封印された神を解く(3)

「封印された神を解く」シリーズも随分、間が空いてしまいました(汗)。
今回は内宮と外宮にスポットを当てて封印された神をひも解いていこうと思いますが、この記事はその前段階というか、仕込みですw
(記事がチョー長くなってしまったから分割したのです)

外宮の主祭神は「豊受大神」ですが、これは本来は「止由気(トユケ)」と書かれていて、実は「天女」のことを指しており、「羽衣伝説」は渡来人を受け入れた大国主(出雲王朝)族のエピソードが元になっていると語り部はいいます。

蘇我蝦夷の通称は「豊浦大臣(とゆらのおおおみ)」といいますが、この「豊浦」が「豊受」のことだともいう。このことから「豊」という字は「天女」、翻って「渡来人の地」を指しているのかもしれませんね。また、東三河一帯がかつて大漢国(君子国・扶桑国)と呼ばれる徐福子孫の繁栄した土地であったことから、渡来人の地であったこの地に「豊」が多く付くのかもしれません。
※註 「豊川」は古代律令制以前の「豊川郷」からですが、豊橋、豊川(とよがわ)は明治政府によって名称変更されています。このことを明治政府は掴んでいて「豊葦原中津国」の「豊葦」から「豊橋」としたのではないかと睨んでいます。

大体、こんなことを少し前の記事に書きましたね。
で、豊川のイワレを調べているうちに、それを裏付けるような話を見つけました。

豊川にも羽衣伝説があったのです。

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今の豊川市行明(ぎょうめい)町のあたりに、昔、一人の若者が住んでいた。

ある日、豊川べりの千本柳原に釣りに行くと、どこからともなく良い香りがするので辺りを見まわすと、一本の松の木の辺りが光り、見たこともない美しい羽衣がかかっていた。若者はそれを家の宝にしようと、急いで家に持ち帰り、唐櫃(からひつ)にしまいこんだ。

羽衣天女00

その夜、若者がぐっすり寝込んでいると家の戸をたたく音が聞えてきた。
誰かと思い、戸をあけると、そこには女が立っていた。
「今夜一晩泊めていただけませんか。」とその女が言うので、夜中でもあったし、若者は泊めてやることにした。ところが、一晩だけのつもりが、女はそのまま住み着き、やがて二人は夫婦になった。そして男の子が生まれ、親子は幸せに暮らしていた。

七年の月日がたち、十五夜の月が美しい夜、女が急に「あなたが昔、豊川のへりで見つけたという羽衣を見せてくださいな。」と言った。若者は、そのことをすっかり忘れていたが、そう言われると自分も見たくなり、唐櫃から出して床の間に掛けた。あの良い香りが部屋いっぱいにたちこめたその時、女は羽衣を身にまとい、ふわりと舞い上がって、窓から外に出て行った。

あっけにとられた若者の耳に、聞き慣れた女の声が聞こえてきた。「わたしは天女です。長い間、仲良く暮らしてきましたが、これでお別れです。形見に、人形と茶の実を置いていきます。人形をわたしと思って、大事にして下さい。茶の実は庭にまき、子どもが病気になったら煎じて飲ませて下さい。きっと元気になります。」

朝になり、庭には女の言葉通りに人形と茶の実が置いてあった。その実を庭にまくと、茶の木が次々と茂った。しかし不思議なことに、その茶の木は片葉だったので、村人たちは、「子どもが半分天女だからだ」と噂しあった。片葉の茶の葉を煎じて飲んだ男の子はスクスクと育ち、弓の名人となって殿様から「星野勘左衛門行明」という名をもらって侍になった。それからこの辺りを星野の里と呼ぶようになり、行明の地名がついたと言われている。


■天女の羽衣(豊川市)
http://www.pref.aichi.jp/tochimizu/mizu/toyogawa/learn/legend01.html
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この行明町という場所は、豊川稲荷から南へ降りていった豊川(とよがわ)沿いの場所ですが、豊川放水路管理所横の小公園内には天女が羽衣をかけていた「羽衣の松」があるといいます。4代目となってしまった松なので、まだ若く見応えはありません。もともと羽衣の松は現在の場所ではなく、下条西町の下条橋の付近にあったそうです。

羽衣の松

また、天女が残していった「形見の人形」は現存し、現在は地元の平尾家の雛人形として雛祭りに飾られているといいます。

羽衣伝説は日本各地にありますが、滋賀県余呉町の余呉湖、京都府旧峰山町、静岡県清水市(三保の松原)が有名なところですね。多分、この地から渡来人が上陸したのでしょう。当時の日本を仕切っていた大国主族(アイヌ)が彼らを受け入れ、この伝説がここに定着したというわけです。

