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三階松に隠された暗号

前回、北野天満宮の社紋「三階松」が我が家と同じ家紋だと軽く触れましたが、オイラの家の家紋は正確に云うと、、、

「丸に左三階松」です。

丸に左三階松

家紋は随時変化・創作されて変遷・多様化していくものであり、現在、2万近くの家紋が確認されているといいます。また家紋を幾つも所有することは自由だった。関西では女家紋というのもあります。家紋は最初公家の間で広まったが鎌倉時代以後、武家の間に爆発的に普及した出自を示しながら他との識別を図るマークが起源。その後の江戸時代には家の格式を他人に示したりする為のものとして機能したという。ただし、豊臣秀吉の「五三の桐」紋が下層庶民に好まれ使われた例もあるように必ずしも家格を示すものでもない例もある。現在では創作家紋を作りオリジナルの我が家のマークとしている人もいる。

まぁ、武家や公家専用の紋ではないのですが、それなりに不思議な紋ではある。敢えて分類すると「神紋」となるでしょうか。北野天満宮の社紋には「丸」はないのですが「左三階松」です。その云われは一夜に千本の松が生えたところから来ていると前記事で書きましたね。

三階松は菅原氏流の五条氏、前田氏、源氏流の中川氏、岡山氏、平氏流の宮村氏、藤原氏流の松田氏、松村氏、天野氏、中根氏、石原氏、前田氏、内田氏、在原氏流の牟礼(むれ)氏、綾氏(讃岐国阿野郡)がいる。また讃岐藤氏の大野、羽床、新居、福家、香西、飯田がそれぞれの三階松の替り紋を使用しているという。
※註 これ以外にも、桓武平氏が落人になった際に「三階松」を多く採用したというが、清盛の伊勢平氏を指して特に「平家」と呼ぶが、平家は家人も「平」姓を名乗っていたことから、多くの出自を持つ連合体だと思われる。四国の讃州藤氏(綾氏)の一族が三階松を使っているので、瀬戸内の海人系に関係する家紋だと睨んでいる。また大宰府では日宋貿易の要の地であり、大宰府の天満宮と平家の関わりは平家が滅びる迄蜜月が続いたという。また南朝は航海の神・住吉大社を掌握して海人族は南朝方に付いたと思われ、ここに平家-海人族-住吉-天満宮(菅原道真)-南朝-吉野-熊野の霊的ラインが形成されるのです。

「丸に左三階松」の家紋で知られているのは、噺家の立川流一門です。家紋はシンメトリーなデザインが多いのですが、この家紋はアンシンメトリーなのです。社会に対して斜に構えながらバランスを図るトリックスター的なポジションが立川談志(落語家の名跡)だともいえ、納得のいく感じではある。

■立川談志(Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97

実は、この「左三階松」は住吉大社の神輿に書かれているのですが、正確にいうと神輿は「右三階松」なのですが、そのままを描く事は神に対する不敬となる為、鏡像反転させて書かれているのだそうです。
※註 諏訪神社の「奉進納明鏡」という寄進鏡は住吉大神は「左三階松」になっているという。

松の木は常緑で樹齢も長いことから、古来より神や祖霊が宿る聖木とされたことから「松=神殿」と考えてもよさそうです。しかも住吉大社の社殿の配置は手前から奥方向にかけて縦長の「住吉造」と云われる神社建築史上最古の特殊な様式の3つの正殿が並んでいますが、この形態が「三階松」という縦方向に並ぶ意匠として表されているのではないかと睨んでいる。
※註 縦方向に並ぶのは大阪の住吉大社のみ

住吉大社配置01

かつて住吉大社は海に面しており、手前には松と白浜が広がる風光明媚な場所であったといいますが、住吉の神は武門の八幡神の祖神とされている航海の守護神で「海の戦いの神」でもある「水軍の神」。よって「三階松」は「水軍系の紋」でもあるのです。「陸上の戦いの神」が八幡神であるのとは対照ですね。しかも、この住吉大社は平家とのつながりが深い。それは八幡が源氏とつながりが深いのと同じです。

この住江三神と縁が深いのが「三韓征伐」ですが、これは神功皇后が身重の状態で三韓(高句麗・新羅・百済)を攻め勝ったという日本神話上の逸話です。語り部によれば、この征伐は全くの日本の大敗北であり、ここに登場する神功皇后は出雲王朝四代目王・邇波荒田別(荒脛巾 アラハバキ 大国主 坂上田村麻呂 東漢掬 出雲王朝閉朝)がモデルの1人だったという。「三韓征伐」とは扶余救援の為に高句麗への大軍派兵をした扶余王族系の倭仁王君の大敗北を喫した出来事を云っていると思われますが、当初、戦いは有利に進み、新羅を占拠するまでに到ったが反撃されて敗れた。多分、この敗戦で加羅諸国が取られたのだと思われる。これが新羅制圧時に倭王讃を継承した倭王隋(珍)をして「安東大将軍倭国王」と称せられた理由であり、広開土王碑で倭が新羅を制圧し高句麗と戦ったと記されている内容です。

住吉大社の祭神は下記の四柱。

第一本宮(底筒男命)
第二本宮(中筒男命)
第三本宮(表筒男命)
第四本宮(息長足姫命=神功皇后)


中でも底筒・中筒・表筒の三神を「住吉三神」と呼ぶ。
この名称、どうも船の構造を示しているようにも見える(笑)。

ただ、神名の「ツツ」はトムツツ(北極星)、アカユツツ(ペテルギウス)、イユキツツ(スピカ)などの星の神を示す言葉であり、表筒男命・中筒男命・底筒男命はオリオン座の三つ星(御手洗星)のことだと考えらているのです。確かに、3つの正殿は一直線に並んでおらず、第一正殿と第三正殿を結んだ線よりも反れている。そして第四正殿を加えても、それらはオリオン座の星の配置と全く同じになる。

御手洗(みたらし)星=オリオン座の三ツ星

オリオン

これが「三階松」の意匠に込められた秘密の正体。

これが「左三階松」「右三階松」等のアンシンメトリーにしなくてはならなかった理由でしょう。東から昇る時が「右三階松」で西に沈み時が「左三階松」でしょうか。

更に云うと、松が縦配置となっているのは聖書記述にある天使が上り下り来する「天国への階段」(ヤコブの梯子)をも暗喩していて、「丸に左三階松」の「○」は天国を示しているのかもしれませんね(ニタリ)。

これが大本神喩の「梅(怨霊)で開いて 松(アセンション? てんし様降臨?)で治める」の深~い意味になるでしょうか!?(爆)

天国への階段02
(ヤコブの梯子)

また「三階松」が水軍の家紋と呼ばれる理由は、このように航海術には欠かせない三ツ星を家紋に採用しているからです。ただし、ある理由によってそれは表沙汰に出来ずに「星」を「松」でカモフラージュしていた。その理由は後述します。

つまり、三階松は妙見信仰(星信仰)と密接にリンクしている。

みたらし団子
(団子三兄弟の正体は、オリオン座の御手洗(みたらし)星のアルニラム、アルニタク、ミンタカだったのだす~)

住吉(古くは「すみのえ」と読み「澄んだ江」を意味)と吉野と熊野と住吉は密接な関係があって、修験道、海人族、木地師(サンカ)、被差別民のネットワークを掌中に出来るからであり、これが南朝が吉野に御所を置いていた理由である。当然、住吉大社は南朝側に付いたが、勝った足利幕府によって神領地を劇的に減らされてしまったという。

実際、住吉大社宮司家の津守氏邸宅は南朝の御所(住吉行宮)として提供してもいた。語り部によるとこの津守氏は「先住民エブス人=恵比寿=津守氏(久米=武士の意味)等を従える」とあり、アイヌ人(縄文人、エドム人)と同様な中東からの渡来人であった。 また、エブスはエルサレムの別名であり、紀元前11世紀にダビデ王がエルサレムを征服する以前にはエルサレムはエブス人の本拠地だったのです。また、エブス人もオッフル人も紅海とアラビア海の海人民族でり、七福神のエビスは狩衣姿で右手に釣り竿を持ち左脇に鯛を抱える姿をしていますが、これはモロ海洋民族を表している。
※註 「まつろわぬ民」の代表の土蜘蛛・夷・国栖もエブス人だった。

津守とは「津(港)」を「守る」という意味で、元々の名は摂津国住吉郡の豪族・田蓑(たみの)氏。新羅征伐から帰還した神功皇后を出迎えた時、住吉三神の神功があったことから、田蓑宿禰に住吉三神を祀るように言い津守の姓を与えたのが始まりだという。

これ故、「三階松」はエブス人のような海人族と深い関係がある!?
※註 八戸の「南部煎餅」はユダヤの種無し(未発酵)パン「マッツオォ」に似ているが、この煎餅の両面に模様が型付けになっているが、以前には、松ヶ枝が三段乃至五段付けてあって(三階松?)、その裏面には何とユダヤ章がついていたという。南朝の天皇(長慶天皇)は頻繁にこの煎餅を赤松に作らせたという。ちなみに赤松氏の家紋は「三階松」。


確かエブス人はエルサレムの先住民であり、現エジプト人でもあるが、何しろエジプトにはオリオン座の三ツ星を模したギザのピラミッドがあるのです。三階松と同じモチーフを使っているのです。

あと三階松で有名な神社は、九州の宮地嶽神社(福岡県福津市)ですが、黄金色の正殿屋根が眩しい1600年前に創建された古社です。ここでは三階松の焼印を押した饅頭がありますが、残念ながら「右三階松」になっています。半島の海沿いにあることからこの神社もまた水軍に深く関係している。しかも主祭神は三韓征伐した神功皇后であり、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりだというのです。

■宮地嶽神社(みやじだけ)
http://www.miyajidake.or.jp/

三階松紋は、その他にも宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・松崎天満宮(小郡市)・壱岐神社(福岡市)で使用されています。九州に広範囲に広がっている為、一説には九州王朝の紋だという人もいますが、果たしてどうでしょうか?(笑)。

少なくとも三韓征伐に深く関わった水軍の紋であることは動かしがたい感じがします。「三階松」にはオリオンの三ツ星以外にも三韓(高句麗・新羅・百済)という意味を持たせていたのかもしれませんね。
※註 三韓征伐には、神功皇后、竹内宿禰、仲哀天皇が揃ったといいますが、語り部によると神功皇后は倭隋と荒田別がモデルであり、竹内宿禰は倭明=用明天皇がモデル、また仲哀天皇は倭済がモデルだという。神功皇后は身重な状態で戦いに挑み、帰国後、応神天皇を産んだと記紀は述べるが、これは倭隋と荒田別の合意によって百済王家の王子を婿養子に迎え、倭武(百済昆伎)を誕生させたということ。

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古代製鉄では、砂鉄と松(現代のコークスに当たる)が原料であった。山でも海岸でも松林の近くに製鉄所があったといっても過言ではなかろう。「松」の紋章は古代製鉄に係わりの深い氏族が考えられる。この「鉄」から作られた武器や甲冑を「厳物作り」とか「物の具」とか言う。「物」である。これらを身にまとい、太刀や弓矢を用いた戦闘集団を武士と呼ぶ。武士は古くは「もののふ」であり、万葉集などではあきらかに「物之部」と書かれている。すなわち「物部」である。

