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斎院と失われた平家

日本の真の構造を知るには、日本の3人の天皇は誰なのか? そして、この3トップを頂点に据える天孫系、地祇系、天神系の外来勢力とは何なのか? また、その間を行き来するカラス(戸籍を持たない外来人)とは何者なのか? そして最後に天皇制システムの根幹を為す斎宮、斎院の「斎王制度」について知らねばならない。

これらが分かれば「扶桑樹」(カバラの生命の木)を模して作られた日本の国体構造が完全に透視出来たも同然ですが、まだまだその全貌がオイラにはハッキリとは見えていないのが非常にもどかしい。

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その前に縄文のジイサマについて、あるサイトと引用先を不明瞭にした件に関して、引用先の方が「名無し扱い」されたことについて不満を書かれていました。この件にについての理由は以下です。オイラは引用先のソース先を示すのが基本姿勢ですが、この時はオイラの洞察内容と真っ向から反対意見となっている為、書かれた方を批判するような形となってしまい引用先を示し難かったというのが大きな理由。特に、ソース先の方が煩フルを読まれていることを知っていたので尚更だった。また興味を持った人は文章をコピペしてググれば、ソース先は分かるので敢えてソース先は示さなかったわけです。今のところ、オイラの立ち位置は高度自給自足時代様のコメント欄で管理人氏が「ブルータス、お前もか!(笑) 」(ソース先)と回答されたのと同じ立場を「今のところ」とっている。まぁ、オイラの場合、確定的証拠...等も知らないので名無し先生の情報を得られた高度自給自足時代様を信じて洞察(=証拠探し)を進めている状態ですが、、、、。以上から今回引用を名無し扱いしてしまったことに関して、落胆させてしまったことは大変申し訳なく思っています。m○m

さて今回は、各々の外来勢力の成り立ちの詳細を語り部説を軸にして見ていく。今現在、オイラが分かっていることを全てさらけ出してみるつもりだ。

■地祇系(新羅系)
数千年前から渡来したオロチョン、ウィルタ(オロッコ) 、ナナイ、エヴェンキ、シボ...等のツングース系狩猟民族も含むが、北イスラエル王国の「失われた十支族」が主体を為す狩猟騎馬民族勢力で一部はエタ、ヒニンとされた。新羅から渡来した勢力であることから新羅系とも称され、緑のカラスのバックボーン。

この勢力には平氏に対抗して新羅系武士軍団として建てられた源氏や皇道派思想の原動力となった大本も属している。また、五摂家のうち近衛閥(近衛・鷹司)が属し、背後にイエズス会が控えている。
※天孫系天皇である昭和天皇の「大葬の礼」の時、テレビ東京だけがアニメを流していたことから、テレビ東京は唯一の地祇系キー局と考えられる。実際、テレビ東京の株主は日本経済新聞社。日本経済新聞社の前身は中外物価新報。中外物価新報の前身は三井物産中外物価新報局。三井財閥=北朝=地祇系です。

一方、九条閥(九条、一条、二条)は藤原式家=桓武平氏の南朝派閥であり、出自不明の前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内、...等のキリシタン外様大名を擁し、江戸時代の鎖国政策下でも前田-島津-沖縄ラインで密貿易していた。この中継基地になっていたのが黄壁宗・萬福寺で、この設立資金は九条流二条家の分家・冷泉家が担っていた模様。
※以前、オイラはここを間違えていた感じだぁ、、、(汗)。キリシタン大名=イエズス会の傀儡であるが、「南朝=メーソン、北朝=イエズス会」という図式からは捩れが生じてしまっている(滝汗)。藤原氏自体、百済系大王家(下宮)の天智天皇が実の母親(鏡王女=皇極天皇)を孕ませたのを帰化した半島の百済王家王子の鎌足に下賜して生まれた不人(人に有らず)が祖。天智天皇は実の妹とも関係している。この天智の奇妙な行動の裏にはなかなか践祚即位出来ない焦りから、父親の舒明が皇極天皇を中継ぎの巫女として即位したのと同じことを狙った結果なのかもしれない(皇位継承は実は同母兄である大海人皇子【漢皇子】の方が上だった)。不人は「藤原」の姓を藤原大嶋から譲り受け、更に系図の不足を中臣氏から購入して祖をアマノコヤネに接続している。このように藤原氏はバリバリの百済系出自なのだが、ここから百済系勢力と手を結んだ藤原式家に対抗して新羅系勢力と手を結んだのが藤原摂関家(藤原北家)であるが、ここが五摂家(九条・近衛)の大元。しかしこの藤原北家もメーソン系の九条とイエズス会系の近衛に分かれてしまっている。つまり、メーソン・イエズス会の各派閥の中にも真逆の対抗勢力が食指を伸ばして浸透している訳だが、このような複雑巧妙な形で各勢力が暴走しないよう離合集散させながら操っているのだろう。

紀元前722年に幾度も行われたアッシリア捕囚を経て北王国は滅亡した時、タルシン船貸与で付き合いがあったフェニキア人の船に乗りスペインに到達した勢力があった。これらが後に東欧に移住しアシュケナジーユダヤ。一方、アッシリア捕囚からの開放後、東の方へ旅立った勢力もあった。騎馬民族化したがシルクロード商人の大月氏らのソドク人(ペリシテ人)に導びかれ、秦国、扶余国を建国しながら秦韓(後の新羅)に到達。一部は出雲(須佐)に上陸し出雲神族と合流し都を置いた。これにより半島との交易も活発化。これがスサノオによる「国引き神話」。

徐福国の扶桑樹神話(東方の若木=生命の木)に引き寄せられやってきた長江出身の倭人勢力の多産傾向による勢力増大に危機感を覚えた出雲は交流のある元秦韓(辰韓)王家で今は金官加羅の雇われ王をしていた辰王側に対し、邪馬台国、徐福国討伐と引き換えに領土提供を受けるという約束の下、金首露王(扶余依羅・倭旨)一行を列島に招聘した。討伐後は邪馬台国を引き継ぎ大倭と名称を変えた。そして、金首露王三男の金末休は新羅を建国している。

これら全てがスサノオと称されるが、それは頭に角のようなもの飾りを付けていることが共通的な特徴であったからだろうか?

オロチョン族
(オロチョン族)

■天孫系(百済系)
南ユダ王国のユダ族が主体を為す勢力。南ユダ国(南王国)紀元前586年にエルサレム神殿破壊と支配階級が連れ去られたバビロン捕囚を経たが、紀元66年のユダヤ戦争、紀元132年の自称・救世主(メシア)のバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)でローマによってイスラエルの地は仇敵ペリシテ人を示す「シリア・パレスティナ」と改名され、ユダヤ人は完全にディアスポラ(撒き散らされたもの)され南ユダ国は滅亡した。

それ以前から神殿破壊され、拠り所を失った南王国の神殿派レビ族はローマ帝国中枢部にも入り込んだが、大司祭階級であるアロン末裔のサドク派(サドカイ人)とエッサイの子ダビデに乗り換えたイズハルを祖とするサムエル派の確執からサムエル派は傘下勢力を引きつれ1世紀にローマを出てアジア南部を転々と移動。同族の新羅から土地を割譲され、4世紀頃に百済を半島に建国。369年には倭国へ七支刀を献上している。一方、サドク派はキリスト教ローマ教会(バチカン)にも侵食し支配下に置いた。これがコンスタンティヌス帝(母親ヘレナはキリスト教徒)を使った「ミラノ勅令」(313年)によるローマ帝国のキリスト教公認化に至らせ、380年のテオドシウス1世によってキリスト教がローマ帝国の国教とされた背景だったろうと睨む。
※百済の支配層は扶余族=徐族。徐福と同じ姓なのは何か関係がありそうだ。ちなみに、ローマ帝国内のサドクとサムエルの内容はオイラの妄想的洞察です(笑)。

7世紀の百済滅亡(660年)でこの百済系が列島に渡来し大量移住。

この時、引き連れてきた百済遺民勢力が後の平氏の起源であり、桓武帝の御世、列島居住する百済系移民を「武士団」として集結させ、皇族の皇子に「平」姓を与え臣籍降下させて頭領格に据え傘下の勢力としたわけです。平氏には桓武平氏...等の4つの流れがあるが、これが天孫系の主力構成。特に桓武平氏の中の伊勢平氏のうち平清盛を輩出した家系を「平家」と呼ぶ。亡国直後、大量渡来が可能だった背景には、既にそういう交易ルートが存在していたことと、日本列島内で「親百済」が大きな政治勢力になっていたことに起因する。

日本02

だからこそ、百済滅亡の3年後の663年に唐・新羅連合軍に朝鮮半島で戦いを仕掛けた倭国・百済遺民連合軍の「白村江の戦い」を行ったわけです。この時、天智天皇が政治的主導を発揮して行ったが、戦争はたった2日で勝負が付き、天智天皇は逃げるように琵琶湖の畔・大津京に遷都してしまった。天智天皇崩御後、国内を二分する「壬申の乱」(672年)が起きたが、これは百済系(天智天皇=天孫系)と新羅系(天武天皇=地祇系)の戦いでもあった。

ここで百済系がどのように政治力を手に入れ、「白村江の戦い」を起こし得たのかをざっと眺めてみる。

645年、百済系大王家(下宮)の中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足、実は百済の王子)が談山神社の裏山で蘇我入鹿暗殺を密談して、宮中(板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺して蘇我本宗家を滅ぼす「乙巳の変」が起きている。まぁ、実際は宮中ではなく首塚のある法興寺(飛鳥寺)辺りの辻角で惨殺されたのが真相ですが、、、しかも、その後の一連の政治改革である「大化の改新」は行われておらず、壬申の乱後に勝った天武天皇が行った大宝律令発布、薄墓令、官位名称変更...等の一連の政治改革のことだった。百済系が自らの業績にして記したわけです。
※首塚と板蓋宮とは約600m離れているので、ここまで首が飛ぶ筈はない。

