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ハティクヴァの改新

ハティクヴァ(Hatikvah)とは、ヘブライ語で「希望」を意味しますが、実は、これが「大化(タイカワ)の改新」の元言葉だと語り部はいいます。

ちなみに、「ハティクヴァ」は現イスラエル国歌でもあります。

心に秘めて今もなお
ユダヤの魂が呼んで
そして東方の岸へ 東へ
目がシオンを目差している限りある
我々の希望はまだ失わなかった
2千歳の希望は
自由なる民として
シオンとエルサレムに暮らすこと


なんか東にある日本へ攻めてきそうな感じです(汗)。
※註 まぁ、実際、カド族やらエフライム族やらが、太古日本に次々とやってきたわけだが、、、、シオンとは「祇園(ギオン)」で、エルサレムとは「平安京(エル・シャローム)」のことを指しているのだろうか?

前々回、「聖徳太子=聖武天皇」という誤り(本当は高向王だった)に続き、語り部の語る「壬申の乱後大化の改新」という内容を「乙巳の変」の前に「壬申の乱」があったと勝手に拡大解釈してしまい、大変な間違いを犯したままで記事を書いてしまっていた(汗)。最近、このことに気付き、もう一度記事を書き直しているところです。前回の聖徳太子の件といい、我ながら読みの浅さを反省するばかりです。
※註 「乙巳の変」と「大化の改新」はワンセットだという観念から抜け出せず、語り部のいう「大化の改新の前に壬申の乱」を「乙巳の変の前に壬申の乱」と拡大解釈してしまっていました。完全なストコーマ(盲点)でした。

正史では、、、、

・乙巳の変(645年)
・大化の改新(646年)
・白村江の戦い(663年)
・壬申の乱(672年)
・大宝律令の発布(701年)


の順番に起きていることになっていますが、語り部が語る真実の歴史では、、、、

・乙巳の変(645年)
・白村江の戦い(663年)
・壬申の乱(672年)
・大化の改新(681年???)
・大宝律令の発布(701年)


の順番であるという。
語り部は「壬申の乱」の後に「大化の改新」だというのです。
※註 「大化の改新」嘘(潤色)説は、語り部だけでなく、いろいろなサイトでも記述されています。

「乙巳の変」で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が、蘇我入鹿を誅殺(クーデター)して、再び百済系の政権とし百済救済に向け「白村江の戦い」に突入していったわけですが、この戦いで唐・新羅連合軍に大敗を帰した結果、百済難民が日本に押し寄せてきた。665年には唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国したというが、大宰府が「筑紫都督府」となっていることから、一時期、九州が唐または新羅の支配下にあったことは間違いないです。
※註 「乙巳の変」は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説もあります。近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されて、中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなるからです。また、日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになったわけです。この説では皇極天皇の退位の理由や入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由などの疑問点も説明できるため注目を浴びている。しかし、語り部は中大兄皇子と鎌足(百済豊)で間違いないと語っています。入鹿と中大兄皇子が基本政策(=仏教護持)が似ているように見えますが、それは記紀でそう書かれただけであり、語り部情報では入鹿(鞍作毛人)は、実は聖徳太子と同じく仏教排斥派で百済救済反対派です。記紀ではこの両者ともに推進派とされていますが、実際は全く逆であった。

乙巳の変

また、半島においても戦後、唐が新羅に対して政治的圧力をかけていた為、新羅は旧高句麗の遺臣らと共に反唐蜂起を行った(699年)。結局、新羅は再び唐の「冊封」を受け和睦成立。唐軍は675年に半島から撤収し、これで新羅の半島統一が成立したといいます。

こういった背景のもと、後期天皇家(下宮)の天智天皇は鷹狩りの最中に暗殺された。次期天皇を巡って大友皇子と大海人皇子(天武天皇)の間で「壬申の乱」が発生するのですが、乱発生前に新羅系の初期大王族大海人皇子は道教修行と称して吉野に行き、そこで敗戦処理で乗り込んできた新羅と百済政権奪取の密約をし、東国に散在する初期大王族に近い豪族を結集して三河を主戦地とした日本を二分する古代国内最大の内戦を起した。これが「壬申の乱」です。
※註 記紀では主戦地は琵琶湖周辺になっていますが、ここでは語り部の説をそのまま採用

「壬申の乱」に勝利し皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制で新たな国家建設を進めていった。天武天皇は遣唐使は一切行わず、その代わり、新羅から新羅使が来朝するようになり、また新羅への遣新羅使も頻繁に派遣した(天武治世だけで14回)。新羅との蜜月振りを伺わせる内容です。その後、大宝律令で「日本」という中央集権国家が完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、唐との国交を回復した。
※註 「壬申の乱」の敗戦で天智天皇の近江朝は滅び、都は再び飛鳥に戻ってきた。しかし、語り部は天武天皇はこの飛鳥の地から三神山のある三河新城に都を移そうとしたが、ある理由で遷都を断念したという。