■松ぼっくりがあったトサ
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/matsubok.htm
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即ち、武家に多い「木瓜」(松ぼっくり)紋は武器を使う人たちであり、「松」紋はそれらを作った製鉄技術集団であるとも読めるのです。つまり「松」の結実が「松ぼっくり」なのですね。三韓征伐には多くの鉄製武器が必要であり、また船舶にも多くの鉄器が使用されたが、製鉄に関しては古代最大の製鉄所遺跡が九州にあり、それは鉄器を発明したヒッタイト、あるいはその技術を伝承した民族(エブス人?)の渡来があったと睨んでいる。それがオリオン座の三ツ星を崇める海人族だったのでしょう。

話は少し変わりますが、、、

前記事で北野天満宮示現の宮が吉野にあることに触れましたが、実は、北野・吉野・熊野でオリオン座の三ツ星(三階松)を形成しているのです。これが北野の地に一夜にして千本の松が生えなければならない理由であり、社紋に左三階松を採用している理由でもあると睨んでいる。

三階松01
(那智が「三階松」、速玉(新宮市)が「左三階松」、本宮が「右三階松」を示すか? )

蔵王権現の三体の像は、一般には釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の顕現だと説明されていますが、これは神仏習合時代を乗り越えていく時の方便であり、実際には吉野修験道は道教思想が根本にあり、深夜に深山を縦走する行がある修験道は方位を知る為には必ず妙見信仰にならざるを得ないのですが、このうち北極星信仰が明治期には「北辰妙見菩薩」として復活するも明治政府により封印されたという歴史がある。このように吉野自体が妙見信仰の地であったことから、三体の蔵王権現はオリオンの三ツ星を暗喩しているというのは、充分説得力のある話なのです。
※註 天智朝までは「天の川祭祀」が行なわれていたといいますが、その後、禁止され、妙見信仰は天皇にのみ許された信仰となっていった。この北極星信仰を含む妙見信仰の危険性は北極星を天帝とみなし祭祀者と合一する神事があり、これを元に多くの天帝候補者が出てくる為、権力者にとっては非常に都合が悪ったわけです。日本において中国のような「易姓革命」が起きなかったのは、この妙見信仰を徹底的に封じたからに他なりません。

蔵王権現2012
(頭の周囲の炎輪がオリオンの三ツ星配置になっている蔵王権現)

古代の政体「三王朝(三輪)制」も、アカバ湾での航海を生業としたエドム人(アイヌ)の発案であり、オリオンの三ツ星をモチーフにした可能性が非常に高い。実際、蔵王権現の頭の位置は正しくオリオンの三ツ星配置と同じで、「三階松」と同様、巧妙に妙見信仰をカモフラージュしていると睨む。

その後、日本は中央集権の律令国家へと進んでいき、天子交替を孕む妙見信仰を禁じ、太陽信仰へと宗教改革をしていった。それを強力に推し進めたのが、持統天皇と藤原不比等ですね。

ついでに、ぶっちゃけて云うと新約聖書のイエス誕生譚に登場する「東方の三博士」も、父と子と聖霊が一体のものである「三位一体」もオリオンの三ツ星がモチーフ。キリスト教も本来の原始キリスト教の妙見信仰から太陽信仰へと巧妙に歪曲されていったのだす~ぅ。
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牛神に導かれて京都怨霊ツアー

前回に続き、京都に行って来た時のこと絡めて洞察を書きます。

今回の京都訪問は「北野天満宮→金閣寺→下賀茂神社→御所→八坂神社→祇園→崇徳上皇御廟→六波羅蜜寺」というルートで廻ってきましたが、奇しくも菅原道真、崇徳上皇、蚩尤、平家を参るというの怨霊ツアーになってしまっただす。前回京都に行ったのが、京都駅ビルが古い時だったので、京都駅の変わり様に唖然。

「なんや、この吹き抜け空間は、、、空港並じゃん」

最初の訪問地は北野天満宮。京都駅からタクシーで直行だす。最初、テクテク歩いていこうと考えていたが、その考えは無謀だったことがタクシーに乗ってみて初めて分かった(汗)。

ここが秀吉が大茶会を開いた天満宮だすか。

北野天満宮の拝殿(12畳分)を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に「似たり茄子」(百貫茄子)などの秀吉自慢の名物を陳列。境内から松原にかけて800軒とも1500軒余ともいわれる数寄屋(すきや)・茶屋を建て、客をもてなした。

そうか、オイラたちが御祈祷で座ったところに黄金の茶釜があったんだw

天満宮は修学旅行がてらの御祈祷が多かっただすな。また参道には多くの常夜灯がある。それ故、ここは元々は生粋の神社神道ではなく、明治期の神仏分離で仏教系が神道化したところだと明白に判る。それにしても、境内のアチコチに掲げられた鏡は異様です。拝殿の中央には大きな鏡がありますが、内部にも柱という柱には鏡が付けられています。

さてさて、今回の記事の本題は、、、、

この天満宮の菅原道真信仰と蚩尤信仰には奇妙な符合があるという内容です。

菅原道真公は乙丑年生まれ、また、道真の葬送の牛車が都府楼の北東(うしとら)の地で動かなくなり、そこに葬られたという。ウシ、ウシトラで「艮の金神」を彷彿とさせます。しかも前回の記事で書いたように、北野天満宮は神紋に「梅」と「松」を持ち、大本神諭の「梅で開いて、松でお治める」という金神の言葉をも暗喩しているのです。

この牛頭天王はインドの祇園精舎(釈迦生誕地)の守護神といわれ、京都祇園社(現八坂神社)の祭神でもありますが、八坂神社はこの牛頭天王を鎮める為の社であり、疫病神を鎮めるために行なわれたのが祇園祭です。ヘブライ色濃厚と言われますが、多分、ヘブライ由来の過越祭の逸話を取り込んでいるのではないでしょうか。『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主・薬師如来。12の大願を発し須弥山中腹にある「豊饒国」の武答天王の一人息子として垂迹して姿を現したとされています。

仏教では天部八衆のように敵対する宗教の神を守護神として取り込んでしまう例が多いので、この牛頭天王も仏教とは異なる宗教の神であったのでしょう。多分、それはバアル神(牛神)ではないでしょうか。

ここに出てくる「豊饒国」とは「豊国」、つまり「豊葦原瑞穂中つ国」である東三河のことでしょう。徐福が持ち込んだ大陸文明で機織・酒造・製鉄・稲作...等で、当時の日本では比較的裕福な生活レベルを維持していたから、こう呼ばれたと睨んでいる。ということは、須弥山とは蓬莱山のことになるなw

縁起によれば、、、

牛頭天王=武答天王の息子

これは豊国(徐福国)王家の系譜かもしれない。しかし、蘇民将来の説話からは巨胆将来こそが徐福国の王という洞察に到るのだが、、、、う~む、そうか! 徐福国を討伐したのが「倭興」と百済王家からの婿養子である義理の息子「倭武」だと語り部はいうことから、討伐後、徐福国の東三河を管理したが故に倭興はフツヌシ【フツ(徐福)の国のヌシ(管理者)】と呼ばれたのだろう。これが武答天王(武塔神)なのだろうか?

以前の武答天王の比定は、いろいろ交錯しています(汗)。
いままでの洞察をまとめると、、、

・蚩尤=兵主神=巨胆将来=徐福
・武答天王=倭興?倭武?初期大王家?
・牛頭天王=倭武?後期大王家?
・スサノオ=倭建


武答天王が分かれば、全てが解けるのだが、、、

う~む、武塔神とは「踊るマハラジャ」のムトゥのことかもしれんのぉ~(爆)


(これがマツケンマハラジャのネタ元か?)

このダンス、片手を上にもう片手を腰に置くポーズは、、、

蔵王権現の御姿とダブるだす~~~っ。
蔵王権現は青い肌色といい、インド色テンコ盛り。

やはり、武塔神=蔵王権現かもしれんのぉ~
※註 蔵王権現のある吉野には北野天満宮示現の宮があるのだという。やはり、吉野と北野には密接な関連があった。

蔵王権現2012
(踊るマハラジャ(王)の蔵王権現)

各地の八坂神社、祇園神社は明治の「神仏分離」政策により素盞嗚尊を祭神へと変更していったが、かつては牛頭天王が祀られていたという。この日本においては祇園信仰はかなり盛んに信仰されていた。「牛頭天王」は身長が七尺五寸(2.3m)もあり、三尺(1m)の牛頭を持つ二頭身キャラなのですが、三尺の角があったことから、遠目には3m超の巨体であった。

古代中国神話の神「蚩尤」もまた牛冠を被った牛の角を持つ神ですが、獣身で銅の頭に鉄の額、四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持ち、頭に角があるとされ、外観上の共通点が多い。蚩尤は各種兵器を発明して暴風雨を操りながら黄帝と戦ったという。

牛と蚩尤は長江文明の文化ですが、韓半島の伝説では「蚩尤の一族は兵主神の地、山東半島から新羅の曽尸毛犁(そしもり)に渡る」という伝承があり、実際、山東半島・遼東半島には蚩尤を祭った痕跡が残っている。また、韓半島の新羅の曽尸毛犁の地には「牛頭山」と呼ばれる山があり、熱病に効果のある栴檀を産し、疫病を司る(または鎮める)神である牛頭天王と同一視され、先の伝承と合わせて蚩尤信仰の地でもあったのです。つまり、蚩尤と牛頭天王は韓半島で既に習合されていたのです。

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(蚩尤民族「苗族」の祭りの衣装)

偽書とされる『桓檀古記』には、、、

「戊申十年(161年)豆只(ずし)州の濊邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す」

とあり、素尸毛犁が人名を元にした地であることが明かされますが、そのが牛頭天王の信仰に関わる地であることが明かされています。さらに朝鮮の『東国通鑑』には、、、

「楽浪の牛頭山の檀木の下に天降った檀君が建国の祖である」

この檀木(熱病に効果のある栴檀)故に檀君なのです。
また『日本書紀』では、、、

「スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。」

と記されているのです。仏教を携え渡来してきた百済王家の後期大王家によってこの習合形態が日本に持ち込まれ、仏教が政治的に幅を利かせる(国教化)に従い、既に日本列島において蚩尤を祀っていた社は牛頭天王を祀るようになっていった(祇園社)のでしょう。更に明治期の神仏分離で牛頭天王は更に日本神話の「スサノオ」と習合されていったのですが、日本書紀の記述を見る限り、曾尸茂梨を介して当時すでに「蚩尤=牛頭天王=スサノオ」と認識していたことが分かる。確か、語り部も「蚩尤=牛頭天王=スサノオ」と語っていましたね。

しかも檀君神話によって「檀君=牛頭天王=スサノオ」が導かれ、スサノオが韓国の建国者という位置付けになってしまい、「根の国」に追い払われたスサノオが建国した国が新羅。つまり新羅は日本の属国という思想が出来上がることになり、このことから「檀君神話」自体が大和朝廷の捏造の書物である可能が高くなるのです。

それを逆手に取って朝鮮支配のツールとして使ったのが牛頭神宮。実は、かつてその名の神宮が韓半島にあったのだという。

日韓併合の後の「内鮮一体」の政策により、朝鮮式社殿の江原神社が創建され、またスサノヲを祀った牛頭神宮が計画されたという。 江原神社の当時の角南宮司は、 形の上からは半島人に親しまれるように、建物、神門透塀には朝鮮色を多く盛り、斎館社務所等の概観をすっかり朝鮮建築としたと言う。 僅かに内部の装飾に和風を施したそうである。しかし全く残っていない。