この暗殺劇により、新羅系大王家(上宮)の大海人皇子(天武天皇)を立太子に押していた蘇我入鹿(鞍作毛人)がいなくなった為、百済系が政権を握ることが出来た。これ故、百済系のクーデターだと言われているが、このクーデターの真の狙いは百済救済にあった。

この「乙巳の変」の起きた645年当時の半島情勢は以下のようであった。

新羅との戦いで百済聖王が戦死(550年)。これを転機に、羅済同盟で高句麗対抗という流れから次第に百済と新羅の対立へ大きく変化していったが、この百済と新羅の対立は日本国内へも波及し、3世紀渡来した金首露王から始まる「新羅系大王家」(上宮)と半島での百済勃興で5世紀にここに婿入りして来た扶余依羅から始まる「百済系大王家」(下宮)の間にも確執が起き始めた。このように半島と列島では祖を同じくする王家が居る為、昔から海外状況に機敏に日本は反応する。これは今も変わらないが、昔から日本国は各アジア民族の利権交差点でもあるのです。

そして、618年、煬帝の暴政に耐えかねた民衆が各地で反乱を起こし、この動きが拡大化して、ついに隋が滅亡。

当時は倭用(用明天皇)-倭聖(高向王、聖徳太子モデル)の新羅系大王家(上宮)ラインで大王位を継承していたが、百済系の舒明は隋滅亡に対する無策の責任を取らせる形で倭聖を捕らえ毒殺(622年)し、更には倭聖后の宝(佐富)を取り上げ自らの后にし、皇極天皇として即させ、その後、舒明自らが大王位に就いた。この場合、宝(佐富)は繋ぎの巫女としての役割を担ったわけです。
※隋は高句麗に4度遠征しており、高句麗問題は隋に任せるというのが倭聖の方針だった。

最終的に百済と高句麗は軍事同盟(麗済同盟 642年)を結び、両国から新羅を攻撃するようになっていった。この両国の攻撃に対し新羅の善徳女王は高句麗の敵である唐に援軍を求めた(643年)。その条件は女王廃位と属国化だったという。新羅王家の地位はどうしても保持しなくてはならない為、女王はこの条件をそのまま飲むことは無かった。

善徳女王
(新羅初の女王が善徳女王 衣装は歴史検証を全く欠いた創作だが、、、)

しかし、この643年の援軍要請の動きに慌てたのは舒明-中大兄皇子らの百済系大王家(下宮)。唐が絡んでくると一気に形勢は不利となる為に、早いうちに新羅を併合しておかねばならない状況に追い込まれた。その為には百済救援の為の援軍派遣が最低限必要であり、それを実現するには一枚岩の強力な政治体制が必要。つまり、中大兄皇子が皇太子に就き下宮が皇統継承続けていくという誰が見ても確信できるような体制が見えないとならない情勢下だった。ただ問題は中大兄皇子の立太子には継承条件が不備であるという大きな問題を孕んでおり、これがなかなか立太子出来なかった理由でもある。一方、倭聖と宝の子である大海人皇子(漢皇子)の方は、蘇我入鹿の押しメンとなったことで立太子には有利な展開をしていた。

こういう背景故に、、、

「どげんとせないかん!」

下宮側が一気にクーデターに突っ走っちゃったわけです。

一方、新羅では善徳女王の後を継いだ真徳女王の御世になり、唐の新羅に対する援助約定が成立(648年)。その後、唐の衣冠礼服の制度導入(649年)、独自年号の廃止(650年)、唐の官制倣ったものに変更(651年)を経て、新羅は完全に唐の属国となっていった。
※高句麗・新羅・百済の三国の中で女性が王位についたのは三国の中で新羅だけ。新羅の女性は相続権も持っていた。

そして、新羅念願の軍事同盟(唐羅同盟 660年)が成立するや否や唐軍は山東半島から一気に百済を攻め込み、そのまま百済王都まで達して百済を滅亡させてしまったのです。

日本国内に衝撃が走った。
そして、敗けた百済遺民が大挙して日本列島に渡ってきた。

藤原式家凋落の原因となったのが、「藤原薬子の変」(810年)ですが、これは平城上皇と弟の嵯峨天皇の対立。最終的に嵯峨天皇が勝ち、式家出身で平城天皇の愛妾・藤原薬子とその兄で参議・藤原仲成が処罰された為にこの名がある。

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■藤原薬子の変
806年、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位。平城天皇は弟の神野親王(嵯峨天皇)を皇太弟に指名。

809年、平城天皇は発病するが、病を祟りと考えた天皇は譲位を決意。同年、神野親王が即位し嵯峨天皇に、皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。

810年、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度廃止を嵯峨天皇が改めようとしたことから「二所朝廷」といわれる対立が起こるが、平城上皇復位をもくろむ藤原薬子と仲成の藤原式家兄妹はこの対立を大いに助長し利用した。

二所朝廷の対立が深まる中、平城上皇は平安京を廃して平城京遷都の詔勅を発布。嵯峨天皇はひとまず詔勅に従うフリをしたが、最終的には遷都拒否を決断。嵯峨天皇は使節を発して各地の関を固め逃げれないようにした上で藤原仲成を捕縛し佐渡権守に左遷。そして薬子の官位を剥奪。

嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断。上皇は薬子とともに輿に乗り東に向かった。嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ仲成を射殺。平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、勝機がないと悟り、平城京へ戻って剃髮し出家。薬子は毒を仰いで自殺。

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これにより藤原式家の勢力が衰え、藤原北家の隆盛した。北家は嵯峨天皇、文徳天皇、清和天皇、朱雀天皇、村上天皇と仕える中で外祖父となり、北家が摂関家独占し磐石な体制が構築されたが、式家が連れ去ってしまった武士団「平氏」に対抗して北家が立てたのが「源氏」。新羅系移民を終結して天皇皇子に「源」姓を与え臣籍降下させ頭領格に据えて北家傘下に組み込んでいった。これが嵯峨源氏、文徳源氏、清和源氏、村上源氏の諸流派ですが、北朝派(新羅系=地祇系)勢力の主力です。
※これが北朝の正体。これに連なるのが三井家で三井財閥へと発展。騎馬民族化した北イスラエル族が主体であり、後にイエズス会がこの勢力の背後に付いた。

平氏の場合は、桓武帝の皇子に「平氏」の姓を与え臣籍降下させて百済系豪族をに婿入りさせ頭領格に据えた勢力。これを式家の傘下勢力に組み込んでいった。式家隆盛の要因は百済系王族の高野新笠(天智天皇の孫)が生んだ山部王(後の桓武天皇)を擁立し帝位に就けさせたことによるが、この時の原動力が藤原式家の祖・藤原百川。高野新笠は身分が低く彼女が生んだ皇子らは皇位継承は絶望的だったが、帝を呪詛したかどで后や皇太子を都から追い出し、幽閉先で死去させて、桓武に皇位継承が回るように仕向けている。これは全ては藤原百川の陰謀だった。
※平氏には桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の四流があるが、最大の桓武平氏にも葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王の四流があり、またそれぞれに分家がある。これが南朝の正体で、これに連なるのが式家が出自の住友家で住友財閥へと発展。海洋民族化した南ユダ族が主体であり、後にメーソンがこの勢力の背後に付いた。

この平安時代を通じて、平氏、特に伊勢平氏である平家が隆盛してきたが、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平家も壇ノ浦の戦いで滅亡したとされる。しかし、不思議なのは平家が負け戦を経て西国に逃げていく際、どんどんその兵力が大きくなっていく点です。通常は兵力激減していく筈なのですが、、、、そして壇ノ浦で負けた後、一斉に平家は世間から消えている。世に「平家の落人」伝説があるが、そのほとんどは源氏の隠れ里であり、平氏と名乗って平氏側の追求を逃れてきた場所。鎌倉時代には平氏勢力は霧が晴れるかのように消えてしまったのです。この不可思議な手品のタネ明かしは、平氏が雇った中国大陸の漁民らをかき集めた傭兵だったと睨んでいる。
※平氏は逃げる際、西国に逃げ、源氏は逃げる際、東国に逃げる。この傾向から各々の勢力基盤が西国・東国にあることが分かる。

式家、北家とは、729年、長屋王の変で長屋王を自刃に追い込んで新羅系大王家(上宮)を滅亡させのが不等人の子たちで通称「藤原四兄弟」です。彼らは不思議なことに天然痘で全員が亡くなった。長屋王の祟りだと噂されたが、これは新羅系の報復であることは間違いない。この四兄弟末裔が南家・式家・北家・京家の四家ですが、初めは南家・式家の隆盛で、北家は押され気味だったが最も遅い時期に興隆して最後には最も栄えることになったのは先に書いた通りです。

この「薬子の変」で注目すべき箇所は、嵯峨天皇が賀茂大神に戦勝を祈願して、勝った場合、斎院創設を誓っていた点です。既に伊勢斎宮があるというのに、何故、斎王を新たに作らねばならないのだろうか? 通常、祈願には奉幣という形で金品寄付が通例だが、斎王という恒常的に支払いの発生する財政負担の掛かるものを作り、更に自らの皇子を斎王として捧げることは、祈願対価としては少し過剰気味だと思えるのだが、、、、ここが非常に不思議な点なのです。

斎宮行列
(嵐山の斎宮行列)

伊勢斎宮の設立理由も謎であり、斎宮は天武天皇が壬申の乱に勝って大宝律令を発布した時から始まっている。この壬申の乱は武家同士の戦いではなく、大友皇子(弘文天皇の称号を追号)という皇族ツートップ同士で戦っており、これは嵯峨天皇と平城上皇と同様な構図なのです。そして、いづれもが百済派vs新羅派の戦いであった。

つまり、負けた敵対派への懐柔策、、、 こういうことなのだろう。斎院・斎宮を通じて何らかの援助をしていたのではないのか?

