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渡来系王君

語り部の語る内容に、倭旨=首露王=扶余依羅というのがありますが、これが日本の天皇家の雛形となった「渡来系王君」(王君とは王の代表者という意味)の始まりだといいます。しかし、これら人物に対して全く知識を持ち合わせておらず、今まで頷くままに記事化していました(汗)。で、これは「本当なのか?」と今回、この部分を検証してみることにしました。

まずは、これらの人物調査からですw

■邇波言壱著作 出雲王朝
http://www.pleiades15.net/history/niwa.html


■倭旨
語り部によれば、「倭旨」の名が現れるのは石上神宮の国宝「七支刀」であるといいますが、記紀等の日本の歴史文献にはその名は一切出てきません。ただし、中国の史書『宋書』には南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、通称「倭の五王」(倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武)が出てきますが、この名によく似ています。しかし「倭旨」の名はここにも載っていません。これはどういうことでしょうか?

語り部が語る「初期大王家」(スキタイ)の系図では、、、、、

嘗(旨)-仁--隋---明-峻-聖-建-稚建-長屋王(滅亡)

明…用明天皇
峻…崇峻天皇
聖…高向王(聖徳太子モデル)
建…天武天皇
稚建…文武天皇


とありますが、五王のうち三王がこの系図にあります。ただし『宋書』では「倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら『使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王』と称して正式の任命を求めた」とあるように、「珍」は「讃」の弟となっていますが、多分、半島側の人物が「倭国王」を兼任したのでしょう。で、「讃」の子「隋」は何らかの理由で平西将軍(=安東将軍の一つ下のランク)にならなくてはならない事情があったと考えられます。倭王讃が百済・新羅・任那をまとめた上で高句麗と闘っていて大敗した為、高句麗の下にされたのかもしれませんね。
※註 「倭興」の時代、半島では百済が勃興したのですが、半島と関係安定化の為に百済王家から初期大王家に迎え、婿入りしたのが「倭武」であり、これが「下宮」の祖となります。

これで「倭の五王」全てが判明しました。

「倭旨」は朝貢していない為に『唐書』に記載されなかっただけであり(当時はまだ邪馬台国が倭国王として認定されていた。その後、邪馬台国は「倭仁」の頃に滅亡。この邪馬台国の継承者として倭氏が勃興。)、よって「倭旨」は倭氏の1人であるだろうことは容易に推測可能です。
※註 語り部によれば、「倭旨、倭仁、倭讃」の「旨、仁、讃」のように「倭+名前1文字」というのが大倭王朝、尾張王朝は「名前2文字」、出雲王朝は「御諸別、荒田別、、、」のように「名前3文字」というのが三王朝の決まりごとなのだそうです。で、これら三王朝の勢力の総称を八岐大蛇という。

ちなみに、新天皇になる際に行なわれる「大嘗祭」という名称は、この倭氏の祖・「嘗」(旨)と関連がある。今まで、何故、「大嘗祭」「新嘗祭」と「嘗」という字を使うのか不思議に思っていましたが、こういった理由があったのですね。

大倭の大倭豊王朝は、正式名南加羅国(訛りナミハヤから、長脛彦で表される邇波荒田別の抵抗で難邇波で難波)と加羅諸国は同族で北方系で、扶余人盟主は金官加羅。南方系エフライム族の百済人が高句麗と戦い救援を求めており、同盟を結び七支刀を貰い朝鮮半島に出兵。倭旨・仁の2代で行うが大敗して中止。しかし百済や新羅を支配下に治める。

扶余依羅(倭旨)と大倭の王は、加羅諸国、扶余国(依羅の子玄とその子蔚=五瀬)に高麗を叩かせる為尽力し、倭仁王君は扶余国を守る為朝鮮半島に出兵し惨敗。百済国の窮状に多大な情けを掛け最後は百済王系に日本を乗っ取られる。


七支刀
(刀というよりメノラー【七枝燭台】に類似w)

■あの国宝・七支刀は「鋳造」 復元した刀匠、鍛造説覆す分析
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100428/acd1004281317002-n1.htm