■曽尸茂梨(ソシモリ)・クマナリを訪ねて
http://kamnavi.jp/it/sosimori2.htm

中国最古の地理書「山海経」には、兵乱を起こす神として「天神あり、牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇のよう。これが現れるとその邑に戦さが起こる。」と蚩尤のことが記されていますが、このように大陸では蚩尤が古くから「天神」と呼ばれていた。そして平安期に菅原道真の霊と同一視された「天神」。菅原道真公は藤原摂関家との政争に敗れ、九州で怨霊と化しましたが、同じく怨霊となった平将門もまた蚩尤に例えられている。これは黄帝と蚩尤の戦いのように、争いに負けた側は常に蚩尤に例えられただけかもしれませんが、天神さまの境内に角を立てた牛が在るのも牛神を祀っていて、かつて蚩尤を祀っていた人たちの半官贔屓的な信仰なのかもしれません。

2010121614115311633.jpg
(蚩尤)

長江近郊の「斉」の国出身の徐福が祀ったのが蚩尤ですが、徐福は山東半島から出港後、韓半島の伝説「蚩尤の一族は兵主神の地、山東半島から新羅の曽尸毛犁(そしもり)に渡る」とあるようにと一度は韓国に上陸している。つまり徐福移民団こそ蚩尤一族だったのです。そして最終的には、蓬莱山を臨み、方丈山とえい州山の挟まれた「平原広沢」の神仙の地である東三河に王国を建設したわけですが、国内では最先端の文明を持つ地で豊かな生活レベルにあったことから「豊葦原瑞穂国中つ国」「穂の国」「豊国」と呼ばれるようになったのでしょう。

中国では蚩尤は大魔神に分類され「上古十大魔神」の魔神蚩尤とされている。

上古十大魔神
1、魔神蚩尤
2、战神刑天
3、星神夸父
4、水神共工
5、风伯飞廉
6、雨师屏翳
7、冥神神荼
8、冥神郁垒
9、魔星后卿
10,遁神银灵子


蚩尤は大魔神のモデル!?(笑)。



かつてオイラがこの煩フル記事内で、豊橋公園の体育館跡地に巨大な大魔神像を建立したいと言っていたのも偶然ではなさそうですwww

■大魔神(2006.6.22)
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-21.html
(なんか稚拙な文章だすな、、、それよりも記事更新日が22の「ふふふふ」や「フツ」に関係している点が興味深いだす。学会の宿願「国立戒壇」建立よりも大魔神像建立の方がこの日本には必要なのだす~)

東三河は徐福末裔によって祀られた「蚩尤の地」である以外に、ハリポタで描かれるスポーツ「クィディッチ」のアジア地区で唯一のプロチーム「TOYOHASHI TENGU」のホーム地でもあり、豊葦原瑞穂中つ国である東三河に祀られた蚩尤は「指輪物語」で描かれるミドルアース(中つ国)のサウロンでもあるのだが、、、

アースが生んだマグマ大使でもあるだす(超爆)。

また、蚩尤(兵主神)はナウシカに描かれる「巨神兵」でもあり、怒ると怖い顔を出す「魔人バンダー」でもある。

魔人バンダー
(牛の角を持つ「魔人バンダー」)

さらに、「赤い旗」を意味する「蚩尤旗」は、後ろが鉤状に曲がった彗星の尾を伴う彗星は「蚩尤旗」とも呼ばれ、蚩尤は「赤い彗星シャア」でもあるのだす~っ(超爆)。

まぁ、冗談ともいえぬ冗談はさておき、『述異記』巻上には「四目、六手」という姿のほかに、山西の太原地方に現れた蚩尤は「亀足、蛇首」だったという別の説も載せている。これは古代の中国各地で祀られていた軍神が「蚩尤」の名前で一つの神格にまとめられて行った過程を示しているのでしょうか。この蚩尤は「風の神」とも称され常食は砂、石、鉄塊などであったと伝えられ、矛や戟や斧や盾などを作ったという兵器神でもあるのです。

上記の「砂、石、鉄塊を食べる」という記述からは、実際には蚩尤とは「大漢国式製鉄法」の製鉄炉のことではないかと睨んでいる。その外観が2つの長い角状の鉄材料の投入クレーンを持ち、鉄製の胴体部と幾本ものパイプ等があり、初めてみる人には外観が怪物のようであったのでしょう。蚩尤とは韓半島の産鉄民や金属精錬集団が斎祀る神でもあったのです。

しかし、そのモチーフはやはり、、、、

moreku.jpg
(バアルやモレクの牛神)

蚩尤は首と胴体が分けられ別々に埋葬されたというが、身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。その墓から赤いモヤが立ち昇る様が目撃され、これを「蚩尤気」と呼び、凶兆の星が伴う赤い夜空も「蚩尤気」と呼ぶようになった。そして彗星の尾が鉤状に曲がった赤い大気を帯びた状態を「蚩尤旗」と呼び、このことから赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされ、兵乱の前兆を示す星を「蚩尤旗」と呼び慣らすようになった。
※註 蘇我入鹿や平将門伝承も首が飛び回ったとされており、この蚩尤伝承と似ており、蚩尤信仰がベースになって脚色されていると睨む。

ある予言では、この「蚩尤旗」とともに「天の御遣い(使徒)」が降臨されるのだという。こ、、、これは「てんし様」のことではないのだろうか?

この天の凶兆を天皇に報告するのが天文密奏

異常な天文現象が観測された場合に、その観測記録と占星術による解釈(占言)を内密に君主に対して上奏するのですが、天文に関する項目は「天子」である天皇自身に帰属する責務であったため、国政の最高機関である太政官を経由しない上奏が許されていたのです。この上奏する資格は、平安時代中期以後は天文博士を世襲した安倍氏と局務の中原氏の両家のみに限定されていた。

祇園の六波羅蜜寺界隈を根城としていた平氏滅亡の予兆が「赤い彗星(蚩尤旗)」の出現だったと平家物語はいう。平家一門の栄華の象徴ともいうべき安徳天皇の命を建礼門院徳子が宿す前、元暦二年(1185)、都に蚩尤旗出現という天変が現われた。赤気か彗星か蚩尤旗かで陰陽道界は論争が展開されたが、結果、蚩尤旗出現ということで天文博士安倍広基が「旧を除き新を布く象」とする「政変の予兆」であると「天子浮海、失珍宝、西海血流、大臣被誅」と帝に上奏。

この分析は壇ノ浦での安徳天皇入水自殺、草薙剣の遺失、、と見事に的中している。

実は、この平家は蚩尤民族である苗(ミャオ)族と関連が深い。ミャオ族は女媧を祀り、蚩尤の子孫と自称しシンボルは「揚羽蝶」なのです。で「赤い旗」と「揚羽蝶」は平家の旗印でもあるのです。

平家旗
(源氏の白旗と平家の赤旗)

2012年の今、NHKで「平清盛」を放映しているのも何かの因縁を感じる。

しかも、50周年記念番組で予算倍増、豪華キャストの怪演技と凄い状況にも関わらず、視聴率は10%と大河ドラマ始まって以来の低視聴率なのです。これはまるでアセンション可能なパーセンテージと同じではないだろうか?(ニタリ)

梅と御霊信仰

京都祇園に続き、亀岡でも痛ましい事故がありました。
亡くなられた方々には謹んで御冥福をお祈りいたします。

祇園事件の件も、京都の八坂神社&祇園に行こうとしていた矢先の出来事で内心穏やかではなかったのですが、祇園の街中をタクシーで走った際、あの細い通りに結構なスピードで走る車が多いのにはビックリで、これは起きない方がおかしいと感じた程です。

ただ、この事件を聞いた際に咄嗟に思い浮かんだのは「艮の金神が再び動き出した!」です。祇園に祀られている牛頭天王、つまり蚩尤(しゆう)は蔵王権現=艮の金神と洞察しているように分かり易いのですが、亀岡もまた艮の金神を崇めた大本の王仁三郎師誕生の聖地であった場所。大変痛ましい事件ではあるが、これらの事件はこれから起きることの予兆ではないか?と感じている。

三千世界一度に開く梅の花
艮の金神の世に成りたぞよ
梅で開いて松で治める、神国の世と成りたぞよ
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ
外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、
悪魔ばかりの国であるぞよ
日本も獣の世になりて居るぞよ


このような出だしで始まる「大本神諭」ですが、この「梅で開いて松で治める」という部分が非常に謎めいています。同じく艮の金神系の日月神示には「梅の巻」「松の巻」はあるのですが、松竹梅は目出度いのに「竹の巻」は存在していないのです。出口王仁三郎師は、梅は「教え」、松は「政治」、竹は「武(ぶ)」を意味し、武(ぶ)は国を害するといふので「害国」というのだという。つまり、「梅で開いて松で治める」とは「教えでもって覚醒させ、政を治める」ということになるのだが、果たしてこんな単純な意味だけなのだろうか? オイラはもっと深い意味があると睨んでいる。

実は、先週末、京都の北野天満宮に祈祷に行った際、下写真のような社紋を見つけました。祀られている菅原道真公は梅紋と牛がトレードマークなのは有名ですが、この三階松を見た時には意外に思い、その刹那、先の大本神諭の「梅で開いて松で治める」が頭に浮かんできた。しかも偶然にも、この三階松はオイラの家の家紋でもあったのだす~

松紋
(三階松紋)

この北野天満宮の本当に詣る場所は、本殿ではなく本殿裏手にある「文子天満宮」だろうと思う。ここはが憤死した道真を天神として自分の庭で祀っていた道真の乳母・多治比文子を祀っているのですが、ここを通りかかった際に引き寄せられるかのように社殿に行き、拝み始めたところ突然突風が吹き始め、落ち葉の舞い散る中を拝んでいた。何やら不思議な感じがした体験でした。

■北野天満宮 文子天満宮
http://takaoka.zening.info/Kyoto/Kitano_tenmangu_Shrine/Ayako_temnamgu.htm

梅紋は菅原道真の怨霊を封じ込めた紋だと言われていますが、確かに中央の○を怨霊と見立てれば、周囲の5つの○で五芒星的に取り囲んで封じ込めている感じがしますね。この梅紋を持つのが山口県宇部市に出生の菅直人前総理ですが、菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲んでいる。以前、菅直人が道真公の怨霊に操られていると洞察したのも、あながち間違いではなかったか?