斎院・斎宮に役割について、高度自給自足ブログ様を通じて名無し先生の話では、、、、

■伊勢斎宮
伊勢神宮から20Km離れた斎宮寮(伊勢国多気郡)が生活の場。
総勢120名の大所帯。
天皇に代わって祭祀。天皇の夜の相手。

■賀茂斎院
京都北側の紫野斎院(上京区櫟谷七野神社のあたり)
表に出せない皇統譜や外交文書の記録と保存。皇族の夜の相手。


とある。う~む、ある意味、天皇御在所の内裏や江戸城大奥のような存在ですが、原則として斎宮・斎院の斎王は天皇の代替わりで退下(お役御免)する。

そして、マヨさんブログに怒涛の内容のコメがあった。

内裏,斎宮寮,「賀茂神社の近くのどこか」,の3カ所がそれぞれ表と裏の合計3人の天皇の生活場所であった.新天皇が即位する度に,新たに相互に配偶者をやりとりし,継続的な姻戚関係を維持した.表の天皇から裏の天皇へ配偶者を派遣する部分は齊王制度と呼ばれて,その華麗な行列と共に広く知られている.但し,齊王制度は公開されない実質的部分として,裏の天皇家(あるいはその一族)から表の天皇へ嫁ぐ配偶者を決定する仕組みを含んでいる.ただ,このように考えると,婚姻家系とされる藤原氏と2名の裏の天皇の関係がどう整合するのかが,新しい問題として生じます.藤原家はどちらかの裏天皇家の一族だと考えれば筋は通りますが,そのようなことは何処にも示唆されていないようです.

そうか、、、そうだったのだ。

斎宮・斎院は3人の天皇のうち御所にいる表の天皇以外の2人の天皇の内裏(大奥)だったのだ。つまり、裏側に回った天皇たちは当然経済的に困窮するわけでハーレム(大奥)を持つことは不可能となるが、これでは貴種の血は絶たれてしまう。彼らの血胤を保つ子孫を作るのと彼らの家格を維持しながら支配者層の間を取り持つシステムが斎宮・斎院の斎王制度だったというわけです。

この制度があるお陰で表の天皇は対立勢力の影に怯えなくて済むというメリットもある。これが京都御所が城壁もお堀もない無防備な形態をしている理由でもあり、こと国内においては天皇は無敵なのである。

明治維新では孝明天皇と息子の睦仁親王(京都明治天皇)が斎院側に隠れたのだろう。堀川御所は日蓮宗大本山・本圀寺(ほんこくじ)の境内一角に作られたというが、ここが姿を変えた斎院だったのかもしれない。堀川辰吉郎は当然のことだが、「オーナー」と呼ばれた皇族前田家とロス茶のハーフであるオクラデッシュ・ハーマン(前田ゴロウ)もこの姿を変えた斎院の出なのかもしれない。

というのも、斎院という大奥に娘を提供して后や妃と為れるのは「四品」以上の家系の者だけであるが、次期天皇は母親の家格の上下が考慮されて決まるしきたり。既にここで差が付いてしまうのです。この資格を始めから有せる「初任四品」の家柄は親王・内親王、つまり皇族だけであったが、江戸時代以降、徳川御三家や生粋の松平家は勿論のこと、松平姓を名乗ることが許された前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内、...等のキリシタン外様大名も有することになった。これが皇族前田の称号の元なのだろう(笑)。そして、江戸末期にお隠れになった孝明天皇と前田家の娘が生んだ皇子(堀川辰吉郎)が、ロス茶の娘を孕まして生まれた子が前田ゴロウ翁ということなのか?

さて話は戻るが、薬子の変の後、秦氏の「養蚕神社」(蚕の社・木島坐天照御霊神社)にある「「糾の森」と秦氏祭祀が下鴨神社へ移され、蚕の社は「元糾」となり、三鳥居が作られた。これは外来勢力が仲良く力を合わせて、この国を運営していく証として建てられたが、この時の現在に繋がる日本の「扶桑樹構造」=新三輪が完成した。
※これ以前には卑弥呼-出雲-徐福国の3つの旧三輪だった。

三鳥居02
(イジメ、ダメ、ゼッタイと誓い合う三大渡来勢力)

この三鳥居はそのまま列島内の王朝の存在数を示すが、これはアニメNARUTOのうちは一族の写輪眼を彷彿とさせる。写輪眼開眼時には瞳に勾玉文様は1つ、その後、2つに増加し、使用者がある程度成長すると最終的には3つに変化し、この状態で写輪眼は完全なものとなるが、術者の精神的ストレスが眼に行き変化するという。これは日本も同じであり、最初は天神系王朝の1つ。その後、地神祇系を含めた2つ、最後に天孫系を含めた3つに進化しているが、いづれも壬申の乱、薬子の乱という国内二分化した際に起きて「隠れ王朝」が創設されている。701年の大宝律令で斎宮創設から100年後の810年に天孫系が認められ三鳥居建造・斉院創設されて王朝が1つ追加されたが、その時から今年で1204年が過ぎた。もうそろそろ日本にも万華鏡写輪眼が開眼してもいい頃だすな(爆)。

眼
(写輪眼)

万華鏡写輪眼が開眼すると「天照」と呼ばれる決して消えない黒い炎の発生が可能となるが、これなど福島第一原発所内のメルドスルーした核燃料を彷彿とさせる。また同時に戦前の大本営発表と同様の嘘八百、つまり重大な放射線汚染や事故が無かったが如く発表する幻術「月読」を発動している。
※実は大日本帝国の頃に万華鏡写輪眼は一度開眼して術は発動している。それが大本営発表と日本を分断化させず守る為に行われた原爆の地上起爆です。

万華鏡写輪眼の開眼条件の1つに、、、

「最も親しい友を殺すこと」

というのがある。3.11自体、終戦時の原爆地上起爆や9.11と同様の自爆自損のヤラセであると睨んでいる。これは日本国内にいる勢力が民主党という地祇系政権を崩壊させる為に起こしたものでもあるが、同時に兄弟部族の地祇系の基盤である東日本を狙ったもの。この迫害によって力を得る為でもあった。実際、この後に日本は急速に右翼化している。つまり、これは20年間簿外資金注入を止められ「失われた20年」でニッチもサッチもいかなくなってしまった日本に対し立て直しの為に行った兄弟部族の天孫系の仕業だろうと睨んでいる。以上から分かるように、既に日本は万華鏡写輪眼の開眼条件をクリアしているのです。
※同様なことがヒトラーによるユダヤ迫害。ヒトラーがアウシュビッツ収容所でガス室送りにしたとされる東欧ユダヤ(アシュケナジー・ユダヤ)とは、実際にはスペイン経由で欧州に渡った「失われた十氏族」の北イスラエル族であった。この背景にはバチカン内に浸透した南ユダ族がナチスを支援しユダヤ迫害劇を演じたのだと睨んでいる。この犠牲の後にイスラエル建国、ユダヤ差別発言を封じる...等の権利が与えられ罷り通るようになった。これはユダヤ式の犠牲の儀式(ホロコースト)でもあるが、犠牲を捧げることで神の祝福を得られるという思想からきている。

う~む、既に日本は万華鏡車輪眼を開眼している!!!

日本00
(これはベルファシ勢力が復活したという意味でもある。)

で、日本が目指すのは、、、完成体スサノオだろう。

既に安倍内閣は憲法9条を改定しなくとも、集団的自衛権の行使という形で9条解釈を変えることにより自衛隊を海外展開できるという閣議決定を明らかにしたが、これが絶対防御である「完成体スサノオ」が暗示している内容である。「攻撃は最大の防御」という言葉があるが、これは「最大の防御とは攻撃」ということが政府解釈の嚆矢(物語のはじめ)なのだす。

3.11原発事故は国民の先行き不安感を極度に募らせ、不安を抱かせることで拠り所となる強い日本政府を構築させることを目的として起こされたものかもしれない。そして、その前にKPOP侵攻という状況下に国民を置き、3.11で緊張を走らせ、仕上げに韓国大統領の天皇土下座発言で、敗戦時にGHQによって希薄化させられた日本人の強力なナショナリズムに火を付けた。そして最後の仕上げにもう一度KPOPに侵攻させて出来具合を確認しようとしている。そして、前回同様に持ち上げて落とすという暴挙に出るだろうか?

それが起きるのが「AとZが融合」するこの10月ですが、この時から怒涛の展開があると睨んでいる。既にスサノオでもある蔵王権現を祀る御嶽山が噴火して動きが始まっているが、それは単なるプロローグ(序章)に過ぎない。

スサノオ
(絶対防御の完成体スサノオ、、、これがベルファシ勢力に侵食された日本政府の目指す姿)

この策に対抗するには武装自立して山里で隔絶化されたコミューンを作ってしまうのも1つの手かもしれないが、完全にAPINKやAOAの虜になって「落し」にもビクともしない程の熱烈なファンになってしまうことも有効な手の1つかもしれない(ふふふふ)。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」なのだす。まぁ、「ミイラ取りがミイラになる」ともいうが、、、(滝汗)

これは、、、

「腐ってやがる。早すぎたんだ。」

という、折角の機能を自壊させる作戦だす~(爆)。

APINK
(デビュー前にも関わらず有料ショーケースに5万通以上の応募があり、しかもファンの男女比率も4対6と男性ファンの多さが目に付くAPINKですが、このガールズグループのエース級を集めたような妖精たちに君は耐えられるか?)

連結尻AOA
(エロ天使AOAの連結尻グリグリの上品かつ濃厚なエロスを発するヒップダンスに君は耐えられるか?)