石上神宮は「物部氏の武器庫」と言われる処で、「七支刀」は古から「六叉の鉾」としてとして伝えられてきた全長75cmの鉄剣ですが、この刀の銘にはこう記されています。

表:「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」
裏:「先世以来未有此刀百済王世□奇生聖晋故為倭王旨造傳示後世」


裏銘文の意味は、、、「先世以来未だ見なかったこのような刀、百済王の世子貴須は(倭王の)恩義に生き、故に倭王旨のために造る 後の世に伝え示す」と解されます。
※註 「倭王旨」の箇所を「倭王の為に嘗(はじ)めて造った」と解釈しているのが殆どですが、贈答側が百済王の世子貴須と個人名としているのに、贈与側が尊称だけというのは非常にバランスが悪くおかしなことです。ですから、ここは素直に「倭王の旨」と読むのが正しいと思います。

銘文の「秦和四年」は東晋の太和四年(369年)に鋳造されたと解するともいわれ、「日本書紀」には百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが372年に百済から倭国へ献上されたという記述がありますが、石上神社の「七支刀」がこれに当たるのではといわれています。

九州のみやま市瀬高町の「高野の宮」(磯上物部神)には、「七支刀」を手にした古代の武人像が安置されていますが、この武人は書紀の内容からは「百済の武人」と言えるのではないでしょうか。

メノラー

語り部によれば、大国主系(アイヌ)が日本が弥生人によって倭人化(漢人化=道教化)することを嫌い、邪馬台国(348年5月滅亡)と大漢国を撃ち滅ぼして、「毛野国」「邇波国」「邪馬台国」という旧三王朝から、毛野国・邇波国を廃した「出雲」、渡来系大王の「大倭」、その傍流の「王治」(後の尾張氏)とで新三王朝を開くことを取り決めし、扶余国から初期大王家(騎馬民族スキタイ王家・カド族)を招聘したといいます。この時、半島から渡来してきたのが「旨」という人物です。で、この初期大王家が、後々、聖徳太子のモデルとなった高向王やスサノウのモデルになった天武天皇を輩出する「上宮」となっていきます。

半島において兄弟分にあたるエフライム族の支配する百済から救国の要請を受け、その見返りに贈与されたのが「七支刀」です。しかし、百済救済は失敗に終わり、その後、半島の緊張から国内安定化の為と扶余の高句麗併合阻止の為に、百済との密接な関係構築の必要から百済王家の入り婿を迎えます。これが後々「下宮」となっていき、現在の皇室に繋がっていく。
※註 初期大王家は、一度は入婿のエフライム族に家督(大王職)を譲ったのですが、倭明(用明天皇)が再び宮家を立てた。これが「上宮」であり、浦島太郎伝説(寝覚めの床で玉手箱を空けたら老人になっていた)の元ネタになっていきます。

このことから推察するに、天照大神の孫として神武天皇より先に日本に降臨してきたニニギノミコト(天孫族)とは、この渡来してきた初期大王家の開祖「旨」のことを指しているのかもしれません。



■首露王
半島において「金官加羅国」の始祖と伝えられているのが首露王です。
金氏の本貫始祖(金海金氏)でもある為、「金首露」とも呼ばれています。

金海空港の側に、亀旨峰(クシボン)と呼ばれる地があります。この場所は、伽耶の本拠地だったところとされています。当時、半島には既に新羅や百済という国があり、金海地方の肥沃な土地を狙った侵攻が度々起こり、脅威を感じた首長達が集まっていると、天界から「亀旨峰(クシボン)に登ってそこを掘れ」という声がして、皆が亀旨峰で指導者を推戴するために掘っていると、地面からではなく空から縄が降りてきて、その先には赤い風呂敷に包まれた金の箱が吊るされていた。不思議に思って箱の中を覗くと中には卵が6つ入っていたが、翌日箱の中を覗くとその中は空っぽになっていた。その時、屏風の裏から6人の童子が現れたという。そのうち一番先に生まれた男の子を「首露」と名付け王に迎えたという。

首露王陵の亀
(首露王稜には亀の石像がある。つまり、首露王のトーテムは亀)

