。

この煩フルで何度も触れている円墳に方墳を継ぎ足し邪馬台国を継承したことを表す卑弥呼が埋葬された「箸墓古墳」や東三河の石巻山を元山とする「三輪山」ですが、こんな意図しない形でお目にかかれるとは、、、、
※註 箸墓古墳の埋葬者は「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)といわれていますが、「倭」とあるように倭人(漢人)に関係する名です。邪馬台国が倭人(漢人=弥生人)の国であったことと関連がありますね

ここがかつて「水の都」と云われた邪馬台国だったわけです。、そう眺めてみると、桜井市街は低い平地になっていて、かつてここは巨大な湖の湖底だったようにも見える。う~む、感無量ですw

土産には、行った人の4人に1人は買うという海洋堂製の平城遷都1300年祭公式記念品カプセルフィギュア「せんとくん 平城立体図録」を2つ買っってきたのですが、全8種あるうち「鹿と巫女のが良いなぁ~」と思っていたところ、帰って空けてみてビックリ。正にその2つだったのです。組み合わせ的には、8*7/2=32種なので約3%の確率です。

これも石巻の神の思し召しかぁ~

それとも、「外界=内面世界」という変換人型ゲシュタルトの世界で、意図通りの未来を数あるパラレルワールドから選択して構築する能力が高まってきたからに他ならず、それがヤッズ★の目の前世界に顕現してきたからか、、、、こりゃ、近々、「願望入れ食い状態」になるなw
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