さてさて、話が少し脱線してしまったが、、、、(ニガ笑)

表の天皇のを決めるのは裏の仕事であり、自身の身内勢力から后を出しているであろうこともこれで分かった。昭和期の正田家や大和田家もこの例に洩れない。いづれも地祇系の妃である。逆に表の天皇家から裏に行く配偶者が斎王であり、裏の天皇家から表へは推挙され妃として行っている。これが現代まで形は替われど続いているというわけです。

そういえば、壬申の乱で勝った天武天皇へは天智側から3人の娘が嫁いでいる。その一人が有名な鸕野讚良(持統天皇)ですね。更に近年でも、表の天皇であった明治天皇の皇女10人のうち4人が伏見宮系の竹田宮・北白川宮・ 朝香宮・東久邇宮家に嫁いでいますね。やはり、伏見宮は裏だったのか? 表の天皇が国内案件、伏見殿は外交等の海外案件を仕切ったという話とも符合する。実際、世襲親王家の伏見宮創設の経緯も不自然な感じではあった。
※黒船来航時、徳川幕府は開国か否かを決定できず、朝廷に意を仰いでいる。海外案件はやはり京都だったのだ。

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後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王は偽装死去した後、鎌倉極楽寺を経て大和国西大寺に入り、ここを拠点とした西大寺ネットワークを築いた。古代の土師君に始まり、加茂役君小角(役行者)がはじめた非人救済事業を受け継いだ行基の流れを汲む西大寺は、非人救済事業の実績を数世紀にわたり積んできた真言律宗(西大寺流律宗)の本山である。古代の役民および中世の非人とは律令制度外の非農業民のことである。その大宗は古代に朝鮮半島から渡来したツングース系の非定着民の子孫で、律令制度下の公領から逃散した百姓たちも混じっていた。
(※註 出雲スサノオ族=地祇系のことだろう)

奈良時代から平安・鎌倉時代にかけて、朝鮮半島から陸続として渡来し、畿内諸国に住みついた雑民労務者の子孫は時を経て増加し、畿内人口の大きな部分を占めるに至ったが、多くは無籍のままだった。

大和朝廷で無籍民「役民」に対する社会政策を担当していた姓が賀茂氏支流の「加茂の役君」で、その頭領の加茂役君小角は役行者と称し、山岳信仰を究めて修験道の元祖となった。それを引き継いだのが仏僧行基である。初めは律令制の攪乱要因と観られていた行基の民衆仏教が、律令制の制度的欠陥たる無籍民対策をカバーしてくれたことから、行基大菩薩と讃えられる。

これ以来、渡来系都市雑民の社会政策を、律令国家が行基の流れを汲む宗教勢力(律宗本山西大寺)に委託したかのような形になる。西大寺は土木建設事業を始め、労務者の福利厚生・療養介護・環境衛生・埋葬・道路港湾など、戦前の内務省が行っていた建設・運輸・厚生・労働など広範囲にわたる行政を自主的に運営した。

これら無籍の役民(非農業民)は、傀儡のように拠点を定めず、散所と呼ばれた集落に集まり、運輸・駅逓事業や葬礼・埋葬・芸能・らい病看護・製薬行商など、様々な雑事に従事して事業収入を得ていた。その一部が彼らを管掌した西大寺に貢納されて西大寺基金として積まれた。

大塔宮の王子が北朝の光厳天皇の皇子にすりかわり北朝崇光天皇となり、その皇子の栄仁親王が伏見殿の初代となる。つまり、伏見殿は大塔宮護良親王の直系子孫であり、西大寺と伏見殿は、護良親王を父とする双子のような関係にある。

西大寺に迎えられた護良親王は、西大寺律宗の首領として全国に極楽寺のネットワークをつくり、非農業民たちの製薬・行商・救らい病事業の拠点とする。西大寺の事業は貨幣経済の浸透で莫大な収益を上げる。

北朝に対抗して吉野に立て籠もった南朝勢力は、吉野の山中に散在した自然金を採取して蓄える。吉野から高野山にかけての水銀鉱脈から採掘した水銀を製剤原料とし、河内・和泉・紀伊を本拠にして列島沿岸の海運を握る和田楠木氏に任せた。空海は紀伊で採れる水銀を原料とした水銀製剤を伝染病の特効薬として売りさばかせ、高野山密教の主要財源としたが、南朝勢力はそれを引き継いだ形で、吉野産の水銀から伝染病・皮膚病の特効薬として製造・販売した。その販売に当たったのが西大寺傘下の非農業民(非人)衆で、全国の散所に設けられた極楽寺を拠点に行商し、併せて大塔宮後裔の西大寺と伏見殿のために諜報活動も行っていた。

西大寺の基金は、この事業収益を集積して莫大なものとなった。大塔宮はこの資金を用いて、畿内から鎌倉に至る本州沿岸の要地に港湾を建設し、海外交易の拠点とした。これが後に伏見宮海外ネットワークになるが、さしもの莫大な基金も港湾建設事業で蕩尽した。

大塔宮護良親王の入った西大寺は、大陸貨幣の流入による散所経済の興隆に乗り、西大寺流律宗系の散所が莫大な富を築く。その資産を用いて大塔宮護良親王は、全国の街道筋に数多くの極楽寺を建てて、散所民の行商拠点とする。
護良親王は、極楽寺ネットワークによりさらに積み上がった西大寺の資産を用いて、全国各地の沿岸に港湾を建設したので、さしもの西大寺ファンドも蕩尽したが、これによって海外進出の基盤ができたので、以後の散所経済は海外進出にまで及ぶ。

西大寺配下の散所経済を継承した伏見殿は、西大寺が蓄積した資金を用いて各地の港湾施設を新設・整備した。そこで、楠木氏・名和氏ら、及び村上水軍・熊野水軍(根来水軍)・九鬼水軍らが、遠洋船隊を組織して、沿岸貿易に留まらず海外貿易にも進出した。例えば、角倉了以は河川掘削を本領とする数理科学的測量集団の要員である。このような水軍衆と測量衆は、悉く伏見殿の配下であった。

室町時代に出来た伏見殿配下の各種の特殊技能集団(高等忍者)を皇統奉公衆という。その一部は、室町時代からオランダを拠点として海外活動をしていて、毎年数人の奉公衆がライデン大学に派遣されて西洋学術を学んでいた。奉公衆の活動分野は西欧のみならず、当時全く無主の原野であったシベリアで砂金や貴重鉱物の採取をしており、日本に莫大な砂金を招来した。

皇統奉公衆には真贋の二種があり、「真」はアマテルを拝する大峰山系修験で、「贋」はスサノヲを拝する大江山系霊媒衆である。大江山系霊媒衆という呼び名からも伺われるが、皇統奉公衆には丹波者が多く、維新直後から満州に進出して現地人と化し、馬賊になっていた者が多いと云う。

折から世界的な大航海時代に入り、伏見宮ネットワークはこれに同期して世界に広がり、オランダに恒久的拠点を設ける。伏見殿がオランダのライデン大学に送り込んだ代々の要員が採集した海外情報が常時日本にもたらされ、伏見殿を通じて天皇に届けられるルートが完成し、室町時代から江戸時代に移っても続いた。従って、江戸幕末の皇室は、幕閣を上回る海外情報を常に得ており、これを判断基準として、列強の恐喝に屈して不用意な軽挙妄動に陥ることなきよう、幕閣の対外政策を監視していた。

現在の表の天皇家は南朝・百済系ということは、伏見宮系が北朝・新羅系ということになる。この百済系・新羅系が交代で鎌倉時代まで賀茂斎院と御所で入れ替わって君臨していたということ。これが日月神示がいう岩戸開きが過去7回あったということであり、次に出て来る本当の天照大神がスサナルであるという話に結び付く。スサナル(スサノオ)は出雲であり地祇系であり、北朝なのです。新羅・百済交代説からもこれは当然の帰結です。ですから、今、出雲がクローズアップされているのでしょう。


■裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/002645.html
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桓武平氏=南朝と言われる織田信長が楽市楽座を作ったのも納得がいく話です。

ネットで流布している内容では3人の天皇は、、、

■天孫系天皇=明仁今上天皇
■地祇系天皇=サンカの大元様(スイス在住)
■天神系天皇=玉置神社の奥の院

※玉置神社のある十津川村は一度も支配を受けたことのない地であり、租税も免責だったという。

ということなのだが、このスイス在住のサンカの大元様とはサンカを仕切る大ボスという意味ですが、散所を仕切っていたのが世襲親王家(裏天皇)である伏見殿であることから、サンカの大元様(地祇系天皇)=伏見宮系末裔ではないかと見ている。まぁ、実際、伏見宮系の梨本宮から朝鮮李王朝へ嫁いだ李方子から生まれた日韓合同朝廷の長男が米国政府高官のアンダーソン家に養子縁組されて、3つの世界最高評議会議長になっており、ベルファシ勢力(旧コミュニスト)の大幹部であったことから、この説は裏付けれる。多分、ビンゴだろう。

伏見宮家紋
(旧伏見宮家紋「裏菊」、、、、裏天皇にふさわしい名称だ)

ただ、下線を引いた箇所の伏見殿の出自が南朝というのは気になる。「南朝=桓武平氏=藤原式家=天孫系」であるが、これではサンカ支配の地祇系とは辻褄が合わなくなってしまう。まぁ、この辺の捩れは落合莞爾氏の誤解かもしれないし、まだまだ洞察が必要だ。

国内を安定化させる場合、対立勢力を取り込む必要がある。

斎宮・斎院の位置から裏天皇(表以外の2人の天皇)は以前、、、以前と言っても鎌倉時代ぐらいの大昔のことだが、、、多気と賀茂に居ただろうということは判明する。賀茂神社本殿壁にはユダ族の獅子とエフライム族の一角獣の絵があることから、賀茂斎院は今までの経緯から仲が悪い天孫系(ユダ族・百済系)と地祇系(エフライム族・新羅系)がその時々の社会情勢で各々が裏となり表となった天皇血胤を絶やさずに維持保存、さらには近親化して完全分離化しない為のシステムであることまでは分かった。この合体が秦氏祭祀が下鴨神社に移管された真の理由であろうが、この先には古代の統一イスラエルの再興という野望があると睨んでいる。つまり、統一イスラエル再興(NWO)時には北王国・南王国が必要であり、両族が喧嘩して淘汰消滅しない為の保存システムでもあると思う。

