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誤解でショック!

今日、重大な誤りに気付いてしまった。。。。。

いままで聖徳太子=聖武天皇というように語り部の語る伝承を解釈して読んでいたのですが、実はコレ大きな間違いだったのです(大汗)。

これは元はといえば、「聖徳太子は実在の人物だよん。上宮のあの人、、、うふふ」と宣う六本木の巫女の言葉が頭に残っていて、巫女もこの語り部情報読んでるんだ、、、と早合点してしまっていて変なバイアスがかかってしまっていたのか?

正しくは、、、、

聖徳太子=倭聖(高向王)です。
※註 「聖」の字が間際らしいのですw 語り部は文中、単に「聖」と書く場合があり、しかも、倭聖の子供が天武天皇なので、聖武→天武→文武とスキタイ系の「武」が続くものと早合点してしまっていた。よく読めば分かったことなのだが、、、、

聖武天皇は初期大王家(扶余スキタイ・カド族)で間違いないのですが、聖武天皇は仏教守護の立場から倭聖大王が厚く信仰した景教の寺院を徹底的に破壊したとあるように、聖武天皇は「仏教守護者」であり、聖徳太子が仏教守護者という一般的に言われている内容と混乱してしまったのが原因。

語り部の説では、、、、、

「倭聖大王=景教守護者」なのですが、仏教を推進する舒明天皇との戦いに破れ、再起を賭けることも放棄し、自から進んで捕獲され、舒明天皇指示で毒殺後に「女々しい奴」として父・崇峻天皇と「藤ノ木古墳」に合葬されたという。倭聖の事蹟は「聖徳太子」という本来とは反対側勢力の「仏教守護者」に祀り挙げられ、更にイエスの誕生譚と絡めて架空の聖人として創作されたのだといいます。

正しい系図は、、、、

【初期大王家系図】(後の上宮家)

■大倭【大和・東加羅国】
倭旨(金首露・扶余依羅)→倭仁→倭讃→倭隋(平西将軍)

※註 中国化を怖れた出雲王朝が騎馬民族スキタイを招聘し、大和地方の邪馬台国を九州・吉野ヶ里まで追い込んで滅ぼし、その後、倭讃が三河にある徐福子孫の国「君子国(大漢国)」を東征し滅ぼす。

■大倭【九州】
→倭済→倭興→倭明→【百済の入婿・倭武(神武天皇モデル)に王権禅定】

※註 国土北上で気候変化。大国主族の西遷要求に応じ九州に遷都。

■新倭豊王朝【河内・南加羅国】…王権の再確立
→倭明(用明天皇・竹内宿禰)→倭峻(崇峻天皇)→倭聖(聖徳太子)→【毒殺】

※註 倭明は別名:浦島太郎ですw。これは大倭を一度閉朝して、その後、年老いてから上宮家を創設して再び王権を確立したエピソードからくるもので、浦島太郎が玉手箱を開け一気に老人になったという「寝覚め」伝説になったのでしょう。

■【三河・東ヤマト?】…百済系に奪われた王権の奪取
→倭建(天武天皇)→文武天皇→聖武天皇→長屋王→【滅亡】

※註 天智天皇の死後、天武天皇が吉野で道教修行と偽り都を出て、吉野でも密議(新羅が関与?)によって綿密に計画を立て、東国の豪族を味方に付けてシユウ(銅鐸の神・牛頭天王)の赤い旗を掲げて「壬申の乱」を起して勝利し下宮家から王権奪取。蓬莱山の麓の新城に遷都しようとしたが叶わず。聖武天皇の頃に伊勢湾隆起陸地化。

つまり、「倭聖」と「聖武」とは別々の人間だったわけです。
「壬申の乱」で政権を再奪取した天武天皇以降が、連続して「武」が付くのですね(汗)。

記紀の系図では文武天皇の子が聖武天皇なのに、天武の父というのはどういうことか?と一時期疑問に思ったこともありますが、その時には気付かなかった。。。。今は、ストコーマ(認識の盲点)が取れた状態で眼がスースーしています(爆)。

で、この誤ってしまった聖武天皇とは、一体何者なのか?

実は、文武天皇の子で「桜彦」という和風謚号持つ者です。下宮家(後期大王家)が初期大王家臣下化の為に持ち込んだ景教を上宮家・倭聖は信仰していたのですが、その子・天武天皇や聖武天皇は仏教を志向していた。上記の語り部が語る系図は、天武天皇以降ははぼ古事記系図の記述通りです。

う~む、もう一度頭の中を整理しながら、情報を読み解かねば、、、、
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