封印された神を解く(1)

まゆふる女史の「閉じ込められた神が動き出した?」シリーズに対抗して(爆)、「封印された神を解く」と名打ったシリーズ物の記事を書いていこうと思います。

現在の日本神道の神は、元々あった土着神(国津神)を移設封印や上書きして祀られていて非常に複雑怪奇な状態となっています。日本の場合、活躍のあった人や祖霊を神社として新たに祀るという特徴がある一方、封印され隠匿された神も数多くあるのです。例えば、、、

●東北に封印された日月神示の神「艮の金神」とは???
●縄文の水の神「瀬織津姫」とは???
●霜月祭りに登場する「天白神」とは???
●「賽ノ神」とは???
●諏訪を基点に信仰された「ミシャグチ神」とは???


今後、こういったことのついても考えていきたいと思いますが、それにはまず今の神道の神、とりわけ伊勢神宮の祭神は何なのか?という問題を解決しないと先には進みません。

この点を吟味したいが為に、いままで煩フルでは語り部情報が信頼性があるかどうかをアレコレと検討を重ねてきたわけです。で、今のところ、かなり信頼性があるという結論に到っていますが、、、、(ニタリ)

■邇波言壱著作 出雲王朝
http://www.pleiades15.net/history/niwa.html

で、今は語り部の語る内容に論拠を置き、稲荷は「INRI」、八幡は「ヤハウエ」を表していて、泰氏(アイヌ 出雲系)が滅ぼされた三河の大漢国(君子国)から製鉄(大漢国式製鉄とは高師小僧から製鉄する方法か?)、養蚕、機織、酒造...等の大陸由来の技術を継承し、全国各地でこの技術と引換えに「泰」の名前とこれら景教と古神道がミックスされた創作神道「稲荷」「八幡」を広めたという歴史観に基づいていろいろと考察を進めています。更に、他情報(ベラ女史のエピソード)から、伊勢神宮は内宮=イエス、外宮=ヤハウエが祀られた場所であると睨んでいます。

飛鳥昭雄先生も稲荷=「INRI」、八幡=「ヤハウエ」と全く同じ内容を語っていますが、異なる部分も多くあります。代表的なものを挙げると、、、

■泰氏は「原始キリスト教徒」の渡来人

■内宮=御子=ヤハウエ=イエス
■外宮=御父=エロヒム
■本宮(伊雑宮)=聖霊
(本当の伊勢神宮は「三身一体」で三宮一体)


としています。
しかも、これらの説は裏の陰陽道「迦波羅(カッバーラ)」駆使する秘密結社である賀茂神社に属する「ヤタガラス」が監修していて、内容的にも「OK牧場」なのだという(爆)。

このイエス=ヤハウエとする理由は、イエスが「私はある(I AM)」と言ったことから来ていますが、まぁ、これはイエスだけでなく私たちは創造神と繋がっていて不二不二の関係なので、そういう解釈も成り立つとは思いますが、問題なのは外宮の方です。これでは「エロヒム=聖書の神」とするラエリアン・ムーブメントと同じになっているw

失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎―裏神道の総元締め「八咫烏」が明かす封印された第三の伊勢神宮と天照再臨 (ムー・スーパーミステリーブックス)失われたキリストの聖十字架「心御柱」の謎―裏神道の総元締め「八咫烏」が明かす封印された第三の伊勢神宮と天照再臨 (ムー・スーパーミステリーブックス)
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飛鳥 昭雄三神 たける

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「エロヒム」はエルの複数形であることから、ヤハウエのような「根源神」とはなり得ないことと、旧約聖書のオリジナルは「エノク書」であり、ここに登場する天使の一部(200名)が「グリゴリ」と呼ばれる人間の女に子供を生ませた堕天使であることから、この堕天使たちが、多分、エロヒムの正体です。そして、彼らは宇宙人なのであろう。
※註 太陽系外には虚無な空間が広がっていて現地球次元には地球にしか人類はいないというオコツト説の信奉者なので、この「エロヒム」はきっと太陽系内の他惑星の「異次元人」でしょう。ニビル星人(アヌンナキ)という線も充分考えられる(爆)。