「豊」という字は象形文字から来ていて、元の字は「豐」と書きます。脚の高い食器「高杯」(タカアシ)に多くのきび類を盛って供える形を表していているのが「豐」であり、ここから「おおい、ゆたか」を意味する「豊」となったのです。読み方にも違いがあり「豊(レイ・ライ)」と「豐(ホウ・フウ)」と区別されています。

高杯
(高杯)

どうも「天女」という意味は無いようです(汗)。

ただ、「豊」「豐」も中国語読み(音読み)での話で、これを「トヨ」とヤマト言葉(訓読み)と適合させたのは何か理由があるに違いありません。例えば、邪馬台国の女王卑弥呼の親族で跡を継いだ女性「トヨ(台与)」と何か関連があるのかもしれませんね。

易経に「雷火豊」という55番目の卦がありますが、「豊」は盛大さを意味し、Max(パワー全開)状態、つまりフルスロットル状態を示しています。これは語り部の言説ではありませんが、実はここから邪馬台国最後の女王の名「トヨ」を表わすものとして「豊」の字を持ってきたのでなないかといいます。以後、「豊」という字を「トヨ」と読むようになったわけというわけです。

彖に曰く、
「豊は大なり。明にしてもって動く、故に豊なり。
王ここに至るとは、大を尊ぶなり。
憂うるなかれ、日中によろしとは、よろしく天下を照らすべしとなり。
日、中すればすなはち傾き、月満ればすなはち欠く。
天地の盈虚(えいきょ)は、時と消息す。
しかるをいわんや人においておや、いわんや鬼神においておや。」


雷火豊

しかし、ここに暗号が隠されていたのです。

彖の始めにはこうあります、、、「豊は大なり」
(豊とは大という意味である。)

「豊=大」が秘密です(ニタリ)。つまり、大和盆地がまだ湖だった頃、今の桜井市近辺にあった「水の都」と呼ばれた邪馬台国・最後の女王「台与」(トヨ)は、ある理由で国が滅ぼされてしまったのですが、その後を継承したのが「大」なのであり、即ち、若い頃の名を「大穴牟遅(おおなむち)」と呼よばれた「大国主」だったのです。大国主は「天」の象徴である天照大神に対し「大地」を象徴していて「大の神」ともいいます。このことから「大」の別称である「豊」という漢字を「トヨ」に当て嵌め、以後「豊」は「トヨ」と読むようになったというわけです。あるいは「台与」という邪馬台国の女王は存在せず、直接「台与=大国主」だったのかもしれません。
※註 248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壱与」または「台与」が女王になることで収まったといいますが、これは邪馬台国が滅亡して祭祀関係を大国主が継承したことを示している。しかし、出雲系の関与を大和朝廷はあからさまに出来ないため、こういった暗号を使って誤魔化したのでしょう。

これで全ての謎が解け、丸裸となってしまいましたね(笑)。

大ちゃん どばぁ~っと丸裸♪


(流行の「ワダス」「...だす」の「ダス語」は大ちゃん言葉だっただすよ~~)

ヒミコ → トヨ(=大国主)

という流れで「女王国」とも云われた邪馬台国が、滅亡後にも統治者が入れ替わって継承していることをこの「豊」という漢字で暗喩していたのです。この邪馬台国継承は卑弥呼の円墳に方墳を橋渡した「箸墓古墳」にも現れていますし、何より邪馬台国は弥生人(中国人)国家だった為、騎馬民族を敵視していた中国に対してカモフラージュして成り済ますことが外交上有利だったと語り部は語っています。

まぁ、実際に大国主が巫女業していたわけではありませんが、豊受大神(大国主)には「八乙女」と呼ばれる8人の巫女が仕えていたといいますので、祭事継承にはこのうちの1人を充てたのではないでしょうか。また、この8人の天女のうち「比治(丹波郡)の真名井」に降臨し地上に残った1人が「豊受姫」だとされています。これは「北斗七星+輔星」という構図になっていますが、残った1人が「羽衣伝説」の元型になっています。

成り済まし「大ちゃん」の胸にある七つの傷は北斗七星ですが、あのアニメはこんな大国主のエピソードをも暗喩していたのです(超爆)。

そう考えれば、邪馬台国の中心であった三輪山と巻向山の山頂の中間の尾根には「ダンノダイラ」という場所があり、その下の里には出雲村がありますが、この大和地方に何故「出雲」があるのか不思議だったのですが、これで謎が解けますね。

古代の「出雲村」は巻向山の尾根にあって「ダンノダイラ」と呼ばれていたといいます。その後、隠れ里の村人たちは山から降り、現在の十二柱神社の地からダンノダイラにある磐座に向かって拝み、年に一度、出雲村総出でこのダンノダイラに登って一日中相撲をしたり食べたりして先祖を祀って偲ぶ風習があったといいます。今は無くなってしまいましたが、これは明治の初め頃まで続いたといいます。何かしら国家神道に不都合な点があり、明治期に何らかの圧力があったと思われます。

