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封印された神を解く(2)

前回の記事で、語り部は八咫烏は鵜飼であり、徐福子孫のことだというが、、、、八咫烏を調べていたら、ベンジャミン・フルフォード・ブログのコメント欄に気になる書き込みがありました。どうも知人に聞いた内容をメール転写したとのことですが、、、、

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「……私が聞いた名前「表雑賀。渡来天皇を≪大和≫へ先導した部族で、頭は≪川端≫姓と聞いた。
今も昔も400数十軒在る由。ただしヤタカラスともいう。
結社の内容は、皇統奉公衆と呼んでいる結社と全く同じである。
明治時代までの天皇とは北朝の閑院宮系の光格王朝で仁孝、孝明と続く。
これを守護したが、大室が天皇になり、東下したので、孝明系の堀川辰吉郎が裏天皇になり、その守護に。

之に真贋在り、真は天照彦を奉じて修験者なので吉野。
贋は須佐男を奉じる大江山霊媒衆という。
神社に関係あり宗像が核。
皇統堀川の裏天皇に従うは、京都社寺勢(本願寺から大徳寺)、大江山霊媒(大本から学会)、杉山茂丸の玄洋社(黒龍会はその一部)、薩摩ワンワールド(土佐も入る)、公武合体の徳川(会津、紀州)が主流。……」です。

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知らない言葉のオンパレードです(汗)。
ここからドンドン日本の闇の世界に突入していく感じです。
でも、ひとつひとつじっくりと洞察していきましょう。

まずは表雑賀からです。 つまり、これは雑賀衆です。
裏の世界は決して表に出れないのですが、その唯一出た歴史が「雑賀衆」ということでしょうか?

昔から吉野には中央権力とは一定の距離を置き完全な支配下にならない自治的集団がいたといいますが、武家を君主とすることなしにずっと支配を受けずにいて、戦国時代には各武将に請われて傭兵をしていたといいます。それが「雑賀衆」です。何故、このような特権が許されたのでしょうか? 自衛的武力を保持していたからでしょうか? ならば何故その武力保持が許された? その理由は地の利もさることながら、そこにはきっと太古からの取り決めがあったと睨んでいる。

雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち
敵にすれば必ず負ける


と言われる程に恐れられていたといいます。紀伊半島の南側は伊勢~吉野~和歌山を貫く中央構造線という深いV字谷に阻まれた天然の要害となっていたためか、中央からの関与を受け難い土地であったと思われます。雑賀庄は紀ノ川沿いにありますが、ここは瀬戸内海と太平洋を結ぶ海運に適した土地でもあった為、古くから漁業や貿易業などが盛んに行われ、山や森や海で働く人々の職人達組合のようなものが出来ており、その代表者によって運営された「共同体」的な様相を呈していたといいます。それが「雑賀衆」です。このように雑賀衆は小勢力の総称であり、戦国時代には敵味方に分かれることもあるように、それぞれが独自に行動していたといいます。

この紀伊半島南側は、鯨漁で有名な「太地」や九鬼水軍、熊野水軍があり、航海術の蓄積はかなりのものがありますので、大陸との貿易もかなり手広く行なっていたと思います。

実際、雑賀衆は種子島銃2丁のうち1丁を早いうちから入手して量産に成功していたという。これは共同体内に優秀な鍛治集団がいたことと、日本では一切産出しない鉄砲の弾の火薬となる「硝石」を海外貿易を通じて入手出来る立場にあったからです。このことで和歌山が日本一の鉄砲生産となったのです。これが雑賀衆が戦国最強の鉄砲傭兵集団となり得た背景ですね。

織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破った際の3段構えの鉄砲術がよく知られていますが、実は本願寺(一向宗)と信長との10年に渡る戦いにおいて、既に雑賀衆は2段構えの鉄砲術を使っていたのです。こうしたハイテク傭兵集団も信長や秀吉に危険視され、各10万もの兵力によって滅亡したという。

この雑賀衆の鉄砲頭として有名なのが雑賀孫市です。
この人物は鈴木家の者であることは確定しているのですが、誰かまでは分かっていません。

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で、この鈴木家の家紋が八咫烏なのです。
雑賀衆が神武をヤマトに導いたヤタガラスの末裔ということなのでしょうか?

この穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で神官を受け継ぐ家系であるといいます。ということは、もともとの出自は熊野ということになりますね。しかも、この鈴木氏は三河が支流になるのだという。この熊野と三河の深い関係は徐福の話を彷彿とさせます。
※註 徐福本隊は熊野から三河の地に移り、そこに大漢国(君子国)、扶桑国を作ったとされる。これが豊葦原瑞穂の国

ヤタガラス
(雑賀孫市の八咫烏)

■雑賀衆と雑賀孫市
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm

また、雑賀衆の近くには鎌倉期から南北朝時代にかけて隆盛を極めた紀伊国北部の「根来寺」を中心に居住し鉄砲で武装した僧兵集団である「根来衆」という勢力も存在していた。

根来漆器
(漆器は根来が発祥の地。僧兵が日常使いの為に生産していた)

さてさて、この雑賀衆ですが秀吉によって完全に滅亡させられたわけですが、独自判断による小集団であっために秀吉側に付いていた集団もいる筈です。しかし秀吉は刀狩や太閤検地を見れば分かるように共同体的な彼らとは大きく思想が異なる為に、彼らが邪魔者として映ったのでしょう。秀吉の朝鮮出兵時に加藤清正軍の先鋒隊として配されたのです。この日本軍の侵攻に「大儀なし」と3000人が朝鮮王国側に寝返ったといいますが、この武将が「沙也可」と言われる者です。そして彼の率いる精鋭100名の鉄砲隊が活躍し、豊臣軍撃破に最大の貢献をしたといいます。「沙也可」はサイエカと発音し「雑賀(サイカ)」に通じることから、「沙也可=雑賀」はほぼ間違いないことだと思います。
※註 まつろわぬ民とも言われる技能集団「サンカ」もその名から「雑賀」と関係が深いと睨む。

雑賀衆はもともと、朝鮮半島からの日本へやってきた鍛冶を生業とする渡来人であったとも言われ、朝鮮半島と繋がりの深い里でもあった為、敵(朝鮮)側にもスンナリ受け入れられたのでしょうね。

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徳川御三家のひとつに紀州徳川家がありますが、江戸幕府がここを押えとして親藩を置いた理由がわかろうというものです。また紀州は日本を縦断する中央構造線の中央にあることからも、この街道を行き来する日本の裏社会を制する地でもあったのです。その一大中心地であり情報センターの役目をしていたのが吉野なのでしょう。

語り部によると、大海人皇子(天武天皇)は道教修行に行くという口実で都から吉野に脱出し、そこで「新羅」と密約をして、東国豪族を束ねて約束通り「壬申の乱」を起したのだという。また、その主戦地は記紀でいうような琵琶湖周辺ではなく、三河の地であったと語っています。
※註 記紀には東国、特に尾張の兵が多数味方したことと、美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したことが記されている。長野県下伊那郡阿智村の「安布知(あふち)神社」は、明治時代迄「新羅明神社」であり、祭神は現在も「新羅大明神(須佐之男命)」になっています。古代の信濃は「壬申の乱」の際には大海人皇子を支援し、美濃の後方部隊として兵力供給を行ったといわれており、いわゆる新羅系渡来人と関係の深い土地であったようです。長野県下伊那郡駒場村之内曽山に白髯神社(白髭神社)がありますが、これは「シラギ」の別称で新羅神社であるといわれています。岐阜県多治見市や静岡県浜松市にも新羅神社が存在しますので、東国は新羅と非常に関連が深いことが分かりますね。まぁ、語り部によれば初期大王家(カド族)は扶余系(新羅)になるわけで当然といえあば当然ですがw 事実、新羅の黄金王冠は鹿の角と木を形相化したスキタイ文化の影響を受けたものと言われていますし、どちらも金キラキンが好きなのです。新羅には騎馬民族スキタイの流れをくむ「積石木廓墳」クルガンもあります。また百済・高句麗にはないローマングラスが大量に出土することから、ユーラシアを横断してきた民族であることは明白なのです。つまり、新羅=スキタイということです。朝鮮に帰順した「沙也可」の子孫住むのは大邱(テグ)であり、かつて新羅であることも納得のいく話ですね。

新羅との密約???

