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シュタイナー語録

【100日ブログ 第83日目】  願望入れ喰い状態まであと17日

今回は、シュタイナー語録ですw

「わたしたちの周囲にあるものは、霊的世界の外的な表現なのです。物質というものはありません。どの物質も、凝縮した霊なのです。霊的世界を覗き見た者にとっては、物質的=感覚的世界は霊化します。世界の根底がしだいに開示されます。・・・人間の魂は霊的世界に属しているのですが、その霊的世界を見たり聞いたりすることができないので、そのことを知らないだけなのです。」

セスは本体は「意思」といっていて、「霊」だとは言っていませんが、
「物質は偽装」であるという点は、全く同じ内容を言っていますね。

セスが肉体のない高次の存在側から言っているのに対し、シュタイナーは生身の肉体を持つ側からの認識で同じようなことを言っていますので、この「物質幻影」説は、かなり真実に近いんじゃないでしょうか(笑)。

セスやバシャール等のチャネリング存在の情報だけだと、そういうような高次の存在にならない限り、このことを認識出来ない寂しさがあったのですが、生身の人間が認識できるのは心強い限りです。


「わたしたちは自分を自分のなかにおいてではなく、わたしたちの周囲において認識します。人間は周囲の世界を通して、自分を認識するのです。」

「深い意味で、人間は周囲の世界の鏡像です。」


このことを証明する実験結果を以前の記事に書きましたね。
それは、カルフォルニア大学の日本人研究者の実験結果から、人の反応は脳が指示を出す前に、既に体がそのように指示を受け動き出しているという話です。

これは全く同じことを言っている???

そういえば、「鏡の法則」でも自分の心を癒すことで他人を癒すことが出来るといいますね。


「他者を自分の高次の自己と見なす、
そうすることによって、他者を自分のなかに見出さねばならないことを知る。」


他者が実は自己 自己が実は他者
やはり、この世はパラドクスの世界なのねん。

そうか!!!
「鏡の法則」の原理はこういうことだったのか!

ならば、自分を癒すには他人を癒せばいいんだなw
で、誰かヤッズ★に癒して貰いたい人はいませんでしょうか?
(そうすれば、ヤッズ★は幸せになれるじょw)

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今ここ瞑想

【100日ブログ 第56日目】  願望入れ喰い状態まであと44日

シュタイナー教育、人智学で有名なR.シュタイナーが語った言葉として、下記のものがあります。


私たちは、

自分の腕を動かす意志を発動した時、

自分の腕で何が起きているのかを

何ら知らない。


この言葉の意味することは、人が自分の意志の発したのを知るのは、その結果を知ってから、つまり、腕が動いた後になってからだというのです。そのため、人の意志は眠った状態にあるとまで彼は語っています。

分かりやすく言うと、これは腕が動いた後に「(腕に)動け!」という指令を送っているようなもので、人は錯覚しているのだというのです。これが本当だとすると、「意志」、あるいは「自由意志」とはいったい何なんでしょうねぇ(笑)。

シュタイナーは、肉体は魂の反射器官であると断言しています。




(動作指示) → 肉体(腕が動く) → (動きを感知) → (動作確認)





というわけです。私たちは、普通一般に言われている「脳が意思を持ち、指示している」という考え方に、洗脳されているだけなのかもしれません。

このことは、モリケンさんの『不思議の友』でも紹介されましたが、名著「サブリミナル・マインド」で有名なカルフォルア工科大の下條信輔さんの実験でも同じことがいわれていますね。

この考え方に沿った瞑想法だとヤッズ★が密かに睨んでいるのは、ミャンマーの「ヴィパッサナー瞑想」です。この瞑想法は、仏陀が肉体を駆使したヨガ的な修行(荒行)を十数年間してきても決して悟ることが出来なかったのですが、この瞑想法をして短期に悟ることが出来たといわれています。

その後、仏陀は生涯の四十五年間修行し、また教え続けた技のなのですが、インドでは既にその伝統は失われ、辛うじてミャンマーやタイなどの「上座部仏教(いわゆる小乗仏教)」にのみ残っていました。

ヴィパッサナー瞑想は、普通行われるような座して外部情報を遮断して意識を研ぎ澄ませる「静」的な瞑想(サマタ瞑想・止行)とは違って、日常の行動を通して行われる「動」的な瞑想法(ヴィパッサナー瞑想・観行)です。「物事をあるがままに見る」「今という瞬間に完全に注意を集中する」という自己観察を主体としています。

まさに、「今、ここ」な瞑想法なのですね。

■ヴィパッサナー瞑想
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「静」的な瞑想法は、あくまで自己の閉ざされた内面での体験に過ぎず、これを「三昧(サマディ)に耽る」というのですが、それがそのまま「静」的な瞑想法の限界なわけです。そのままでは悟りに行き着けないというのです。確かに、見える視野全てが、人間の真の内面で本当の自分であるという「変換人」の立場から考えても、このヴィパッサナー瞑想法は理に叶っていると思います。