実は、これが伽耶6国(金官伽耶、大伽耶、阿羅伽耶、古寧伽耶、星山伽耶、小伽耶)の建国神話でもあります。

この首露王達が現れたのが西暦42年3月3日の出来事であり、首露王が金官加羅を建国し、その後562年に新羅に併合されるまでの520年間、この地で独自の文化を花開かせたといいます。尚、首露王は189年に死去するまでの158年間駕洛国を統治したといいます(笑)。

三笠宮崇仁編「日本のあけぼの」には、、、、

「天孫ニニギノミコトが、イツトモノオ(五伴緒神・五部神)を従え、三種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホリの峰に降下したという日本の開国神話は、天神がその子に、三種の宝器をもち、三神を伴って、山上の檀という木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を開いたという壇君神話や、六加耶の祖がキシ(亀旨)という峰に天下ったという古代朝鮮の建国神話とまったく同系統のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語の都を意味するソフまたはソホリと同一の語である」と書かれています。

つまり、「亀旨峰」(クシボン)とは、記紀の「クシフルの峰」だった!!!

首露王の誕生秘話は日本の天孫降臨神話と全く同じ構造の神話なのです。王となるもの自体が突然天界から降臨してくるという神話は、何らかの理由で強者の庇護を求めて進んで王として立て、その臣下になったという事象を表しているのかもしれませんね。しかも、この亀旨峰は首露王のトーテム「亀」と先で述べた倭旨の「旨」からなる言葉でもあり、嫌が応でも「倭旨=首露王」を彷彿とさせるのです。
※註 首露王を祖とする初期大王家が、徐福子孫の「大漢国(君子国)」討伐で上陸した地が豊田市「亀首」であるというのも、彼のトーテムが「亀」だったから、そう呼ばれるようになったのかもしれない。

さらに、首露王妃こと「許黄玉」は元々はインドのアユタ国の王女でしたが、彼女が16歳の時(西暦48年)に緋の帆を張った船が神女を乗せてインドから海を越え来航してきましたが、父王の命により首露王の妃となるために嫁いできたといいます。彼女は西暦189年に亡くなったといいますが、王妃が亡くなる前に10人の息子のうち2人を自分の姓である許を名乗るように命じた。彼らの子孫が現在の金海金氏、金海許氏だと伝えられています。※註 族譜では金首露王の十人の男子の内の四男から十男までの七人が昇天すとあるが、語り部の話では、首露王は長男・居登に馬韓の辰王の協力の元の建国した「加羅国」、五男・玄に「扶余国」を任せて、残る四男と六~十男迄を率いて日本に旅立ったといいます。この残った2人の子息が金海金氏、金海許氏の祖という。

この許黄玉との話は、天界から降臨したニニギノミコトが笠沙の岬でコノハナサクヤ姫(木花咲耶姫)と出会って結婚した話と似ています。どちらも天から降臨しており、出会いも水辺であり、出遭ったその日に結ばれています。その後、この2人から海幸彦、山幸彦が生まれます。

つまり、木花咲耶姫インド人だったのです。
インド人もビックリな話なのですw

コノハナサクヤ02
(コノハナサクヤ姫はこんな感じだった)

天孫降臨伝説、木花咲耶姫との結婚秘話、、、、

このことから、ニニギ=首露王となりますね。



■扶余依羅
扶余国は346年には文明帝・慕容によって国を破られ、410年に高句麗に併呑され滅亡したという歴史を持っていますが、実は285年にも前燕の慕容廆に侵攻を受け、扶余国は潰滅的な打撃を受けて扶余国王「依慮」(イラ)は海に投身自殺したといいます。王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の「依羅」(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建したとなっています。

しかし、高句麗系の史書『朝鮮史』では、この時、依慮王は海を渡ったとある。渤海国の起こりは高句麗となった旧領土を回復し扶余の伝統を継承したとなっていて、渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係であるというのです。

■朝鮮史
依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。

百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする。


これはどういうことなのか?