ですから、この図式は飛鳥先生の意図的な誤誘導ですねw
その行き着く先はラエリアン・ムーブメントと同じで、、、、、

最終的には宇宙人(異次元人)信仰となるw
※註 まぁ、カバラ教師はトーラー(モーゼ五書)に書かれたことは、この世の出来事ではなく上層世界のことであると断言していますから、エノク書も同じようなものかもしれません。

さすがモルモン教徒(飛鳥昭雄先生はモルモン教徒なのは有名)!!!。影の世界権力の尖兵FEMAの本部のあるソルトレークシティはモルモン教の本部でもあります。モルモンもNWOのコアな一翼を担っていると思います。かつて飛鳥昭雄先生は「全ての日本の神社は世界が破滅する前にモルモン神殿として機能するようになる。」と作品に書いていた程であり(ニタリ)、「エロヒム」を根源神にするあたりは、この2つの組織の密接な関係から伺える最終目標が、この特異な解釈の延長線上にあると睨んでいますw
※註 ヤタガラスの話には非常に重要な「多賀宮」が全く触れられていないことから、多分、飛鳥先生はヤタガラスに一杯喰わせられているのだろう(爆)。あるいはヤタガラスも架空の話(モルモン教の成済まし)ではないだろうか。ラエリアン・ムーブメントの開祖ボリロンは、1973年にエロヒムという宇宙人の訪問を受けて宇宙船に同行し、キリスト、仏陀、モルモン教の創設者ジョセフ・スミスと会ったということからも、ラエリアン・ムーブメントはモルモン教の別部隊だと睨んでいます。

また、飛鳥昭雄先生の情報の出処である籠神社宮司やヤタガラスの話にしても、あくまで体制側が構築した「勝者の歴史解釈」から逸脱しない内容であり、語り部のような蹂躙された側の歴史ではないのです。その証拠に、ヤタガラス情報は大和朝廷以前の歴史について語ることが出来ずにいて、あくまで万世一系的な世界観に集約されてしまっています。古代は縄文時代がそうであるように寡頭的な族長がこの日本を共同統治していた筈であり、ヤタガラス情報そのものに「?」マークが付きます。ですから、ヤタガラス情報からは、卑弥呼を比定することも出来ないし、卑弥呼以前の「倭の大乱」について述べることも出来ないでいます。ましてや徐福については、、、、当然ですね。

ヤタガラス自らの説明では、ヤタガラスは12烏(人)で構成されているが、実はこの「12」はイエスの12使徒の継承からきているのだという。かなり大胆な話です。こうなると日本に来たのは景教なんかじゃなく「エルサレム教団」ということになる、、、、事実、エルサレム教会はAD66年の「第一次ユダヤ戦争」でエルサレム陥落(AD70年)前にペラに集団移住し、その後、消息が分からなくなってしまったといいます。

その教団が日本に来ていたということか???
ならば、イエスの12使徒末裔の話もおかしな話ではない(汗)。
※註 実際にイエスの12使徒の継承ではなく、景教に書かれる12使徒伝承を取り入れただけのことだと睨んでいます。

ヤタガラス出自問題を解くことが、封印された神を解くキーの1つになりそうです。
しかし、語り部が語る「八咫烏(ヤタガラス)」の正体は痛快です。

語り部は、ヤタガラスとはスリーマンセル(3人1組)で行動する黒装束の「鵜飼」のことであり、翻って「徐福子孫」のことを指し示す言葉だと断言しています。

確かに、(からす)とは外観上もよく似ていますねw
鵜はカラスの弟分といったところでしょうか(爆)
※註 鵜はペリカン目・ウ科に分類される鳥類の一種で、この仲間は世界で四十三種類がいる。色が黒いところから「カラスウ」「カワガラス」と呼ぶところもあるようです。奈良時代からカワウ・ウミウを区別せず「ウ」「シマツトリ」等の名で知られていた。

鵜
(鵜飼に使う鵜は、日本ではウミウを使い、中国ではカワウを用いる)

しかも「八咫烏」の咫(あた)とは親指と人差指を広げた時の長さ(約18㎝)なので、8*18で約150㎝となりますが、八咫は単に「大きい」という意味を指しているといいます。つまり、黒装束の「鵜飼」は文字通り「大きな烏(鵜)」であったことを指す言葉だったのです。
※註 有名な「八咫鏡」も単に「大きな鏡」という意味になりますね。