梅紋
(梅紋)

梅をこよなく愛した道真公なので梅は分かるが、何故、松紋がここにあるのかというと、怨霊化した道真公を鎮めることに頭を悩ましていた朝廷が、比良神社(滋賀県)の神官のもとに菅原道真が現れ「北野の千本の松が生えたあたりに祠を建てよ」と告げたことを聞き及び、その北野の地に一夜にして千本の松が生えた場所に壮大な天満宮を建てたのだという。これが北野天満宮に松紋がある理由。

北野天満宮の拝殿には、至たるところにが取り付けられていて、怨霊を跳ね返す目的で据え付けられているのが一目で分かる。また拝殿前はぐるりと囲われ、いかにも外に漏れ出しを防いでいるかのようです。そのぐらい朝廷は道真公の怨霊を畏れていたのだろう。

このことから、先の「梅で開いて松で治める」とは、梅を愛でた道真公やその他諸々の怨霊(崇徳上皇、平清盛、巨胆将来、長屋王、鞍作毛人...等)を鎮める封印が解けて、その災いから三千世界の大峠が始まり、天皇制を始めとしたこの世のピラミッド社会構造の崩壊へと到り、松が一夜に生えた地に大神宮を建立して鎮まったようにミロクの世が打ち立てられ大峠は沈静化するという意味だと観じる。

道真怨霊00
(朝廷を襲う道真の怨霊)

こういった怨霊を畏怖し鎮めて祟りを免れ、平穏と繁栄を実現するのが御霊信仰といい、平安時代に大いに流行ったといいます。京都の八坂神社(祇園感神院)の祇園信仰も同じように疫病や災いをもたらす行疫神・牛頭天王を慰め和ませることで疫病を防ごうとした御霊信仰の一種ですが、祇園事件の霊的な原因はここにあると睨んでいる。
※註 祇園の繁栄もこの祇園信仰の為せる技か! しかし、御茶屋の客はズラを被った僧侶ばかりだすが、きっと隠蔽体質のズラ被りは保安院のズラ男と同じく天罰が下る筈だす~。

つまり、封印が弱くなってきたということです。
漏れ出たネガティブな力に影響された人が問題を引き起こす。

京都自体がこういった御霊信仰の元、怨霊の力を逆手に取って守護化してきた「霊的バリア都市」だったのですが、太平洋戦争時もこのバリアのお陰で空襲を逃れたのかもしれない。しかしここにきて、この逆行的呪詛の力が弱まって怨霊本来の力が蘇ってきているのではないかと見ている。マイナスエネルギーを人為的に無理矢理プラスにした状態を未来永劫保ち続けることは不可能なことであり、所詮はゼロサムとなる。本当は自然的な減衰を待たねばならなかったのかもしれない。

あるいは、ヒックス夫妻のチャネリング存在・エイブラハムがいうように「感情のスケールレベルの上昇」を行なうは「憎しみ・怒り」には1つ上の感情レベル「悲嘆・絶望」で持って対処し、相手側が「悲嘆・絶望」に同化し得たなら、もう1つ上の「恐れ」 さらにもう1つ上の「喜び」、、、「歓喜」、、、「愛」というようにを徐々に怨霊自体の質的変化(浄化)を促していくべきだったのかもしれない。

まぁ、その被害に遭ったのが無垢の人たちであったわけですが、行疫神(怨霊)が人を選ぶわけではないので、やり切れない思いはあるのだが、、、、

これが祇園、亀岡と似たような事件が起きたことの霊的背景ではないかと睨んでいるが、この根本原因はやはり形而上世界(霊界・幽界・集合意識界)の環境に何らかの変化が起きているからでしょう。だからこそ、今までの呪詛の効力が無くなってきたのではないだろうか?

最近、引き潮で夫婦岩の根元まで見えてしまい、沖合い700m先にある御神体の「興玉神石」までもが露になってしまったというニュースがありましたが、文政10年に刊行された浮世絵にも同様に根元まで露となっており、その翌年の文政11年には死者3万人の越後大地震、文政13年には京都大地震が起こったといいます。

■伊勢の夫婦岩 文政10年の浮世絵にも根元まで露出された姿が書かれていた・・・その翌年に越後大地震か
http://okarutojishinyogen.blog.fc2.com/blog-entry-1666.html

「隠されていたものが現れる」
これも何かの符合(サイン)かもしれません。

推背図私観

「推背図」について、ちょうど良い内容があったので、長いがメモしておく。以前、抜粋したもので、1人が書いたものか、いろいろな記事を継ぎ接ぎして抜粋したのか、今となってはよく覚えていない(汗)。

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七世紀の唐時代、二人の預言者によって予言書『推背図』が生まれた。中国の各時期に重大な事件を予測するもので、唐代から今の時代まで、知っている歴史に対して、的中率はほぼ100%。この奇書は中国歴代皇帝に読まれ、的中率抜群のため、発禁処分に、、、しかし密かに伝承され、中世はいうに及ばず、日本の敗戦、毛沢東の粛清、フセインとブッシュの戦いなど近代現代史の大事件をことごとく的中させた。なんと2012年もしくは2013年に中国が内乱によって瓦解(がかい)するという。この本の序文によると、唐の太宗皇帝の時代に、袁天網と李淳風の易学に通じた二人の道士が書き上げ、皇帝に献上したものだという。二人は唐代から中国の2000年以上の国運を推測して結論を60図と詩に隠したという。

さらに、五代十国の時代にも、「推背図」の予言に基づいて皇子の名前が決められた、という話しも後世の歴史書に書かれている。元代に世を乱す妖書として禁令が出されたと

この本が最初に国家編纂の歴史書の正史に登場するのは、元の時代に書かれた「宋史」が最初である。また、宋の時代に書かれた民間の歴史書にも「推背図」に関する記述がある。

だが、興味深いのは、唐の時代に編纂された「大雲経疏」という書の中に、推背図の引用文が含まれていることである。この書は、かの敦煌文書の1つである。この中で「推背図」は、則天武后の簒奪の正当化に利用されたらしい。

ちなみに現存する最古のテキストは清の時代のものらしい。改竄なども盛んに行われ、既に宋の時代にも、中身の違う何種類ものテキストが出回り、ひどく混乱していたとの記録がある。

また、宋の皇帝は禁書にしても根絶できないと悟るや、わざと内容の混乱した本を作ってばら撒き、この書を解読しようとする者達を混乱させたとの記録もある。この書は、いわゆる漢易、象数易の理論に基づいて書かれているのだ。

推背図で予言している「日本消滅→中国大陸の中で日本民族や日本文化がかろうじて存命する」という日本の没落・消滅と解釈する中国側の専門家の主流認識に対して第四十五象と第五十五象がその部分です。1995年、親を日本軍に殺された経験のある李鵬元首相李鵬首相(当時)がオーストラリアを訪問した際、ハワード豪首相(当時)との会談で「日本は20年も経てばこの地球上から消えてなくなる」と発言しています。李鵬元首相の予言では2015年に日本は消滅する、という内容はここから来ていますね。親を日本軍に殺された経験のある李鵬元首相とすれば、心情的には反日であり、それぐらいのことを言いたくなるぐらい日本への恨みはあるわけです。

■第四十三象
(祖国統一=丙午・易卦は火風鼎)
約30年をかけて中国と台湾が統一される。

■第四十四象
(聖人が再臨誕生=丁未・易卦は火水未済)
両岸四地(中国大陸、香港、台湾、マカオ)で一国二制度が堅持され、中国に聖人が誕生し、中国が世界的なリーダー国家と認められるようになる。

■第四十五象
(日本が敗戦し国運が終わる=戊申・易卦は山水蒙)
日本が敗北して日本列島が沈没し、日本は武力を一切持つことなく武力解除される。日本が領土問題を名目に戦争を挑発すれば失敗に終わる。

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客の西より来たり 東に至りて止まるあり
木火金水 此の大恥を洗う


炎運宏く開きて世界同じく
金烏隠匿す白洋の中
今より敢えて雄長を称えず
兵気全く銷き運已に終わる

「太陽」=日本、「客」=戦争、中国の西=中東での動乱が引き金となり、世界大戦になる。この時、中国は日本に攻め込むと観る。「木火金水」の木は台風、火は火事、金は戦争、水は洪水を示す。「炎運」=戦争。これが世界に広がっる=第3次世界大戦。「金烏」=太陽=日本から、「白洋の中」なので、この第3次世界大戦を受けて日本は海中に沈むと看る。


■第四十六象
(ハイテクの危機に直面=己酉・易卦は風水渙)
ハイテク技術が大きく発展したことで世界的な危機に直面するが、一人の勇士が身を挺して危機から守り、万民が死なずにすむ方法を実行する。

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■第四十七象
(文化を重視し、軽武装になる時代=庚戌・易卦は天水訟)
武力解決を避ける時代となり、高度な文化交流が盛んになる高度文化時代が到来する。王制がなくなり、農民出身の徳の高い偉大な指導者が誕生する。

■第四十八象
(風雨にさらされる50年間=辛亥・易卦は天火同人)
辰と巳の年に朱という姓の指導者が登場し、50年間、中国に君臨し、国を指導する。

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■第四十九象
(短期的な世界混乱期=壬子・易卦は坤為地)
各組織が聯合戦線を組み、東西南北に世界が分裂し、八つに分かれるような動乱の動きになる。

■第五十象
(資源争奪戦=癸丑・易卦は地雷復)
資源争奪戦が寅年から始まり、人々はこの争奪戦のために生活が大変になり、苦労が増大する。

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■第五十一象
(夫唱婦随の女性の価値が高まる時代到来=甲寅/易卦は地沢臨)
新時代には男女一組の指導者が誕生し、特に女性指導者の品行方正ぶりが高く評価される。女性指導者の良妻賢母ぶりや女性的な感性と知性が国の安泰をもたらし、70年間は興隆する。

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■第五十二象
(聖人が二度危機を救い、新時代が到来=乙卯・易卦は地天泰)
聖人が新時代の人類を指導していくが独自路線で非常な孤独を抱え、快楽の方向へ国を向かわせて危機に直面。楚(湖北省)呉(江蘇省)の指導者によって危機を乗り越える。

■第五十三象
(中華再復興の時代=丙辰・易卦は雷天大壮)
秦の姓を持つ陝西省出身の指導者が国を治め、儒教の孝の精神を重視する徳政を行う。

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■第五十四象
(新風巻き込む中華文化時代=丁巳・易卦は沢天夬)
旧態依然の中華文化と新しい中華文化が融合して強大で持久力のある新しい中華文化時代が到来する。そこには一人の傑出した人物の重要な作用があり、再び世界に新しい中華文化の魅力を再現できるようになる。

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■第五十五象
(東方文化の興亡と盛衰=戊午・易卦は水天需)
日本は沈没し、大部分の流民になった日本国民は大部分が中国に受け入れられ、日本文化は中国の中で根づいて存続するようになる。

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■第五十六象
(第三次世界大戦の勃発=己未・易卦は水地比)
兵士のいない戦争が起こり、その戦争は激烈で中国にも戦火が及ぶ。

■第五十七象
(天才少年が救世主となって戦争のない世を治める=庚申・易卦は兌為沢)
第三次世界大戦で荒れ果てた地球に身長100センチ以下の天才少年が「毒を以て毒を制す」武器を使って戦争を終結させる。その天才少年は呉越(浙江省あたりかベトナム)に誕生する。呉越についてはこの解釈だけではなく、場所の正確な予測はできにくい。

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■第五十八象
(大統一時代が到来=辛酉・易卦は沢水困)
第三次世界大戦で大動乱が終わり、各国が手を握って協力し合い、平和的な大統一時代が到来する。

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■第五十九象
(人類の個人差がなくなる時代=壬戌・易卦は沢地萃)
大統一時代に入り、個人差が徐々になくなり、都市や政府がなくなり、自他の区別がなくなるようになる。五色人種の壁がなくなり、東西南北が和睦し、人類一家族時代となる。

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■第六十象
(古い世界が終わり、新世界が始まる=癸亥・沢山咸)
矛盾や対立がなくなり、新世界が始まる時となる。

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中国の驚異の預言書推背図には、「辰王家は古の志を取り戻し、西に戻る」と予言されてますが、中国に古くから伝わる推背図にも日本水没が予言されていることは述べたとおり。これまでの歴史をことごとく的中させてきた。ノストラダムスなんか目じゃない。清朝時代の写本にその後の歴史が語られていることから、でっち上げでもなさそうだ。これでは、日本には3つの小さな島しか残らないという。さらに興味深いことも書かれている。日本の皇室を辰王家とよんでいるんだ。

