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封印された神を解く(4)

さて今回は核心部分である内宮・外宮に祀られているのは、本当は何の神か?という点を深く洞察してみます。

「外宮」については、前記事で「豊受大神=大国主」と看破しましたよね。
ですから、丹波・真名井に祀られていた大国主を勧招したというのが正しいとなります。

一方、「内宮」については、皇室の先祖である皇祖・天照大神という女神を祀っているといいますが、明治期になるまで天皇は伊勢に親拝したことは無かったといいますから、天皇家の直接の先祖でないことは明白です。天皇家は大化改新以前には天照大神という女神を祀っておらず、逆に「日神」=「太陽そのもの」である「アマテル」と称された男神が祀られていたのです。天照大神は太陽を神格化した神であり、別名の「ヒルメ」は「日の女」、つまり太陽神に仕える巫女のことですが、太陽神は本来男神、それに仕える巫女が太陽神と同一視され女神となったという感じでしょうか。

ここで語り部の伊勢に関する言説を上げてみますと、、、、

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・伊勢はイヒヤと言い神拝所の意味で、元来邇波川上に有り地神を祭り御嶽を行った。倭武王君後に統一王朝の大王の時代に夷人征伐の為に関東地方の所謂筑波王国に遠征軍を送る際、伊勢湾奥で神を祭るのは大変であり伊勢湾の入り口の伊勢国に移動させたのがそもそものはじまりである。

・騎馬民族の誘致し、邇波川上【現在名称東谷山、小治国山田郡旧春日山】で騎馬民族上陸地の古イヒヤ湾監視。船木郷在り小治田氏居住地で、品治は建を支持。狩猟場在り。倭建天皇が「丹生川上」(奈良県吉野郡東吉野村)へ遷座。倭智大王(天智)の実子の藤原不比等が平城京の為山名と共に大倭に遷座。

・東海地方の邇波川上の「御嶽」(うたき=男子禁制の祭祀施設)を伊勢に移すのは参州三河の徐福子孫の豊葦原瑞穂国征伐後の夷人を遠州方面より東に追いやる軍事作戦展開中で伊勢湾奥で神事を行うより伊勢の方が都合が良いからである。

・現存天皇族開祖の桓武帝が、神社をユダヤ教的な日本風に復興。伊勢神宮も創建。仏教に関しては空海、最澄等に景教を中国に行き景教の聖書のマタイ、ルカ伝から借用し仏教に混ぜ合わせさせて民間用に中和して存続を許す事になる。

・小治(後の尾治)氏の水軍拠点現在の名古屋市古渡(大渡)を中継していては時間に無駄が出来るので、倭武大王は、イヒヤ(伊勢)を(伊勢国)に居住していた邇波氏族を移動させる事に出雲王朝の最後の王荒田別に任せイヒヤを移す。丹生腋上=邇波川上=邇波氏族川上氏は、現在の名古屋市守山区東谷山(邇波川上より湾の奥にサナギ山【猿投山?】あり祭事で使用する鉄鐸を製造する)で、御嶽を行っていたが移動してイヒヤ国で行い桓武天皇の時代に伊勢神宮として崇拝方式を改める。伊勢神宮に原型は存在する。瀧祭神である。

・扶余王族の王君は、日の御子とも呼ばれ金海の金居登とは同族で有る。道教を奉じており琉球の伊平屋島を経由し漢民族傍系大漢国の東海三神山に遠くない古伊勢湾を北上した際に、文身国より津守氏が日の御子を見た為、其の場所は日高見と呼ばれる様に為る。倭孝(茅ヌ王)大王が、難波に都を置いて遣随使を派遣した際に天垂(天照、アマスラ)彦王君と伝えたのは理解出来様。日の御子の北上を示す現愛知県「日進」市、尾張「旭」市等の地名も明治政府からの命名であり同様の意味を持つ。日進には現在香久山地名復活し日の御子(扶余王族)の上陸地を見渡す山(香具山)が東海に存在する事を証する。

・三重県の伊勢も大国主族(邇波一族)の土地だったが、後期大王家の伝承地として召し上げられ、彼らは科野(信濃)に移住させられた。

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まぁ、時系列的にも何が何やらよく分からない話ですが、少しずつ紐解いていきます(笑)。