奈良の熊野神社には、太陽の使いとして「八咫烏」が祀られていますが、熊野は徐福が最初に上陸して分け入った土地であり、大漢国(君子国)とは同族の地域です。その証拠になるか分かりませんが、熊野神社の祭神は「熊野権現」と呼ばれる「家都美御子大神(別名:熊野坐大神)」を始めとした三神や十二神を祀っていますが、これらの神は記紀のどこにも出てこない謎の神なのです。どうも日本の土着の神ではないようなのです。これらは徐福が持ち込んだ大陸系(道教)の神ではないかと睨んでいます。
※註 道教の最高神は「元始天尊」ですが、この右に「霊宝天尊」、左に「道徳天尊」(太上老君)を配した三神を特に「三清」(さんちん)と呼ぶ。この三神がそのまま熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の祭神(家都美御子神、牟須美神、速玉神)に相当するのではないでしょうか?

鵜匠
(これが「八咫烏」の正体だったのだぁぁぁぁあ~)

鵜飼は中国でも行なわれており、大和時代に中国から伝来したものとも言われていますが、文献的には日本の方が先行しているという話もあり、実はどちらが先かよく分かりません。日本の鵜飼は「鵜匠・なか乗り・とも乗り」の3人1組で船に乗るスリーマンセルで行動することから、後日、ヤタガラスは「三本足」として描かれたと語り部は述べています。

非常に納得のいく説明です。
まぁ、封印された正史を語っているというので、当然といえば当然か!(爆)

石巻山の参拝所である照山(別名:烏捕山)近辺には、かつて「鵜飼島」と呼ばれた「江島」という場所がありますが、ここが君子国での鵜飼のメッカだったのでしょうか。三河が「豊葦原瑞穂の国」と呼ばれるように葦が豊富に生い茂る地域であった為に、葦船を多く製作することが出来、鵜飼が君子国(大漢国)の代表的な生業になっていた可能性は高いと思っています。


(綱で繋がず自由な鵜と葦船を使った古式豊かな中国の鵜飼)

こういう流れから、「君子国の徐福子孫」→「スリーマンセルの鵜飼」→「三本足の大きな鵜(烏)」→「ヤタガラス」と呼ぶ様になったのでしょうか。初期大王家(騎馬民族スキタイのカド族)が三河の徐福子孫の「君子国」を攻撃した際、この鵜飼島を最初に押さえていますが、この地の民を支配下に置き補給基地として「君子国」との戦いに臨んだが、著しい飢餓状態となったが鵜飼島からの食料補給で勝利を掴んだのだという。この時の出来事が神武東征時に道案内した「八咫烏」の話として記紀に記されたのでしょう。

「古事記」の神武天皇の大和入り、吉野に到る部分の記述は、、、、

その八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌(うへ)を作りて魚(な)を取る人あり。ここに天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひ給へば、「僕は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)といふ」と答へ申しき。これは阿陀の鵜飼の祖。
※註 「阿陀」は吉野川沿いの奈良県五条市東部の阿田の古名だと解釈されています。「宇陀」があり、さらに「阿陀」がある。

とあり、土着の民(国津神系)である鵜飼の人たちを神武(イワレヒコ)傘下に組み込んだというストーリーになっています。

ますます「八咫烏=鵜飼」が濃厚になってきたw
※註 ヤッズ★が常時ウォッチしているトランブレーみゆきさんのブログ「三河高天原」を見てみたら、何とこの「八咫烏」のことについて洞察されていました。異なる説をメールで募集しているといいますが、ヤッズ★がこの数日間、八咫烏についてあれこれ悩みながら洞察して記事化していたのは、実は彼女の背後にいる神からの恫喝だったのかもしれん(爆)。ならば、メールしなくともきっとここに辿りつくであろうw

神武歌謡に「宇陀の高城に鴫罠張る 我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る」いう謡がありますが、この「宇陀の高城」とは、 神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城砦だといわれるものですが、語り部はこの高城は「烏の鳥屋」であるといい、烏=鵜であることから「鵜の屋(ウノヤ)」となるのでしょうか?