辰王家とは、古代朝鮮半島の三国時代(高句麗・新羅・百済)の少し前にあった、辰韓の王家のこと。別名は秦韓。辰韓(秦韓)は、韓国(朝鮮)人の国ではなかった。始皇帝で有名な秦の末裔が朝鮮半島に逃れて建国したようだ。一説には、秦の役(万里の長城建設)を逃れた人が大勢移住したとも。だから秦韓ともよばれる。中国の歴史書でも辰韓は秦の人が建国したとしている。だが、その秦は、漢民族の国ではなかった。西域の異民族がシルクロードをへて中国西部に建国したとされる。始皇帝は碧眼で、身長が2mもあったとの記録もあり。秦はユダヤ人の国というトンデモ説もある。シルクロードは、別名ユダヤ人の道とよばれていたのは有名な事実である。ユダヤ人は遊牧民族だったし、東西交易で富を築いていたんだ。

推背図の異写本が何を述べているかというと、日本が水没するときに辰王家が古の志を取り戻し、西に戻るという内容だったのだ!日本の隠された過去が明らかになるとさ。

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日本沈没とは置き捨てならない内容です(汗)。

解釈の一例を挙げたように、まぁ、象意の解釈の仕方は様々であり、この解釈が正解というわけではないと思います。実際、中国人の対日本人感がタップリ込められた解釈だとは思っている。大体が「白洋=海洋」としている時点でNGだすなwww オイラの解釈では「白洋=白いモヤの世界=異次元プラズマトンネル=5次元世界(新世界)」という解釈だす。でなければ、その後の「隠匿」という言葉使いにはならない筈。「神隠し」と同じことなのだす。

つまり、日本は列島ごとアセンションして消えて無くなってしまうという予言なのだす~。

李鵬ちん残念だっただす~。

また、辰王が「西に戻る」とは、中国大陸に戻ることなのか、西日本に戻ることなのかはよくわかりませんが、昨今の状況を見れば、西日本、つまり玉座のある京都に戻るという可能性が高いです。それに関して、最近のツイッターにはこんな書き込みがあった。

@Juzuakamoochy JAKAM
天皇皇后両陛下は、京都御所への御遷座をお断りになって皇居で苦難を共にする道を選ばれ、皇居の停電も是として受け入れられ、さらには、地の神を鎮めるための二十四時間御祈祷に入っておられるという。両陛下は本当に日本と日本に暮らす人々を案じて大切にしておられるそうです


@Miwakko :::Miwakko:::
名前は晒せないけど信頼できそうなソースから天皇陛下情報が。やはり京都御所へのご遷座を断られ、皇居の停電も受け入れ、地の神を鎮める24時間のご祈祷に入られたそうな。陛下がご祈祷してくださってるのに、凹んでる場合じゃないねヽ(;∀;)ノ仕事頑張るヽ(;∀;)ノ


つまり、今上天皇は東京からは不退転の決意。西に行くのは「広飲み屋なるちゃん」ということになるだろうか。もし京都に戻った場合は行幸啓の際の宿泊に使用されている「大宮御所」か、「京都迎賓館」あたりだろうな。しかし、警備の面からは比叡山麓の「修学院離宮」という手もある。
※注 実は、先週末、京都御所に視察に行ってきたのだす~。紫辰殿の玉座に座って即位するぜと思っていたが、建礼門より向こう側には行けなかっただす~(涙)。

ここの地の神を鎮めるための御祈祷とは、、、多分、蔵王権現のことだろうな。

この推背図の最後の「第六十象」の男同士の触れ合いの挿絵を見て想うのは、藤原摂関家のガチホモの藤原頼長でも、政界に跋扈する野田、前原...等の松下政経塾を媒介としたホモネットワークのことでもなく、カゴメの歌の「後ろの正面誰?」という歌詞です。

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(政界支配しているのもHMOだっただすが、本当のHMOは科学者・増川いづみ女史も接近を警告しているニビルだったのだす~。太陽の兄弟星(伴星)が逢いに帰ってくた野田す~。)

つまり、「推背図」の未来予知というのも、実は、我々の意識は後ろ向きに進んで既に決定済の事象を時間経過的に体験しているだけのことであり、これを背中を擦って見るという形態で現わしているのだろう。これが「後ろの正面誰?」の答でもある。

4月20日 FRB破綻?

4月20日にFRBが破産し、債務合計271兆ドルがロスチャイルドらFRB設立者の元にいき借金地獄へ転落するという記事を見かけました。

要約すると、FRBはアジア王族からゴールド(200万トン以上)を年利4%で借りていて、それを裏付けに通貨発行していたが、これまでに何度も返済日を踏み倒してきた。つまり返すつもりがなく借りっ放し。1961年から2012年までのリース料の支払い義務は271兆ドルにのぼり、これをスカルノ氏によって任命された管財人グループ(管財人協会)がニール・F・キーナンおよびキース・F・スコットを口座権限者としてして選出。辛抱の切れた彼らによって4月11日に「先取特権申立」が出て、10日間の猶予期間が与えられた4月20日に期限切れとなり、差押さえが発動するのだという内容。271兆ドル(2.16京円)とは膨大な額の金額ですが、多分、この中には天皇の金塊「黄金の百合」も含まれているだろうと睨む。

これが4月13日金曜日に起きる出来事やサインと言っていた内容なのだろう。

これが本当ならチェックメイト!?

まぁ、話の出元はベンジャミンのようなので、少し眉に唾つけながら聞ねばならないのだが、昨今の金融機関CEOの大量辞任等、どうにも解釈出来ない事態が起きているので、これがその答の1つなのかもしれない。

■NEWS US
http://www.news-us.jp/article/264887147.html

逮捕されてしまった六本木の巫女が、以前、「金を買うのはおよしなさい!」とくどいくらいに言っていましたが、その理由は「ふふふふ」と笑って逃げていた(怒)。その理由がこの200万トンのゴールドの存在なのだろうか? 公式には金は数千トンしかないことになっているが、それが金の高価格維持の1つの理由でもある。まぁ、石油にしろまともな埋蔵量は半端なく多い(化石燃料ではなくマグマ近郊でドンドン生成)という話もあるので、ゴールドも同じようなものかもしれない。このゴールドの存在が公に知らされると金価格は暴落するかもしれないが、逆に、このくらい十分な量のゴールドならば、金兌換紙幣の再興も有り得る。

これが本当になれば、リチャコシどんが「我々独立党の情報拡散で勝利した!」と言い放つのだろうか?(爆)

また、同時にガイドナー現財務長官(前NY連邦準備銀行総裁)を始め、多くのイルミナティ・フリーメーソンが逮捕されるのだともいう。

■フリーメーソン・イルミナティ逮捕予定リスト大公開!
http://www.news-us.jp/article/254853531.html

ロックフェラー家当主、ウォーバーグ家当主、アスター家当主、マーク・リッチ...等は妥当だと思うし、メディチ家、ボルジア家、黒のローマ法王=イエスズ会司祭(ピーター・ハンス・コルベンバッハ)もまぁ妥当な線だろう。でも、ここにある邦人の小林陽太郎、西村清彦って一体何者なのだ?

小林陽太郎氏は元富士ゼロックス会長で経済同友会終身幹事(元代表幹事)。日本電信電話相談役最高顧問。ソニー取締役会議長。慶應義塾評議員・理事を歴任。西村清彦氏は日本銀行副総裁で、元東京大学大学院経済学研究科教授。経済学者だというが、、、どうしてこのような人が???

他にもそのリストの中には、ジェームズ・キャメロン監督やコメディアン(ビル・ヒックス)の名が、、、(滝汗)

ちょっと待て、、、
コメディアンはないだろ
しかも、逮捕者リストを予め出すバカな捜査機関がどこにある?

さらにデビィ爺がこのリストにない。。。
これではリチャコシどんが怒り捲くってしまうではないか!!!

とはいうものの、ガイトナー逮捕抑留はどうも事実のようでFOXTVでも放映されたそうですが、あれから1ケ月以上経つというのに日本のメディアでは一切報道がない。いくらマスゴミといえ、そんなことがあるのだろうか?

■米FOXニュース、「現役財務長官ガイトナー逮捕」を報道!:オバマ崩壊か?(2012.3.4)
http://quasimoto.exblog.jp/17461328/

まぁ、何にしろ今の金融界にはおかしな動きが水面下で起きていることは確かであり、同日にはギリシャ国債破綻のCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の行方も判明する。今回はリーマンのような単なる一企業ではなく、CDSの受け手である米国大手銀行を直撃するとも言われ、リーマン・ショック以上の影響があると睨んでいる。また中国も重慶市行政トップの薄氏が解任され、そのワイロ行政が暴かれようとしていますが、中国裕福層の大陸脱出がフィリピンメイドの解雇を生み出し、フィリピンへの帰国ラッシュにつながっているというにバブルの後始末に向かう中国もまた大きなうねりを見せている。ここに来て欧州、米国、中国...世界的な経済破綻の動きが収斂化してきているとみる。

4月20日をじっと静観して眺めることにします。
実際、オイラは何も出来ないのですし、、、、

蔵王権現と13日金曜日

仁王門修理勧進のために秘仏・蔵王権現の開帳が始まりましたが、どうも毎年2ケ月間開帳されるとのことで、今年2012年は3月末日~6月7日までの2ケ月間。

話題の盛り上げも首都圏を中心に金峯山寺のテレビCM放映、車内刷り、看板など膨大な量の広告が展開される。ま雑誌でも吉野特集、金峯山寺特集が組まれている。4月からは一般参拝者向けに「金峯山寺友の会」が発足し(年会費3000円)、会員になると拝観無料の他、会員証の発行や金峯山御宝暦、金峯山寺時報の送付、行事の案内などたくさんの特典があり、春秋140日間の開帳期間中に3回くれば元が取れるというが、、、遠いなぁ(汗)。

蔵王権現

いよいよ蔵王権現の本格的な活動が始まる。

それと同期したかのようにKARAも新曲を来日してプロモートを積極展開中です。
※注 吉野=唐・新羅勢力=加羅国=KARAです

今までのKARAの曲は、、、

Go Go Summer・・・計画停電へ突入の夏
Winter Magic・・・4号機プール奇跡の判明

大体、こんな風に来ていましたが、オイラの万華鏡写輪眼での洞察は大きく外してしまっていた(汗)。で、今回はビター&スイートでの2倍2倍の「特盛」だす。いよいよ立て壊し・立て直しがSPEED UPされるだすかぁ~!!!



という風に考えていたら、スマトラでM8.9の超巨大地震が、、、、

スマトラとウシトラ(艮の金神)には「近しさの法則」が明白に関与していると睨んでいるが、ウシトラとはルシファーのことであり、「蔵(幽閉)された王」の意味を持つ蔵王権現であるというのがこの煩フルの見解。

ここでスマトラが動いたとなると、、、

いよいよ「岩戸開き」が始まるのかぁ~!(滝汗)

まぁ、その際には封印されていた日本三大怨霊の「崇徳上皇」「平将門」「菅原道真」、さらには滅亡させられた初期大王家、邪馬台国、徐福国の怨念が「穢土転生の術」で復活するが如く、解き放たれてしまうだろうと見ている。これらの破壊の力を援用し、旧体制の瓦解がスピードアップしていくだろう。

その1つのターニングポイントは4月13日の金曜日。これはベンジャミン・フルフォードの情報であるが、、、


(ウルトラマンに成りたかったというベンジャミン。この形相、、、何か憑依してそうだす。ウルトラ、ウシトラで「艮の金神」かもしれんのぉ)

彼の熱いメッセージ内容を要約すれば、、、

1)中国に内戦の兆し
2)北朝鮮は核開発放棄済み
3)北朝鮮の核は米国が持ち込み
4)東アジアに緊張をもたらす役割が北朝鮮
5)ブッシュ-ナチス-旧日本陸軍の繋がりが北朝鮮にある
6)北朝鮮の核・テポドンは飛んだ茶番
7)シリア政府は民主的政権

さらに欧米の秘密結社の支配が終わる。あるいはそのサインとなる事象が何か現れるが、それが4月13日金曜日。いずれロック・ロスチャ・ワーバーグ...等の「300人委員会」は引きずりだされるだろうともいう。

さぁ、何が起こるか分かりませんが、13日金曜日に注目です。多分、金融マフィア関係(FRB、ウォール街、シティ...)だろうと思われます。

これにより、バチカン、イエスズ会、テンプル騎士団、イルミナティ、ロスチャイルド...の支配が終わるのか?