この瞑想法を歩行時の右足左足を交互に差し出す場合で具体的に説明しますとこうなります。この一連の動作において、「(右足が地面から)放れた」→「(右足が)上がった」→「(右足が地面に)接いた」→「(左足が地面から)放れた」→・・・・と永遠に行動の観察を続けるのです。この時の観察(気づき)を「サティ」と呼びますが、慣れてくると、サティがオートマティックに洪水ののようやってくるのだそうですw

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ウィパッサナー瞑想法は、先のシュタイナーの図式(赤文字部)の「脳(動きを感知)」する箇所において、脳の本来的な役目である「動きを感知すること」(=サティ)を強制化することで、「脳が指令を発動」という勘違いを無くさせていますね。

そうすることで、重なっていて未分別状態であった「脳」と「魂」が、実は別々のものであると明確に把握することでき、悟りや覚醒に繋がっていくのだろうと思っています。

日々の自己観察が覚醒に至る道であるとは、まさに同じことだったのですね。

認識の小道

引き続き、ルドルフ・シュタイナーの『霊視と霊聴』を読んでいます。

実は、本を買ったのは随分前(5年前!)なのです。買った時に読み始めたのですが、あまりの難解さに途中(←かなり前のページ)で、ついて行けなくなり放置状態となってしまいました。

最近、驚異的なシンクロ等が沢山あり、再び読み直してみようと思ったのです。読んだ感想は、以前よりは理解できたなぁという感じです。でも、まだまだムズイ本です。シュタイナー自身も読み解かれるのを待っていると言っているほどです。まるで、パズルです。他の著書と読み比べしないとよく理解できません。まあ、それだけ奥が深いというわけです(汗)。

この本の中に、高次の世界(超感覚的世界)へ至る正しい方法「認識の小道」について、シュタイナーが述べていましたので、他著「神智論」を参照しつつ、今回はこれについて書きたいと思います。


■第1段階…「思考作業」の強化
これは、高次の世界に参入した際に唯一の拠り所となるのが、自己の思考(悟性)であるからです。この作業の強化なしに高次の世界に触れると、夢想や怪奇な空想に陥る危険性があります。何故なら、物質界では色、光、熱、冷たさ、香り、味、触覚、聴覚の印象から知覚活動しますが、高次の世界では知覚方法が異なり、その知覚を自らコントロール下に置く必要があるからです。そのためには、明晰な論理的思考こそが、高次の世界への参入者が最初に会得しないとならないものなのです。訓練方法としては、1日のある時間の間、ある一定の思考に沈潜し、その時、別の思考が入り込まないようにします。

例) 高次の世界、人間と進化、輪廻転生とカルマ、アカシック・レコード等について考える。


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思考強化訓練を「面倒くせ~なぁ」と言って、フィーリングや感情に全て委ねきってしまうことは、御法度であるとシュタイナーは語っています。強固な思考なくしては、この高次の世界を地図なしで歩くことに似ており、夢想、空想に陥るというわけです。

与えられたテーマについて思考することはできますが、正しい答がなければ、正しく論理的思考をしたのかどうかも分かりません。まあ、シュタイナーは思考することに自体に意味があるように言っているので、この点はどうでもいいのかもしれませんね(笑)。


■第2段階…「判断尺度の排除」と「肯定的受容」
自己の心の中にある、好き嫌い、愚か賢い等のあらゆる判断を控え、その尺度すら取り去ってしまい、完全に「無私」状態に没入すると、他者が流れ込んで来ます。その印象を何の尺度も持たずに身をさらし、その物や事物自体に自分を語らせるように仕向ける。そして、それが語ることを自己の思考領域内で展開します。そうすることで、やがて自分の周囲の高次の霊的事実(=真の存在意義)を受容できるようになります。

例) 自分が嫌悪する相手に対して、一切の嫌悪感を抑え、その人の側に立って考えてみる。


シュタイナーは、全てのものに隠された性質があり、好感・反感、快・不快等の感覚が、曇りガラスのように感受性を曇らせてしまい、隠された性質を見えなくしているといっています。

自分の感じ方を優先しないことで、その隠された性質が表に現れ出て来て、やがて、すべてに渡り繊細に感じ取れるようになるとのことです。

有名な説話のひとつに、イエスが道端で死んで腐敗しかけているイヌをみて「このイヌの歯は、なんと綺麗な歯をしているのだろう」というのがありますが、どんな「醜いもの」にも「美しいもの」が潜んでおり、それを感じ取るれるような心魂が必要なのです。