その後、天武→文武→聖武→孝謙/称徳(女帝)と続いた初期大王家(上宮)の政権ですが、それまでは、おとなしくしていた百済系大王家(下宮)は忠臣・藤原氏を使って「長屋王の変」という藤原四兄弟の陰謀で長屋王を自害させて初期大王家(上宮)を滅亡させたのです。これで下宮(後期大王家・百済系エフライム族)は再び政権の地位に返り咲いたのです。

記紀にあるように「乙巳の変」の直後に「大化の改新」とすることで、後期大王家が「日本」という中央集権的国家を作ったという大業績を横取り出来ますね(ニタリ)。

でも、本当にそうでしょうか?
一応、それらしき証拠を挙げねば、単なる妄想になってしまいますが、実は、大化の改新の年代疑惑は以下のことからも明白なのです。

「薄葬令」施行の怪
大化の改新の内容の1つに「薄葬令」がありますが、発布した当の孝徳天皇が654年に崩御したにも関わらず、「薄葬」(=葬儀に7日以上掛けてはダメ、古墳もダメ)されていません。火葬という「薄葬」された天皇は703年に崩御した持統天皇が最初なのです。

詔発布日が春正月一日(甲子朔)の怪
正月一日に詔を出す事は無く、よって「大化の改新」が646年というのも怪しくなる。

「地方名表記」の怪
藤原京出土の木簡には、各地の地名を現すのに「」という文字を使用していました。この「評」とは唐の「柵封(文書において中国皇帝と君臣関係を結ぶこと)」に関連する言葉であり、唐の直接支配ではないにしろ新羅の支配下にあった可能性が高いのです。つまり、646年に大化の改新が発布され中央集権国家「日本」となった筈なのに、何故か柵封支配下の状態である「評」という言葉が引き続き使われていたのです。
※註 大宝律令後、それまでの「評」から「郡」に切り替わり、軍隊動員の役割の「評造」も廃止された。本居宣長や白鳥庫吉は「評」という字や「こおり(こほり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するとする説を唱えていました。つまり、大化の改新が646年に発布されたのに、全く実情が伴っていないということになり、本当に646年に発布されたのか?ということになってきます。

「元号」の怪
645年に大化、その後、白雉、朱鳥と元号がありますが、元号が飛び飛びであり、また元号が無い時代も存在します。実際に元号が定着したのは大宝元年からであり、それまでは「乙巳の変」のように干支による表記だった

※註 冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来るとありますが、大化、白雉、朱鳥...等の元号は他国の元号ではないかということです(ニタリ)。ただ記紀に記すにあたり中国と全く同じだとあまりに露骨なので、多少変えたという感じでしょうか? 語り部によると、天武天皇の下に「大化(タイカワ=希望の意味でヘブル語)の改新」としたのだというが、、、、

大宝律令とは、日本史上初めて律(刑法)と令( 行政法)がそろった本格的な律令ですが、天武天皇により制定の詔が出て701年に発布されたといいます。この律令の制定によって、天皇を中心とした二官八省の官僚機構を持つ中央集権統治体制が成立したといいます。大宝律令の以前以後でその違いを書き出してみると、、、、
※註 689年頒布の「飛鳥浄御原令」はその先駆け

■Before大宝律令
・「評」制
・「干支」表記
・政治は口頭でやり取り
・豪族私邸で政治
・豪族が軍隊動員可

■After大宝律令
・「郡」制
・「元号」表記
・政治は文書でやり取り
・二部八省をつくり、そこに役人が出向く政治
・朝廷のみが軍隊動員可

これをみても分かるように、大宝律令によって日本が国家として成立したのです。
※註 一代前の天武天皇の崩御が686年なので、この天武天皇崩御から持統天皇崩御の間の687年~702年間に、大化の改新の内容の1つ「薄葬令」が頒布とされたのだろうと推測できます。天武天皇が「大化の改新」の詔を発したとすれば、生前の686年以前となります。天武天皇から律令編纂制定の詔が681年に出ていますが、この681年が「大化の改新」の詔の出た時だと睨んでいます。この詔の成果が689年頒布の「飛鳥浄御原令」であり、701年頒布の「大宝律令」なのではないでしょうか。

ここにおいて、日本の官僚制は発祥したのです。

日本の国体とは「天皇制」ではなく、実は「官僚制」なのです。天武以来の藤原氏が牛耳る官僚権力を簒奪・無力化しようとした欧州「金融屋」の意を受けた小沢氏を、米国支配層の「石油戦争屋」によって戦後の日本統治を引き続いて与えられた藤原北家末裔(公家)を求心力とする閨閥ネットワークが大々的なネガティブ・キャンペーンを張り、過酷なパッシングをしたというのが本当のところではないしょうか!

■今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_c27f.html
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Comments

ワクワクしますね

いつも楽しく拝見してます。

副島隆彦さんは、聖徳太子は蘇我入鹿だとおっしゃっています。
時代的にズレがあると思ってたのですが、大化の改新が681年ならありうるかも・・・と思った次第です。

下記URLの途中にポロっと書かれてるのですが、会員ではないので詳細は見れませんでした。
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1388

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