その出雲村の人が語った内容があります。

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★そして辻田さんが地元の出雲さんにお聞きしたという「大和出雲史」から
「私の名の出雲というのは、表に出てはいけない名字です。天皇家が陽とすると、私たち出雲は陰になります(雲が出てくると、太陽が隠れるから、太陽にとって、出雲は邪魔な存在。という事だと思われます)。出雲の名をもつ家は、10軒以上あり。私の家が、出雲家の本家にあたります。口伝えになりますが、奈良盆地の真ん中ぐらい、今の田原本町から東側が先祖の土地だったと聞いています。しかし攻めてこられ、土地を奪われ、城のような建物は焼かれ、生き残った一族は、山に逃げ込みました。わたしは、滅ぼされた王から58代目にあたると聞いています。鎌倉時代にダンノダイラから下りてきてからは、家系図があり、、 37代目か38代目で鎌倉時代までさかのぼれます。58代前は、7世紀の中頃ではないか?と村の人も行っています。ただ、私たちの王が日本の歴史の誰に当たるのかは、解らないそうです。焼かれた城の位置も村人によって違うので、はっきりしないそうです。(今の出雲より盆地寄りという事は共通しているようです) ダンノダイラから下りて来る時、長谷寺か何処かの、指図を受け、直接下りてこず、源氏に追われた人々という形をとったようです。その時何かの密約でもあったのか、出雲の名を背負い、口を閉ざしました。特に、大和朝廷側に攻められた事。ダンノダイラに住んでいた事は、村人以外に話すなという掟があったようです。特に明治、昭和初期は、厳しかったようです。ただ、昭和40年ごろ、調査に何度も来られるので、村人が協議して、古代出雲邑がダンノダイラに在った事は、教えたそうです。しかし天皇家に滅ばされた事は、決して話さなかったようです」※「もういいだろう」ということでお話ししたそうです。


■pentacross 古代☆ペンタクロス文化 pentagram
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/9307631.html
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この山頂で相撲を取ったとありますが、実は、この尾根の反対側にある穴師坐兵主神社の傍らには「相撲発祥の地」といわれる摂社「相撲神社」があります。

事の発端は、でニニギの子孫で出雲国の勇士の野見宿禰(土師氏の祖)が垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚されたという。蹴速と互いに蹴り合った末、蹴速は腰を踏み折られて死んだといい、勝った野見宿禰は蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられ、以後、垂仁天皇に仕えたという。

当麻蹴速01

また、野見宿禰は、垂仁天皇の皇后葬儀の際、殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、子孫氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった。土師氏の中から姓を菅原に改めた氏があり、菅原氏から公家の五条家が出て、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家(行司)となったといいます。
※註 その後、相撲司家は吉田司家に移り、現在まで800年以上の歴史を持つ。司家は行司の家であり、相撲に関する免許を発行する権限をもっていた家である。吉田司家15世が細川家に仕えて相撲司家となって以来、熊本にあって全国の力士・行司を支配し横綱の免許を与えた。国技となった際、その権限は日本相撲協会に譲られたが、権威付けの為に相撲界の大御所として君臨。

しかし、野見宿禰は「出雲国」から遥々やって来たのではなく、このダンノダイラの出雲村から来たのではないかと考えられています。村から相撲伝承地へは峠越えで5㎞程度であり、書紀の「即日、宿禰を召す」内容と符号することと、宿禰塚の五輪塔も現存することから、ほぼ間違いありません。

穴師坐兵主神社が祀っている兵主神については諸説ありますが、中国の戦いの神・蚩尤(シユウ)ではないかと云われています。蚩尤といえば、牛頭天王、スサノウとなって出雲に繋がっていきますね。竜蛇信仰の出雲族が崇拝する神はヤマタノオロチ退治の伝承にあるようにスサノウに退治され、これに取って換えられていきましたので、やはり、日本最古の大神神社を含め三輪山一帯はかつて出雲の駐屯地だったのです。

で、相撲という言葉もスサノウから来ていると睨んでいます(爆)。
(似ていませんか? 平安時代には「すまひ」「すまふ」と呼ばれていたといいますが、これは「争(すま)ふ」というところから来ているという。う~む、SMAPが語源なのか?爆)



このように、邪馬台国滅亡後、三輪山周辺は出雲族(大国族)が継承した為に、上記のダンノダイラが出雲族の居留地となっていて、こういった伝承が存在するわけです。

日本書紀の崇神六年の条では、天照大神とや倭大国魂(出雲系の信仰)を宮殿に一緒に祀っていたところ、両神のそりが合わないのか、国内に疫病が大流行した為に「天照大神」は大和の笠縫邑らに祭り、大国魂は三輪山に祭ったと記されていますが、この記述は「大和朝廷だけが過去に唯一存在した王朝」という捏造歴史の為に書かれた内容でしょう。大国魂は元々三輪山に祀られていたのです。方向が全く逆なのです。朝廷側が元々あったものを取り込んだというのが真相でしょう。そうなると祖霊「天照大神」の方も怪しくなってきますね(笑)。