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東海三神山は弥生人の巡礼地となり古東山道は其の道である。弥奴国の橋島より古伊勢湾を下り文身国(後世日高見国)を経由し大漢国のエイ州、扶桑国の方丈、蓬莱(旧不死山、カルデラ湖。745年陥没し大被害。新城の海、エイ州の海後退)を回る。弥生人は、東海三神山の巡礼の為に本州に邪馬台国を建国した。(倭の大乱とは大国主族の毛野国との戦闘)

倭讃王君軍は、香具山で天神を祀り。春日山(邇波川上)で地神を祀り。貝津を上陸し、邇波彦佐須伎(佐野命)に先導され古伊勢湾の佐那伎山の麓の亀首を通り音羽山から大漢国を臨み和平交渉(統一国家樹立の為)当たらせます。王伴武持は鳥捕山の麓の邑で大漢国の首脳を酒宴の席に招きますが決裂し開戦になります。エイ州の南「烏の鳥屋」(鵜=烏。宇陀の高城。雲屋ウノヤ)に本陣を置いた大漢国軍に対し彦佐須伎は高倉山より指揮します。息子彌母里別が小部隊で敵の別動隊と衝突し彦佐須伎は敵別動隊を狭撃し勢い敵本陣を打ち崩し蹴散らし【烏を(鵜)を飼う人々。中国の歴史書にも東海畔に変わった烏の居る事が紹介されている。三本足の烏。黒装束の三人一組】ます。(鵜田切、宇陀切の地)北魏に救援依頼するが、救援軍辿り着けず。

エイ州の東、引佐山で決戦の際、食糧が尽き勝利が危ぶまれましたが、鵜飼島より食糧調達間に合い勝利を収めます。戦後倭讃王君は鳥捕山の麓に高千(仙)穂宮に居住し不老長寿の秘薬を研究し飲み体調を損ね内津の香具山に向かい草香島のケカチの水を飲み一時的に生気を取り戻しますが崩御します。内津より葬送。後世倭建天皇は、都を移す計画鵜をしますが挫折。不老不死の秘薬研究し部下にも飲ませ崩御。皇太子稚建天皇の不死原(藤原)宮はエイ州の麓に在り。不死山を臨む原。神カムイ氏拠点。


■世間話の掲示板(投稿日2010年1月23日)
http://8305.teacup.com/kasaburanka15/bbs
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「ヤタガラス=鵜飼=土着民=徐福子孫」という図式です。

また、大漢国滅亡後だいぶ経ってから、三河を主戦場に起きた「壬申の乱」で大海人皇子(天武天皇)に付き従った大国主系の神(カムイ)虫麿が、戦後、この地に賀茂神社(神神社)を創建したといいます。この時は既に大漢国は無くなっていた為か、ヤタガラス(鵜飼の人、転じて徐福子孫)が神(カムイ)虫麿の指揮下に入る形で組織化されていったのでしょう。
※註 記紀には「阿陀」「宇陀」の2つが出てきますが、この違いは何なのでしょうか?

ヤタガラス(鵜飼)は食料補給の件での活躍もあり、褒賞として彼らの奉じる道教の神は廃されず(天武自体もも傾倒していた)、和風名化することと熊野に移転することで存続を許され、隆盛して今日まで残ったのでしょう。これが熊野神社が英雄として「ヤタガラス」を掲げる理由でしょうか。さらに、やがて秘密結社的なヤタガラスは賀茂神社の裏組織となり、賀茂の「奥の院」の一角を占めるようになったのかもしれません。

ここに「吉野・熊野-ヤタガラス-賀茂家-初期大王家」の密接な繫がりをみます。

でも所詮、カモメはカモメ鵜飼は鵜飼です。

賀茂氏「奥の院」の下部機関の隠密諜報結社として機能してきただけでしょう。
ですから、飛鳥先生がいうような三人の八咫烏で「裏天皇(金鵄)」を構成するという処までは到らなかったと思います。

古代、宮内省大膳職に所属した品部に「鵜飼部」がありますが、鵜を使って魚をとり朝廷に貢納したといいます。これなど東征での出来事で鵜飼が大和朝廷(天津神)の傘下に組み込まれた名残でしょうね。

別の掲示板でも、、、、「敵本陣を打ち崩し蹴散らして、鵜田切、宇陀切の地(現豊橋市)迄追撃される。」と語り部は述べていますが、「宇陀切」が豊橋ならば「宇陀の高城」も豊橋にあったことになりますね。で、この「宇陀切」の「切」とは陸地の端=水際のような感じがしますが、どうでしょうか。