神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈しましたが、そこには日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べられており、高句麗と靺鞨(まっかつ・ツングース系部族)で共立した渤海国は日本の王統を扶余の王族の末裔とみていたことが示されています。これは国書に記すだけの<確固たる根拠>があったということです。

語り部はいいます。

初期大王家その子扶余依羅[フヨイリ]は、馬韓の辰王の協力の元加羅建国し、長男居登に、五男[五瀬モデル]玄に扶余国を任せる。倭人と夷人で三王朝を組む邇波国の邇波氏を頼り遣いを送り交渉新三王朝の取り決めを交渉成立させると邇波氏は水軍を率いて金海に到着四男と六から十男迄率いて日本へ。

初期王君族の上陸地点の古伊勢湾は元々イヒヤと言い縄文人語で神拝所である。現在の日本に騎馬民族の倭旨[崇神天皇モデル・事績の大半は、倭武・・応神天皇。倭智・・天智天皇。桓武天皇。]を誘致、馬を搬送し美濃王垣より上陸。[古伊勢湾に面した山を香具山とする。国見山は、海人の上陸地点の見えるところに無ければ意味を成さない・・天の神ヤハゥエ[八幡]に鹿の犠牲の香りを捧げる山である。神武記の伊勢の大岩がこれである。現在の岐阜県多治見市富士見町弥勒山]北陸道を邇波道主兄弟三国稚子を騎馬民族入国告知使者に、道主の子多加利足尼を東海道へ派遣。

347年頃9月から進軍10月15日未明邪馬台国壊滅。残党は、吉野ヶ里で最終抵抗し鎮圧して、凱旋翌年5月。伊勢の夫婦岩もこの時期しめ縄交換。この時期の祭りは邪馬台国滅ぼした記念。恭順した者に日田を与える。



つまり、大国主系(アイヌ)の招きによって長男・登居を「金官加羅」の王、五男・玄を「扶余国」の王として半島に残した状態で、次男~四男と六男~十男までを率いて日本に船で渡ってきて、美濃大垣に上陸したのだという。これが金船(貴船)=宝船の起こりで、七福神の伝承となった。

また「扶余国」に残した五男・玄のことは五瀬命の伝承として残っているという。

五瀬命はウガヤフキアエズと海神の娘であるタマヨリビメの長男として生まれたとなっています。弟たちとともに東征に参加したのですが、なかなか上陸出来ずに紀州からの回り込みを提言した。しかし、和歌山市竈山紀国の男之水門に着いた所で射られたときの傷が悪化し絶命した為に日本に上陸できなかったといいます。

う~む、ということは、、、、

ウガヤフキアエズとは、扶余依羅(イリ)のことであり、ウガヤフキアエズ朝とは扶余国での王朝歴史のことであったとなりそうですね。

ちなみに、半島南端には「任那日本府」があったといいますが、「日本」という国号は大宝律令の頒布された七世紀に入ってから起こった名称であり、それ以前に「日本」という言葉があったわけではなく、記紀の成立した時に後付けされたものでしょう。「任那」は朝鮮語では「ニムナ」となり、「主(あるじ)の国、または君主の国」という意味になります。そして任那は伽耶国の一部であり、実は「金官加羅」ではないかとも言われています。また任那近郊には前方後円墳が多数存在していたことから、ここが日本と何らかの深い関係があったことは確かなことです。そして「任那」は別名「任那官家」とも称されていたことから、「君主(初期大王家)の祖国」という捉え方が正解でしょうね。
※註 扶余のトーテムが鹿であり、騎馬民族スキタイも鹿をトーテムとしています。物部氏が奉祀した鹿島神宮が鹿を「神鹿」として扱っていて、また鹿島神宮の神々を分奉した奈良の春日大社も大々的に鹿を飼っています。「扶余」とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われ、物部氏と扶余族もつながりが深いのではないかといわれていますが、語り部によると物部氏は「倭旨」の六男・得玉が興した王治(尾張)氏の傍流(王治坂合からの枝別れ)であるということから、非常に適切な指摘であると思います。

大坂住吉区には、住吉大社に次ぐ社格の「大依羅神社」(おおよさみじんじゃ)がありますが、ここはこの地方の古代豪族・依羅吾彦(よさみのあびこ)の祖神である建豊波豆羅和気王および住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命というオリオン座の三ツ星の神格化)を祭神としています。尚、依羅吾彦は我孫子氏の祖でもあります。語り部はここが「扶余依羅」と蘇我氏の祖「邇波依網」を祀る神社であるという。