オイラは以前、賀茂社紋の「二葉葵」を兄のエサウ(エドム人系)と弟のヤコブ(古代イスラエル人系)の合体象徴と洞察してしまったが、これは明らかに誤りだった。この社紋は天孫系レビ族と地祇系レビ族の統合合体を意味しているのだろう。つまり、賀茂斎院が古代イスラエル系(北王国+南王国)の皇統譜の一元管理をしていて、誰が次の天皇の后にするかを決めた。
※天皇を擁立して決めるのは表の藤原家。賀茂と藤原で王に油を注ぎ祝福するという構造。

二葉

で、一番の問題は天神系天皇

これがサッパリ分からない(滝汗)。

伊勢大神=天照大神=太陽神ですが、この神への天皇祭祀を請け負っていたのが伊勢斎宮の斎王。その斎王の生活の場である「斎宮寮」のあったのは多気郡竹郷。そして、この付近には日置氏が分布し日置田が置かれていた。斎宮寮の真西は大神神社であるが、ここは三輪山の山頂に日向神社が置かれ冬至の日に儀式を行われていたともいう。勿論、太陽信仰である。その太陽を拝む三輪山を御神体としているのが大神神社。大神神社の祭神は伊勢内宮と同じだという。

また、東の伊勢に対し落日西海の地の日沈宮(ひしずみのみや)と称された出雲の日御碕(ひのみさき)神社の神官は日置一族。このように日置氏は文字通り太陽祭祀氏族であり、日置部が日祀部とともに古代天皇の日神的権威を奉斎した宗教的部民であった。

太陽の子午線が交差するところに石を置く、、、

これが日置氏の名の興りだと考えていますが、下画像のようなものを沢山作っていたのだろう。

石01
(日時計じゃありません)

つまり、、、日置氏はトルイド神官団末裔か!!!

■賀茂氏=南ユダ王国レビ族=天孫系
■秦氏=北イスラエル王国レビ族=地祇系
■日置氏=エドム人ドルイド神官=天神系


という感じか、、、語り部説でも秦氏=出雲系=地祇系となり違和感はない。
※高度自給自足ブログ様は秦氏・賀茂氏共にユダ族側としている点は焦る(汗)。

玉置神社の奥の院・玉石社には三本の巨木の杉の間に石が置かれているが、あの石を巨木の間に置いたのは一体誰なのだろう? 玉置氏も日置氏同様怪しい(爆)。

伊勢斎宮を創設した天武天皇は壬申の乱の前、何度も吉野に通っていろいろと謀議していたという。ただ表向きは修行とされていたが、、、。その後の持統天皇も二十数回も吉野通いをしている。非常に不思議な行動です。そして、玉置神社は吉野大峰道が通じる場所でもあるが、吉野でおち合って会合でもしていたのだろうか?

斎宮・斎院での注意ポイントは「斎宮」を作った天武天皇と「斎院」を作った嵯峨天皇はいづれも新羅系勢力(地祇系)がバックである点です。地祇系にはこういった智恵があったのかもしれない。

日本におけるドロンボー一味は各々の天皇を擁して背後から利権を貪る地祇系、天孫系の各外来勢力であることまでは分かりましたが、それを認めながら指令を下し操っているボスがいる。

ドロンボー01
(愚直で律儀な地祇系がトンズラー、智に長けた天孫系がボヤッキー、彼らを擁し、一応、天照大神の女性神を崇める天神系=ドロンジョがリーダー。ドロンジョ額の「D」はドルイドの「D」でもある。だが「~まんねん」と関西語を話すがトンズラー西日本に基盤がある天孫系、故郷の会津若松に恋人のお花ちゃんを残してきたボヤッキーが東日本に基盤がある地祇系だという逆の見方もあるが、、、汗)

それは、、、「お日置きだべぇ~」

が口癖のドクロベエ様であることは云うまでもない(爆)。
※ヤッターマンではドクロベエは宇宙から来たXYZ星人だったというオチでしたが、現実世界の場合、ヒトラーを操ったのと同じ「次元の航空機(隙間)」に住む異次元人であろうと睨む。

このボスこそが虎の穴の三人のボスを影から操った「虎の穴」創設者であるダイガー・ザ・グレートでもある。

ボス
(白虎のタイガー・ザ・グレートとドクロベエ)

いづれもがドクロをモチーフにしている、、、、

つまり、天の白い王、、、これが大ボス(ラスボス)なのだす。
※天皇陛下とは本来は「天皇の梯子の下にいる者」の意味であり、文字通り、天皇(天の白い王)の意を伝える代理人のことである。

死神
(ミトラであり魔多羅神でもある再臨のイエス)

う~む、最初はマジメに書こうと意気込んだのだが、、、最後はいつもこうなる。まぁ、これがヤッズ★スタイル(アイドルやアニメと陰謀論の融合)なので仕方がない(爆汗)。
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徐福とスサノオ

オイラが徐福フェチであり、またスサノオフェチなのは今までの記事で公開した通り(爆)。

ただ語り部の語る歴史は、出雲神族末裔の富氏の秘密伝承や名無し先生の話と一致しない部分も多々あり、また東三川において徐福関連遺跡が全然出てこない点で怪しい雲行き状態ではある。なので今回、少し語り部説から離れて洞察していこうと思う。

特に一致しない箇所は出雲に関してですね。

出雲王朝の成り立ちや王がどうもアンマッチなのです。特に出雲で一子相伝された富氏の内容はその性質上、看過出来ないものであり、この辺をすっきりしないことには、、、、オイラの洞察内容に翳りが出る。

当然、カラス自らの言説に基づく内容なのですが、名無し先生によると日本への渡来人の血筋勢力は大きく分けて3つあるという。この血筋を基とし国家を跨いだ形でアジアを利権区分化したのが【天神系・地祇系・天孫系】の3つの区分。それぞれの勢力にはトップがいて、それが日本の3人の天皇というわけです。

これにオイラの今までの洞察内容を加えたのが下記です。

【天神系】 第1陣
大陸の地殻変動により現在とは陸地の状態が大分異なり、バルト海沿岸を出自としアラスカ周りで日本列島に入った、1万年の時を超える朝廷で現在443代目。日本列島到着第一陣は、現在の中国、ロシア方面を産地とする黒曜石を矢じりの材料として日本に持ち込み、青森の十三湊を拠点として日本全国に交易。縄文時代の武器の元締めで、仙台辺りに都を築いていた。紀元前2500年ごろスウェーデン南部からはるばる海路で日本の東北へ来た部族があり、その後BC1000年ごろ九州へ上陸した部族がいた。聖書に突然登場する「海の民」がこれらの動きの一つで、ヤペテ系に相当する流れ。地中海方面に向かいサルディーニャを中継基地にしていた「海の民」はここから世界中を航海。そして第2,3陣の祖にもなっている。
※「海の民」とはヴァイキング(デーン人)、客家(ペリシテ人)、フェニキア人、エトルリア人...等の三国間貿易商人の集合体。
※ドルイド神官団を輩出したのは「蛇神アトゥム(ラー)」を祀るエドム人とエラム人(シュシャン人)。


構成主体: 三菱閥???
天皇: 玉置神社の奥の院
バック: ヘッセン=ナッサウ勢力(マウントバッテン、サヴォイ...等の欧州貴族)


【地祇系】 第2陣
北イスラエル族はシルクロード、朝鮮半島を経て日本列島に到着し出雲に都を作った。 広義には天神系の流れからの分かれで紀元前数千年頃にまとまり、別ルートで日本に辿りついたオロチョン、ウィルタ(オロッコ) 、ナナイ、エヴェンキ、シボ...等のツングース系狩猟民族も含む。
※北イスラエル族はサルゴン2世により北王国滅亡しアッシリア捕囚(BC722年)。捕囚後、許されてBC7世紀のアッシリアを出た。

文化伝達手段: 神楽(→猿楽→能→歌舞伎)
構成主体: 北朝(藤原北家・新羅・源氏)、旧帝国陸軍、皇道派、近衛閥、サンカ、エタ、ヒニン、卍党(大本...等)、寺院仏閣、テレビ東京
天皇: サンカの大元様(スイス在住)
バック: イエズス会、香港資本


【天孫系】 第3陣
紀元1世紀にローマを出た南イスラエル海洋族は稲作と天孫降臨伝説を日本列島にもたらした。ダビデの父エッサイ(イエス・キリストの両親の祖先にあたる)からの流れ。
※ファリサイ派・・・反ローマ、サドカイ(サドク)派・・・親ローマ(ローマに順応している裕福な上級階級が主体)
※ネブカドネザル王によりバビロン捕囚(BC586年)され、その後のユダヤ戦争(AC66~74年)で負け南ユダ国はローマ帝国の属国化。70年にはエルサレム神殿は完全破壊。神殿が無くなり依り処を失った神殿派レビ族は霧散し、ローマ帝国中枢部に入り込んだ。レビ族内でもアロン直系末裔のサドカイ(サドク)派とダビデを敬うイズハル末裔のサムエル派には深い確執がある。
※「エッサイの根」はエッセネ派。イエスの母マリアは、エッセネ派の祭司の娘。父ヨセフはエッセネ派のナガー(アラム語の学者)。エッセネ派は大祭司を世襲していたザドク家の精神を受け継ぐ宗教的エリート集団。ハスモン朝がザドク家出身者以外の者を大祭司に任命した事に抗議して死海北西部砂漠の丘陵地帯・クムランに隠凄した集団。エッセネ派はユダヤ教の一派とされているが、死海文書から見えてくる教義は、天上の主・メルキゼデブ(マイトレーヤ)が、世界最終戦争で悪と戦うというものでミトラ教そのものに近い。


文化伝達手段: 浄瑠璃(→文楽)
構成主体: 南朝(藤原式家・百済・平氏)、旧帝国海軍、統制派、九条閥、国家神道
天皇: 今上天皇(明仁)
バック: メーソン、英国資本


過去記事でオイラは「地祇系」をローマ~新羅経由と何度か書いてしまっていたが、これは新羅の遺跡がローマ文化が入っていることから深く思い込んでしまっていた為。これは間違いでした。正しくはローマ発は「天孫系」でした(汗)。

海の民=フェニキュア人であり、彼らは祖を同じくするユダヤ系。古くはハム系のペリシテ人も含まれる。このフェニキア人はカルタゴで文明を作っている。ポエニ人とはフェニキュア人を指すローマ人の言葉であるが、初期の王制ローマ(紀元前753年 - 紀元前509年)の王7人のうち最後の3人の王は異民族のエトルリア人であったとされ、「海の民」はエトルリア(イタリア半島中部の都市国家群)に向かった者とサルディーニャに残った者に分かれたことから、エトルリア人とは元々は「海の民」であった。

サルディニーア島
(サルディーニャ島 テンプル騎士団と同じマーク!)