不二山と福地山

前回に続き、今度は何故、富士山が記紀に言及されないか洞察したいと思う。

まぁ、いってしまえば当時は富士山は無かったということだろう。(爆)
こういっては実もフタもないので詳細に洞察する。

富士山は古くは浅間山、さらに古くは「福地山」と呼ばれていたという。まぁ、これも多分「フジ」と読むだろうと思うのですが、ただ記紀にはこの旧名の「福地山」の記述すらないのです。同様に徐福のことも記紀にはなんら記録がない。これは中国の徐福村で伝わる「徐福は日本に行った」という内容と矛盾するのです。

富士山、徐福、東三河、、この3点セットが実に臭いw
プンプン臭ってくるだす~

その徐福子孫が記したと云われるのが富士古文献(宮下文書)です。

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延暦十九年(800)の富十山大噴火前までは、人皇十代崇神大皇時代から、人皇五十代桓武天皇時代まで、福地山と表記した。しかし、大噴火は福地山に祭られる神々への信仰を疎かにした、として、福地山を富士山と改称の事、七社の大神の宮を再創立致す事とし、位階正二位とする事など、ときの朝廷は大同元年(八〇六)六月三日大政官牒状をもって、元宮七社太神官、宮司官下記太夫仁元に命じ、これより富士山という文字を用いた。
<参考『探求 幻の富士山古文献』渡辺長義氏著より>

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偽書の疑いがある富士古文献の内容なので、絶対に正しいとは言えないのですが、富士古文書が語る富士山噴火の描写は地質学の研究成果と実に適合している程に正確であり、一概には否定できない。「ある程度」という限定付きでは参考になる。実は、『常陸国風土記』にも富士山は「福慈岳」と記載されていることから、この内容はかなり確かだと睨んでいる。
※註 富士古文献は間違いなく後代の制作であるが、徐福の内容は徹底的な封印策が取られたが故に、徐福伝承はかなり捻じ曲がった形で後代の者に伝わり、富士古文献に記されたのだと睨んでいる。また、戦前、宮下文書は徹底的な弾圧を受けたことから、この書がかなり真実の歴史を含んでいるとも睨んでもいる。

「フジ」はアイヌ語の「フチ」(噴出する所)が語源ち云われ、活火山一般を指している言葉であって、富士、不二、不尽、不死、福地、福滋...等のさまざまな漢字を当てられることから、「フジ」は日本中に存在したと思っています。静岡の富士山はたまたま駿河国富士郡に由来する「富士」を付けられたのでしょう。

『日本紀略』(797年成立)によれば、富士山は「3月14日から4月18日まで噴火し、昼間は煙で暗く、夜はその光が天を照らす。雷は響き灰は雨の降るように降下して山河を紅くした。砂礫が霰のように降った。」とあり、また都良香(834~879)の著した『富士山記』では「富士山の東の麓に小山があるが元は平らであった。延暦21年3月雲霧晦冥、10日にして山になった。」とある。

これらは延暦大噴火(800~802年)時の描写です。

また、平安時代(794年-1185年)の文献、『日本三代実録』(901年)、『更級日記』(1020~1059年)にも富士山噴火の記述がありますが、こちらはもっと後の貞観大噴火(864年)の時の様子を記している。気になるのが、『続日本紀』の天応元年(781年)に富士山より降灰があったというくだりです。これはこの延暦、貞観のいづれの大噴火ではなく、多分、小規模の噴火であったと思われる。

ここで問題なのは、静岡の富士山が本当に徐福末裔が住んだ蓬莱山なのか?という点です。

ここに上古時代に富士山が出現したという話がある。

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<富士山出現の伝説>
富士山の出現には二つの伝説がある。孝霊天皇の御代に近江の湖水が陥没して、一夜に富士山が出来たといふ説と。昔し大邪猛者という巨人が近江の国から、富士山を背負子へのせて、かついで来たが、甲斐と駿河の国境で、背負子の綱が切れて、へたばってしまった。その時の両手の跡が河口湖と山中湖で、明見湖はお臍の下にあたる「しし」の跡だと云う。だから明見湖小さいけれど非常に深く、その底は竜宮城まで続いているので、ワキミズが豊富だというのであるが、地形上この湖水の背後の山岳地帯を越せば、忍野村山中湖付近の地底湖があると想像される。水量過多の地帯と接続しているから、その水が地下水となってここに湧出するものと考えられる。

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出来方については???なのですが、こういう話があること自体が富士山が後代に出来上がった山だという可能性が否定できないのだと思っている。

ここでいう「近江の湖水」とは「琵琶湖」のことですが、現在、琵琶湖海底では大きな変動が起きており、また富士山東北部からも一度微かな噴煙が上がっており、琵琶湖と富士山はかなり密接な関係があることが窺える。日月神示がいうように、いづれ近いうちに富士山は大噴火するのは間違いないことだと睨んでいますが、その時、不老不死の「てんしさま」が本当に誕生するかどうかは大きな賭けだすな。

「万葉集」(759年成立)では山部赤人が詠んだ「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける」という歌が有名ですが、当時は宮廷歌人という職も無く、山部は何らかの職務を持っていた筈であり、また奈良から遠出したという記録もないことから、この不二山も富士山ではなく、田子の浦も静岡の田子の浦ではないと睨んでいるのです。まぁ、オイラは串本近郊の「田子の浦」こそが、この歌で詠んだ「田子の浦」だと睨んでいるのだが、、、まぁ、静岡の「田子の浦」も「家基津(焼津)」と同様、蓬莱山、徐福、東三河を隠蔽する為に仕組まれた地名移設だと睨んでいる。
※註 語り部が云うには、「山部赤人」とは仮名で鞍作毛人(蘇我入鹿のモデル)の弟・鞍作雄物であり、蓬莱山(不死山)が陥没したのは745年だと云うが、この年は伊勢湾の隆起や陥没もあったともいう。745年は美濃地震があった年で三日揺れが続いたことは知られていますが、コレのことなのでしょうか? これが本当ならば、736年没の山部赤人は蓬莱山を見てこの歌を詠むことが出来た筈です。真相はいかに?

要するに、元来、富士山は無く上古以降に出来た新しい山であり、「万葉集」に出てくる「不二山」とは「蓬莱山」と呼ばれる現在の富士山とは違う山であったというのが煩フルの結論ですが、それは鳳来寺山の奥に広がっていた設楽火山だと考え、今まで洞察を進めているわけです。さらに、記紀が東三河を隠蔽する原因が語り部がいうように東三河が徐福末裔の本拠地であり、その後、初期大王家の「壬生の地」であったという事実の隠蔽だと考えている。

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鳳来湖付近は流紋岩質凝灰岩(火山灰が固まった岩)から成る。また三河山地と呼ばれる様に、外見的には山地であるにもかかわらず、地質的には鳳来湖付近は設楽盆地と言われ、その周りの地質と異なり、そこに火山が有った事が証明されている。

1600万年前は第瀬戸内期と言われ、現在の瀬戸内海と海続きで、愛知県は海底に有った。この頃海底火山が活発化し、鳳来湖付近に直径10Kmの火山が出現する。大量の火山灰を噴出して凝灰岩が形成し始める。大規模な火砕流を伴った噴火が繰り返され、粘りの強い溶岩が吊り鐘状に盛り上がって設楽火山を形成する。堆積した灰が凝灰岩となり、その上に高温の火砕流が次々と流れ、固まりかけた水飴状の溶岩をレンズ状に潰して溶結凝灰岩を形成しながら成長して行った。

その後中央構造線の活動で、ほぼ同線上に有った設楽火山は1000m以上も沈み込む。これは付近の温泉掘削のボーリング時に出た岩石の調査で、地下1000mの岩が地上近くで急冷された流紋岩や松脂(しょうし)岩(ガラス状の岩)で有る事から証明されている。

更に噴火は続き、火山灰を堆積させて行くが(この堆積物の厚さは700mと言われている)内圧が下がって中央部(鳳来湖付近)が陥没し、阿蘇山のようなカルデラを形成、かくして設楽盆地ができた。

約2万年前のウルム氷河期には海面が現在より140m低く、三河湾全域が陸化していた。海岸線は現在の伊良湖岬より遥か35Kmも南方に有った。中央部が陥没した後、火山活動は収束を向え、その後侵食を繰り返しながら現在に至っている。

ところで設楽火山の標高はどれ程有ったのだろうか?。中央構造線の活動で1000m沈み込んでいるのだから、少なくとも現在より1000m高い事は確実だ。明神山は陥没した設楽火山のカルデラ部分の縁に有り、現在1016mだから単純に考えても2000m以上有った事になる。では陥没した中央部分はどうであろうか。

「現在の設楽盆地の大きさと、カルデラの縁と思われる明神山、鳳来寺山の高さ、現在までの侵食を考慮して3000m以上有ったと思われます。」とは鳳来寺自然科学博物館学術員の方の話しだ。残念ながら表題のように明神山自体が3000m有った訳ではなかった。

現在の明神山付近は凝灰岩と凝灰岩のひび割れの中に貫入して冷えた石英安山岩が侵食に依って作り出す奇岩奇石の多い所で知られている。乳岩(ちいわ)川沿いを乳岩峡と言い、洞窟や天然橋の通天門が有名である。乳岩は岩の壁に侵食により開いた大きな穴の中に、ひび割れから垂れる水に含まれる石灰分がが作り出した鍾乳石が乳房の形に似ている事からその名が有る。(この辺りは石灰岩ではないので、いわゆる鍾乳洞とは違う)


乳岩
(乳岩近辺は大陥没の跡が生々しい。ただ、地質学がいうように2万年も過ぎているようには見えないのだが、、、2万年もあれば風雨でもっと崩壊し岩肌は丸味を帯びている筈だが、、、、)
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確かに設楽火山は3000m級であり、間違いなく蓬莱山であるといえるのですが、炭素14法で設楽火山が存在したのは2万年前となり、語り部がいう内容と全く整合性がない。ここをクリアしなければ、一般人には語り部の語る内容は全てが妄想と映ってしまう。しかし、その危険すら顧みず語り部は明確に語っているのです。ここに語り部の漢(おとこ)気を感じるだす。

ただ、この世(第5太陽世界)は、6500年前、第4太陽世界のアトランティス人の意識から一瞬にして出来たと語るオコツトの信者であり、マヤ予言を心底信じるオイラにとって、この時間的矛盾は何の問題もないのだす~ (ふふふふ)
※註 この今見えている「物質世界」は自己の「内面世界」だというのがオコツトがいう内容です。

焼遣(ヤキツ)

記紀(古事記・日本書紀)には、面白い特徴がある。

ひとつは富士山の記述がない点と、もう1つは東三河に関する記述が殆ど無いという点です。

記紀には持統上皇の三河行幸の記事があるにはあるのですが、前後の日にちから三河に長期滞在していることは確実なのです。しかしながら、その三河での詳細内容は省かれ、また同行幸では尾張...等の他国には褒賞を与えているのに三河には与えていないのです。しかも、租(穀物を収める義務=今でいう税金)を免除した武者を多く従えての行幸なのです。これ故、まるで戦をしに行くようでもある。彼女はいったい三河に何をしに行ったのだろうか?