■第3段階…「快・不快」を媒介とし「物事の本質」をみる
自分の心に快・不快、喜び・痛み等のの感情が生じた時、それに喜んだり、落ち込んだりしなければ、それだけ、うつろいゆく印象に左右されないで済みます。「快」があるがゆえに人はそれに依存してしまい、「物」において自分を失ってしまうのです。落ち着きを持って「快・不快」を受け入れる必要があります。そして、それを通して物事が語りかけようとしていることをみるように努めなくてはなりません。つまり、「快」とは「快」を及ぼすに相応しい性質をその物が持っていることを知らねばなりません。「快」に留まり、それを受け入れただけでは、享楽にまぎれた自分でしかないのです。

例) 快・不快が、自己に語りかけることに耳を傾ける。


人間の内側に過ぎなかった快や痛みが、それを通して外の世界を知覚するための感覚器官となるのです。やがて本当に感覚器官として生成され魂の目となるのです。これは「蓮華」と呼ばれます。

実は、滝行の効果はここにあるのではないかと、ヤッズ★は睨んでいます。つまり、脳天を直撃する大量の冷水による何とも言えない痛みと感覚麻痺を、真言を唱えることで精神集中しその痛みに耐え、「不快」を受け入れることを続けることで感覚器官を形成しているのではないかと考えます。実際、滝行を修することで、仏の声を聞いたとか、観音様のお姿を見たとかの、いろいろな超感覚現象の報告がありますよね。

また、天理教の教祖:中山ミキ(極貧の生活)に代表されるように、霊能力を開花させた人たちの多くは、人生の中で非常に辛い体験をしています。この苦しみの期間に心の痛みという「不快」を受け入れることで、知覚する感覚器官が養われたのです。

ただ、霊能力を開花させても第1段階である思考力が疎かであると、夢想、空想と似たり寄ったりの状態となってしまいます。ですから、プラトンはアカデメイア入門者には、まず最初に数学を学ぶように科していたそうです。
■アカデメイアは、実は秘儀参入の学校で、数学を研究していたのは思考力強化のためであるという説があります。プラトンの「イデア論」は、目に見える現実の世界「現実界」と、その元型となる完全・真実の世界「イデア界」に分けてた理論です。これには秘儀参入が不可欠です。実際、「饗宴」の中で、女魔術師・ディオティマによってエロスの秘儀的解釈が説かれますが、これはその手の知識に通暁している証拠です。

では、痛みを受け入れ、語りかけられる「物事の本質」について考えてみましょう。妊婦が出産の痛みに耐えている場面とプロレスラーが卍固めで痛みに耐えている場面で考えてみますと、はっきり違いがあることが分かりますよね。一見同じような痛み(?)なのですが、本質的には全く違うものなのです。

20060924205627.jpg


■第4段階…「霊界の住人」となる
前述した性質を身に付けると、自己の性質に関りなく、周囲に本質として存在するものを自分に働きかけさせる準備が整います。思考する存在として、霊界の住人になるのです。善なる霊界の波動がキャッチでき、霊界の真相が開示されます。また「高貴なる美」「永遠なる真」といった霊界の法則に沿った思考や行動を取るようになります。


霊界の住人になるといっても、あっちの世界に行ってしまうわけではないのです(笑)。
この物質界に居ながら、霊的な事実を感じ取ることができるのです。
霊を見たことがある人は、このレベルだと思います。
(このレベルの人は見るだけで、会話はできてないと思います。)


■第5段階…「叡智の弟子」となる
超感覚的世界への展望が開け、《人類の偉大なる霊的な導きの力》より秘儀参入を授けられる。こうして「叡智の弟子」となるのです。その時、彼は超感覚的世界に意識を持った住人となるのです。つまり、より高次の場から霊的見解が泉のように湧き出て、彼に向かって流れてくるのです。「叡智の弟子」は霊そのものと会話ができます。霊を何らかの姿でイメージするのは迷信なのです。

例) 石、植物、動物、人間を含む森羅万象が、宇宙の真理を語りかけてくるのを聴く。


これもこの物質界に居ながら、色、音、触覚、味、臭いの五感にプラスして、追加された知覚を使って物事を認識できるということです。

例えば、ここに煙草があります。
これを臭覚だけで認識しますと、「う~ん、煙草の匂いだ」程度です。
これに味覚を足すと、「うっ!苦いぞ」となりますね。
さらに、触覚を加えると、「柔らかな細い円筒形だ」となります。
聴覚を加えて、「ガサゴソ、おっ、ボックスタイプだな」
最後に視覚を加え、「あっ!キャビンSUPER MILD(ブルー)ボックスだ」となるのです。

超感覚世界の住人ともなれば、これら五感以外の感覚の上にさらに上乗せされます。
「おお。。。これは○○○のコンビニで買われたもの」
「これは、幻想と停止いう象徴をまとっている」
まるで、ラーメンのお好みトッピング状態です(笑)。

また、このレベルでは霊的存在と自由に語り合うことができるのですね。
江原さんや美輪さんは、きっと、このレベルなのでしょう。

(■参照:神智学(森章吾訳)96P~「認識の小道」)

ハイアーセルフ(高次の自己)

よく「ハイアーセルフ(高次の自己)」という言葉を聞きますが、これはいったい何なのでしょうか?