豊橋市には雲谷町(二川と新所原の間)という地名がありますが、「雲谷」と書いて「ウノヤ」と読みます。語り部の「雲屋」は「雲谷」の表記間誤りではないでしょうか? それとも昔はこう書いていた? 石巻方面から山合いの道を通って赤岩寺、鞍掛神社、春日神社、日吉神社(ヤッズ★が足を捻挫した神社w)、葦毛湿原、普門寺まで続く古代の街道「鎌倉街道」がこの雲谷を通っていますので、古代には非常に繁栄していた場所だと思われます。確かに「雲谷(ウノヤ)町」は怪しさ満点です(爆)。しかもヤッズ★には、ここは非常に因縁深き土地でもある。。。。

鳥屋(とや)とは鵜を捕獲する為に設けられる簡素な小屋ですが、特に海に突き出た断崖絶壁が鵜の休憩地としては最高の場所です。ここに鳥小屋、見張所、物置、作業所を設け、鳥屋の外には囮の鵜(瞼が糸で縫ってある為、目が見えず逃げ出す事が出来ない)を置いて、仲間がいると安心して休憩に舞降りてきた鵜を小屋の中に隠れた状態でコモの隙間から篠竹の先端にU字型に曲げた丈夫な針金を付けた「かぎ棒」を使って捕らえるのです。

鵜捕獲
(断崖絶壁にある鳥屋)

鳥屋
(鳥屋の内部)

こういう「烏(鵜)の鳥屋」が雲谷には数多くあったのか?

確かに、雲谷(ウノヤ)は、愛知県と静岡県の県境をなす弓張山脈(山脈といっても300㍍から400㍍ほどの里山が連なった山々)の南端の入り組んだ処にあり、しかも、弓張山脈には岩屋山、立石という有名な岩山も多く、海面が20m上昇していた縄文時代末期ならば、海に接していて海鵜の休憩場所(=捕獲場所)として格好の場所だったろうと想像できます。

立岩
(ロッククライミング練習場として有名な「立岩」 頂上は裏山に続いた平地となっており、本陣とするには申し分ない処なのだが、、、、)

つまり、宇陀とは、正しくは鵜田(鵜の捕獲場)だったのでしょう。

この岩場に設けられた数多くの鳥屋がまるでのように見えたことから、「宇陀(鵜田)の高城」と呼ばれたのではないでしょうか?

また、その小屋群の端の地域が宇陀切なのかな~

ただ記紀では皇軍(神武)が熊野から上がっていった休息地の砦が「宇陀の高城」であり、一方、語り部は夷敵である大漢国の本陣が「宇陀の高城」であるとなっています。この倒錯関係はどう説明したらいいのでしょうか?「宇陀の高城」が素晴しい城砦だった為に自らの歴史に無理矢理取り込んだのか?(爆)

また、別のソースからも同様の内容があります。

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2001年4月29日に当地の郷土伝承に詳しい田中某氏に案内して頂き、そのとき耳を疑う話を聞いている。

「照山の西に景行天皇が崩御する直前に住まわれていた、高穴穂宮があったという。壷などの遺物が多く出土したが、売り払われた由し。また、照山の南、一鍬田付近には景行天皇の墓もあった。マカド神社には天照大神伝承も残っていた」という。一方、照山の別名は「鳥捕山」である。照山を守る神社に嘗て大伴神社があった。そして、神武天皇の主戦力をなした天忍日命が祭られていた。近くに神武歌謡に出てくる鵜飼部に関連するか、鵜飼島と呼ばれた江島がある。また、丹後の籠神社では神武天皇の役割を果たしたと伝承されている「倭宿弥」伝承が豊津にあり、明治時代にヤマトという地名が付けられていた。


■掲示板 古代神都・東三河
http://6327.teacup.com/maeda/bbs/325
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照山に大伴神社かぁ~

大伴神社は現在は賀茂神社の末社として明治41年(1908年)に合祀されていますが、元々は独立した社であったといいます。この祭神は「神押日命」、つまり、古事記に記載される「天忍日命」だといい、古事記は天忍日を古い軍事氏族である大伴連等の祖と記載している。天忍日命は天孫降臨の際、久米氏の祖神・天久米命と共に武装してニニギノミコトの先導をしたといいます。また、天忍日命を祭神とする神社は非常に少ない。