一瞬、頭が混乱してしまうような内容なのですが、古くから大陸と貿易していて簡単に硝石を入手出来るような立場にあった雑賀を擁した紀州なら有り得る話です。しかも、天武天皇は初期大王家であり、騎馬民族スキタイという新羅系でもある。天智天皇が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に破れ、日本は一時期、新羅の支配下に置かれた筈です。その証拠に九州大宰府が「筑紫督都府」と呼ばれたからも明白です。更にこの初期大王家とヤタガラス(徐福子孫)との関係からも、上宮(飛鳥)の後配地・吉野が昔から道教・新羅系の参謀センターになっていたことは充分推測できます。
※註 語り部によると、初期大王家は道教を奉じており、琉球の伊平屋島を経由して、三河にある漢民族傍系「大漢国」(君子国)の東海三神山に遠くない古伊勢湾を北上して美濃王垣(大垣)に上陸したという。

※註 天武が発した大化の改新で国内は郡制度に移行したが、何故か吉野と和泉は「郡」なく「監」となった。この「監」は特別な自治権が認められた地域です。またこの両地域とも渡来人の有力豪族が多い地域というのも共通しています。持統天皇はこの吉野に呼ばれるかの如く31回の行幸をしています。まるで終戦後に天皇がマッカーサーやGHQに呼び出された如くw


吉野が道教のメッカであるというのは、中国渡来の徐福が道教を信仰していたことからも、熊野古道で熊野に通じる吉野が道教と関係が深いのは不自然ではありませんね。吉野は仙人の住む姑射山(こやさん)のようだとも称され、特に斉明、天武、持統朝の宮「吉野離宮」が営まれた吉野の宮滝は「神仙境」とされていますが、こういう表現自体に道教の影響がモロ見えです(爆)。

吉野宮滝
(吉野宮滝)

また吉野近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり、吉野でも水銀朱が採れました。この水銀朱は加熱すれば水銀ができのですが、水銀朱は道教でいう不老長寿の薬とされ、「聖なる水」-水銀朱の混ざった水を飲むことで若さが保たれると考えられていたのです。また水銀を基にして作られる「丹薬」は不老不死の薬であるといわれ、空海はこれら水銀に関する知識を吉野で修得したのだろうといいます。

吉野には金峰山寺という修験道の総本山がありますが、ここの総茅葺の蔵王堂(国宝)には「蔵王権現」という秘仏が祀られています。この秘仏、役小角が修行中に末法の時代にふさわしい仏様を求めて祈ったところ、まずお釈迦様、次に千手観音、次に弥勒菩薩が現れました。「乱れる世の中にはもっと強力な仏様が良い」と再び祈ると、大きな岩から、目が三つ、頭に三鈷冠、左手に剣印、右手に三鈷杵、青黒い身体で右足を上げ、忿怒相をした仏様の化身が現れました。これが蔵王権現です。起源がインドに遡れない日本オリジナルの神様だといいます。

蔵王SS
(ほぼ同じ三体ですが、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の合体であるという、、、、)

確かに、この顔の造作は今まで見たこと無い(非常に道教色の濃い造形ですw)、、、、「蔵王権現」の発祥は、神武天皇によって滅ぼされた大和の王、ナガスネ彦が殺され兄の安日彦が東北に逃れ連合体として東北王朝を築き、ナガスネ彦を祀ったものだという見解も近年有力な説とされていますが、どうでしょうか?
※註 ねぶた祭りにも「蔵王権現と役行者」という出し物があるぐらいに、東北では蔵王権現はポピュラーです。