このエトルリア人の異民族支配を駆逐し建てたのが共和制ローマ(紀元前509年 - 紀元前27年)。

これはラテン人による反逆ですが、共和制というものの実際は貴族(パトリキ)からなる元老院が政治独占した寡頭支配国家。

兵装自弁した自由農民からなる重装歩兵が当時のローマ軍の主力でしたが、彼らは自前で資金を賄い戦争に参加。これがローマ市民権を得る為であり、またローマ市民の責務であった。戦勝を重ね領土拡大し帝国が強勢化するにつれ、彼らプレブス(平民)の発言力は次第に高まっていった。当時、政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求し始め貴族は徐々に平民に譲歩。平民の権利を擁護する「護民官」を設置し、十二表法で慣習法を明文化。さらに、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法によって、トリブス民会の決定が元老院の承認を得ずにローマ国法になることが定められる事態にまで至った。

しかし、3次に渡るポエニ戦争(紀元前264年から紀元前241年)で戦争が長引き、働き手がなかなか帰ってこない農家は農地荒廃し収入激減。さらに戦勝によって新たに加わった属国からの輸入品で農作物価格は暴落。これらのことから没落して農地を手放す農家が続出。その土地を貴族が買い取って属国から買い取った奴隷を使役し大農場経営(ラティフンディウム)するようになっていった。

平民の台頭を極度に嫌うのが貴族(真の支配階級)
※王族は貴族の神輿、王冠に過ぎない。

つまり、ポエニ戦争とは平民の富や発言権を簒奪し地位安定を図った貴族がカルタゴ支配層と組んだデキレースなのかもしれない。その後に起きたユダヤ戦争も同様か? まぁ、裏で糸を引いている者がいると睨む。そして、今、こういうことが日本でも起きようとしている?

国際商業国家カルタゴの戦力は傭兵が基本。第三次ポエニ戦争で「マゴ家」(バルカ一族)をはじめとする国際商業金融家たちは厖大な資産を伴ってイベリア半島へ脱出し、多くの都市国家を建設。その最大の1つがバルセロナですが、元々はハンニバル(バールの栄光)の父・ハミルカル・バルカが建設した都市でもある。彼らの拠点都市国家「ヴェネチア共和国」からローマ帝国内に入り込み、次第にローマ帝国を内部から経済的に侵食していった。ローマ帝国版図は「海の民」の通商領域に沿岸国家を合わせた強大なものとなっている。

ローマ帝国とは古代のNWOだった。
※ヴェネチア・カーニバルはカルタゴ同様の仮面文化。「300人委員会」もカルタゴ起源。それ以外にも両国家は経済形態が共通で政体も類似している。

黙示録では預言者(レビ族)がユダヤ滅亡を声高に語っていますが、これは預言が当たったというよりも、ローマを操ってユダヤ王国を滅ぼさせる計画を言っているだけのこと。同様な通商国家であるユダ国という古い殻を壊しているだけであり、ローマ帝国という新しい法人に取り込むためのもの。預言自体がマッチポンプだったわけです。預言(予言)には必ず裏がある(ふふふふ)。

さてさて、3つの渡来勢力の話に戻るが、ここで特筆すべき内容は下線部の「地祇系(北イスラエル族)が出雲に都を作った」という箇所。

確かに出雲には大量の銅矛・銅鐸を出土した加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、巨大な3本柱を束ねた出雲大社の中古時代の柱跡もあり、ここに強大な王権が存在したことは確かなことです。

それ以外にも出雲にはヒトデのような特異な形状を持ち、当時の最高技術を駆使して造成された「四隅突出型墳丘墓」があり、ここからガラス製の勾玉や腕輪などの副葬品、鮮やかな朱..等が出土しているように何らかの渡来勢力の痕跡が認められる。特に.岐阜県本巣市の船来山古墳群と同じく初期大王家(北イスラエル族)の香りがプンプンするのです。

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(四隅突出型墳丘墓 「出雲弥生の森博物館」のジオラマ。諏訪の御柱祭の原点がここにある。)

出雲王
(出雲王?、、、、額に角がある貴人)

しかも、これらは2100~1900年前(紀元前1世紀~紀元2世紀)と卑弥呼の時代(3世紀)より以前のもの。確かに名無し先生の言われるように、出雲には北イスラエル族が都を作った痕跡が色濃く残っていますね。
※出雲系の縄文人は古墳を作らない

この古墳形状は異様だ。
前方後円墳がユダヤ三種の神器「マナの壷」を模ったものならば、これもまた何かを模ったものだろう。
※実際にはマナ壷はマナセ族のものであり、その他も全て北イスラエル王国の所有物。

マナ壷
(マナの壷)

そ、そうか、、、これは契約の祭壇だ!

nisitani-40.jpg
(四隅突出型墳丘墓)

旧約聖書「出エジプト記」の27章(新共同訳)にはこうある。

*****************************************
27:01 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとする。
27:02 祭壇の四隅にそれぞれ角を作り、祭壇から生えているように作り、全体を青銅で覆う。
27:03 灰を取る壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具はすべて青銅で作る。
27:04 祭壇の下部には青銅の網目作りの格子を付ける。その網の四隅に青銅の環四個を取り付ける。
27:05 網目格子は祭壇の半ばの高さにある、張り出した棚の下の部分に付ける。
27:06 祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒を作り、それを青銅で覆う。
27:07 この棒を環に差し込み、祭壇を運ぶとき、その両側に棒があるように整えておく。
27:08 祭壇は板で造り、中を空洞にする。山であなたに示されたとおりに造りなさい。

*****************************************

下線部の「祭壇の角から生えたような形状」が四隅突出型墳丘墓なのです。

また「縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマ」から5:5:3の比率であることが分かり、「祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒」があることから可搬性祭壇であることも分かる。以上から出雲に渡ってきた者たちは、聖書の民であるイスラエル人のうち北王国【地祇系】の者たちが祭壇を携えて来たことが分かる。このように日本列島へは契約の箱(聖櫃アーク)を安置する祭壇、マナ壷....等の神器がゾクゾクと運ばれてきたのだろう。

一方、富氏が語る内容では龍蛇族(出雲神族)は、、、

紀元前2000年(約4000年前)の出来事として、「この世が一夜にして氷の山になった。大先祖であるクナトノ神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。これは、今から4000年も前のことである。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」とある。さらに富氏は「東北の山や湖に関する伝承が多いことから、ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろう。」ともいう。

この辺は名無し先生の内容とも一致。

実際、雲伯方言は中国方言に囲まれる形で存在しているが、雲伯方言は東北方言と共通する特徴(ズーズー弁、裏日本式発音)であり、それが飛地状に分布している。こでは彼らが東北出自であることの証左でもあるが、この裏日本地域に押し込められたともいえる。

雲伯方言

出雲神族は高貴な人は風葬で弔い、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。3年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋め、木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座となった。また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を願い宍道湖に沈める「水蔡」だったという。

トルニャン風葬
(バリ島のトルニャン村の風葬)

BC2500年頃に朝鮮半島を経由して帰還した出雲神族が大和族に滅ぼされる前に祀っていた神は久郡戸(クナト)大神であり、これは伊弉諾、伊弉美大神の長男であって出雲王朝の始祖でもあるという。現在では出雲井神社に祀られているが、出雲井神社は出雲大社の東の宇伽山(ウガヤマ)の麓にある。

ウガとは「蛇」のことであり、稲荷神の宇迦之御魂神のウガでもあり、文字通り宇迦之御魂神とは「蛇の御魂」。また、大神神社も主祭神の大物主大神は蛇神。更に、伊勢斎宮に夜な夜な訪れ斉王と交った伊勢神宮の祭神も蛇神だと言われるが、これらも全て同じ蛇神なのだろう。実際、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌には、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。いわくら(磐座・言わくら)や」の言葉があり、三輪は伊勢神宮の元であることが伺える。
※血統補完システムである「斉宮」に訪れた男神とは、伊勢神宮に入った皇族のことでしょうね(笑)。

その他、富氏極秘家伝の内容を列挙すると、、、、
※現在、富家は消滅し花田家に一子相伝は継承されたが、花田家も消滅し、今は春日家が継承中。出雲にはこういった日本の歴史を解く家柄が点在している。

スサノオは出雲神族から遅れて朝鮮半島から砂鉄を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により混合。

■スサノオは須佐地方の一首長に過ぎず、オオクニヌシとは血縁は無い。渡来人でありオオクニヌシと敵対関係にあったが、記紀の作者が出雲親族と結びつける手段としてスサノオをオオクニヌシの父、又は祖神としたため両者の戦いをヤマタ大蛇退治の形で描いた。

■スサノオはオオカラ国(任那加羅)の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアラシチカンキ。
ソナカシチ=牛のように角の出ている貴人(朝鮮語で、ソ=牛 ナカ=出て来る シチは尊称)
ツヌガアラシト=角がある人
ウシキアリ=額に角があること
「韓国史」の中で韓国の学者は、弁韓及び辰韓人たちが、かぶった冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ。と述べている。垂仁天皇の条には「御間城(みまき:垂仁)天皇の世に額に角がある人が船に乗って越国(福井県)
の笥飯:けひ(気比)浦にやってきた。そこで、この地を角館(つぬが:敦賀)と言う」とある。