現在、照山(鳥捕山)には「大坂神社」がありますが、名前のように「大坂神」が祀られているといいます。この名称謎なのですw。「古事記」には崇神天皇の御世に疫病が大流行し、多くの民が亡くなり、夢で大物主現われて意富多々泥古(おほたたねこ)という人に自分を祀らせるならば疫病はおさまると告げられ、「宇陀の墨坂神に赤色の楯と矛を献り、また、大坂神に黒色の楯と矛を献り、また、坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく弊帛を献ってお祀りになった。」とあります。また「日本書紀」崇神紀には「赤盾八枚、赤矛八竿を以て、墨坂神を祠れ。亦黒盾八枚、黒矛八竿を以て、大坂神を祠れ」 とある。

このように大坂神とは、墨坂神と一対を為す神であり、これらの名を冠した「大坂神社(逢坂・穴虫)」と「墨坂神社(宇陀)」は三輪山を中心に一直線上に並んでいるのです。ここにも「宇陀」が出てきましたね。三神山の1つ「瀛洲山」と称された「石巻山」は三輪山の奥宮であるという社伝がありますが、この石巻山を中心に北に大坂神社(照山)があり、その一直線上の南には「宇陀の高城」が存在したという雲谷(ウノヤ)があるのです。つまり、「大坂神」と「墨坂神」の対立は、初期大王族と徐福子孫の国・大漢国(君子国)の戦いがモチーフになっているのでしょう。

大伴氏の祖神・天忍日命は東征に随行したとなっていますが、「東征」の原型となったこの大漢国討伐戦では初期大王家(騎馬民族)側、つまり大坂神(黒)側の高位武将だったと考えられ、戦いで大いに活躍した為、この地に祀られたとは考えられないでしょうか。
※註 語り部は副将が「王伴(大伴)武持」だったという。この大伴という連(むらじ・役職名)も「王に伴なう副官」(王伴)というところから来ているのではないでしょうか?

ですから、実際のところは大伴神社→大坂神社へと名称変化していったのかも、、、、、これで「大坂」の名称の謎も解けますねw

神武東征で宇陀から大和侵攻の際、八十梟帥(やそたける)が強烈に抵抗し、灼熱して燃えさかる木炭を皇軍の進路に設けて妨害作戦に出た。この賊将が「墨坂神」だと云われています。

事実、記紀にあるように墨坂神=赤なのですが、大漢国(君子国)は中国の「道教」を信仰していて、蚩尤(シユウ・牛頭天王)を祀り、蚩尤は「赤い旗」が目印だったのです。大漢国の軍旗が赤である可能性は非常に高いです。
※註 天武天皇は「壬申の乱」の際、蚩尤(シユウ)の「赤い旗」を掲げたという。赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。

蚩尤
(蚩尤の赤旗)

ですから、照山に「大坂神社」があるのならば、、、、、
「宇陀の高城」のあった雲谷(ウノヤ)に「墨坂神社」がある筈だと睨んでいます(ニタリ)。
で、、、、でも今のところ、比定地が全然見当たらない(汗)
※註 照山の「大坂神社」の創建縁起は、その昔、夜な夜なこの坂付近に人魂が現れ、通る人が遭遇したところから「逢坂」と呼ばれるようになったが、その供養のため大坂神社を創建したという言い伝えがある。三河の大坂神社は平安時代の記録「和名抄」に既に記載されている程に古いという。

墨坂といえば、「宇陀の墨坂神」あるいは「兎田の墨坂神」とあるように、必ず「宇陀」(兎田)が付いてきます。

一般には「宇陀」の比定地は奈良県宇陀市とされています。名前そのままですから、、、(爆)。この奈良宇陀の地には、賀茂氏の祖「賀茂建角身神」を祭神とした「八咫烏神社」がありますが、その向い側は伊那佐山であり、その山頂の都賀那岐(つがなぎ)神社社殿横には、下記の「古事記」の歌の碑が建っています。

楯並(たたな)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木の間ゆも
い行き目守(まも)らひ 戦へば
吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥
鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助けに来(こ)ね