邇波川上とは現在の東谷山(とうごくさん)、愛知県名古屋市守山区と瀬戸市との境界にある山で、東谷山フルーツパークのあるところですが、スグ南には愛知県森林公園があります。山中から山腹にかけて30基以上の多数の円墳が築造され様々な伝承がある地です。

東谷山
(東谷山の地図)

東谷山山頂の尾張戸神社は、尾張氏の祖神である天火明命、天香語山命、建稲種命を御祭神とし、成務天皇5年(135年)の宮簀媛命による勧請と伝わる古社で、尾張国造尾張氏の祖先を祀ったものです。かつては熱田神宮に次ぐ大社であったといいますが、こういったことから「東谷山は熱田の奥の院」と言い伝えられているのです。

現在の尾張の国は1800年ほど前までは、知多半島を中心に「海部の国」を支配する海人(アマ)氏と犬山・木曽川流域を支配する邇波(ニワ・丹波・丹羽)氏に分かれていました。海人氏(海部)とは、丹波地方を支配していた原日本人の邇波氏の分流ではないかと言われていますが、この「海の海人氏」と「陸の邇波氏」が「海幸彦と山幸彦」の話の元になったのではないでしょうか。しかし、この古代伊勢湾に初期大王家が招聘されて上陸して来て、王族の後継二代目の兄(得玉=ニギハヤヒ)が東の守りとして伊勢湾に水軍を置き、後に小治氏→王治氏→尾治氏→尾張氏になったといいます。

最初は邇波氏の地神を祀る神拝所(御嶽)を兼ねた初期大王族の監視所であったのですが、その後の遷座により、渡来系の尾張氏(初期大王族系)の祖霊を祀る神社となったというわけです。

この東谷山のある地域は元々は山田郡といい、東谷山の旧名は春日山です。三輪山とウリふたつの姿をしています。ここで沖縄と同じような御嶽(うたき)祭祀を行なったといいますが、その後、磐座を使う御嶽祭事は犬山市本宮山に移動し、さらに東国征服に伴いより近い伊勢の地に移されたといいます。さらに山名と共に平城京の春日大社の裏手の「春日山」となったというわけですね。

東谷山(春日山) → 犬山本宮山 → 伊勢 → 丹生川上 → 春日大社

明治村の近くにある犬山本宮山の麓には「大縣神社」がありますが、社伝によれば「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とあり、非常に古くから存在する神社です。これは崇神天皇7年(紀元前91年)創建したという天理市の石上神宮並の古さでしょうか。祭神は「大縣大神」ですが、摂社の「姫の宮」には玉姫命が祀られ、女陰を模った岩が奉納されています。また女陰を模った山車が練り歩く豊年祭(別名・おそそ祭)は天下の奇祭として有名で、小牧市の「田縣神社」の男根に対応しています。

豊年祭り01 豊年祭り02
(左:大縣神社 右:田縣神社 の豊年祭り)

祭神の大縣大神については諸説ありますが、邇波県主(にはのあがたぬし)の祖・大荒田命とする説が有力です。邇波氏は出雲系の氏族ですが、この出雲族は実はアイヌだといいますので、大縣神社はアイヌ色が濃い地域といえそうです。語り部は邇波県主の流れであると自己紹介していますので、きっとこの愛知県小牧市近辺の旧家の人なのでしょう。
※註 アイヌ(蝦夷)も出雲、諏訪、毛野...等、多くありますが、大和朝廷に恭順した勢力しない勢力があると思います。大漢国(君子国)の残党等、恭順しなかった勢力をひっくるめて「東夷」と呼んだのでしょうか。

山頂には大縣神社奥宮の祠がある他には特に祭祀・信仰の名残は無く、逆に山腹~山麓に祭祀場が集まっています。例えば、本宮山一の池・二の池の奥の「おそそ洞」には「御社根磐」という磐座がありますが、ここは緩やかな谷間の脇に岩盤が露出し男根状の菱形状立石があります。
※註 京都では今でも女陰のことを「おそそ」と呼びます。

御社根磐01
(御社根磐)

ここが東谷山から遷座した盤座神事の場所でしょうか。

出雲系に属する邇波氏ですが、出雲ではクナト大神が本当の最高神、真の祖神だといいます。これは熊野大神、道祖神、塞(幸)の神、辻の神とも呼ばれる存在だといいます。倶知安のアイヌ酋長・菊池俊一夫妻が語るところでは、アイヌの古語でクナトは「男根」、アラハバキは「女陰」の意味であり、本来一対のものだったといいます。このことから大縣神社・田縣神社で男根・女陰を祀るのは、実は出雲系の神である「クナト大神」や「アラハバキ姫神」を祀っていたのではないかと推測されますね。