以上の洞察から、、、、、

倭旨=首露王=扶余依羅=ニニギとなり、語り部の語る内容は全くもって正しかったのです。語り部は凄いのだw
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Comments

No subject

堺=サカイ
大阪=サカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AB
スキタイからきてる名前なんでしょうか。

ちっちさ~ん♪

コメントとありがとうございます!
語り部は、残念ながら、大坂、堺とスキタイの関係については何も語っていませんねぇ。

「サカ」とは一般的には知られているのは「傾斜地」という意味ですが、語り部によると尾張氏の元姓である王治氏には「王治坂合」という人物がいて、この「坂」(サカ)はスキタイの意味であり、「合」(アイ)は「矢」の意味だといいます。つまり、「坂合」(サカアイ)とは「スキタイの矢」という意味になり、この騎馬民族由来の弓矢部隊を率いたのが物部氏の祖である王治坂合だというのです。

「大阪」は江戸時代には「大坂」、その前の戦国時代には「尾坂」「小坂」と書かれていたといいます。これは秀吉が「小」の字を嫌った為に「大」に変更したとも言われていますが、既に室町時代に蓮如上人がこの地を「大坂」と記し、石山本願寺(後の大阪城)を築いているので「大坂」は古くから呼ばれていたことが分かります。多分、日本書紀に出てくる「大坂神」がその語源ではないかと睨んでいますが、それを裏付ける文献は今のところありませんw

この大坂神というのは、西の守りを受け持つ神(三輪山を中心に西が大坂神、東が墨坂神を配置)であることから、平安時代に京都から西の方向である現在の大阪が「大坂神」を祀った方向から「大坂」と呼ばれたのだろうと睨んでいます。ちなみに語り部は、「難波」は邇波氏(出雲アイヌ王朝)を破るのが難しかった場所から「難邇波」→「難波」となったと語っています。

語り部は語っていませんが、ヤッズ★はサカ族とスキタイの関連はこう考えています。

「第一次バビロン捕囚」でイスラエル王国からアッシリアに連れ去れたヘブライ人ですが、その後、騎馬民族スキタイがアッシリアを滅ぼしています。ヘブライ人も実は遊牧民族であり、スキタイとは近い生活風習を持っていた為にアッシリア滅亡後はスキタイと合流したと思われます。

これがスキタイ・サカ族です。

このイスラエル支配勢力とスキタイ騎馬民族の連合体は、シルクロード各地で植民活動を行い、パルティア王国、クシャン王国も建国しています。その後、スキタイ文化は中央アジアからモンゴル、華北にまで影響を及ぼし、タタール、突厥、匈奴等の遊牧騎馬民族国家を発生させています。スキタイのことをペルシャでは「サカ」、ギリシャでは「サカイ」と呼んでいて、これを中国では音訳して「塞」(サク)と書いた。

古代以降、コーカサスに住んだ金髪碧眼人種のサカ族やスキタイ族というのが、実は今の「アシュケナージ系ユダヤ人」と「北欧バイキング」の共通の祖先になるのだといいます。このスキタイやサカの「SK」が後の「アングロサクソン」のサクソン(Saxon)となり、「ゴールドマンサックス」の「サックス」はここに繋がってくるのです。また、古代ヘブル語で「アーリアン(優れた人)」とは「シュメールの神のような人=優れた人=ヘブライ人」という意味であり、それが、後の「金髪碧眼の人」を意味する「アーリア人」となったという。

コーカサス地方から東方へと移動し、紀元前一七五年に中国国境へと到達したスキタイ人(アーリア人)の一派は、サカ族として知られるようになった。この頃の中国の記録には、インドヘの避難を余儀なくされたソク-ワン族のことが述べられている。ソク-ワンとは「サカ族の王侯たち」という意味である。記録によれば、サカ族は、険しい山道を抜けて、アフガニスタンからインドへと避難したという。紀元前一○○年頃に発行されたコインから判断するに、サカ王国は、インダス川上流、カシミールとアフガニスタンのあいだにあったと考えられる。また、世界宗教たる仏教が生まれたのも、サカ族(アーリア-スキタイ人)の支配地域からであった。紀元前四六三年にブッダが生まれたとされる地域は、紀元前五○○年頃までにはシャカ族(サカ族)の支配地となっていた。ゴータマ(ブッダ)は、シャカムニ、すなわち「シャカ族の教師/獅子」と呼ばれていた。