ヤッズ★には、いまいちピンとこなかったのですが、今、読んでいるR・シュタイナー著『霊視と霊聴』に、この「高次の自己」のことが載っていましたので、少し引用したいと思います。

「私たちの周囲に生きている人々は、内面の核においては、わたしたちと分かちがたく一体をなしているのです。低次の自己に関しては、わたしと他人は別です。しかし、高次の自己に関しては、わたしは他者と離れていません。他者と一体なのです。わたしに高次の真理について語る人は『わたし自身』なのです。」

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このことは、よくいわれていますよね。

ハイアーセルフは、自分でない自分、もっと大きな自分、内なる神、真我、魂のガイドとも呼ばれ、心理学用語では「集合的無意識」とか「フェアリー・ブレイン(爬虫類脳)」と表現されています。

「そして、この高次の自己のみが、超感覚的世界に上昇することが出来るのです。他者と自分という区別を完全になくさねばなりません。あの人はわたしより得をしている、というような感情を克服しなければなりません。」

ヤッズ★が少し前に書いた記事「邪視・邪眼」のことですね。
これを克服するのは、(ヤッズ★には)なかなか厳しいです(汗)。

「人は人、自分は自分」
「わが道を行く(Going My Way)」
「あっしには、関りのねぇことでござんす」というぐらいの気概が必要です。

「この感情のなかに生き、この感情が魂の細部にまで染み込み、利己主義が消えるように試みるのです。自分よりも進んでいる人を自分の自己のように見なすと、高次の精神生活に目覚めるために必要な条件のひとつを満たしたことになります。」

自分よりも進んでいる人を見つけるのは簡単ですが、同一視までできるようになるのは、かなり難しい作業です。

その人の成功を我がことのように喜ぶ。

おおっ、これぞまさにファン心理じゃないか。
なら、ヤッズ★は中国女優という手があるぞ!
でも、情報がなかなか掴めないのがネックです。

また、ハイアーセルフについて、倒錯した誤ったオカルト的な教えの誤謬について、シュタイナーは下記のように語っています。

「『高次の自己は人間のなかに生きている。内面に語らせさえすればよいのである。内面は最高の真理を開示するであろう。』という言葉が語られています。このような言葉ほど、一面では正しく、他面では不毛な言葉はほかににありません。自分の内面に語らせようと試みると、高次の自己が現れたと思われるとき、一般に低次の自己が語っているものなのです。」

う~む、ヤッズ★には、定時になると「早く帰って自己の研鑽に努めなさい。」と内面から湧き出てくる声にならない声、いわゆる「定時の自己」というものがありますが、これはやはり「低次の自己」だったのですね(笑)。

本当のような冗談はさておき、

「わたしたちは高次の自己を、はじめのうちは自分のなかに見出すことはできないのです。最初は、高次の自己を自分の外に探さねばなりません。進んだ人から、わたしたちは学ぶことができます。」

やはり、最初は師匠となる人を持つべきなのですね。
では、いったいどのような人から学べばいいのでしょうか?

「その人物が本当に尊敬に値する人物かどうかということよりも、内面から深い尊敬の感情を込めて見上げる、ということ(の方)が重要なのである。尊敬という意味深い感情がわたしたちを、わたしたちが見上げるものへと高めるのです。尊敬の感情は、わたしたちを超感覚的生命の領域に高める崇高な力、磁気的な力なのです。」

このようにすれば、最初はハイヤーセルフを認識できなくとも、やがては認識できるようになとのことです。ここまで書いていて気づいたのですが、この方法はパクティ・ヨガの技法と同じではないでしょうか?

つまり、霊的合一に到達するためには、感情としての愛ではなく、「献身」と「自己放棄としての愛」を実践することが、最も容易く、最も自然な方法であるというのがバクティ・ヨガですが、どこか共通していると思いませんか?

ということで、シュタイナーをこの方面のガイドとして奉じているヤッズ★は、「自分探し」ではなく、師匠となる「尊敬できる人物探し」から始めようと思います。


プロフィール

ヤッズ★

  • Author:ヤッズ★
  • ヤッズ★(八頭)です♪
    『恋のフェロモン・ボンバー』
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