いづれアラハバキは放送禁止用語になるかも(爆)

クナト大神を祀る神社としては出雲王家の子孫「富」氏の「出雲井神社」が有名ですが、その他にも出雲国の一之宮「出雲熊野大社」も「クマノノオオカミクシミケノミコト」という若干名称変更した形で祀られています。また、出雲だけでなく丹波国(京都府亀岡市)の一之宮「出雲大神宮」でも中央の空座は「クナト大神」が祀られていたといいます。

語り部は丹波国は中国と邪馬台国の間にあることから、邪馬台国を監視する為には都合よく、アイヌ(エブス人)は毛野国(埼玉)から丹波にやって来て丹波国を建国したといいます。その後、出雲王朝が開朝されたので丹波は「元出雲」と呼ばれるようになったわけですが、この流れ非常に納得できる話です。

では、この「クナト神」とは何者なのでしょうか?
この特徴は東北に封印された「艮の金神」(国常立神)に似ています(笑)。
それを解くには同じ出雲系の諏訪を見る必要がありますね。

出雲と古くから関係深い諏訪ではミシャグジ神をかつては殆どの諏訪の神社が祀っていたといいます。

ミシャグジの神とは自然界から人間界へと大木を通じて降りてきて富をもたらしてくれる神して信じられています。つまり人間の五感外の世界と物質世界を行き来できる神、二つの境界にいる神を指しているのです。このことから「祟り神」という名がある程です。

語り部が語るには、、、、

「邇波氏=大国主=クナト神=毛野=句奴=縄文人=アイヌ人
洩矢氏は大国族であり、 ミシャグチ神=御イサク地(約束の地)の意」


だというのです。
しかも、ミシャグチとは、、、、、

「御(ミ)イサク地(チ)」ですかぁぁぁぁ~~

確かに、諏訪には「守屋山」や「洩矢氏」というエルサレムの「モリヤ山」と同じ名があり、「御鹿祭」という鹿の頭を75頭分も捧げる旧約聖書に記される「イサクの燔祭」(イサクを神の生贄に捧げる試練 羊75頭でを供える)そのままの祭りがありますね。イスラエルのアミシャブ(失われた十支族捜査機関)が諏訪に調査に来ている程なので、これは正しいことかもしれません。さすが語り部です。謎がいっぺんに解けてしまいました(笑)。

イサクの燔祭

また、諏訪の茅野市は他の縄文遺跡と比べて飛び抜けた規模であり、ここが縄文人(アイヌ)の一大拠点であったことは間違いありません。しかも実は、彼ら縄文人(アイヌ)は中東からやってきたエブス人であり、アイヌを漢字で「蝦夷」と書きますが、エブス人、つまりエビスも「夷(えびす)」と書きます。また大国主族の直系の蘇我氏には蘇我蝦夷という「蝦夷」を名に持つ者がいますので、大国主族もアイヌ(エブス人)であったと推測は充分可能です。
※註 武家の将軍職には「征夷大将軍」「征狄大将軍」「征東大将軍」「征西大将軍」...等がありますが、これらの中でも何故か「征夷大将軍」(太平洋側を進んで蝦夷を打つ軍隊の司令官)が最高職になっています。これはダビデ王が「第一にエブス(夷)を打つものを頭とし将とする」と言ったところから来ていると語り部は言います。

語り部は「エブス人」(出雲族=大国主族=蝦夷=アイヌ)は、昔の祖国で弟分の天皇族の祖国(イスラエル王国)が滅びた時に逃げ延びる弟分の子孫をバビロニア人に引き渡した罰で滅びたと信じ、悔い改めてきたので、此の国・日本では大らかに移住者を受け入れてきた。」のだといいます。この寛容な渡来人受け入れ政策が「羽衣伝説」となって残り、大国主は「止由気」→「豊受」となり、その子孫は「豊浦」という呼称で呼ばれるようになったといいます。