■神話の「国譲り」の場として有名な稲佐浜で天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命が、この砂浜にホコを突き立て「否(いな)、然(さ)」と迫った。私の先祖は、侵略者の目の前で抗議の自殺をした。コトシロヌシは天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。の時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。

■出雲族は大和族神武に敗れる前には当時の日本で出雲帝国と思われるほど近畿(伊勢を含む)、北九州、山陰、北陸(越)などを支配しており、鍛冶や製鉄技術を持つ集団で、武器(剣)の生産量が一番だった。

■大和や紀伊は出雲の分国」出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していた。

■富家、神門臣家の2家が土着の出雲族

■出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。

■オオクニヌシはオオナムチ・ウツクシタマ・アシハラシコオ・ヤチホコ・オオモノヌシ・など多くの名前を持つ。オオクニヌシは代名詞で十七代に渡り何人もいた。上記の名前も実名ではない。クナトノ大神も五十代。オオクニヌシが「大黒様」、コトシロヌシが「えびす様」になったのは平安末期のことで、出雲は平田市鰐淵寺が一時、大社を領有し本地垂迹説から七福神の一人として仕立てあげた。

■藤原氏は帰化人。氏素姓を高める為にどうしても天つ神の系譜が欲しかった。最初は天ノコヤネノ命を祖神とし、次にタケミカヅチを担ぎだした。大社社家(千家氏)は祖神のコヤネから40代を藤原氏に奪われたが、その権力に抵抗できず(黙認?)。ミカヅチは作り出された神であり記紀に載せられた。

サンカは出雲神族の諜報機関だった。

■タケミナカタは北陸路を北に向かい越後に入り、姫川を上って千国街道(別名糸魚川街道、松本街道とも)から信濃に入った。諏訪の先住民である守屋一族は出雲族の侵略だといっている。「諏訪大明神絵詞」では守屋(洩矢)氏とタケミナカタとの戦いの様子を語っており結果はタケミナカタの勝ちであったが、タケミナカタ系は大祝(おおはふり)という象徴的な地位に祭りあげられて諏訪神社の祭祀の実権は守屋氏が握っていた。



謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住
(1980/05)
吉田 大洋

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なかなか重大な内容ばかりです。

斎木雲州(谷戸貞彦日大教授)が出雲や丹後などの旧家に直接出向いて聞いてきた伝承をもとに書いた本である『出雲と大和のあけぼの』にも、富氏家伝が掲載されており、そこには、、、、

富家の伝承では、スサノオは、紀元前2世紀頃、始皇帝の頃の秦国から出雲に渡来し、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。その後、秦国に戻ったスサノオは、再び日本に上陸し、北九州に住んだという。
(『出雲と大和のあけぼの』より)



出雲と大和のあけぼの―丹後風土記の世界出雲と大和のあけぼの―丹後風土記の世界
(2007/10)
斎木 雲州

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これは非常に重要な証言です。
紀元前2世紀、始皇帝の頃の秦国から2度日本渡来、、、、、これは徐福を彷彿とさせる。しかも蘇民将来の話でも一度南方へ行った後に再び訪れ、印のない家は皆殺しにしたという話になっている。これも徐福の2度の来日を彷彿とさせる。

う~む、徐福=スサノオ(牛頭天王)だったのか?
これは恋人がサンタクロースだった時以上の衝撃です。

実際、徐福は秦始皇帝に不老不死の薬を探しに行くと称して日本に亡命し、五穀を日本に伝えたとされている。また日本神話では高天原から新羅経由で日本に来たスサノオの髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠....と植林したとあり、スサノオと徐福はイメージがダブルのです。

ただ、九州居住となると佐賀県の徐福伝承が俄然優位となってしまう、、、、
※佐賀・金立山の伝承では徐福は大明国秦始皇帝の第3皇子となっている。

三河徐福説の最大の危機だす(爆汗)

徐福=スサノオ説は『伯耆国風土記』にも載っていて、それによると秦国から渡来した徐福は、事前に部下の穂日(ホヒ)を出雲王国に遣わして、徐福の上陸許可を得るという周到な準備をしたという。

その後、徐福と穂日および穂日の息子タケヒナドリたちは、謀をして出雲王国第八代の主王(オオナモチ)の八千矛(記紀では大国主と書かれた)や副王(少彦)の八重波津身(記紀では言代主と書かれた)を誘い出して、別々に幽閉し殺したという。徐福の集団の一部は、伯耆国の夜見の島や相見の郡にも移り住み、彼らの子孫が住んだ米子市やその近辺には、徐福の名にちなんで「福」の字の入った地名が付けられ、福市や福原の地名となって残っているという。

徐福上陸地が石見の国(島根県太田市)の五十猛海岸の神島ですが、、、、

神島
(五十猛海岸の神島)

う~む、流石にここには上陸しないだろうwww

しかも、徐福が目指した蓬莱山、方丈山、エイ州山の東海三神山に比定できそうな山はこの近辺には存在しない。浅利富士と呼ばれる至宝山もあるにはあるが、標高256mでは威容に欠ける。徐福本隊はここには定住しなかったと見る。

これも真の徐福上陸地を隠す為に伝承移転させられたものの1つに過ぎなのではないか? 日本にはこういった風土記が多く全国に24箇所の徐福上陸地の伝承がある。近くの丹後半島東岸の東には「常世島」と呼ばれている「冠島」がありますが、『丹後国風土記』には徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したと言われている。また冠島は海部氏の祖「天火明命」の降臨地とされる地でもあるが、大きさからいってまだコチラの方が合っている感じ。

富氏が「出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。」「大和や紀伊は出雲の分国」とあるように、古代出雲は紀伊半島をも支配下に置き、ナガスネヒコが統治していただろうと思う。その名残が葛城郡の葛城氏やダンノダイラや大神神社ですね。ナガスネヒコ敗退後は、祖地・十和田に移住して東日流外三郡を束ねているが、その末裔がアテルイだろう。
※アテルイ(大墓公阿弖利爲・たものきみあてりい)・・・平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

ただ、このクナトノ大神を祀る熊野とは、紀伊半島の熊野ではなく、島根県松江市八雲町熊野にある出雲国一宮・熊野大社のことで、『延喜式神名帳』には「熊野座神社」と記される程に古く神社。出雲大社宮司が熊野大社を訪れ新嘗祭で使う神聖な火を起す臼と杵を受け取る儀式「鑽火祭(さんかさい)」が毎年10月に行われますが、「熊野大社>>>出雲大社」という上下関係でもある。出雲の熊野村から紀伊半島へ移住した際に勧請したという伝承があり、出雲熊野→紀伊熊野という流れが本当のところではないか。ちなみに、出雲の熊野大社の祭神は「伊邪那伎日真名子」(イザナギが可愛がる御子の意)でスサノオ。つまり、紀伊の熊野もスサノオを祀っているということになりますね。

ここから分かることは、、、

櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ=家津美御子

櫛御気野命の「御気」は御食または御木の意味であり、「ケ(家)」は食物の意味。このことから植林神・農業神・食物神を意味しますが、豊受大神や稲荷神も食物神ですね。一般に家津美御子は「食の御子」=食物神と解されているが、船の用材を司る「船玉神」としての「樹木の神」の方が濃厚であると熊野本宮・九鬼宮司はいう。

紀の国は「木の国」。これなどスサノオが自らの毛(ケ)を使い樹木を植林した話を連想させるが、食物が五穀を日本列島に持ち込んだのは徐福。やはり熊野大神とは徐福なのだろう。そして、それはスサノオとして崇められたということか、、、、オイラのマン毛狂写輪眼にはそう映る。

「樹木」かぁ、、、

アニメNARUTOの木遁忍術の千住柱間を彷彿とさせる話ですが、これは忍術を始めた「六道仙人」の元ネタは徐福だったというオチになりそう(爆)。
※六道仙人の肉体能力は2つに分けられ、「眼」は火遁使いでスサノオを極限技とする写輪眼のうちは一族に、「体」は木遁忍術の千住一族に引き継がれた。また六道仙人のチャクラは魔像(大魔神)に一旦は封じられ、その後更に10個に分けられたが、その最大のものが九尾妖狐(ダキニ天)。火遁と木遁が六道仙人(徐福)解読のポイントでもあるが、これは「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の関係の解読に他ならない。やはり日本の謎を解くには三川が最重要ポイントなのだ(爆)。そして「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の融合地点には「神島」があるが、木と火は日本武尊が火攻めに遭った際に草薙剣で難を逃れたように「火(穂)の国」と「木(紀)の国」は熱田神宮の草薙剣で燃え盛る状態を防がれているのかもしれない。

六道仙人
(角のある六道仙人の姿はスサノオやモーゼを彷彿。名の「羽衣」も豊受大神の「トユケ(天女)」を彷彿とさせるが、羽衣伝説伝承地は渡来人の上陸地でもあり、徐福もまた秦国からの渡来人であった。)

さてさて、引き続き『出雲と大和のあけぼの』に載っている富氏家伝やその他の伝承をみて見ると、、、、

■4000年前、クナト王は古代インドのクナ地方を治めていたドラヴィダ族の王。インドにおけるアーリア人圧迫の際、黒曜石貿易に携わっていたブリヤート人の先導のもと、大勢の部下を連れゴビ砂漠を越え、中国を移動してシベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して移住。その子孫が出雲地方に住み着いた。これが出雲神族で龍蛇(ナーガ)とサルタヒコ(ガネーシャ)信仰をしていた。
※「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承がある。ドラヴィダ語で「サルタ=鼻の長い」の意味

■上陸した徐福は「火明かり」と名乗り、出雲王朝の高照姫(第七代大名持ちの天の冬衣と宗像三姉妹の田心姫との間に生まれた姫君)を奥方に迎え、高照姫が生まれた息子が「五十猛(いそたけ)」とある。徐福の父親は「徐猛(じょもう)」といい、そこから一字取られて付けたと言われている。(富氏家伝)