元始天尊
(道教の「三宝」といわれる「三清」 道徳天尊・元始天尊・霊宝天尊)

蔵王権現
(ねぶたの蔵王権現)

語り部が語る内容では、役小角は蘇我入鹿の三男であり、九州・宗形神社の宮司となった、宗像氏の祖である宗形鳥麻呂だといいます。宗形神宮は三女神が有名ですが、どうも内容が一致しませんねぇ~w

そういえば、住んでいる近くの田原には「蔵王山」がありましたね。ここは平安朝末期に山上に蔵王権現、山腹に熊野権現を祭祀したことから、山を「蔵王山」、町を熊野ゆかりの「田原」と名づけたといいます。
※註 熊野神社田原郷

蔵王権現01
(「とったぞっ!」と右手を上に挙げ腰に手を充てる独特のポーズ)

南北朝時代中期に成立した説話集・神道書である「神道集」第六巻には、、、

■第三十二 吉野象王権現事
象王権現の本地は釈迦如来である。摩耶夫人の胎内に入った時、白象の姿であったので象王と云う。
権現として顕れた時は、本地は聖天である。聖天は真言教主の大日如来であり、その教令輪身の大聖不動明王であり、無明界の教主の荒神大菩薩である。

釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と称する。自性輪身は十一面観音である。教令輪身は愛染大明王である。その垂迹は麁乱神である。大魔王となる時は常随魔である。煩悩となる時は元品の無明である。総じて九億三千四百九十の王子眷属がいる。夫婦和合の姿で象頭人身の躰である。荒神として顕れる時は一面三目で二足の姿である。


多分、読みから「象王権現=蔵王権現」です。
この内容からは、現れる時の形態は違うのですが、、、、

麁乱神(ソランジン)=三宝荒神=歓喜天(ガネーシャ)=蔵王権現 ということです。


※註 「三宝荒神」は三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)の姿が一般的です。暴悪を治罰するという性質のために頭髪を逆立てて眼を吊り上げた憤怒の表情を示しています。火の神、かまどの神として知られています。また旅館業の人の信仰がいまだ絶えない荒神に、吉野の「立里荒神」があります。

※註 ガネーシャ(歓喜天・聖天)は、ヒンドゥー教から仏教に取り入られるに伴って、仏教に帰依して護法善神となったと解釈され、ヒマラヤ山脈のカイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属を率いて三千世界と仏法僧の「三宝」を守護するとされた。


さて、この三宝荒神ですが、、、、

修験道で役行者が金剛山で祈っていると艮(北東)の方に赤雲が幢のようになびいていたので、そのところにいってみると、宝冠をつけた六つの腕の神人がいました。右の手には独鈷、蓮華、宝塔をもち、左の手には鈴、宝珠、羯磨杵をもっていて、小角に告げて云うのには、「われはこれ三宝衛護の神として、世に呼んで荒神という。われつねに淨信修善の者をたすけて不信放逸の者を罰す、ゆえに人は荒乱神といへり…」そこで小角はその地に祠をつくってまつったということです。

三宝荒神は東北に封印されている、、、
つまり、、、、、

艮の金神(クナト神)=蔵王権現(三宝荒神)

だったのです。
以降、日本の闇の世界に続いていきます。
(つづく)
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Comments

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ヤッズさんこんにちは。
日本は結界だらけで封印されまくっていますが、役小角や安倍晴明達が結界だらけにして訳わからなくしているのではないでしょうか?
それも「ある時期」まで大切な物を守る為だったと思いますが、時期は熟している様に思いますが如何でしょうか?艮の金神も出て来ている様ですし・・・。
神様も大いなる集合魂がいろんな形を取って現れるので個々に判別して行くと迷路に入り込んでしまうのではないかと思います。読んでいてそんな感じを受けました。
面白いサイトがありまして神々の封印を解くヒントになるかと思いますので参考にしてみて下さい ↓
http://www.geocities.jp/yasuko8787/80707.htm

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