諏訪では「洩矢(モレヤ)神」が木石の神、「千鹿頭(チカト)神」が狩猟の神、「ソソウ神」が蛇神とされ別々に祭られてきて、ミシャグジ神はソソウ神と習合されて蛇神であるとされています。実は、ミシャグジ神は「石柱」に降りる男性的精霊であり、ソソウ神は「石皿」に降りる女性的精霊であるといいます。この2つの神が「道祖神」の原型になったとも云われていますが、この陰陽関係は「クナト大神」と「アラハバキ姫神」とみて間違いないでしょう。ですから、ミシャグジ神は男性的精霊と蛇と関連がある為に「男根崇拝」→「御柱祭」と繋がっていくのではないでしょうか。



また、出雲大社の正殿はかつては48m(上古は98m)もあったといいますが、この高柱構造の神殿から想像できることは、出雲では大地からそそり立つ長い柱を非常に神聖視していただろうということです。これが諏訪では「御柱祭」として花開き、諏訪人はその柱にミシャグジ神を見ていたのかもしれません。つまり出雲も諏訪も同族の風習だと睨んでいます。
※註 出雲が大和朝廷との国譲りの争いの結果、負けた大国主の息子の建御名方(タケミナカタ)が出雲を出て天竜川を遡上して諏訪にまで逃げ込み、諏訪での争いの末、洩矢氏の諏訪は出雲族の下に置かれるようになったと記紀は述べています。しかし、信仰までは手を付けなかった為、諏訪では洩矢氏の「ミシャグジ神」信仰が残ったのだといいますが、多分、同族だった故に先住民虐殺まで到らなかったのでしょう。その証拠に負けた洩矢氏は神官として残り、攻め入った側は諏訪氏として並存しています。あるいは、記紀のこの説話自体が捏造で元々、諏訪には出雲に近い部族が住んでいたのかもしれない。それを逃げて落ち延びたという風に歴史を改竄したのかもしれませんね。

obelisk01.jpg
(エジプトの「オベリスク」も男根崇拝で、同じ民族の風習か?)

しかし、「ミシャグジなどという実体不明なモノは認めない」という中央からのお達しで、多くの神社が「建御名方命」等の古事記に由来の神に祭神変更したといいます。

大和朝廷に竜蛇信仰を禁じられた出雲族はそれまでの「アラハバキ姫神」と「クナト大神」を信仰する代わりに「弁才天」と「不動明王」を裏信仰としたが、これは弁才天は出雲系の宗像三神のイチキシマ姫と習合されていたからだといます。
※註 イチキシマ姫は宗像大社の中津宮という島に祀られる。厳島神社の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。後に仏教の弁才天と習合された。

出雲大国主命の家系を継いできた富氏によれば、原出雲族は紀元前2,500年頃大祖先であるクナトの神に引き連れられて出雲の地に着いた。原住民に鉄、製布、農耕等を教え、出雲の地の王となった。東北から西下しながらの大移動途中、信濃に建御名方命、大和に登美族などの出雲族の分家が出来ていった。それぞれが土着の民人と融合し地方の支配者となっていった。こうやって各地の大国主命が誕生したといいます。

出雲大社が今の杵築の地へ移ったのは霊亀二年(716)のことで、それまでは出雲の熊野村にあり、そこで「クナト大神(岐神)」を祀っていたという話があります。出雲熊野大社の社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしていますが、奥出雲地方の名家として知られる『田部』(タナベ)家は、元々は紀州の田辺地方出身(一方では出雲の田部氏が紀州の田辺を開いたとも)との逆の言い伝えもあります。いづれにせよ双方の土地の縁は非常に深いのです。
※註 伊勢は元々大国主族の土地であった為、その奥地の熊野が大国主族の「クナト神」を祀っているのは納得です。しかし、紀伊熊野神社が三本足の烏「ヤタガラス」をトーテムにしている点が異なります。これはスリーマンセル(三人組)の「鵜飼」のことを表しており、翻って徐福子孫を指し示す言葉なのです。これは熊野神社を祀る一族が徐福子孫ということでしょうか? これを解く手がかりとして、、、、かつて兎足神社の中国式生贄神事に呈する猪を飼っていて支那人の子孫(徐福子孫?)が住んでいたといわれる村(前芝・日色野)にヤッズ★が行った際に、その村の外れに「熊野神社」が祀られていました。豊橋・豊川には多くの熊野神社があり、徐福は速玉男神(熊野速玉大社)と関係が深いといいます。徐福子孫は日本渡来を承認してくれた大国主族に恭順化していて、クナト大神(熊野大神)の信仰をしていたのかもしれません。