これが「持統上皇の謎の三河行幸」と歴史マニア間で云われるものです。

記紀に記されない理由の1つとして、当時、東三河は蛮地であったという解釈がある。7世紀の評制度下においては「宝飯評」「泡海評」という評(こおり)はあるのですが、石巻山の属する八名郡は8世紀になって登場しています。また、ある文献には「穂の国」と呼ばれ国府が置かれていたという話もあるが、木棺出土がなく架空の話ではないかとも疑われており、東三河は三河国府が置かれていた西三河に属していたのではないかとも解釈されている。しかし、東三河は愛知県の中では最も古墳が多く、古くから開けた地であることは間違いないことであり、持統上皇の長期滞在や行動内容を省く理由にはならず、全く辻褄が合わないのです。

同様のことが富士山についても言える。

万葉集・常陸風土記・日本三代実録・竹取物語...等の文学には富士山に関する記述があるのですが、「古事記」(712年成立)、「日本書紀」(720年成立)...等の古典には何故か富士山の記事が一切無いのです。

以上から、神代上古には富士山は無かったという結論も導かれますが、実は、この説には語り部もオイラも支持賛同しています。ただ、記紀の歴史内容は朝鮮半島の歴史内容のパクリという説から、この矛盾を回避できるかもしれませんが、その場合でも「壬申の乱」以前の歴史が朝鮮半島だという限定があって、以後は日本列島での記録に間違いなく、この矛盾は解消されないのです。そうはいうものの、ほぼ同時代の4500首の歌を集めた「万葉集」(759年成立)には何首も収録されているという矛盾があるのです。

これは一体どういうことなのか?
富士山は奈良期にあったのか?なかったのか?
どうも富士山と三河には触れてはならない秘密がありそうです(ニタリ)。

まぁ、その答が徐福国初期大王家の封印というのが煩フルの見解ですが、二重に渡って東三河は隠蔽されねばならなかった。歴史から徐福国を隠蔽するということが特に大きく作用していて、それ故、不死山(蓬莱山)の記述も省かれてしまったのだと考えている。

蓬莱山(現・鳳来寺)の山名の「蓬莱」を熱田神宮へ移し「蓬莱島」とし、焼き払われた徐福の都「家基津(ヤキツ)」の名を「焼遣(敵を焼き払う)」の意味を持たせ「焼津」へと字を変え、さらに場所を静岡「焼津」へ移した。この時、徐福が海の大鯨を凪ぐ為にレビ人・始皇帝から預り携えてきた「草薙剣(海凪の杖=モーセの杖)」は東三河から熱田神宮に移されたのだろう。このようにして徐福国の都が東三河にあった痕跡自体を消し去ったのだと睨んでいる。

焼津神社の御神体は火石・水石ですが、これらを日本武尊が投げたところ、火石が熱田へ落ち、水石が焼津に落ちたという逸話があり、これが地名移替の隠蔽政策をしたことを暗に仄めかしていると考えている。問題なのは投げた地であり、それが東三河ではないか?というのがこの煩フルの推論です。
※註 少なくとも現在の静岡県焼津は古事記の野火攻撃の事跡のあった場所ではなさそうです。

東海02
(火石と水石の落ちた先)

以上から、日本武尊の東征とは、大倭の大王「倭讃」「倭済」「倭興」の3代、及び百済王家の入り婿「倭武」にまで渡って繰り広げられた徐福末裔を東三河から房総半島にまで追い詰め、討伐したという歴史を1人の人物「日本武尊」に仮託して創作した内容であったと考えています。逆に言えば、そこまでして徐福国の存在を隠蔽せねばならなかったということになりますが、大倭河内朝の大王にしても、百済系天皇にしても、徐福国の存在はよほど都合の悪かったのでしょう。

さて、神都・家基津についてですが、この名は下記の経緯で付いたという。

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昔、国狭槌命、白清瀧比女命ご夫婦、この国を開きたまう時、龍の河原の大松の下の鶴夫婦と、奥の小池の亀夫婦を鍾愛したまい、常に手に持てる杓にて食を投げ与え楽しまれた。ある日、食を与えていると、「都留」(ツル)・家明(カメ)と高くさけんで、互によろこび競いて食し、一食ごとに声いよいよ高く連呼しつつ食せし故、二柱益々興じ喜び、そのあまりの喜ばしさに杓をなげつけ、萬佐々々々々と三唱した。

鶴は舞って松上に止まり「都留」と鳴き、亀は這って池中に入り「家明」と叫んだ。尊はこれこそ「子孫繁盛」の前兆なりと、すなわち投げし杓を取り来り、おし頂きて詔(ノ)りたまわく、「わが子孫は必ずこの杓を身に添え所持せん」と堅く伝えしめた。鶴のとまりところを「都」と名づけ、亀のとまる所を「家」(カ)と名つけたまう。後の世にその地を「家基都」(かきつ)と称した。

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亀と鶴とは、実にめでたい名です(あはは)。

富士文書「神皇紀」には、徐幅末裔の「福信」という者が日本武尊に反逆した賊魁のように記され、また日本武尊が家基都(津)を「やきつ」と読ませるようにしたと云う。ですから、本当は「家基都(津)」は「かきつ」と呼んだ方がいいのかもしれません。

その後「家基都(津)」は富士北麓唯一の都となって永く栄えたが、日本武尊御東征のみぎり、皇軍に抵抗した賊軍の隠れた場所=「草薙の剣」で草を薙ぎ払い賊を焼き払った場所として有名になっていった。この時の様子を古事記ではこう記されています。

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尊が相模国に至った時、国造が偽ってこの地の大沼に悪い神がいると言った。尊はその神を見るため野に入った。すると国造は野に火を放った。欺かれたと知った尊が叔母から貰った袋を開けると火打ち石があった。まず草薙の剣で草を刈り払い、火打ち石で火を打ち出し、迎え火を付けた。戻ってその国造を切り滅ばして焼いた。それで、この場所を焼遣(やきづ=焼津)という。
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この焼遣(ヤキツ)の候補地の1つに、山梨県富士吉田市の明見村がありますが、かつては富士吉田市の辺りは相模国に属していたという。徐福末裔の「福信」が皇軍の行く手を遮るように橋を燃やして落としたといい、これが「焼橋」という名が残る理由だと富士古文書(宮下文書)には記されている。つまり、この説では富士吉田で最も早く開かれた小佐野という在所の近くの桂川に架かる「焼橋」が「焼津」だというのですが、上古には富士吉田には人が住んだ気配がなく、これにはちょっと無理があるような感じがします。
※註 かつて明見側に武田軍、吉田側に北条軍が陣取って争ったことがあり、攻撃してきた北条軍の過半数が川を渡ったときに橋に火矢をかけて落とし、孤立した北条軍を全滅させたという言い伝えがあるので、この福信の「焼橋」の話は眉唾である。

また、相模原市にも草薙伝説が残っており、かつて「大沼小沼」と呼ばれていた沼沢地が存在し、ここで日本武尊が国造の焼き討ちに遭ったという。現在でも「大沼」の地名は存在する。それ以外にも「草薙剣」をそのままを地名とする静岡市草薙があります。これら全てが移替の隠蔽政策の現れなのでしょう。

このように家基津(焼津)は、相模、富士吉田、静岡、、、結構、適当にあっちゃこっちゃと移していそうな感じがするのです。逆に言えば、これら3箇所ではないとも云える。

オイラの比定地は石巻山麓の金田地区ですが、ここは標高50mの地でもある。かつて東三河は陥没していて海が新城まで広がる葦が多く茂る沼地が殆どであったと語り部はいうが、幸いここは標高があっ為に大地が広がっていた。そして、古三河湾がこの地区の西方に接していて、家基津が「津」という「港」の意味を持つのも納得がいく。

ここならば、倭讃軍との国家統一の和平交渉の酒宴を催した照山(鳥捕山)にも近いし、交渉決裂し戦闘状態になった際、徐福末裔軍が本陣とした雲谷(うのや)も後背地にあって自然の要害といった感がある。倭讃軍は本陣の照山から進攻し、家基津にまで進攻した際に都を焼き払われて窮地に陥ったが、これが有名な草薙剣逸話の「焼遣(ヤキツ)」の名の興りだろう。倭讃軍はそのまま攻め上がり、敗走する徐福末裔軍は本陣の雲谷から浜名湖沿いに引佐(三ケ日)に逃げ込み、ここが最終決戦地となったのだろう。このように場所的にも語り部の記述とピッタリ一致するのです。

照山雲谷
(上古は雲谷近くまで海が迫っていた)

さらに、この金田地区には「前屋敷」「北屋敷」「下屋敷」「奥屋敷」「宮裏」...等、かつてここに何らかの大きな屋敷か宮があったような地名があるのです。

ここが徐福国の宮殿跡なのか?

東頭屋敷
(青い太枠が八名東頭神社)

語り部によれば、倭讃王君の頃、平原広沢(広い平野と湿地)の徐福本国(大漢国)滅亡とあるので、敵を焼き払った「焼遣(焼津)」は約1500年前頃の出来事となります。このぐらい前なら、ここに地名が残っていてもそう不思議ではない。

徐福国神都

この煩フルでは、語り部の語る日本の歴史を本当の歴史だとした視点から、日本の歴史の闇に切り込んでいますが、これは他ならぬ日本の歴史を改竄した藤原不比等との「時空を越えた戦い」でもある。本当に語り部の語る歴史が正しいのかは、その洞察過程でわかってくることであり、今は正しいという視点から洞察作業を進めている。

この煩フルの追いかけているテーマは、、、

ズバリ!徐福、蚩尤、草薙剣です。
まぁ、九尾妖狐、ニビル、マトリックス世界もそうなのですが、、、

「蚩尤=兵主神=牛頭天王=スサノオ」であり、実は、これらは「万華鏡写輪眼」を血継限界とする「うちは一族」に関連する内容とも被る(爆)。まぁ、アニメ「NARUTO」を知っている人しか分からない話ではあるが、、、

しかも、このテーマは牛神(バアル)・蛇神(ヤハウェ)とも繋がっていき、遠くシュメール神話のエンリルとエンキにまで到ってしまい、現在起きているイルミナティの陰謀、新世界、天皇家の出自にも関係してくる実に壮大な広がりのあるテーマなのです。(ふふふふ)