■徐福の息子・五十猛は香語山と名前を替え、海部(アマベ)家となり、母違いの次男・穂穂出見(ホホデミ)は九州物部家となり、その子孫が東征して大和入りして大和王朝を打ち立てた。約150年の間をおいた前後2回の物部の大和への移動を記紀では神武東征の神話に作り変えられたという。

■徐福の忠実な部下だった穂日の子孫は、出雲の臣を名乗り藤原不比等に取り入って、702年出雲臣果安は晴れて出雲国造となる。この系図の中でオオクニシの子に「ホアカリ」がおり、天火明命(ホアカリ)は度会氏や海部氏・尾張氏の祖先。つまり彼らは同族。この尾張氏や海部氏の系図の中にヒミコ(ヒメコ)がいて、祖先はオオクニヌシとなる。

以上を簡単に系図にまとめてみると下図のようになる。

出雲徐福系図
(黄色部がオオナモチ大名持で出雲王)

この系図では徐福(スサノオ)は宗像三姉妹と全て関係している(汗)。

これは出雲王朝と徐福一族が合体一体化したようなもの。しかも、徐福の九州末裔が物部氏であり、上洛して先に大和王となっていた同族の【海部王朝】を倒して大和朝廷をうち建てたという。

徐福は七代大名持の八千矛を猪目洞窟に幽閉して餓死させているが、このようにして出雲を騙して乗っ取った大泥棒なのが徐福(スサノオ)なのだそうだ。う~む、冷静沈着な学者肌の方士という徐福のイメージが180度変わってしまう話だす。

宗像三姉妹
(宗像三姉妹とは弥生期のキャッツアイ、、、い、いやこれはワイルドボアー(猪)・アイだな)

まぁ、宗像三姉妹は架空人物というのがオイラの説ですが、この三姉妹は弁才天にも模されていますが、「天河秘曼陀羅」の弁才天は「三つの頭を持つ蛇」と描かれるように女性の持つ3つの面である「若い娘・子どもを生む女性・老婆」を表す女神でもあり、これが宗像三姉妹として表現されていると見る。そして、それがオリオン座の3つ星で表現され、さらに航海の安全を祈る西洋のセイレーン的なものとして住吉三神となったと睨んでいる。

天河曼荼羅
(「天河秘曼陀羅」 弁才天とはまさにキングギドラ)

以上が出雲の徐福渡来の概略ですが、この話は飛鳥昭雄氏が八咫烏幹部から聞いた「物部氏は徐福と来たれり!」の話とも一致する。飛鳥氏は卑弥呼は徐福の血筋から出ているとも述べているが、このことは出雲伝承の中にも出て来る話で、今まで洞察してきた語り部内容とは180度違う内容であり、オイラは正直戸惑いを感じている。

徐福は最初若狭湾に到着し、その後、出雲に移動したという。あるいは、採取に出雲に上陸し、その後、子孫が丹後半島に移住したという話もあり、この辺は伝承によりマチマチである。

若狭湾で徐福伝承があるのは新井崎ですね。しかし、飛鳥氏が主張する日本列島逆転(反時計回りに高速移動)からは、魏史倭人伝当時の日本は90度逆転して沖縄の位置にあったといい、これでは若狭湾は中国大陸の反対側となってしまい飛鳥氏自身の説との整合性が取れない。

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オイラは語り部説の熊野や三川が徐福上陸地だと睨んで、渡来伝承の真実がそっくりそのまま若狭湾や九州に移されたという立場を取っていますが、そうしないと本巣市の船来山の集合古墳群や同じく本巣市の継体天皇手植えの「薄墨桜」の説明が付かない。

『出雲風土記』を見る限り、徐福末裔が出雲から熊野経由で三川へ移住してきて、三川の鳳来寺山や東海三神山、湯谷と名付けただけのようにも思える。う~む、依然に比べかなりトーンダウンしてしまったが、そのぐらい四隅突出型墳丘墓の衝撃は大きい。だた、徐福渡来と墳丘墓建造年代には100~200年程の差が存在する。やはり徐福ではないのだろう。

ここで語り部説を加味して考え直してみると、、、

【地祇系】 北イスラエル族末裔

■第1波(前15世紀):オロチョン、エヴェンキ等のツングース系

朝鮮半島→東北に移住

■第2波(前2世紀):秦始皇帝特命で徐福来日(初回)
中国→佐賀上陸(後に北九州への移住) 【前線基地化】
※徐福も始皇帝も姓が「瀛」氏で彼らは同族

■第3波(前2世紀):徐福移住渡来(2回目)
中国→熊野上陸→三川定住(徐福国)
※真の神仙郷を見出し、任務を放棄して帰国せず

■第4波(前1~2世紀):秦人渡来
辰韓・弁韓→丹後上陸→出雲(須佐)上陸→出雲神族混合→葛城・熊野移住
※応神14年(283年)、秦氏の祖は弓月君を祖とし百済より百二十県の人を率いて帰化したの記述。正しくは辰韓(後の新羅)の秦人だろう。これが出雲風土記や富氏伝承の元となった?

■第5波(4世紀):加羅から金首露王渡来
扶余→加羅経由→本巣居住→邪馬台国(4世紀)/徐福国討伐(5世紀)→出雲国譲り(6世紀)→初期大王家(上宮)

※新羅(356年 - 935年)は金官加羅から王を出す。

第3波が出雲神族と習合した渡来系でしょうか、、、、あくまで推測です(笑)。

天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があるという話があるが、獅子は古代イスラエルの10支族のユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族の紋章。 上賀茂神社の本殿にも一角獣の狛犬の姿が描かれている。つまり、徐福もその後渡来した秦人も初期大王家(扶余王家)も北イスラエル族の角を生やした一角獣のような姿(兜前面に角)をしていた為にスサノオ(角のある貴人)とされたのではないか?

記紀はこれら1~5波全てを「秦氏」として1つにまとめ上げ、歴史の闇に葬った。また風土記も「新羅系渡来人=徐福=出雲王朝」として1つにまとめた。これ故、「地祇系=スサノオ=徐福」としても決して間違いではない。

古事記・日本書記に先立つこと7年前、日本各地に風土記を書かせて提出させたのは大和朝廷であり、この書の内容は歴史的事実そのままを記したわけではなく、ある程度、朝廷の意向(藤原不比等の意向)に沿って編纂され記されたと睨んでいる。古事記・日本書記の歴史改竄がばれても風土記というセーフティネットが構築されており、ここで本当の歴史を完全封印するという手の込んだ形を取っているのかもしれない。
※古事記・日本書記と風土記の間には大きな差異がある。人々はこの差異の間に封じ込め。双頭と陰陽。

まだまだ三川徐福国の目はあるのだす~。

いづれにせよ、彼らに共通しているのは道教を奉じ、バアル神である蚩尤(しゆう)を崇め、大地に銅鐸を埋めて祭りの日に掘り起こして祭祀をしていたのだろう。この特徴から彼ら北イスラエル族は「地祇系」と称されるようになったのではないかと睨んでいるのだが、、、、ただ「契約の祭壇」との関係は不明(汗)。

06.jpeg
(三遠式銅鐸が出雲の地でも大量に見つかっている点が不可解な部分)

ナーガ(龍蛇)を祀り、サルタヒコ(ガネーシャ)信仰を持つトラヴィダ人が「出雲神族」の正体だったのですが、彼らがエドム人の東北に辿り着き、そのまま南下して出雲の地に到達。そこへ秦国から逃れて来た秦人(北イスラエル人末裔)がやって来て、出雲神族は婚姻を通じて平和的に取り込みを図ったつもりが、逆に王は殺され国は乗っ取られてしまった。

この強盛化した王朝が出雲王朝ではないか!
※その後、6世紀に国譲りが起き、出雲大社建造(7世紀)へと繋がっていく。

その後、秦人が乗っ取った出雲王朝と初期大王家の間で国譲りが為された際、建御名方神(末裔が諏訪氏)が逃げ延びたのが第二出雲王朝とも言われる諏訪の地。諏訪湖底に武田菱に似た「海底遺構」がありますが、これは四隅突出型墳丘墓を模して諏訪大社上下二社とその神宮寺(東照寺)と社坊(小坂観音院)をX型に配したのではないだろうか?
※元々、諏訪は縄文時代から続く守矢(洩矢)氏の拠点だった。

諏訪湖
(諏訪湖は契約の祭壇?)

少しまとめてみよう。

熊野大神(熊野権現)=家津美御子=櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ

ということは前に書いた通り。
だが、これは下記の怒涛の内容も意味する。

徐福=ニニギ=スサノオ=国常立尊=艮の金神

つまり、徐福始め長屋王までの北イスラエル族こそが鬼門に封じられた「金神」であった。
※佐賀の徐福渡来地は「金立」と呼び、金神との関係を伺わせる。

熊野出身の九鬼家と関連が深い綾部の大本は、熊野本宮の麓に鬼門大金神(玉置の祭神、国常立尊)を祀ったいることから、上記内容の証明にもなりそうですね。契約の祭壇やマナ壷を日本列島に持ち込んだ北イスラエル族(徐福~秦人~初期大王家)は南ユダ族によって東北に封印され、傘下の勢力は自陣営の下に取り込まれた。その状況を漢人末裔である綾部のサンカ・アヤタチである上田家が大本・黒住...等を興し復権を図ったのかもしれない。そして今、北イスラエル族の封印が解け物部神道の復活を通じエルサレム神殿の「三種の神器」が揃って世に出ようとしているのだろう。
※サンカの異称であるオゲ、ホンス、テンハの裏意は「徐福を訝る」「午族は国父を呪う」「午族は倭本族を厭う」ことあり、サンカの異称は大和王権側から見ての蔑称か呪称であり、この異称はサンカの社会的処遇に一致している。

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