熊野三山は、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社から成りますが、本宮大社の御祭神は須佐之男神、速玉大社の御祭神は伊邪那岐神、那智大社の御祭神は伊邪那美神と見做されていますが、それは元有るものに習合化されたのであり、その実は違うようです。熊野本宮大社の主祭神「家津美御子大神(ケツミノミコト)」と出雲熊野大社の祭神「クマノノオオカミクシミケノミコト」とは同じ神で、つまり、両者とも「クナト大神」を祀っているのです。
 
つまり、、、、

クナト大神=熊野大神=家津美御子大神=大国主の男根 (男性原理)

かなまら祭 かなまら祭01
(女装愛好者が神輿を担ぐ川崎市の天下の奇祭「かなまら祭」)

キリスト教においてはイブを誘惑する「魔」ですが、阿部定の話を持ち出すまでもなく、確かに蛇(男根)は女性を誘惑する「魔」なのかもしれません(爆)。エジプトなど古代宗教において蛇は「叡智」を表していて、蛇の姿は地球の極から立ち昇るエネルギー...等とポジティブなものに捉えられています。

以上のように出雲族は蛇信仰をしていましたが、このことに一番納得のいく信仰上の理由は、蛇の脱皮が古い肉体を脱ぎ捨て再生する「不死」を表し、多産や害虫を食することから尊ばれていたからという点でしょうか。これは満ち欠けのある「月」も「不死」を表し同様なのです。事実、語り部は出雲族は「月信仰」をしていたといい、それが「かぐや姫」の伝承として残っているのだという。

白蛇神様

出雲の祖はスサノウから始まりますが、スサノウは天照、月読と同じく三貴神の一人です。しかし、月読は記紀には殆ど登場していないことから、月読とはスサノウの別名で、実は同一の存在だとも考えられています。つまり、「スサノウ=月読」となり、このことからも出雲では「月信仰」していたことが伺われます。
※註 中国では盤古(道教の宇宙開闢の創世神)が死んで左眼が太陽に右目が月になった、、、ギリシア神話では太陽神アポロンと月の女神アルテミスは双子、、、、旧約聖書の創世記の創造四日目に神が「二つの大いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げ、それぞれに昼と夜を司らせ、光と闇を分けたという日月の創造が語られているように、月と日は「2つだけの対比関係」で語られるのが普通です。太陽・地球・月という三者間対比は珍しいのです。

出雲族(大国主族・アイヌ)=蛇信仰=月信仰

「外宮」は出雲族が邪馬台国監視の為に丹波に作った「邇波国」の籠神社の奥の院「真名井神社」から勧招されたそうですが、籠神社の起こりは、語り部が言うには名古屋がまだ海の底にあった頃の古伊勢湾の「中島(龍宮)」(現在の現稲沢市辺り)という島にある国府宮神社(「はだか祭り」で有名な尾張大国霊神社)から海人族(海部)の神官が移動してきたことから始まります。この移動は初期大王族の上陸地を丹波として祀ることにあったという。
※註 籠神社の神官は「海部」性で、日本一古い家系図(国宝)を持っています。この「真名井」という名称は出雲の社家町(神職住居地)にもあり出雲と丹波の並々ならぬ関係を思わせます。出雲には「富家」という代々続く名家がありますが、真名井の「出雲井神社」が本願地であり、出雲の主で蛇体を祀る一族であったという一子相伝の秘法で今も古代出雲の真相を伝えているのだといいます。しかし、出雲国造に本来の出雲信仰は簒奪されてしまったといい、「我々は蛇龍族だ」と冨氏はいいますが、そ、それってレプタリアンのことか?・爆

さて話は前に遡りますが、東谷山→犬山本宮山のイヒヤ(神拝所)が移された先が「内宮」なのか「外宮」なのか語り部の話ではよくわかりません。あるいは「内宮」「外宮」以外の場所だったのかもしれません。

ヤッズ★は日鷲山(高倉山)(標高117m)という「外宮」の神域内の山がイヒヤが移された場所だと睨んでいます。日鷲山の山頂には高倉山古墳という円墳があり、山域には他にも古墳が存在するといい、東谷山(198m)も犬山本宮山(292m)も古伊勢湾に面した海が見える小高い山になっていましたので、神拝所を移動する場合には海に近い宇治山田の「外宮」の地の方が適切だったと思っています。