この謡の意味は、、、、

伊那佐の山の木の間を通って、
見張りながら戦っていると、
私はいよいよ腹が減ってしまった。
鵜飼いの伴よ、今すぐ助けにきてくれ


つまり、この謡は神武天皇(イワレヒコ)が東征でこの地に至った際、食料が尽きて鵜飼いをしていた人に食べ物を持ってきて欲しいと要望している内容なのです。しかし不思議なことに、奈良の宇陀市は山の中であり「鵜飼」という言葉は場違いですし、鵜飼にかかる枕詞と言われる「島つ鳥」も場違いな感じです。
※註 「島つ鳥」・・大きな鵜・足の細い鶴のような鳥のこと

これ見よがしで、如何にもという作為を感じます(爆)

ここで「伊那佐」という言葉が出てきますが、これは静岡県の引佐の山のことだと語り部はいいます。それは石巻山のある八名郡の黄柳を山1つ超えた先には引佐郡三日町(現・浜松市北区)がありますが、ここで神武天皇の東征モチーフとなった初期大王族が大漢国(君子国)と最後の戦闘をしたという。
※註 宇陀、伊那佐だけでなく、大和地方には吉野川のように四国阿波の地名が多く存在しています。まるで大和地方が海を挟んだ三河と阿波を「映し鏡」のように映しているかの如くに同じ地名が多く存在しているのです。しかも四国と三河は物部王国であり、その地域奥深くには、今尚、いざなぎ流や花祭り・霜月祭りのような古式ゆかしい物部神道の名残を残す地域を後背地持っています。このようにして大和朝廷は滅亡させた地名を大和にも移し、更に全国へと波及移転させていくき、たとえ漏れ伝えられた伝承や遺物出土があっても、その地が比定出来ないよう完全に太古の記憶を抹消・封印したのではないでしょうか!

語り部の話では、大陸から騎馬民族スキタイ(初期大王家)を招聘して行なわれた邪馬台国討伐に続く大漢国(君子国)討伐で、おの戦いに随行した出雲系の神(カムイ)虫麻呂が照山(捕鳥山)に「神神社」を建立したという。その後、照山を拝するように現在の場所に移転し「賀茂神社」と名前を変え、神虫麻呂は賀茂氏の祖となったという。つまり、京都の賀茂神社二社も三河の賀茂神社が発祥地だったという超絶な内容なのです(汗)。しかも、この神(カムイ)虫麿は蘇我入鹿の次男・太田田禰子の子だというのです。つまり、賀茂氏は出雲系(アイヌ、エブス人)の流れにあったということです。
※註 豊橋賀茂神社は天平年間に京都の賀茂別雷神社より勧請して創建されたとなっているが、これは照山神神社→京都賀茂神社→豊橋賀茂神社という流れになっていると思う。

この豊橋賀茂神社には徳川家康にまつわる話が多く残されています。例えば、家康が遠江進出する際には賀茂神社を参詣し武運長久を祈願していたり、三方ヶ原合戦後、甲斐の武田信玄に攻められていた野田城を救援に向かった際に阻まれて逆に武田勢に追われた時に賀茂神社の御神木の洞に隠れて難を逃れたとも伝えられている。

徳川家の家紋といえば「三つ葉葵」ですが、京都賀茂神社最大の祭りは平安期から行なわれた「葵祭り」です。家康と賀茂氏は「葵繫がり」でもあるのです。この葵紋は家臣の賀茂神社の神官の家柄である徳川四天王のひとつ「本多家」は賀茂神社由来の葵紋を使っていましたが、松平家はこの本多にならい賀茂神社のご加護を受けるために葵を家紋として使用しはじめといいます。更に松平家が栄えた地(松平郷)は昔賀茂神社の神領であった地区だったのです。

賀茂氏と徳川家康の只ならぬ関係、、、、

徳川家康は影武者「世良田二郎三郎元信」だという説や、サンカという被差別賎民の出だという八切史観もあります(これはマンガ「カムイ外伝」のネタ本になった説ですね)が、家康自体、なかなか謎の多い人物です。実際のところ、徳川は源氏の出ではなく、賀茂氏の出自だと語り部は言う。家康が江戸に幕府を開いたのも、江戸が毛野国エドム人の祖地であり、エドムから江戸と名付けたのだという(汗)。

古代日本解明は一筋縄ではいかない、、、、
しかし、こういった不明なことをビシバシ解明できる点で、語り部情報は貴重なのです。
(つづく)
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