この謎の解明が人類のNEXTステージ「新世界」(ニューワールド)への幕開け、つまり「岩戸開き」に必要だと考えているのは世界でただ一人オイラだけ。しかも、九尾ケーキを食べ九尾の人柱力となり、万華鏡写輪眼(妄想眼)を持つ「根尾谷の根尾」のオイラだけにしか出来ないことなのだす~(爆)
※註 この世は自分だけが見るオリジナルな内面世界であり、マトリックス世界であると考えているので、救世主と為り得るのは、この世界を主観的に眺めている「自分」しかいないのです。マトリックス世界であると言える証拠は、網膜という平面に落とし込まれた外界情報が何故か次元劣化(3D→2D)しているにも関わらず、立体に見えることからです。現代医学がいうように、本当に客観的な物質世界があって眼球を通して脳で再生映像を見ているとしたならば、脳内に見える世界は平面的な世界に見える筈で、しかも認識する自己はその平面世界に埋没してしまっている筈なのですが、そうはなってはいないのです。脳内で眺めている世界は三次元映像ですが、そこには自己が埋没しておらず、しかも対象物との距離を認識できている為、実際には私たちは4次元的に見ているのです。つまり、物質世界として認識している世界は存在のある一部分だけを見ているにしか過ぎず、これがこの世は仮想的に見えているマトリックス世界であるということなのです。

話を大風呂敷に敷いてしまいましたが、、、(笑)

さてさて、今回は草薙剣にまつわる話です。

草薙剣を熱田神宮で貸し与えられた日本武尊が関東地方の敵を平定するために、相模から船に乗って房総半島に向かった時の内容が古事記に記されています。この関東地方の敵とは徐福末裔の弥生人ですが、船上で暴風に襲われ、いよいよ船が危うくなったとき、妃の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)が「私が海に入って海の神を鎮めましょう。あなたは必ず任務を果してください」と言って、海中に身を投げて海を鎮めたという。

その最後の時に歌った歌が、、、

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも


「さねさし」は「相模」の枕詞。「相模」は万葉仮名では「佐加美(さかみ)」と書き、古事記ではこれを「相武」として記しています。この歌の意味は「火攻めに遭ったとき、その火の中であなたは私を心配してかばってくださった。その面影を抱いて、私は海に入ります」という非常に感じ入る歌です。これは時空を越えた「愛と献身」を示す最も尊い歌でもある。

和風アルマゲドンとでもいいましょうか、、、って、こっちの方が古く本家なのだが、、、、ここで問題なのは、この歌が正しいとすれば日本武尊が野火攻撃を受けたのが相模になってしまうのです。

古事記では、野火の跡地は「焼遣」(やきづ)と云うと記されている。これが静岡県焼津市の「焼津」の名の由来であると言われていますが、「焼遣」とは敵を焼き尽すという意味でもある。ちなみに相模の国に「焼遣」という地名はない。実際、焼津には焼津神社があり、ここには日本武尊が祀られていて日本武尊との関連を示している。ただ、焼津神社の当初の祭神は入江大明神ではあるが、、、、また「草薙剣」の名の由来である草薙も静岡市の日本平の麓にあるのです。静岡説の方が有利なのです。語り部も草薙が日本武尊の宿泊地で、そこから狩りに行くのに宗方海岸を経て焼津に向い、そこで野火攻撃されたと語っている。ただ、この内容は語り部の独自研究の部分であると睨んでいる。
※註 語り部は徐福関係は他の言及に比べ詳細さが欠け、少し弱い感じを受ける。

しかし、この歌には「相武の小野」と記されているのです。江戸時代に編纂された地誌「相模国風土記」には「相武の小野」は愛甲郡小野(現在の神奈川県厚木市小野)であろうと述べていて、明らかに食い違いが起きています。

これは一体どういうことなのか?

船に乗ったのが相模であるので「相武の小野」はそれを記しているだけのことであり、野火の跡地は「焼津」で間違いないと思うのだが、、、実はもっと他の理由があるのだろうか? たとえば、「さがみのおの」は全く違う意味内容のことであるとか、、、う~む、難しいです。
※註 ちなみに相模は徐福とも関わりの深い地である。

焼津神社の御神体は「水石」と「火石」であると言われ、これらは祭神日本武尊が持っていた石であるという。伝承によると日本武尊が、水石・火石の二つを投げたところ、一つは熱田神宮、もう一つは当社・焼津神社に落ちたという。火と水、即ち「カ・ミ」ですが、草薙剣の逸話にしてもそうなのですが、熱田と焼津の秘められた関係が伺える内容です。

この「焼津」に関してはもう1つ説があって、それは「家基都」(カキツ・ヤキツ)のことではないかと言われるが、これには少し説明が必要。

「家基都(家基津)」とは、富士古文書に出てくる言葉で、徐福一行は「住留家の宇記島原に上陸し,松岡宿から水久保宿を越え,富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は高天原と呼ばれて,日本最初の首都の跡だった。徐福は家基都の中室へ土着し、文字を知り記録をする事の出来る三十六神戸の人びとが口碑、口談、伝一言、各々の覚え記録書を集め、およそ二千年間の歴史を集大成したのだという。

阿祖谷家基津こそが、記紀で言う高天ヶ原なのです。

富士北麓にあったという壮大な古代帝都「家基津」は大和朝廷成立以前、日本の中心として繁栄し、そのシンボルの女神がコノハナサクヤ姫(俗称・アタツヒメ)であったと富士古文書には記されている。アタツヒメはオオヤマツミ(山の神)の次女であり、長女の イワナガヒメとともに妻にと差し出されたが、長女は醜いゆえにニニギノミコトから拒絶され、アタツヒメは一夜の契りなのにすぐに妊娠したことから、その貞操が疑われたという。
※註 大山祇神は「徐福」をさすという説があり、信憑性が高いとされている。 大山祗神は、またの名を酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられている。酒造・機織・製鉄・製紙...等の大陸文明を持ち込んだ徐福に相応しい名です。

一般には家基都は富士吉田の「明見の里」のことであると考えられている。『延喜式』にも「加吉」と当字で書かれているのです。家基都は延暦・貞観の大噴火の際に全滅して、その後、荒野の中に復興したのが明見の里であるとされ、火祭りの故事があるのです。明見の里=家基都=焼津という関連が伺えるのです。ただ、富士山は延暦十九年(800)の大噴火前までは「福地山」と表記しており「不二山」とは言えないのと、また富士吉田には古代に人が住んだ形跡がないので、明見の里=家基都はどうも怪しいのです。

ここで語り部の言説の登場です(ニタリ)。

徐福の本拠地は蓬莱山(不二山)を望む麓の地であり、それは東海三神山(鳳来寺山・本宮山・石巻山)のある東三河であったという。語り部の言説を信じるならば、徐福が都とした「家基都(家基津)」は、東三河にあったと考えるのが妥当であろう。

徐福は「渤海に蓬莱、方丈、エイ州の三神仙があり、そこに住む仙人に会い、不老不死の妙薬をもらってくる」と秦の始皇帝に提言し、数千人の童男、童女を伴ってそのまま帰ってこなかったのですが、徐福渡来の地を比定するには、三神山のある地「渤海」というのがポイントになりそうです。

この「渤海」とは、実は「飽海」のことではないのか?

確かに音読みではほぼ同じです(笑)。この「飽海(あくみ)」とは今でいう渥美郡のことで、豊川(とよがわ)は古代律令制では飽海川と呼んだ。つまり、豊橋市中心部は「飽海(安久美)荘」と呼ばれた地域だったのです。実際、豊橋公園の東側に飽海町というのがあり、ここには徳川家康も見物した「鬼祭」で有名な「安久美神戸神明社」があります。「平将門の乱」鎮定を祈願した朝廷が平定のお礼として、この三河国飽海郷を神領として伊勢神宮に寄進した為に「神戸」の名が付いていますが、このように古代この豊橋中心部は「飽海」と呼ばれる葦が多く茂った沼地だったと思われるのです。
※註 650~700年ごろは東三河には穂評と飽海評の2つしかなく、八名評の木簡が出土しないことから八名郡は飽海評(渥美郡)から分割。また設楽郡は穂評(宝飯郡)から分割されたと考えられる。

「安久美神戸神明社」の主祭神は天照大神ですが、ここに副祭神として武甕槌神・経津主神が祭られています。この煩フルでは語り部の言説から「武甕槌神=倭武 経津主神=倭興」としていますが、これらは鹿島神宮・香取神宮の主祭神でもあるのです。

この「武甕槌神=倭武(百済昆支) 経津主神=倭興(清寧天皇)」は徐福国を討伐後も、尚、房総半島まで逃げ延びた者を討ちに出向いたことから、房総半島に鹿島神宮・香取神宮に祀られ創建されたのですが、これが日本武尊の話の元となっているのではないか? 実際、語り部は日本武尊とは「倭武」(応神天皇・崇神天皇モデル)のことであると述べていて、倭旨から数えて三代目の「倭讃」が徐福国を討伐滅亡させたが、更に三代後の「倭興」とその百済王家入り婿の「倭武」が関東にまで出向き残党を討伐したと語っている。

以上から「家基津=焼津」であり、しかもそれは東三河であったと推測できるのです。これは焼津神社の2つの石「火石と水石」が熱田と焼津に落ちたことから、本当の焼津(家基津)はそれらの中間地点にあるという暗号でもあった。つまり、そこが火水の地というわけですが、熱田と焼津を一直線を引くとその中間は蓬莱山でもあるのです。「火石と水石」の逸話は「蓬莱」の名を熱田(蓬莱島)に「家基津(焼津)」の名を「焼津」に移動させたことを暗喩しているのです。以上から日本書記も古事記も全く正しい記述をしていなかったことになる。まぁ、それほどまでに「東三河=徐福国」という史実を隠したかったのでしょう。

日本武尊(倭武)を騙して野火攻撃した抵抗勢力とは、この徐福末裔の残党か、あるいは、それらに協賛した者たちの仕業でしょうか? いえいえ、この日本武尊の逸話とは徐福国神都「家基津」を火を放って陥落させ、これ故に「家基津」に「焼遣」(やきづ)という漢字を当て嵌めたのであり、本国滅亡後も残党刈りの為に、さらに東に向かって討伐を進めたという行程を示していると睨む。つまり、日本武尊東征とは倭讃と倭武の徐福討伐軍の話が合成された逸話だったと考えられる。日本武尊の逸話に草薙剣が登場し、再び熱田に戻されるのも、この剣が元々は徐福国の所有物であり、討伐後に接収したと言うことではないだろうか?

以上から、徐福神都の「家基津(焼津)」の比定地とは、当然、石巻山南麓に広がる台地のあそこだな、、、つまり、八名東頭神社のある金田地区に間違いない。あそこなら、倭讃軍の副将・王伴武持が大漢国の首脳を酒宴の席に招き和平交渉(統一国家樹立)した照山(鳥捕山)の麓の邑にも近いし、倭讃軍との戦争時には本陣を置いた雲谷(うのや)も弓貼山脈を越えた向う側であり、背後に海が控えた天然の要塞の地でであり(当時はもう少し海面が高かった)、道士が好む風水でいう「龍穴」の地でもあり、比定地にドンピシャであるのです。
※註 「龍穴」とは地の気が吹き出していると考えられている場所で、地の気は山脈として現れ、その勢いが強ければ険しい山並となるという。その大地に下り噴き出す場所を「龍穴」と呼ぶ。石巻山が強い気を持つことはその鋭峻な山姿から想像が可能ですが、その強い気が降りた地が「金田地区」なのです。そして、その地がスサノオ(蚩尤)を奉じる我が「うちは一族」(家基津一族)の地でもある。

今回は、「徐福東渡2222年」の今年に相応しい謎解きであった。これは1982年に江蘇省で発見された徐阜村(徐福村)を上回るセンセーショナルを起こすかもしれないだす~(超爆)。

きっと藤原不比等も悔しがるに違いない。(ふふふふ)

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