語り部によれば、邪馬台国は出雲族(アイヌ)に手引きされて日本に渡来してきた初期大王族(騎馬民族スキタイ)によって滅亡させられたと言います。出雲族は御獄(うたき)祭祀をすることを条件に倭人(弥生人)にも日本定住を許し、共同統治者として族長政治を行なっていました。しかし、邪馬台国が次第に道教(鬼道)に偏っていき、かつ全国制覇の野望を持ったこと、更には東三河の大漢国(君子国・扶桑国)も道教や神仙思想を持つ同じ中国を祖とする国であり、このままでは日本全体が道教化(中国化)してしまう危機感を持ったが故に、これを阻止すべくこれら2国を撃ち破ることを決意して同族の騎馬民族スキタイ(カド族)を日本に招聘したのだといいます。
※註 古墳からは馬具が出土し、騎馬民族が日本に来ていたことは間違いないのですが、それが王朝征服までしたという論は、日本で争った形跡がない為に???となっていますが、招聘ならば全てが辻褄が合いますね。

東三河の蓬莱山、扶桑樹に憧れ、中国大陸の長江近辺から日本に遥々渡来してきたのが弥生人(倭人)ですが、彼らは最初は九州の地にいたのです。しかし、憧れの地である東三河により近いところを目指して大和の地まで進んで来たといいます。そして、この地の「三輪山」に憧れの「石巻山」の御神霊を勧招して祀ったのでしょう。これが三輪山の「奥の宮」が東三河の「石巻山」であると古い社伝に書かれる理由になるでしょうか。

邪馬台国滅亡後、三輪山で行なわれていた祭祀関係一切を大国主の出雲族(大国族)が継承したと思います。語り部は三輪山で新三王朝(出雲・大倭・小治)が各々、山頂・中腹・麓で地神を祭る御嶽(うたき)神事を行なったのだといいますが、三輪山の「三輪」という言葉は、この新三王朝が邪馬台国、大漢国を打ち破って作った三王朝統合を意味する非常に深い言葉なのです。その重要な祭祀を鎮魂の意も込めて邪馬台国の故地であるここ三輪山で行なったのでしょう。
※註 学会でも律令制で統一国家となる大和朝廷以前の族長政体を「ヤマト王権」と呼んでいます。

しかし、騎馬民族(初代天皇族)は先住民の崇拝形態を維持して「巫女制」で出発したのですが、その後、半島に百済が興り半島緊張が起きた。安全保障の為に百済と友好関係を結び百済王家から婿入りさせたのが後期大王族(エフライム族)なのですが、祖国・百済救済を行う為に大王の地位を欲しがり、大王になる資格を得る為に巫女の奪い合いを始め凄惨な状況を作り出した為、「巫女制」は廃止されたという。

さらに、壬申の乱に勝利した天武天皇が三輪山祭事を管理していた大国主族を追い払い、鞍作毛人(蘇我入鹿)の長子・宗形鳥麻呂に九州の宗形の地で行わせるようにしたのだという。つまり、男子禁制の禁則地で巫女が神託を受ける「巫女制」という崇拝形態自体を大和の地から追い出したわけです。

大神神社
(三王朝統合の証が三ツ鳥居)

確かに、九州の宗像神社には三女神が祀られていますが、HPトップ画面のスライド写真にもあるように沖縄の御獄(うたき)のような社のない岩場で祭祀を今でも行なっていますね。ただ神官は男性になっていて巫女が行なっていないのですが、、、、この「宗像三女神」とは三輪山の三王朝が行なったの巫女制を象徴し、それを九州の地に移転封印したというのが正解でしょうか。
※註 宗像三女神を「道主貴(みちぬしのむち)」と呼びますが、これは「巫女制」を始めた出雲族に敬意を払い、出雲王朝の始祖・丹波道主王の名から付けられたものだと睨んでいます。

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縄文の昔から日本は「巫女萌え」だったのですw
これが封印された「国体」なのですね。

つまり、「巫女萌え」の程度が、あなたの縄文バロメータなのです(爆)。

このように自然神を祀る女性神官(巫女)から、人為神を祀る男性神官へ変遷していきました。これは感性重視の平和的な右脳優位社会から合理性重視の競争的な左脳優位社会への変遷が背景にあったのです。どちらが正しい社会かは意味がなく、今後は、より右脳的になっていくと思いますが、過去と同じ位置取りではなく、この2つの流れを止揚(アウフヘーベン)した新たなステージになっていくわけです。
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