これだと釈迦もイエスも金髪碧眼となる、、、、、今の学会の意見と180度異なる見解になってしまいますね爆)。でも、本当はコッチが正しいみたいです。

更に「スキタイ・サカ族=金髪碧眼」となれば、これが日本に入ってきている。しかし残念ながら、遥か昔にスキタイ系の初期大王家は滅亡してしまった為に確認のしようがありませんね。まぁ、今の皇族(百済系)にも少しだけスキタイ・サカ族(カド族)の血が入っている筈ですし、実際、三笠宮殿下の顔立ちはとても欧風ですので、この話も頷けるかな~

余談ですが、語り部によると邪馬台国を滅ぼし継承したスキタイ系の初期大王族は、邪馬台国(ヤムトェ)から音の似ている大倭(ヤマトゥ=ヤハウェの民)へと王朝名を替え、そのまま大和に居たといいます。しかし、半島からの攻撃防衛の為に出雲王朝から請われて九州大宰府に「大倭」を遷都。その後、再び近畿に戻ってきたのですが、その際には大阪府河内に「大倭豊王朝」を開朝したといいます。これが河内に天皇陵墓が多いことや河内が物部王国とされる理由です。
(※註 物部氏…初期大王家二代目「倭仁」の兄「得玉」の家系・王治(尾張)氏の同族枝族。初期大王家の軍事・警察・神祇を一手に司った。ちなみに石上神宮は物部氏の武器庫。)

記紀の記述では物部氏は、、、、

物部麻佐良-物部麁鹿火(荒甲)-物部伊除ヲ弗-物部目-物部荒山-物部尾輿-物部守屋

となっていますが、
一方、語り部系図では、、、、

倭嘗-得玉-王治弟彦-金-王治坂合-物部目-荒山-王輿(尾輿)-多治見(多治髪・守屋)-片野田-薦何見-櫛麻呂-弓削道鏡

物部伊除ヲ弗(イコフツ)=王治坂合(サカアイ)となってしまうが、、、、
この辺は今後の勉強課題です。

はいハイ

マァ、勉強になったョ。
ようするには、盗っ人、殺人者の系譜。
悪人の系譜だわね。

神は帳面につけてるらしいけど(笑

No subject

とっても詳しい説明ありがとうございます。
私達の祖先となるとスキタイになるのかなと有耶無耶に認識してたんですが、
< 今もよくワカランですが(^_^;) >
このスキタイの祖先さんはいつ、何処からやってきたんでしょうか?

No title

はじめまして。難しいですが大変興味深いですね。釈迦族の発音はSakyaサクヤ?と書きますね。ところで明治維新はサカ族王朝(神武?)復活ではないでしょうか。坂本龍馬は蘇我氏・紀氏系の坂本臣らしいですし、長州藩は毛利家(モリヤ=イスラエルの聖地)だったりして。フルベッキはユダヤ人で、しかも日ユ同祖関係の書物にたくさん目を通していたそうです。サカ族はイサクの意味ですか?Saxon(Issac's son)の方はそうだと思いますが。モリヤ山はイサクの生贄が行われたところです。(守屋山近くの諏訪大社でイサク物語と似た行事があり、鹿を捧げるそうです)

No title

毛利家の始祖は天穂日命ですよね。ユダヤの神は、ダビデの血筋を必ず残すと約束したんですよね。王室としていう事だったら、日本の天皇家のY染色体ぐらいしかないんじゃないですか?日本の王朝交替の歴史は、反イスラエルに邪魔されてきたという事では?出雲=エドムとか。

サムエル記(下)7:16~
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%A8%E3%83%AB%E8%A8%98%E4%B8%8B%28%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%29#7:16

かごめの歌は、明治以降から歌詞が変わったそうなので、誰かが王政復古を歌ったのかもしれません。亀甲萬の野田市発祥ですね。夜明けの晩は「八日の晩」というバージョンもあり、日付も合ってるようです。

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