この地で「地神」を祀ったのでしょう。

邇波川上からこの地に移ってきた子孫が、外宮神官の度会氏だと思います。また逆に、元々、この地にいた大国主族が信濃の地に移動になったわけですが、その移動先の地が安曇野ではないかと睨んでいます。安曇野の語源は古代日本を代表する海神族として知られる有力氏族・安曇氏から来ていますが、伊勢の対岸側である東三河には渥美(飽海)、豊川(飽海川)...等の安曇氏由来の地名があるので、かつて伊勢湾は安曇氏が支配していたと思われます。東三河では赤引きの絹を使って織った御衣(おんぞ)を伊勢に奉納する「御衣祭」がありますが、これなどは伊勢と東三河が古くから結び付いていたことの証左であり、背後に安曇氏の影を感じるのです。
※註 伊豆半島の「熱海」も海人族・安曇氏と関係が深い地名。

外宮御宮地図SS
(外宮御宮地図)

また、現在の町の発展振りからいっても外宮の方が海人族の「磯宮」として相応しいのです。古来より「外宮先祭」いう祭祀や参拝の順序は「外宮を先」とする慣わしがありますが、これなど「外宮」の方が古くから伊勢の地にあったとする方が理に叶っていますね。多分、大和朝廷が「内宮」創建後、だいぶ経ってから真名井の豊受大神(大国主)を勧請して、宇治山田の「磯宮」の規模を大きくして「外宮」として整備したのでしょう。
※註 「磯宮」とは伊勢皇大神宮の古名で、内宮の地にあった斎宮の居所。別名「宇治宮」ともいうことから、宇治山田の外宮とは関連が深いと睨む。

現在、高倉山は入山禁止の「禁足地」となっていますが、外宮正殿の左上に見える風宮から高倉山へ登る道は「岩戸道」と記され、山頂の「岩戸」と呼ばれる巨大な横穴式石室(全長18.5m、幅3.3m、高さ4.1mと全国屈指の規模)を持つ6世紀後半の造営の高倉山古墳の入口に続きます。『伊勢参宮名所図会』(1797年発刊)には、高倉山山頂には神楽殿や茶屋、岩戸前には庇のような建築物が描かれていることから、ここが何らかの祭祀の場所であったことが分かります。

ちなみに外宮の正殿と多賀宮の間には窪んだ地形(かつては川だった)がありますが、ここに「亀石」という大岩で出来た橋が架けられています。実は、これが高倉山頂上古墳の入口の岩を移動させ、ここに架けたと伝えられています。

外宮内には超パワースポット「三つ石」の手前に注連縄を張った白石敷きの一画「多賀宮遥拝所」がありますが、ここはという足腰が弱く登れない人が多賀宮を拝む場所だといいますが、ここに遥拝所があるのは、本来の外宮はこの多賀宮に正殿が置かれていて、日鷲山の神霊を招いて祭祀を行なっていたのではないかと考えられるのです。その後、丹波国から豊受大神を勧招して現在の巨大な正殿が「多賀宮遥拝所」の後ろに創建されたのでしょう。
※註 「外宮」は陰である低地から陽である高所(日鷲山)を拝み、逆に「内宮」は陽である高所から陰である低所(五十鈴川)を拝む形式になっていて位置関係が対称的なのです。また「外宮」が「地神」を祀るのに対し「内宮」は「天神」を祀っています。ここでも対称的なのです。

多賀宮遥拝所
(多賀宮遥拝所)

もう何がなにやら分からなく錯綜状態になってしまいましたが、ここで外宮に本来祀られていた神をまとめてみますとこうなります。

【外宮】…出雲の御神霊 大国主
  ・男性原理…地神、月、竜神、ミシャグチ神、クナト神、国常立神、男根、火のエネルギー


大黒天
(大国主と習合された「大黒天」は米俵に乗った形態で描かれますが、この構図は上記の「かなまら」の御神体と同じなのです・笑)

今回も長くなってしまったので記事分割しました。
次回は内宮の神に関する洞察です。
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Comments

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中島は実はかなり古い家系かも…

ありがとうございます。そうですね、尾張大国霊神社はアマツミカボシの子孫中島直らが祀ってますが、数千年前から遺跡が存在してるなど、やはり歴史は本物のようです。尾張氏の一番はじめは元伊勢籠神社の宮司さんらによれば海部から分家したらしいから、889年の系図ができたのも、尾張氏のルーツを記録に遺すためでしょう。中島直も海部の元の先祖だったのでしょうね。

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